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David Jackman-Crest 実践論・毛沢東思想万歳!

2010-04-22 12:07:25 | Ambient
David Jackman-Crest 1982 AR02




 お昼だ。今日は小雨、時にやむ。で、宅配の上ちらし丼を頼みお茶を飲みながらDavid Jackman(Organum)の1st? CSを聴くとする。

 [A1 Crest ]
Ambient~~! 僕は「In Extremis」から聞き始めたがゆえにOrganum以前のDavidの作品は心が和むエクリ作品が多いような気がしますねえ♪
しかしながら、後半はOrganumへと繋がるインダストリアル的プシュケーが伺われますのうう。
なにせ既にして概算30年も前の作品のゆえに入手にアポリアでしょうか?

 [B2 Dawn Plaza ]
pianoの静けさがなかなか素晴らしいパロールですねえ(^∇^*)
David/Organum作品はart-workも楽しめますねエえ♪
後半部はExperimentalなmodern musicです。

 レーニンは言っている。「対立面の統一(一致、同一、均衡)は条件的、一時的、経過的、相対的である。相互に排斥しあう対立面の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である。」

 レーニンのこの言葉は、どういう意昧だろうか。

 すべての過程には始めがあり終わりがある。すべての過程は、自己の対立物に転化する。すべての過程の恒常性は相対的であるが、ある過程が他の過程に転化するという変動性は絶対的である。

 どのような事物の運動も、みな二つの状態、すなわち相対的に静止している状態と著しく変動している状態をとる。二つの状態の運動は、いずれも、事物の内部に含まれる二つの矛盾する要素の相互の闘争によつて引きおこされる。事物の運動が第一の状態にあるときは、それは量的変化があるだけで、質的変化はないので、あたかも静止しているような様相を呈する。事物の運動が第二の状態にあるときは、それはすでに、第一の状態での量的変化がある最高点に達して、統一物の分解を引きおこし、質的な変化を発生させたので、著しく変化した様相を呈するのである。われわれが日常生活において見る統一、団結、連合、調和、均勢、対峙、膠着、静止、恒常、平衡、凝集、吸引などはすべて事物が量的変化の状態にあるときに呈する様相である。そして、統一物が分解し、団結、連合、調和、均勢、対峙、膠着、静止、平衡、凝集、吸引などといった状態が破壊されて、反対の状態に変わるのは、みな事物が質的変化の状態にあるときで、一つの過程から他の過程に移行する変化の中で呈する様相である。事物はどうしても、第一の状態から第二の状態にたえず転化するし、矛盾の闘争は、この二つの状態の中に存在するとともに、第二の状態をへて、矛盾の解決に達するものである。したがって、対立面の統一は、条件的な、一時的な、相対的なものであるが、対立面が相互に排除しあう闘争は絶対的であるというのである。

 われわれは先に、たがいに反する二つのもののあいだには、同一性があり、したがって、二つのものは一つの統一体の中に共存することができるし、さらに、相互に転化することができると言ったが、これは条件性のことで、つまり一定の条件のもとでは矛盾するものは統一することができ、さらに、相互に転化することができるし、この一定の条件がなければ、矛盾となることもできないし、共存することもできず、転化することもできないということである。一定の条件によって矛盾の同一性が構成されるので、同一性は条件的であり、相対的であるというのである。さらに、矛盾の闘争は、過程の始めから終わりまでを貫いていると同時に、一つの過程を他の過程に転化させるものであり、矛盾の闘争は存在しないところがないので、矛盾の闘争性は無条件的であり、絶対的であるというのである。

 条件的な、相対的な同一性と、無条件的な、絶対的な闘争性とが結合して、あらゆる事物の矛盾の運動を構成する。

 われわれ中国人がつねに言う「たがいに反しながら、たがいに成りたたせあう」[28] とは、たがいに反するものが同一性を持っているという意味である。この言葉は、形而上学とは反対の、弁証法的なものである。「たがいに反する」とは、矛盾する二つの側面が相互に排斥し、あるいは相互に闘争することを言う。「たがいに成りたたせあう」とは、矛盾する二つの側而が、一定の条件のもとで、相互に連結して同一性を獲得することを言う。闘争性は同一性のなかにやどっており、闘争性がなければ、同一性はない。

 同一性のなかには闘争性が存在し、特殊性のなかには普遍性が存在し、個別性のなかには共通性が存在している。レーニンの言葉を借りて言えば「相対的なもののなかに絶対的なものがある」 のである。


六 矛盾における敵対の地位

 矛盾の闘争性という問題には、敵対とはなにかという問題が含まれている。われわれの答えは、敵対とは、矛盾の闘争の唯一の形態ではなく、矛盾の闘争の一つの形態にすぎない。

 人類の歴史には階級的な敵対が存在する。これは矛盾の闘争の特殊なあらわれである。搾取階級と被搾取階級のあいだの矛盾について言うと、奴隷社会でも、封建社会でも、資本主義社会でも、相互に矛盾する二つの階級は、長期にわたって一つの社会のなかで並存し、相互に闘争しているが、二つの階級の矛盾が一定の段階にまで発展すると、はじめて双方は外部的な敵対の形態をとり、革命に発展する。階級社会では、平和から戦争への転化も、やはりこうである。

 爆弾がまだ爆発しないうちは、矛盾物が一定の条件によって一つの統一体のなかで共存しているときである。新しい条件(発火)があらわれると、はじめて爆発をおこす。自然界で最後に外部的な衡突の形態をとって、古い矛盾を解決し、新しい事物をうみだす現象にはすべてこれと似た状況がある。

 このような状況を認識することは、きわめて重要である。それはわれわれに、階級社会では、革命と革命戦争が不可避であり、それなしには、杜会発展の飛躍を達成することもできなければ、反動的支配階級を打ち倒して人民に権力をにぎらせることもできないことを理解させるものである。共産党員は、反動派の言っている、社会革命は不必要だとか不可能だとかいう欺瞞的な宣伝を暴露し、マルクス・レーニン主義の社会革命の理論を堅持して、社会革命はぜひ必要であるばかりでなく、まったく可能であり、全人類の歴史とソ連の勝利がその科学的な真理を証明していることを人民に理解させなければならない。

 だが、われわれは、先に述べた公式をすべての事物の上にむりやりに当てはめてはならず、矛盾のさまざまな闘争の状況について具体的に研究しなければならない。矛盾と闘争とは普遍的であり、絶対的であるが、矛盾を解決する方法、すなわち、闘争の形態は矛盾の性質のちがいによって異なる。一部の矛盾は公然たる敵対性をもつが、一部の矛盾はそうではない。事物の具体的発展にもとづいて、一部の矛盾は、もともと非敵対性であったものから敵対性のものに発展し、また、一部の矛盾は、もともと敵対性であったものから非敵対性のものに発展する。

 前に述べたように、共産党内の正しい思想と誤った思想との矛盾は、階級が存在しているときには、階級的矛盾の党内への反映である。この矛盾は、はじめのうちとか、あるいは、個々の問題では、すぐに敵対性のものとしてあらわれるとはかぎらない。だが、階級闘争が発展するにつれて、この矛盾も敵対性のものに発展する可能性がある。ソ連共産党の歴史は、われわれに、レーニンやスターリンの正しい思想とトロツキーやブハーリンなどの誤った思想との矛盾が、はじめのころは、まだ敵対的な形態をとってあらわれなかったが、のちには、敵対的なものに発展したことを教えている。中国共産党の歴史にも、このようなことがあった。わが党内の多くの同志の正しい思想と陳独秀、張国壽[とう=壽の下に点4つ]らの誤った思想との矛盾は、はじめのころは、やはり、敵対的な形態となってあらわれなかったが、のちには、敵対的なものに発展した。現在わが党内の正しい思想と誤った思想との矛盾は、敵対的な形態となってあらわれてはいず、もし、誤りをおかした同志が自分の誤りを改めることができるならば、それは敵対性のものにまで発展することはない。したがって、党は一方では誤った思想に対し、厳格な闘争を進めなければならないが、他方では、また誤りをおかした同志に自覚する機会を十分与えるようにしなければならない。このような場合に、ゆきすぎの闘争は明らかに不適当である。しかし、誤りをおかした人がその誤りを固執し、さらにそれを拡大させるならば、この矛盾は、敵対性のものにまで発展する可能性がある。

 経済面での都市と農村との矛盾は、資本主義社会においては(そこではブルジョアジーの支配する都市が農村を残酷に収奪している)、また中国の国民党支配地区においては(そこでは外国の帝国主義と自国の買弁的大ブルジョアジーの支配している都市が農村をきわめて横暴に収奪している)、その矛盾がきわめて敵対的である。だが、社会主義国では、またわれわれの革命根拠地ては、このような敵対的矛盾が非敵対的矛盾に変わっており、共産主義の社会になったときにはこのような矛盾は消滅する。

 レーニンは言っている。「敵対と矛盾とは、まったく異なったものである。社会主義のもとでは、前者は消失するが、後者は存続する。」  これはつまり、敵対とは矛盾の闘争のあらゆる形態ではなく、その一つの形態にすぎないから、この公式をところかまわず当てはめてはならないということである。


七 結論

 ここで、われわれは次のように総括することができる。事物の矛盾の法則、すなわち対立面の統一の法則は、自然および社会の根本法則であり、したがって、思考の根本法則でもある。それは形而上学の世界観とは正反対のものである。それは人類の認識史における一大革命である。弁証法的唯物論の観点から見ると、矛盾は客観的事物および主観的思考のすべての過程に存在しており、すべての過程の始めから終わりまでを貫いている。これが矛盾の普遍性と絶対性である。矛盾している事物およびその一つひとつの側面はそれぞれ特徴をもっている。これが矛盾の特殊性と相対性である。矛盾している事物は、一定の条件によって、同一性を持っており、したがって、一つの統一体のなかに共存することができるし、また相互に反対の側面に転化してゆくことができる。これもまた矛盾の特殊性と相対性である。しかし、矛盾の闘争は絶えることがなく、それらが共存しているときでも、あるいは相互に転化しているときでも、闘争が存在しており、とくに相互転化のときには、闘争がいっそうはっきりとあらわれる。これもまた矛盾の普遍性と絶対性である。われわれが、矛盾の特殊性と相対性を研究する場合には、矛盾および矛盾の側面の主要なものと主要でないものとの区別に注意しなければならず、矛盾の普遍性と闘争性を研究する場合には、矛盾のさまざまな異なった闘争形態の区別に注意しなければならない。そうしなければ、誤りをおかすであろう。もし、われわれが研究をつうじて、上に述べた諸要点をほんとうに理解するならば、われわれは、マルクス・レーニン主義の基本原則にそむき、われわれの革命事業にとって不利なあの教条主義思想を打ち敗ることができるし、また経験をもっている同志たちに、その経験を整理させ、それに原則性をもたせて、経験主義の誤りをくりかえさせないようにすることもできる。これらのことはわれわれが、矛盾の法則の研究から得た簡単な結論である。

  職場にて

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