「することが無いの」
ニコニコと笑いながら八代神は、白峰に声をかけた。
が、白峰は応える気力も失せている。
天空界に引き戻されるように上がって来ると、
白峰は十日ほどどっと、深い眠りの狭間に落ちた。
十一日目に薄目を開けると八代神が覗き込んでいた。
「何時までも、拗ねていてもしょうがなかろう?」
丸で赤子か何かを諭すような物言いである。
「判らぬでもないがの。千年はもう、取り返せぬ」
「煩いの」
「ほ、元々黒龍が物への、横恋慕。叶わぬ、叶わぬ」
「・・・・・・」
白峰の頬につううと涙が伝う。
「判っておった。が、・・の・・」
男泣きに泣崩れる所なぞ見とうもない。
慌てて、八代神はその場を立ち去った。
地上を見下ろせばそこには愛しいひのえがおる。
が、その横にはつかず離れずひのえを守る白銅の姿がある。
『人間に負けた訳ではないわ』
己の情の薄さに負けたのだと思う。
ひのえが事に一心になる余り、
大きな筋目を狂わせていた事にさえ痛みも感じていなかった。
その子蛇の痛みを今更の様に哀しくあり、かのとに言われた通りだと思う。
深き思いを見てやらず、ひのえを己が手中に収めようとした。
が、ひのえの腹にいた子は
いつも、いつも、ひのえの心の奥底を見つめていたのに違いない。
母を救う為に子蛇は敢えて刀身の下に身を投げた。
命を懸けた思いに勝てるわけがない。
その思いの峻烈な事に白峰は打ちのめされている。
「己の身勝手」
と、かのとに言われた。
確かにそうだと悟さしたのが子蛇の生き様であった。
短い生を母のために与え尽くしたのである。
「わしは・・・わしの思いが精一杯じゃった」
「判っておるわ」
何時の間にか八代神が戻って来ていた。
その手に麗しい白い実を持っている。
微かに色づいた果実のうぶ毛を布でくるりと撫で回して取り払うと
「食え」
と、白峰の手においた。
続けて自分の食う分を布に包み込んでそうと撫で回してゆく。
「のう、黙って見守ってやるしかないに。
己の思いを奥底に沈めて見守ってやるしかない。
それがうぬのあの女を愛す法じゃろう。うぬに許されるはそれしか無いに」
「・・・・」
「それを知るに千年は長かったのう。わしも黙って見ているのが辛かったわ。
うぬにこの気持ち判るかの?」
ほほほと、笑うと八代神は桃の実に齧り付いた。
神仙樹の実から滴がたらたらと溢れるほど落ちると八代神の手を濡らした。
それをぺろぺろと舐め上げると
「甘いぞ。食うてみや」
白峰が口を付けよと促がした。
「想うだけか・・・」
白峰が呟く。
「そうじゃ」
「・・・・」
「それも、失くしたいか?」
八代神は白峰の淋しげな顔を見ながら尋ね返した。
「いや」
つるるとその実を貪り、汁を吸っていた白峰が実から口を放すと
「しかし、気になる事が一つ、残ってしもうた」
「ん?なんじゃな」
八代神も実を喰らうのをふと止めて尋ね返した。
「鼎を助けた折の事じゃ」
ひのえが我気道に落ちた白銅の妹を救い出した事を言うのである。
「ああ。餓鬼に落ちたを救うた事か?」
「ああ・・・」
「わしも驚いたがの。お前なんでその時にひのえの心に気がつかなんだ?」
「?」
「あれは、白銅にしてやれるひのえの精一杯の尽しであったに」
「あ、ああ。そうであったのか」
鼎を助けたい一心もあったろうが
その底に白銅の悲しみを除けてやりたいという思いがあったのである。
鼎への思いと白胴への思いと二重に重なった心が、
慈母観音をも動かせたのであろう。
渋い顔をしていた慈母観音もひのえを読んだのちに
ふと、顔がほころんだのを白峰が見ている。
「が、無茶をする。お前がおらなんだら慈母も動いたかどうか、判らんに」
と、八代神は言う。
「いや。動いたであろう」
白峰には判る事である。
「で、気になる事というは、やはりひのえかの?」
「うむ。あれはその事で魂に業を受けておろう?」
「ああ、、山童がの」
酷いほどの山童の陵辱をひのえが一身に替わり、引き受けたのである。
「・・・・うむ」
ひのえが鼎の業を浚えたとなれば、その業はひのえの中に滞っている。
「そうか。そうなると、来世に業が出るの」
「何とかならぬか?」
八代神は首を傾げた。
「無理だの。魂に刻まれてしまう業はわしでも退けられぬ」
「やはり・・・そうか」
「ま、ただ」
「なんだ?」
「陵辱の憂き目は変えられぬが、相手を変える事は出来るの」
「相手?」
「それを河童にしても鬼にしても、いずれにせよ、陵辱はまぬがれん」
「物の怪でのうても良いのだろう?」
「それが陵辱ならの・・・が、」
「何だ?」
「人ならば性が馴染む。陵辱の果てに子を宿すやもしれぬ」
「鼎の様に初潮の前でなら?」
「餓鬼に落ちたら誰が救う?」
「う・・・」
付かれた疑問に白峰も言葉を無くしていた。
「まあ、よう考えて見よう。
ひのえの来世が生まれくるにまだまだあるわ。
ひのえもまだ、生きておるに」
「そうじゃの」
白峰が黙り込んでしまうと八代神は立ち上がった。
「さて、ひのえを大事なのは御主ばかりではない。
あとで小言をくろうてもかなわぬ」
呟くと八代神は黒龍がいるだろう方に向いて歩んで行った。
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