パンパンとチョコレートを再投稿しました。
この作品も15,16歳のころにかいたもので、
後年、書き直したものです。
下地にかんじるものは、やはり大江健三郎の戦後の少年や芽むしり仔撃ちなどにみられる
閉鎖的な状況下における精神というのに感化されたところと
野坂昭如の蛍の墓・アメリカひじきなどがバックにあると思います。
当初にかいたものは、原稿用紙2枚程度のおおまかなあらすじ程度の文章でしたが
この中の「安心の芽にこやしをかける」という表現がきにいって
書き直しのときにも採用しました。
書き直しのときにクローズアップしたのは
「たとえ、盗みであっても、僕らを助けるのは日本人であるべきなのだ」
と、いう部分です。
盗人にも三分の利というわけではないですが
アメリカ兵からチョコレートをねだってしまうという心が
本当の敗戦ではないかという少年の心と
日本人が
パンパンに金をわたすくらいなら
行き場をなくした子供たちに金をつかえるだろう。というところから
その金で自分がいきながらえるのを拒否して
あえて、アメリカ兵のオンリーになったパンパンのきもちとを
チョコレートを食べようとしないことで象徴してみました。
それでも、盗みをはたらく罪
身を売ってしまう罪
それ(罪悪感)はついてまわってくるものであり、
パンパンの布団で仮眠をとる少年のめに
ぬぐっても(洗っても)おちないしみがあるのがうつっていきます。
それは又自分たちでありながら、それでも
生きていこうとする自分を赦していく。
せつない作品であると思うのです。
多く人生の中でも
ぬぐえないしみをだきながらいきるということはありえることでしょう。
それでも、いきていかなきゃ。
と、いうテーマはポーの一族の二次創作の中でもはっきり言葉にだしていますが
他の作品でも、一貫してながれているものです。
生きていくなか、どのようにしていきていくか、
どういう指標をつかんでいくか
あるいは、どのような死に様をえらんでいくか
表裏一体のテーマをかかげて
たどりついたところは
「思いこそをすくわねばならない」
と、いう白蛇抄の一言です。
壬生浪ふたり・・にしても
生きるということをテーマにしているとおもいますし
小枝でも、そうだとおもいます。
踊り娘も・・・。神戸にても・・エトセトラ
あげればきりがない、「生きる」ための要素をちりばめた作品たちを
かいてきた原点は「パンパンとチョコレート」と蛙・蛙続編にあったとおもうわけです。
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