憂生’s/白蛇

あれやこれやと・・・

チサトの恋・17

2022-12-20 12:52:37 | チサトの恋

夕食はビーンズスープ。

くばられた一杯のスープは、悲しいくらい。

豆がどこにあるのか、さがしまわらなきゃいけない。

それでも、わずかしかないのに、

女たちは、わずかの豆を掬ってお母さんの器に入れてあげてる。

おかちゃんのおっぱいのために、少しでも多くたべさせてあげたいと

みんな、あたりまえのようにスプーンにのせた豆をおかあさんにもっていってあげてた。

あたしといったら、これまた、涙がぼろぼろこぼれて

こんな、絶好のシャッターチャンスをのがしてしまう。

なんだか、慎吾のいってたことが少し、みえてくるような気がする。

写真そのものが語る・・その前に、カメラマンはその感動から

一歩はなれてファインダーを覗くことができるだろうか?

感動や衝撃が大きければ大きいほど

人はだれもが、きっと、その場に立ち尽くすだけになる。

その感動や衝撃から離れて

カメラに手をのばすことなど、できはしない。

だけど、そこをあえて・・

我にかえる。

それは、とても難しいことであり、

結果的に自分の心に感じたものと比べれば

写真はわずかな映像しか残せない。

それでも、それが、わかっていて

感動の中にたたずまず、

カメラに手をのばしていく。

それは、あるいは、感動のほうからみれば、

部外者の行為になろう。

あえて、孤独な部外者になる・・・・。

慎吾は、そこに違和感をかんじていたのかもしれない。

感動から、外れた部外者が、感動を映しこめるだろうか?

本当に感動したら、ただただ、立ち尽くすだけになる。

カメラにおさめられるということは

おさめきれる「感動」でしかないという矛盾につきあたってしまったのだろう。

ふううとため息がでてくる。

確かにあたしも、何度もシャッターチャンスを逃している。

あえて・・・部外者になる勇気?

それが、キャパであり、ユージン・スミスなのかもしれない。

つまり、カメラマンというのは、

孤独を当たり前にしていかなきゃならないのかもしれない。

でも、そんなの、人間として、どこか、おかしいという気がする。

カメラほうり捨てて、わんわん泣いてしまうそんな人間じゃないと

本当の写真は撮れないんじゃないだろうか?

でも、それじゃあ、写真はとれない。

・・・・。

なんだか、写真1枚とるのに、ものすごい人生経験とか

まなざしとか、被写体にたいする愛情とか?そんなものをすでにもってないと

撮れないのかもしれない。

なんだっけ・・

今回の依頼・・

写真を見た人が、自分もおもわず手をさしのべたくなる

そんな写真・・・。

さっきの場面なんか、絶対そうだったろう。

わずかしかない豆をわけあたえようとする同じ難民をみて

元気でステーキにくらいついてる場合じゃないと想うだろう。

そういう心の変革をおこさせる写真をとりそこねてしまった

あたしだったけど、

心の中にともったものを、

やっぱり、写真にはうつしきれなかっただろうとおもう。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿