Skinny Puppy-Chainsaw
「矛盾の普遍性」
マルクス主義の偉大な創始者および継承者であるマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンが、唯物弁証法の世界観を発見し、すでに唯物弁証法を人類の歴史の分析と自然界の歴史の分析の多くの面に応用し、また、社会の変革と自然界の変革(例えばソ連の)の多くの面に応用して、きわめて偉大な成功をおさめており、矛盾の普遍性はすでに多くの人に認められているので、この問題については、簡単に述べるだけではっきりさせることができるからである。一方、矛盾の特殊性の問題については、まだ多くの同志たち、特に教条主義者たちはよくわかっていない。彼らは矛盾の普遍性が矛盾の特殊性の中にこそ宿っていることを理解していない。彼らはまた、当面する具体的な事物の矛盾の特殊性を研究することが、我々が革命の実践の発展を指導するうえでどれほど重要な意義があるのかということについても理解していない。したがって、矛盾の特殊性に関する問題は、力を入れて研究し、また十分な紙面をさいて説明しなければならない。
矛盾の普遍性、あるいは絶対性という問題には、二つの意味がある。その一つは、矛盾がすべての事物の発展過程に存在するということであり、もう一つは、どの事物の発展過程にも一貫して矛盾の運動が存在しているということである。
エンゲルスは、「運動そのものが矛盾である。」と述べている。レーニンが対立物の統一の法則に対して下した定義によると、それは、「自然界(精神と社会の両者を含めて)のすべての現象と過程に、互いに矛盾し、排斥し、対立しあう諸傾向が含まれていることを認める(発見する)こと」である。こうした意見は正しいだろうか。正しい。すべての事物に含まれている、矛盾する側面同士の相互依存と相互闘争が、すべての事物の生命を決定し、すべての事物の発展を促進するのである。矛盾を含まぬ物など一つもなく、矛盾がなければ世界もない。
エンゲルスは矛盾の普遍性を次のように説明している。「単純な機械的な移動そのものさえ矛盾を含んでいるとするならば、物質のさらに高度な運動形態、特に有機的生命およびその発展は、よりいっそう矛盾を含んでいることになる。……生命とは、まず、ある生物がいかなる瞬間にあっても、それ自身であると同時に、また別の物でもある、という点にある。したがって、生命もまた、物体と過程そのものの中に存在する、絶えず自己を生産しつつ、それと同時に自己を解決【“解体”と訳すべきか?】する矛盾なのである。この矛盾がいったん止まってしまえば、生命もまた止まり、死が訪れることになる。
2-7 これと同様に、思惟の領域でも、我々は矛盾を避けることができないということ、また、例えば、人間の内的に限界を持たない認識能力と、それが外的に制限される、しかも認識上でも制限された個別の人間において実際に実現されるその能力との間の矛盾は、人類世代の尽きることのない——少なくとも我々にとっては実際上尽きることのない——連続の中で、無限の前進運動の中で、解決されるということを、我々は見てきたのである。」【
レーニンも矛盾の普遍性を次のように説明している。「数学における、正と負、微分と積分。
力学における、作用と反作用。
物理学における、陽電気と陰電気。
化学における、原子の化合と分解。
社会科学における、階級闘争。」
戦争における攻撃と防御、前進と後退、料理と敗北は、みな矛盾した現象である。一方がなくなれば、もう一方も存在しなくなる。双方は闘争しながら同時に結びついて、戦争の全体を構成し、戦争の発展を促し、戦争の問題を解決する。
人間の持つ概念の一つ一つの差異は、客観的矛盾の反映と見なすべきである。客観的矛盾が主観的思想に反映されて、概念の矛盾運動を構成し、思想の発展を促し、人々の思想問題を絶えず解決していくのである。
党内における異なった思想の対立と闘争は常に発生するものである。これは社会の階級矛盾と新旧事物の矛盾が党内に反映したものである。かりに、党内に矛盾や矛盾を解決する思想闘争がなくなれば、党の生命も停止してしまう。
以上のことから、単純な運動形態であろうと、複雑な運動形態であろうと、また客観的現象であろうと、思想的現象であろうと、矛盾が普遍的に存在し、矛盾がすべての過程に存在しているということは、すでに明らかになった。だが、どの過程の始まり段階にも矛盾は存在するだろうか。すべての事物の発展過程に終始一貫して矛盾の運動があるだろうか。
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