The 理科ロマンスカー

人生を振り返りつつ見過ごしては禍根を残すであろう事柄に着目。
日本の正義・倫理・規範・疑惑等々婉曲的に発信。

指導法はスッキリ×シンプルに!!  東京新聞「筆洗」より

2021-07-28 11:33:24 | 日記
――子どもが身に付く教え方の極意とはーー

跳び箱を跳べない子どもに「できるだけ速く走って思い切り飛ぶのだよ」と促しても跳べるようにはならない。助走のスピードが速くても、踏切板に近づくとスピードが落ち、しかも両足で踏切板を蹴れないために跳び超す勢いがつかない。同時に跳び箱を飛べない原因は恐怖心にもあるようだ。

この事例の指導法は跳び箱を取り除き、踏切板とマットの間を適当に開けて、助走をつけ両足で踏切板を蹴りマットに着地させることをさせたい。その時に着眼させることは、助走のスピードを活かして両足で踏切板を蹴ることを強く意識させる。数回練習し、助走のスピードと両足跳びができたら、跳び箱を元に戻し試みさせると、本人もびっくり見事に跳べるようになる。

東京新聞紙面「筆洗」(2021年07月26日)に「子どもの読書感想文の書き方」が載っていた。「筆洗」欄の筆者が書き方
を教えて欲しいと頼まれたらしい。そこで「簡単な書き方」を開陳されているので紹介する。
『最初から原稿用紙に書かないで、まずはメモ用紙を4枚用意する。
1枚目は「どんなお話か」。
2枚目は「一番好きな場面とそのわけ」。
3枚目は「一番嫌いな場面とそのわけ」。
4枚目は「主人公のかっこいいところとそのわけ」。を書く。』

これだけ単純化されていたら子どもにはわかり易く、取り組みたくなる文章書き方論であると思う。「好き」「嫌い」「かっこいい」など感情に訴えているところがイメージし易くなり、「そのわけ」はそう感じた理由、根拠であってそこで思考が自ずと働く。そのうえ書く内容の心得が記されている。1枚目はあらすじで、できるだけ簡潔に書く。具体例も示され『エジソンの伝記なら、「少年が苦労をして発明王になる話」程度で構わない』と。感想文を書く気力を増幅させてくれる助言になっている。

2枚目以降も「細かく書く必要がない。ただし、思ったまま正直に。先生に褒められたいと悩むから書くのがつらくなる」とまさに核心に触れられているところが素晴らしい。「思ったまま正直に書く」は、思考力を育てるうえで肝になり、その子らしさが表れるところである。思考力は一足飛びに成長するのではなく、思考の上に思考を重ねながら、すなわち更新しながら様々な経験を通して高められていく。

そして、「4枚のメモを基にもう少しだけ詳しくしながら、全体を下書きしてみる」。筆者はこの書き方を「部品を作り、後で組み立てるやり方なら手順がはっきりしている分、少しは書きやすいだろう」と分析し説明している。
加えて「物語のテーマソングを作詞し、書き添えるという手もあるか」と、完成した感想文の質の向上を尚一層狙っていることが伝わってくる。最後に「おもしろそうだし、なによりも、子どもが喜んで書いてくれそうな気がする。」と締め括られている。文章作りプロの指南書である。学校の教室でも活用できることは間違いないと思う。

ここで心しておきたいことは、指導法は教える側から見て、学習法は学ぶ側から見ての表現であり、極端なケースにおいて学習法は10人いたら10通りほどといわれている。1つの指導法が万能ではないことを心に留めておかれることである。であるので、「筆洗」で紹介しているように指導する本質の骨子を示し、受け取る学習者の見方や考え方や工夫などの個性を付加できる余地が多い指導法の確立を指導者は目指していきたい。


小学校教育は「全身のセンサーを存分に使って」学ばせたい

2021-07-14 09:14:53 | 日記
日本を代表する思想家 柳宗悦氏(やなぎ むねよし)【1889年3月〜1961年5月没】は、「見て知りそ 知りてな見そ」と述べています。「直感は自由にするが、知識は限定する」の意味で、「知ることを先にして、見ることを後にしてはいけない」と教えています。

知ってから見ると、見方は「知」に邪魔されて、純粋に見ることができなくなるとのこと。余計な知識を与えないで、子どもの純粋なこころでものと向き合わせることの大切さを、幼児・初等教育では改めて大切であることを思い知らされます。

このことは1歳にも満たない孫の無心な行動からも見ることができます。あの柔らかい手のひらでものをギュッと握りしめ、指を動かし爪を立ててものに触れ、ものの特徴を掴もうとします。スイッチの釦や穴など小さなものや突起物に指が敏感に反応します。手がものの特徴を掴もうとしてセンサーになり、対象にくい入ろうとして認識します。

なんでも舌でなめて知ろうとし、大きな眼でジッと見つめて映像から確認しようとします。リモコンのスイッチ釦を押しては照明を点灯させ、スイッチ釦を押すことと点滅との関係に関心を持ちます。これは因果や可逆的関係の原初的な体験にあたると思われます。同様に温度の高低変化によって表面の色が変わるおもちゃも、同じ認識を狙っていると推測できます。車のエンジンを加速する際に出る音や高音の雑音などの時に両手で耳を塞ぐ行為は音に関する幼児の捉えを見て取れます。食事では口までもっていったおかずの匂いを鼻でかいで食べるかどうかの判断をします。

これらは幼児の対象への認識のほんの一例をあげましたが、子どもはこうして自らの感覚・五感(視覚・触覚・聴覚・臭覚・味覚)で実際のものに接し、つながり、行動を広げ、対象を認識していくことで、脳の様々な働きを発達させています。小学校教育(個人差はあるが特に5学年の10月頃まで)は「身体全体を使って学ぶ」という至ってシンプルな指導理念を大切にすべき所以であります。

教科の「肝」を見立てる力と授業展開の勘所を磨く

2021-06-27 16:11:25 | 日記
 小学校の先生は全ての教科を教えます。「教え方の上手な先生に教わりたい」。子どもの偽らざる本心です。でも、先生も生身の人間であり、得手不得手があります。
理科の教科は、生物・物理・化学・地学など広い領域にわたり、さらにそれぞれが無数の素材と性質、法則によって構成されているので、理科を苦手な教科にあげる先生が多いですが、小学校の頃は「好きだった」という感想を抱いている声は多い。

 理科は観察や実験で実証する教科であり、日常の授業時に操作はもちろんのこと、器具や道具を使うことによって慣れ、蓄積されて習熟していきます。
「体を動かしながら観察や実験をするのは、楽しい」でも、「仮説を考え、記録し、結論を考えるのは嫌い」などの子どもの声も聞きます。
思考を億劫がる傾向は、思考を誘う適切な刺激がされていなかったり、思考のもとになる「観察や実験などの体験蓄積の絶対量」が足りなかったりしていることが原因に考えられます。とはいえ、気付いたときの呟きや思い付いたときの発言が、過去に取り入れられなかったり無視されたりした経験がトラウマになって心を何層にも覆い、思考のとば口を閉ざしているとも推察できます。

 ゆえに、今までの理科についてのネガティブな考えをすべて捨て去って、教科の特徴や内容、授業展開の技術などを身に付けることが、苦手意識から脱却の第一歩であると思われます。
そのことは、① 何を教える教科か(教科内容)
② 授業展開をどのようにするとよいか(問題解決の過程)
③ 何を大事にして授業を行うか (教育技術・技能)
④ 子どもは自然をどのように認識するか(自然認識)
などの知見を増やし、その知識や技術をもって授業に臨むことを繰り返すことによって、子どもにとっては教え上手な先生に映るようになります。このことは理科のみではなく、全ての教科に共通していえることです。

 理科は自然の観察や実験から問題を見出して、仕組みや法則、決まりを見つけ理解に至る教科。その過程で、教室のみんなとコミュニケーションを取りながら吟味し、共有することで知識が増え強化されます。換言すると、実際にあるもの(事物や現象)を観察し、実験を繰り返すことから、学びは具体的になります。まさしくリアリティーが伴い、自ら学ぶことが多いので、子どもの学習態度も積極的になります。

 併せて、学ぶ過程が科学の方法(科学者の科学研究と同じ)にあたり、経験したいろいろなことを活用し応用も利くようになります。いわば、言葉で与えられた知識とは格段に異なり、実感し理解できることから、学びは子どもの血や肉になり、「半わかり」ではなく「本わかり」の授業が形づくられます。

偏差値教育の負の側面がボディブロウのように効いている

2021-04-28 10:47:16 | 日記
児童生徒の評価を数値化してきた誤謬と末路

 近所の方との立ち話、職場での休憩時の会話、友人や知人との話題など井戸端的なうわさや争いごとの内容がメディアに乗って茶の間に流れていることが増え気になっている。話題のぬしは社会的に活躍している方や社会的に地位のある方々で、世間では一目も二目も置かれ尊敬されている(?)人物が目立つ。

 「ノブレス・オブリージュ」。フランス語で、直訳すると「高貴なる者の義務」。身分の高い者はそれに応じて果たさねばならない社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観。もともとはフランスにおける貴族に課せられた義務を意味する言葉のよう。当時の貴族には多くの特権が与えられていたものの、いざ戦争となれば率先して戦う義務も課せられていた。

 「ノブレス・オブリージュ」は現代の日本においては重要な精神性や道徳観の必要性を強く感じる。この言葉の意味を知れば知るほど、テレビに流れている話題に心が重くなる。せめて社会的なリーダーや社会的に成功している方々には、またこれらの方々からバトンを受け取ろうとしている方も、いや日本の全ての方々の内面に保持し、実践してもらいたい言葉のひとつであるような気がしている。
 
 この社会的病理を探ることは容易ではないが、その一つの要因として偏差値教育が考えられる。京都先端科学大学理事長で日本電産創業者である永守重信氏は、「偏差値・ブランド主義」教育の打破を声高に叫び、国際的に通用する人材を自ら理事長に就任した大学で取り組み始めている。
永守重信氏が指摘するまでもなく、数値で学力を評価する偏差値教育は、人物評価・人間性までにも連動して捉えられる傾向があり、そのような人材を産み出す要因のひとつになっていると気付かされる。さらにいろいろな出身大学の学生を採用し、例えば経済を学修 (?)した学生を経理配属しても決算書も作成できない現状も述べられている。このことから大学のブランド主義の打破も打ち出していることと推測できる。

 私が大学生を教えていて気になったことは、学生に元気がないこと。さらに、自分の考えを表出することにためらいがみられ、積極的に意見を述べる学生が少ないことであった。ようするに考えが浮かばないのか、それとも抱いた考えが正しいか間違いかの二択のみを気にして言葉が出ないのか。
このことは常にこれまでの学校で正解を求められてきた後遺症の表れか。それとも考えないで誰かの答えに従うことが失敗を回避できるからか。これらのことからも偏差値教育の負の遺産が表れていると感じられる。


社会は加速をつけて変化しています!!

2021-04-14 16:07:36 | 日記
京都先端科学大学理事長で日本電産創業者である永守重信氏は、入学式の式辞で「偏差値・ブランド主義」教育の打破を喝破しています。それは大学を卒業しても英語が話せず、経済を学び経理配属されても決算書も作成できないと現状を憂いています。世の中は実力社会になり、即戦力になる人材を求めてられているようで、それに合致したカリキュラムを開発し、人材を輩出できるよう取り組み世界標準の大学を目指しています。

 立命館アジア太平洋大学学長の出口治明氏は、著書の中で「メシ・フロ・ネル」から「本・人・旅」の生活転換を求め、自ら実践しているようです。残業に追われ家では食べて寝るのみでは、自己の学びが更新できずに痩せ細っていくばかり。出口氏は本を読み人と語り、旅行をすることで知識や教養を広げ深めていて、学生のみならず社会人の勉強不足、教養のなさを嘆いています。

 文部科学省では思考力と判断力と表現力を養うために「主体的・対話的で深い学び」の授業を小・中・高校に求めています。コロナ禍の中で授業時間数も圧迫され、しかも感染予防対策に追われ、それどころではない現実があると推測できますが、ギガスクールも学力向上の一環として授業に導入研究が急務になっています。
校種によってはリモート授業を取り入れているところもあると思われますが、教育の基本は同一空間における「対面・面授」が理想というか必須。

文藝春秋21年5月号の「不思議な糸に導かれ」の題で、藤原正彦氏(作家・数学者・お茶の水大学名誉教授)が4年生時の図工の先生の思い出を語っています。教科書にはない先生のお話は、正彦少年の心のひだに焼き付き風化せずに鮮明に滲み出ていると想像します。以下引用します。
〇「君達、刑務所の塀の高さと棒高跳びの世界記録はどちらが高いんだろうね」
〇「フグを食べたサメは死ぬのかなあ」
〇「双眼鏡を逆から見ると近くのものが遠くに見えるだろう。子供のころにそうやって椅子から飛び降りようとしたらね。崖から下を覗くようだったよ」
〇「君達も正月には近所の神社にお詣りに行くだろう。ところで自分の家の前に賽銭箱を置いてお金を集めていけないのかなあ」
〇「ほんの少しのことを雀の涙って言うけど、誰か雀の涙を見た人いるかい」
5年生時テストの問題から問うたようだ。
〇「太郎と次郎が百m競走をしました。太郎がゴールした時、次郎はまだ10m後ろにいました。そこで2度目は太郎がスタートラインの10m後方から出発して競走しました。どちらが勝つでしょう」。

アイデアを練り、絵を描き造形を作る図工の時間。その合間の先生の質問に心が躍っている子供達の姿が伝わってきます。この図工の先生は絵本作家の故安野光雅氏であると紹介されています。