矢嶋武弘・Takehiroの部屋

83歳のジジイです。
SNSが歴史をつくる、SNSの時代がやって来た! 

『べったら市と可愛い女子アナ』(前編)

2024年12月12日 03時42分23秒 | 文学・小説・戯曲・エッセイなど
〈ある若い報道部員の物語〉

啓太が社員食堂で昼食を終え報道部の部屋に戻ってくると、遊軍デスクの下地(しもじ)が待ってましたとばかりに彼を呼んだ。
「山本君、あさっての夕方のニュースで『べったら市』の生中継をやりたいと思うんだが、君がやってくれ。技術部のデスクにはもう連絡したよ」
「えっ、中継ですか。僕で大丈夫ですかね・・・」
啓太は思わず下地に問い返したが、彼は10月の異動で外勤の野党クラブ担当からこの遊軍班に移ってきたばかりである。
「大丈夫だよ、細かいことは技術の原田デスクと打ち合わせてくれ。中継にも早く慣れることだな」
下地はさも当然だと言わんばかりに、新入りの啓太をにらみつけるように言い放った。テレビ報道の遊軍班というのは、いろいろな取材はもちろん現場の中継もしなければならない。いわば“なんでも屋”といった感じだが、啓太は中継を手がけるのは初めてだった。
「その前に、まず中央署に行って道路使用許可を取るのが必要なんだ。そうした点も原田さんに聞いてくれ」
下地はそう言うと、もう用はないといった感じで、内勤デスクの上村と別の案件について話し始めた。 
啓太は原田に挨拶しようとすぐに技術部へ行ったが、原田はあいにく不在だった。仕方がないので、彼はほかの技術部の先輩に中継の段取りなどについて聞いていたが、いったん報道の部屋に戻ることにした。
そして、都内の中央警察署に向かおうと車の手配をしていると、遊軍班の席に1人の若い女性が現われ下地に声をかけた。
「あの~、水上(みずかみ)です。べったら市の中継アナを担当することになりました。よろしくお願いします」
「おうおう、ちょうど良かった。この山本君が中継のディレクターをやるよ。よろしくね」
下地はそう言うと、今度は笑みを浮かべて水上に啓太を紹介した。彼女はこの4月に入社したばかりの新人アナウンサーで、もちろん啓太とは初対面である。彼は社内報などで水上のことは知っていたが、こんなに可愛らしい女子アナと会うのは初めてだと感じた。
目がくりくりと輝き、満面にあどけない笑みをたたえている。とたんに、啓太は中継の仕事に“張り”が出てきたのを感じた。
「よろしくお願いします」
今度は水上が啓太に挨拶したので、彼はすぐに答えた。
「よろしくどうぞ。べったら市のことを調べておいてね」
 
水上は軽く一礼をしてその場を立ち去った。
「なかなか感じの良い子だね。レポートはまだ慣れていないだろうが、よろしく頼むよ」
「ええ、これから中央警察署に行ってきます」
下地に挨拶して啓太は車両の窓口へ向かった。彼は以前 警視庁の記者クラブにいたので、警察署のことはだいたい分かっている。車に乗って中央署に着くと交通規制係りを訪ね、そこで道路使用許可証を受け取った。
そして、すぐにFUJIテレビへ戻ると啓太は技術部に直行した。そこに、待ち構えていたように原田デスクが座っている。
「いや~、山本君、久しぶりだね。今度は遊軍班だって? これから中継で何度も付き合うようになるな、よろしく」
面識のある原田から声をかけられ、啓太は安堵した気分になった。彼とは以前から、石浜報道部長らとよく飲み屋へ行っていた仲だ。
「原田さん、僕は中継が初めてなのでよろしくお願いします」
「うん、働いてもらうぞ~、ハッハッハッハッハ」
原田は豪快に笑った。彼は大男で恰幅が良く、いかにも技術部の“親分”といった感じである。
「さっそく、中央署へ行って道路使用許可証をもらってきました」
「うん、それじゃ明日、こちらのスタッフと一緒に恵比寿神社の辺へ行って、中継場所を決めてくれ。問題はアンテナをどのビルに置くかだな」
「えっ、アンテナを置くビルも僕が決めるのですか?」
啓太は意外に思った。アンテナの設置場所は技術部のスタッフが決めるのでは・・・
「そりゃ~そうさ。中継をやるのは報道部だよ。だから、君が責任を持って交渉し中継場所を決めるのさ」
そうか、これは意外だった。技術のスタッフは中継しやすい場所を選ぶが、アンテナを置く建物(ビルなど)は報道部員が交渉して決めなければならない。これは面倒な仕事だなと啓太が案じていると、原田が追い打ちをかけるように言った。
「だから明日中に、うちの誰かと一緒に現場へ行ってほしい。な~に、テレビ中継なら、大抵のビルの管理人はOKしてくれるよ。心配するな」
 
原田が言ったことを啓太は無言で聞いていたが、あれこれ気にしても仕方がない。彼は明日、技術部のスタッフと共に「べったら市」の会場へ出向き、中継放送の準備をすると原田に告げた。
翌日(10月19日)、啓太は出社すると技術部の部屋に直行し、スタッフの井上、田尻の2人を紹介された。啓太ら3人はできるだけ早く中継場所を決めようと、午前中に会場である“宝田恵比寿神社”の近くへ向かったのである。
「テレビ中継がこんなに大仕事だとは思っていませんでしたよ。僕は甘いな~」
「最初は誰でもそう思うさ。そのうち慣れるけどね」
啓太がやや自嘲気味に言うと、少し年上の井上が笑って答えた。やがて3人は現場の近くに到着すると、どのビルがアンテナを設置するのに好都合か、歩きながら物色を始めた。結局、宝田恵比寿神社に近い2~3のビルが候補になり、啓太を先頭にして交渉することになった。
第1候補のAビルは5階建てで神社に最も近かったが、管理人がオーナーの了承が必要だと言う。ところが、そのオーナーとなかなか連絡が取れず時間ばかりたってしまったため、啓太たちはAビルを諦めた。
「しょうがないな、次のビルに当たってみよう」
井上がそう言うと、神社より少し離れたBビルへ3人は向かった。ここは4階建ての雑居ビルだが、管理人は話が分かる人ですぐに了解してくれた。こうして、ビルの屋上にパラボラ・アンテナを設置する交渉は終わったが、時間はもう午後2時を過ぎていた。
3人は付近のラーメン店で食事を取ったあと社に戻ったが、啓太はこんなに下準備がかかっても、テレビ中継はせいぜい1分半程度かと思うと、少し空しい気持ちになった。だが、そんなことは井上や田尻には口にしなかった。技術の2人は、それ以上の手間や苦労を味わっているはずだから・・・
ただし、べったら市はこの日に始まったので、祭りの雰囲気を見てきたのは参考になった。いろいろな露店が“えびす通り参道”の界隈に所狭しと並び、江戸時代から続くという情緒がたっぷりと感じられる。この祭りが始まると、秋もいよいよ本番なのだ。
そうした話を下地デスクに報告すると、“堅物”の彼にしては珍しく笑顔を見せた。
「そうか、なかなかいいね、明日の中継が楽しみだよ。水上にも言っておいたら」
「ええ、そうします」
下地に言われて、啓太はアナウンス室に電話をかけた。
 
すると、水上が弾んだ明るい声で電話に出てきた。
「水上さん、べったら市の調べは済んだ?」
「ええ、東京の“祭り一覧”で調べました」
「そう、さっき見てきたけど、なかなか伝統のある面白そうな祭りだね。べったら漬けも沢山あったよ」
水上が明るく笑ったので、啓太は祭りの模様や中継の話を手みじかに説明した。
「お疲れさまでした。それで、明日は何時ごろ出発しますか?」
「うん、明日また連絡するよ。車で一緒に行こう」
「はい」
水上が素直に答えたので啓太は満足した。新人の可愛い女子アナと一緒に現場に行けるなんて、結構なことだ。彼は面倒くさい中継の仕事もしばし忘れて、彼女とタッグを組むことに心を躍(おど)らせた。
水上はたしか冴子(さえこ)と言ったな・・・水上冴子、いい名前だ。そんなことを思いながら、啓太はその日の遊軍班の仕事に戻った。今日は夕方のローカルニュースで原稿を1~2本まとめればいい。彼は浮き浮きした気持ちで職場についた。
 
翌日(10月20日)、啓太は出勤するとすぐに技術部に顔を出した。原田デスクとの打ち合わせだ。原田が言う。
「井上君から聞いたが、中継場所はまあいいだろう。ビルの管理人には君から酒や社の記念品など御礼をしておいてね。あ、そうそう、中継の準備には君も手伝ってくれ。報道の人間には、そんなの関係がないと思っている奴がいるが、とんでもない! 報道の要請で中継をやるんだからな。
それから、弁当の手配だけは絶対に忘れないでくれ。弁当が来なかったら仕事はしないぞ!」
原田が大声で一方的にしゃべるので、周りの技術部員の中には苦笑いする者もいた。彼は担当デスクとしての権威を示したかったのだろう。また、2人は“仲間同士”ということで言いやすかったのかもしれない。
啓太は原田との打ち合わせを済ませると、さっそく近くの酒店で特級の日本酒2本を用意した。それから社の特上の記念品(中身は何だったか忘れた)を庶務から受け取り、早めに昼食を取った。あとは水上冴子に連絡するだけである。
 
その前に、啓太は下地デスクと打ち合わせ、夕方のローカルニュースでは1分30秒ぐらいの放送時間をお願いしたいと言った。せっかくの中継だからそれぐらいはいいだろう。
「うん、ニュースデスクに言っておくよ。うまくいけば1分半だな」
下地はそう答えたが、実際にどうなるかはまだ未定だ。ほかのニュースとの兼ね合いで、放送時間がどうなるかは分からない。要望だけは伝えて、啓太はアナウンス室に電話をかけ水上を呼び出した。
「1時過ぎには社を出るよ。車両口で会おう」
啓太がそう言うと、彼女もすぐに承諾した。その声は相変わらず明るくてはきはきしている。水上の声を聞いて、彼はますますやる気が湧いてくるのを感じた。そして、原田がしつこく言っていた中継班の夕食の弁当を庶務係りに頼んだのである。
啓太は助手の学生アルバイトHを一緒に連れて行こうかと考えたが、それはやめた。Hを早い時間から拘束する必要はないし、彼もそれを望まないだろう。いや、それ以上に、啓太は水上と“二人きり”でべったら市の会場へ行きたかったのだ。
彼が1時過ぎに車両口に行くと、水上はもうその場に来ていた。
「よろしくお願いします」
相変わらず両目をきらきら輝かせて、彼女が挨拶した。2人は車に乗り込むとさっそく今日の放送と取材の段取りなどについて話し合った。
「向こうへ着いたら、べったら市の『保存会』の人に話を聞こう。そのあと、僕は中継の準備を手伝わなければならない。君は祭りの模様などを取材してほしいね。ああ、それから、インタビューする露店の人も決めてほしいな」
「ええ、分かりました」
そんな話が済むと、時間がたっぷりあったので、啓太は個人的なことを聞くことにした。狭い車の中で黙っていても仕方がない。
「水上冴子(さえこ)さんか、いい名前だね。冴えているな~」
つまらない駄洒落みたいだが、そう言って彼は彼女の横顔をうかがった。
 
「親が付けた名前ですから・・・」
当惑したのか、冴子は珍しくぶっきら棒に答えた。そんなことは意に介さず、啓太は個人的なことをどんどん聞いていく。
「いま どこに住んでいるの?」
「世田谷区の上野毛(かみのげ)です」
「ふ~ん、いい所に住んでいるね。OCYANOMIZU(お茶の水)女子大を出たんでしょ?」
「ええ」
「優秀なんだな、君は」
「・・・」
「僕は以前、学生運動の取材で御茶ノ水へ行ったことがあるよ。ちょうど“70年安保闘争”が盛り上がっていたころだ。あのころは警視庁の担当記者で忙しかったな」
「そうですか」
冴子は相槌を打ったが、そうした話にほとんど関心を示さなかった。気まずい思いになった啓太はふと、彼女と入社同期の報道部員3人(男性)の話題を持ち出した。すると、冴子が急に興味を示したのである。
「N君はきちんと仕事をしていますか?」
「ああ、なんとかやってるみたいだよ。少し態度が大きいようだけど」
「ホッホッホッホ、それは彼の性格ですから治りません。本当に大丈夫かしら・・・」
「うん、もう少し様子を見ないとね」
「Y君はどうですか? 彼はなんにでも積極的なんですよ」
「うん、それはそうだが、とにかく整理整頓が駄目だね。それに字が下手だし」
「ホッホッホッホ、それは分かりますが、なんとか大目に見てやってください」
同期の男性社員の話題に、冴子は生き生きとした反応を見せた。彼らのことがいつも気になっていたのだろう。同期社員の話はまだ続いたが、やがて車はべったら市の会場に着いたのである。
 
そこには、すでにFUJIテレビの中継車が到着していた。原田デスクを筆頭に井上、田尻らの顔が見える。
「よう、山本“大ディレクター”、女子アナと仲良くご来場か」
「今日はよろしくお願いします」
原田が冷やかし半分に声をかけてきたが、啓太は一同に丁寧に挨拶した。技術陣は中継の準備に入るので彼も手伝うことになったが、水上冴子はべったら市の事前取材に向かった。
啓太はまず、御礼の日本酒や社の記念品を持って、アンテナを置いてもらうBビルの管理人を訪れた。そして、念のため、中央警察署から受け取った道路使用許可証を見せ、本日の中継への協力を取り付けた。
このあと、技術陣が中継車から長くて太いケーブルを引く作業を始めた。これをBビルの屋上まで引き上げるのだが、それがけっこう面倒で力のいる仕事なのだ。啓太も手袋をはめ、彼らの後についてケーブル引きの作業を手伝った。
「おう、山本君、よくやってくれた」
原田のねぎらいの言葉を受けて、啓太は近くの公衆電話から下地遊軍デスクに電話をかけた。
「中継の準備は済みましたが、夕刊ニュースの予定は決まりましたか?」
「うん、もちろんやるが、時間は1分20秒ということだ」
「えっ、1分20秒・・・1分30秒ではないのですか?」
「う~ん、1分20秒だな。今日はけっこうローカルニュースが多いんだよ」
下地がニュースデスクとやり合ったことは間違いないが、最初の予定の1分30秒は無理だという。
「そうですか、仕方がないですね」
わずか10秒とはいえ、予定の時間を短縮されたことに啓太は気落ちした。が、やるしかない。ニュース原稿の10秒は大した時間ではないが、“生中継”の10秒短縮は心理的にけっこう響いてくる。たとえ5秒でも10秒でも、時間を確保したかったのだ。
電話を切ると、啓太は冴子の帰りを待った。彼女はべったら市『保存会』の人に会ったり、にぎやかな露店の数々を見て回っているに違いない。 道行く人たちが増えてきたようだが、中継車に気がついて「あ、FUJIテレビが中継するぞ」と声を上げる人もいた。
 
やがて、冴子が啓太のところに戻ってきた。
「どうだった? 保存会の人にいろいろ話が聞けたかな」
「ええ、よく話してくれました」
「インタビューをする人も決めた?」
「はい、べったら漬けの露店の人に予約しておきました」
「うん、ご苦労さん。ただ、中継の時間が1分20秒になったんだよ。だから、生インタビューは無理だな。事前に露店の人やお客さんにインタビューするしかないね」
「まあ、そうですか、分かりました」
啓太の説明に、冴子も少し残念そうな表情を見せた。そんな話をしているうちに、カメラマンと助手の学生アルバイトHが到着したので、4人は事前インタビューを取るために露店の方へ向かった。 
通りにはべったら漬けだけでなく、焼きそばや串焼き、おでんに餃子、ポテトなど数多くの食べ物店が並んでいる。予約しておいたべったら漬けの店に着くと、冴子は店の人にインタビューを始めた。
啓太は側で聞いていたが、彼女の質問や“突っ込み”は的確で歯切れが良い。このあと、冴子は客や見物人のインタビューに回ったが、啓太は打ち合わせのため中継車に戻った。
「なかなかいい祭りだな。さて、放送時間は決まったの?」
原田がすぐに聞くので啓太は答えた。
「ええ、1分20秒だそうです」
「なに、1分20秒だって!? 短かすぎじゃないか、2分ぐらい欲しいよ」
「ええ、そう思いますが、もう決まったと下地さんが言っています」
「あの下地は“押し”が足りないんだよ。生中継が1分20秒じゃやる気がなくなるよな」
原田は同期の下地デスクのことを批判した。啓太も原田の言うことにはまったく同感だが、ここは諦めざるを得ない。
「仕方がないですね、僕も短いと言ったんですけど。さあ、カメラワークなどをやりますか」
 
啓太が促すと原田も同意した。そこで、宝田恵比寿神社をバックにレポートする想定で、周囲の露店などにカメラをパンする段取りをつけた。また、別のカメラで生(なま)の雑感をフォローする準備も整えた。
こうしてカメラワークが終わるころに、事前インタビューを行なった冴子たちが戻ってきた。その映像は中継車から本社に伝送され、本番に向けての態勢は完了したのである。
すると、原田がぼやくように言った。
「これだけ中継の準備をしておいて、もし“ボツ”になったらやり切れんな」
「やめてくださいよ、そんなことは考えもしないことです」
啓太は少しムッとして答えたが、もし大きな事件や事故が起きたらこんな中継は無くなるのが当然だ。べったら市などは軽いトピック(話題)なので、ニュースの重要性から言ったら“穴埋め”みたいなものである。
彼は事件や事故が大好き(?)だが、この時ばかりは放送までに大事件などが起きないように祈った。それは勝手な願望だろうが、中継がこんなに手間がかかり面倒なことだと初めて知ったからである。
「ハッハッハッハ、冗談だよ、君はすぐ本気にするんだな」
からかい半分に言った原田だが、そのあとすぐに真顔(まがお)になった。
「遅いな・・・ 今日の弁当は何なの?」
「焼き肉弁当ですよ、12人分は注文してあります。間もなく届くでしょう」
弁当のことになると急に真剣になる原田を見て、啓太はおかしくなった。
「そうか、焼き肉か、まあいいだろう」
そう言うと原田は中継車を降り、技術陣のスタッフを連れて最後の下見に恵比寿神社の方へ向かった。
啓太は冴子と2人きりになると、なぜかほっとした気分になり声をかけた。
「君は中継レポートは初めてだったね?」
「ええ、報道の仕事は初めてです」
「そうか、でも落ち着いているね。安心するよ」
 
冴子は無言だったがにこりと笑ったので、啓太は図に乗って言った。
「君は小柳ルミ子に似ていない? おっと、ごめん。君のほうが年上だし、もちろん知的だがね」
「まあ、そうですか、そんなことは言われたことがありません」
「いや、そういう感じがしただけなんだ。気にしないでね」
「小柳ルミ子さんが好きなんですか?」
「うん、まあ・・・」
啓太はあいまいに答えたが、可憐な愛くるしさでは、冴子は歌手の小柳ルミ子によく似ていると思った。そのころ、小柳は『わたしの城下町』という歌が大ヒットして、一躍 若者たちのアイドルになっていたのである。
「彼女は宝塚(音楽学校)の出身だけあって、歌唱力も容姿も素晴らしいですね」
今度は冴子が小柳を持ち上げたので、啓太は釣られるように言った。
「ほら、夏のヤクルトジョアのCM、彼女の水着姿は格好良くて可愛かったな。あのCMにはいつも見とれていたよ。あんまり見つめるので、うちの妻は変な顔をしていたね。妬(や)いていたのかな、ハッハッハッハ」
「まあ、山本さんはこの春 結婚したばかりでしょ、報道のY君から聞きましたよ」
「いやいや、あまりしゃべらない方がいいな、僕のボロが出てしまうね」
そんな話をしているうちに、中継の下見に行っていた原田たちが帰ってきた。
「よし、もう大丈夫だ。それにしても、弁当が遅いな」
「いや、もうすぐ着きますよ」
原田はすぐに弁当のことを言う・・・ 啓太はそう思いながら、内勤ニュース班の担当者と話すため、近くの“公衆電話”のところに行った。電話をかけると担当の梶原が出てきたので、彼はすでに伝送した映像の“素材”などについて打ち合わせをした。
こうして放送の準備がすべて終わったころ、時間は午後5時半ごろになっていた。啓太が中継車に戻ると、ちょうど12人分の弁当が届いたばかりである。弁当は単車(オートバイ)に乗った若者が届けたのだ。
夕方の『ホームニュース』は5時50分から始まる。全部で10分の枠だが、CMを除く本編は8分30秒程度だ。このうち6分は全国ニュースで、残りの2分30秒がローカル枠になっている。そのローカル枠の後半に、中継を1分20秒で収めなければならない。
啓太はフロアディレクター役(時間出しなど)の学生アルバイトと、最後の打ち合わせに入った。
 
それが終わって彼が中継車に戻ると、時刻はニュースの10分前になっていた。啓太はほっと安堵した。この時間になると、どんな大きな出来事が起きようとも、中継自体が無くなるということはあり得ないからだ。
とんでもない事件が起きても、速報の“一言”で済む。ローカル枠に影響はないのだ。彼は原田と一緒にディレクター席に座り、ニュースの時間を待った。生カメラのモニターを見ると、スタンバイする水上冴子レポーターの姿が映っている。彼女は落ち着いてリラックスしているようだ。
やがて5時50分、『ホームニュース』が始まった。
「今日は大したニュースがないようだな」
テレビ画面を見ながら原田が声をかけてきたが、啓太は相手にしなかった。一応、オンエア中である。ニュースの時間は静かに集中しなければならない。そういう習性が報道マンには付いているのだ。
やがて全国ニュースの枠が終わると、ローカル枠が始まった。
「あと1分ぐらいで中継に入る。よろしく」
啓太がインカム(インターカム)を通して連絡すると、現場の学生アルバイトが「はい」と答えた。
ローカルのトップで都内の交通事故のニュースをやっていたが、それが終わると、キャスターが「べったら市」のリード部分を読み出した。
「間もなく入るぞ!」
啓太が現場に連絡した直後に、テレビ画面に水上レポーターの顔が映し出された。
「はい、こちらはべったら市が行われている中央区日本橋の宝田恵比寿神社の前です・・・」
水上冴子が顔いっぱいに笑顔を浮かべ、明るい声でレポートを始めた。
 
彼女ははじめに、江戸時代から続くべったら市の歴史などに簡単に触れたあと、浅漬けの大根を麹(こうじ)や砂糖に漬けて発酵させた「べったら漬け」の意味を説明した。 
そして、露店の人やお客さんに話を聞いてみましたと言うと、そこで事前にインタビューした録画が報道スタジオから流されたのである。インタビュー部分は全部で30秒弱、それが終わるとまた、冴子が本日のべったら市の模様などを現場からレポートした。
生中継は予定通り1分20秒で切り上げられ、あとはスタジオのキャスターが締めて『ホームニュース』は終了した。
「やれやれ、終わったか、ご苦労さん」
原田が周りに声をかけると、一斉に「お疲れさま」などと声が上がる。啓太もインカムを通して学生アルバイトに声をかけたあと、中継現場に赴いた。
「やあ、お疲れさん。レポート、とっても良かったよ」
冴子に話しかけると、彼女は「ありがとうございます」と嬉しそうに頭を下げた。
「このあと、どうするの?」
「そうですね、あの露店の人にお礼を言って、少し見て回ったあと帰ります」
「そうか、じゃあ、僕もその露店まで行ってみよう。そのあとは中継の後片付けを手伝わなければならない」
「えっ、後片付けも手伝うのですか?」
「うん、そうしないと原田デスクに怒られてしまうよ、ハッハッハッハ」
そんな話をしながら、2人は仕事から解放された気分で、インタビューをした露店の店主のところへ向かった。日が暮れるにしたがって、べったら市は客や見物人でますます賑わってきた感じだ。仕事終わりのサラリーマンやアベックたちの姿も目立つ。
その露店に着くと、冴子と啓太は主人にお礼を言った。
「わたし、べったら漬けを買って帰ります」
そう言うと、冴子は店主に声をかけていたが、やがて“皮つき”のものを500円で買った。皮つきの方が“皮なし”より沢庵っぽい味がするという。
「良かったね、じゃあ、ここで別れよう」
啓太はそう言ったが、すぐそのあとで付け加えた。
「今日の反省会じゃないが、近いうちにお茶でも飲もうよ。どう?」
「ええ・・・」
冴子は少しあいまいに答えたが、啓太はその様子が満更でもないと感じた。

彼女と別れてから、彼は中継車に戻った。
「さあ、中継を撤収するぞ。そのあとメシだ」
原田がそう言うとみんなを引き連れ、アンテナなどを設置したBビルへと向かった。啓太は撤収を手伝うとともに、ビルの管理人にも挨拶しなければならない。管理人室に入ると、Tさんが笑いながら迎えてくれた。
「先ほどテレビを見ましたよ。べったら市の雰囲気が伝わってきて良かったですね。それにしても、テレビ中継というのは大がかりですな、ハッハッハッハ」
打ち解けて話すTさんにお礼を言ったあと、啓太は技術スタッフが進める撤収作業を手伝った。アンテナ外しは彼らに任せ、太くて長いケーブルの撤去に取り組んだ。作業が終わるころ下地デスクに連絡し、啓太は局に上がらず直接 帰宅することにした。 そして、最後にみんなで“焼き肉弁当”を食べて解散したのである。(続く)
 
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