矢嶋武弘・Takehiroの部屋

83歳のジジイです。
SNSが歴史をつくる、SNSの時代がやって来た! 

『べったら市と可愛い女子アナ』(後編)

2024年12月12日 03時44分52秒 | 文学・小説・戯曲・エッセイなど
その夜、啓太が南浦和のアパートに帰ると、妻の春江が少し恥ずかしそうに声をかけてきた。
「最近、ちょっと太ってきたから体操教室へ通っていいかしら」
「えっ、体操教室だって?」
啓太が問い返すと、春江は東京・渋谷のM教室に通いたいと言う。彼女は最近、たしかに太めになった感じがする。啓太は別に気にも留めなかったが、若い女性はなにかと気にするのだろう。レッスン代はそんなに高くないようだ。
「ああ、いいじゃないか、やってみな」
彼は気軽に返事をして晩飯の食卓についた。しかし、夕方の焼き肉弁当のお陰であまり空腹ではない。ビールを飲みながら軽い夜食となった。すると、夕方のニュースを見た春江が声をかけてきた。
「今日のべったら市は面白そうだったわね。ああいうお祭りに私も行ってみたいわ」
「うん、人出も多かったし賑わっていたな」
「あの新人の女子アナも感じが良かったわね。水上さんって言ったかしら」
春江が水上冴子のことに触れたので、啓太は一瞬 戸惑った気分になった。
「うん、なかなか落ち着いていいレポートをしていたな。将来性があるよ」
彼は何食わぬ顔つきで答えたが、内心は少し動揺していた。春江になにか見透かされているようで、それ以上は何も答えなかった。啓太が“美女好み”であることは春江もよく知っている。新婚生活の中でも、彼は時々 本性をさらけ出すことがあるのだ。
2人はべったら市の話を切り上げ他の話題に移った。
「来年の春には新築の一戸建てに移りたいな」
啓太が最近言ってきたことを繰り返した。
「でも、お金の方は大丈夫ですか?」
「うん、この前言ったように、会社から借りられることは間違いない。Sさんもほとんど全額 融資を受けたよ」
Sさんというのは、啓太が懇意にしている報道部の先輩だ。
「そうですか、それならありがたいけど」
春江は満更でもない表情を見せた。彼女は実家に近いこのアパートが気に入っていたが、新築のマイホームは“新妻”の夢でもある。当然、啓太の考えに賛同したのだろう。
「さあ、風呂にでも入るか」
彼はそう言うと、夜食を切り上げて風呂場に向かった。風呂場と言っても、トイレと共同のスペースにある小さなものだ。ここに入ると、いつも専用の所が欲しくなる。そうするとマイホームを手に入れたくなるのだ。
啓太は風呂に入りながら考えた。水上冴子をお茶に誘ったのはいいが、それだけではどうも物足りない。思い切って食事に誘おうか、いや、夜のデートがいいかななどと考えていた。
しかし、結論が出るわけではない。冴子との話し合いでどうなるかだ。彼は風呂から上がると、何食わぬ顔をして春江とベッドの中にもぐり込んだ。秋も深まってきたのでなんとなく肌寒い。2人は身を寄せ合って一夜を過ごしたのである。
 
翌日、啓太がいつものように遊軍班の席に着くと、下地デスクがすぐに声をかけてきた。
「山本君、ネタがないんだよ。上野動物園にでも当たってくれないか。動物の話題ならなんでもいいよ」
「えっ、動物の話ですか・・・」
啓太が意外に思っていると、同じ遊軍班で同期の今村直樹が笑いながら言った。
「なにもない時は、動物園に行けって言うじゃないか。しょうがないよ」
「今村は相変わらず物価高や景気の話を追いかけているのか?」
「うん、きょうも経団連や総評に行くんだ」
彼は経済の話を中心に取材を進めている。それぞれ分担があるが、啓太の場合はトピックスのような“ヒマネタ”が多い。べったら市の中継もその一つだった。
「分かりました。さっそく、上野動物園に当たってみます」
啓太はあまり面白くなかったが、下地に承諾の返事をした。彼はすぐに動物園に電話をかけ、飼育係の責任者につないでもらって取材の交渉を始めたのである。
その結果、午後1時過ぎに上野動物園へ行き、サルやオランウータンなど霊長類の飼育係責任者から話を聞くアポを取った。啓太はまず話を聞いてから、できれば霊長類の赤ちゃんや子供の面白いネタを見つけたいと考えたのだ。
午前中に時間ができたので、彼はアナウンス室に電話をかけ水上冴子と話したいと思った。遊軍班はけっこう自由気ままに振る舞える。啓太は報道部の一番奥のところへ行き、人目に付かないよう社内電話をかけた。
ところが、その時間は冴子はCMの担当で席を外していた。この当時は、新人アナウンサーがCMの提供スポンサー名をいちいち読み上げていたのである。こうして30分近くたっただろうか、啓太はもう一度 アナウンス室に電話をかけた。
「もしもし、報道の山本ですが、水上さんをお願いします」
すると、今度は冴子がすぐに電話口に出てきた。
「お待たせしました、水上です」
「山本です。この前はご苦労さん、べったら漬けはどうだったかな?」
「ええ、いただきました、美味しかったですよ。母も喜んで食べていました。母の“大好物”ですから」
冴子に500円で買ったべったら漬けのことを聞いたのだが、彼女はなんの淀みもなく明るく答えた。
「それは良かったね、僕も買えばよかったか、ふっふっふっふ」
啓太は思わず含み笑いをすると、すぐに冴子の都合を聞いた。
「来週のはじめにも一緒に食事にでも行かない? どうかな」
「ええ・・・」
冴子は返事に詰まったようでしばらく答えなかった。
「いや、四谷(よつや)か新宿の近場で軽く食事をするだけだよ。いいでしょ」
啓太が“追い打ち”をかけると冴子がようやく答えた。
「ええ、いつがいいですか?」
「あなたの都合が良い日で・・・たとえば、月曜か火曜はどうかしら」
しばらく考えて彼女が答えた。
「それなら、26日の火曜日なら大丈夫だと思います」
「そう、それじゃ、26日の火曜日にしよう。場所はその日に連絡するよ、どうもありがとう」
デートの約束が案外とスムーズに決まり啓太はほっとした。しかし、次の注意事項だけは忘れない。
「でも、なにか大事件などが起きたら、その日は駄目だな」
「ええ、分かっています」
報道部員として当然のことを彼は付け加えた。
「それじゃ、26日ということで。楽しみだな」
そう言って啓太は電話を切った。冴子にやや“戸惑い”の様子を感じたが、手応えは十分にあったと思う。彼は安堵して遊軍班の席に戻った。

午前中は上野動物園の下調べをしたが、とにかく飼育係に話を聞かないとなんとも仕様がない。啓太は今村たちと社員食堂で昼食を取ったあと、車で動物園へ向かった。
霊長類の飼育係責任者は長谷川さんと言って、がっしりした体格の中年の男性である。啓太はざっくばらんに動物たちのことを聞いていった。
「動物の赤ちゃんや子供で、人気者や面白いものはありますか?」
「う~む、霊長類ではオランウータンの赤ちゃんですかね。チンパンジーの子供もいますが、人気となると今一(いまいち)かな・・・」
「霊長類で足りなければ、哺乳類全体を見てどうですか?」
「私は哺乳類全体を見ているわけではないですが、最近、キリンが赤ちゃんを出産しましたね。あとはその係りに聞いてみないと分かりません」
啓太はこのあともいろいろ質問したが、意外に動物は子供を産んでいないと思った。
「人間に比べて少ないですね」
「ええ、動物は交尾期が決まっているし、オスメスの相性がありますからね」
そこで、啓太は口を滑らした。彼の悪い癖である。
「人間よりも動物の方が“高尚”な感じがしますね。人間はいつだって、相手が誰だって交わることができるんですから。フランス人なんか毎日やってるそうですよ」
「ハッハッハッハ、あなたは面白いことを言いますね」
長谷川さんは大笑いをしたが、哺乳類のことを担当飼育員からくわしく聞くと言って自室に戻っていった。そして、15分ほどするとまた彼が現われてこう言った。
「ヒョウ(豹)の赤ちゃんもいますよ。最近、購入したばかりです。あとはクジャク(孔雀)の子供ぐらいかな・・・」
なんとか取材ができる状況になってきた。啓太は翌日の午前中から、カメラマンを連れて伺いたいと申し込んだ。取材はすぐに了承されたので、彼は長谷川さんにお礼を言って動物園を後にしたのである。
社に戻った啓太が下地デスクに報告すると、翌日は土曜日だったが、夕方のニュースで取り上げたいという。
「明日もネタが不足しているようだな。内勤の連中から頼まれているんだ」
「分かりました。明日の夕刊に入れましょう」
そう答えて、啓太はこの日 早めに帰宅した。
 
すると、春江が待ち構えていたように言う。
「明日、本太(もとぶと)の家に行きませんか? お義母(かあ)さんがさっき電話をしてきたの」
「明日は仕事が入っちゃった。上野動物園へ行かなければならないんだ」
「そう、じゃあ、あなたから本太へ電話をしてね」
「うん」
そう答えると、啓太はすぐに実家に電話をかけた。なんでも愛媛にいる親戚からミカンが送られてきたので、分けてあげようということだが、日曜日に取りに行くと母に言って彼は電話を切った。
「ミカンにかこつけて、たまには実家に帰ってこいということか・・・だいぶ帰っていないからな」
そう言って啓太は苦笑いした。母が新婚ほやほやの息子夫婦を気づかうのは分かるが、あまり電話をかけてこられるのは少し迷惑だ。何かあればもちろん連絡するのにと思っていると、春江が急に声をひそめて言った。
「あの~、2階の人は今日も大喧嘩をしていたわ。声がびんびんと響いてきたの。わたし、少し怖くなった」
「またか・・・」
啓太の部屋の真上(2階)には中年の夫婦らしい男女が住んでいるが、よく喧嘩をするのだ。時には夜中に激しい怒声が飛び交い、物を投げるような音がするのでとても迷惑している。春江の話では、昼間に“別の男”のような人物が出入りし、なにか複雑な男女関係があるようだ。
もしかしたら“ヤクザ”の関係者かと2人はいぶかったが、中年の男女の素性はもちろん分からない。気味が悪いのでできるだけ見て見ぬ振りをしているが、これも原因で、啓太は早く一戸建てのマイホームに移り住みたいと思っていた。
「この前、人事部の人に聞いたら、会社はマイホームへの融資を拡大すると言っていたよ。来年の春には融資額が1人・200万円ぐらいに増えるそうだ。その頃を見計らって家を買いたいな」
啓太が正直にそう言うと、春江が半信半疑の表情を見せた。
「もちろん、銀行からの融資も受けるさ。そうでないと金が足りない。なんとかなると思うけど」
「でも、会社ではマイホームの希望者が多いのでしょ? この前、あなたが言ったように抽選になるとか」
「もちろん希望者が多い。結局、抽選かな・・・あるいは、過去に申し込んでいる人を優先することも考えられる」
マイホームの話だと2人は熱心になるが、それ以上話しても埒(らち)が明かない。啓太は話を変えた。
「これから銭湯に行くよ。帰ったら晩飯だ」
そう言うと、彼は近くの公衆浴場へ出かけた。アパートの湯船は狭すぎて、ゆっくりと入浴した気分になれないのだ。啓太は銭湯が好きだが、春江はあまりそれを好まなかった。
 
翌日、啓太は家を出ると上野動物園へ直接向かった。カメラマンはすでに手配していたので、彼と現場で落ち合い、そのまま長谷川さんのいる事務所へ行ったのである。
「動物の取材なら楽でいいですね」
「さあ、いい絵(え)が撮れるかな」
若いカメラマンの岸田が言うので、啓太はそれを牽制するように答えた。
「きっといい取材ができますよ」
2人ににこやかに声をかけると、長谷川さんはすでに説明した動物の所へと彼らを案内していった。始めは霊長類がいるエリアだ。彼が一(いち)押ししたオランウータンの赤ちゃんはたしかに可愛かった。生まれて間もないので母親に絡みついている。
岸田がその模様を丹念に撮影すると、次はチンパンジーの子供たちだ。長谷川さんはあまり勧めなかったが、2匹の子供はあちこちに飛び回り少しもじっとしていない。岸田は撮影にかなり手間取っていた。
その間、啓太は長谷川さんからいろいろ説明を聞き、メモ帳に記していく。こうして霊長類の動物の取材が終わると、今度は哺乳類全体のエリアに回った。ここでの“一押し”は生まれたばかりのキリンの赤ちゃんだ。
啓太は飼育係から話を聞いてメモをしていく。次にヒョウの赤ちゃん、クジャクの子供たちを取材すると昼過ぎになった。
「いろいろありがとうございました。今日の夕方のニュースで放送する予定です」
啓太は長谷川さんに丁寧にお礼を述べ、岸田と一緒に上野動物園を後にした。2人が会社に着くと、整理デスクの北野が待ち構えていたように言う。
「夕刊は1分20秒ぐらいだな。使う絵を決め、原稿をまとめておいてくれ。あとは内勤班のメンバーが処理するから。休日出勤でご苦労さん」
土曜の休日出勤なので、映像の構成や粗(あら)原稿を仕上げたら啓太は退社することにした。この時間なら、家に帰ってもゆっくりとニュースが見られる。 
彼は昼食後に映像を見たが、やはりオランウータンとキリンの赤ちゃんが可愛いのでメインに据え、あとは動物の子供たちを適当に見せることにした。映像の構成が終わると粗原稿を書き、あとは内勤班のメンバーに任せて退社したのである。
 
帰り道に啓太は曙橋のN喫茶店に立ち寄った。時間があるので少しくつろぎたかったのだが、この店は以前、労働組合騒動の時などによく利用した。元社員の木内典子とも何度か会った所である。
コーヒーを飲みながら、啓太はそうした思い出にふけった。数年前の出来事が鮮やかに脳裏によみがえってくる。すると木内典子の思い出が、いつしか水上冴子の幻影に変わった。
そうだ、俺はいま冴子に惹かれている。彼女にデートを申し込んだではないか。あれはどうなるのか・・・ 来週の火曜日、俺は冴子を誘ったのだ。必ず実行に移そう。その思いがにわかに強まって、啓太は他の全てのことが眼中にない気持になった。
彼はN喫茶店を出ると、いつもどおり地下鉄と国鉄を乗り継いで南浦和駅に着いた。夕暮れが近い。彼がアパートに帰ると、これまでの思いは全て消え去った。そこには春江がいるのだ。なにか“現実”に戻った感じがする。
「土曜日だもの、早めに帰ったよ。何かあった?」
啓太が声をかけると、春江は笑みを浮かべながら答えた。
「西堀(にしぼり)からも、三重のナシが届いているからと話があったのよ。でも、明日は本太へ行くでしょ、そう言っておいたわ」
「うん、明日は本太だな、久しぶりだもの」
西堀というのは春江の実家がある所だが、三重県の親戚から毎度のことナシが送られてきたのだ。お裾分けをするから来ないかという話だが、明日は本太へ行く約束をしている。
「ミカンとナシか。僕はナシのほうが好きだが、西堀は来週 行こうよ。果物、果物だね、実りの秋ってわけだ、ハッハッハッハ」
啓太は笑って受け流し、それから春江に上野動物園の話をした。
「夕方のニュースで動物園のをやるよ、見なくちゃ」
「それは楽しみね」
春江はそう答えると、お使いに行くと言って出ていった。啓太はぼんやりとFUJIテレビの画面を見ていたが、そのうちハッと気がついた。CM放送のところで、間違いなく水上冴子の声が聞こえる。
彼女も今日は出勤なのか・・・ そう思うと、余計に冴子のことが身近に感じられる。やがて、春江が惣菜などを抱えて帰ってきた。彼女が夕飯の支度をしているうちに、ニュースの時間がやって来た。
「ねえ、一緒に見ようよ」
啓太が声をかけると、春江も手を休めてテレビの前に座った。やがて、上野動物園の模様が画面に現われる。
「あら、可愛いわね~」
動物たちの一挙一動に春江が思わず声を上げたので、啓太も十分に満足した気持になった。
 
翌日の午後、啓太と春江は駅前の売店で菓子の詰め合わせを買い本太の実家を訪れた。父の国義と母の久乃が喜んで迎えてくれたが、国義は最近 病気がちでなんとなくやつれた感じである。
「体は大丈夫? 少しやせたみたいだね」「いや、大丈夫だ、庭仕事に精を出しているよ」
啓太が聞くと国義は問題ないという顔付きで答えたが、どこか不安を覚える。
「今日は国雄もあとで来るそうよ、さっき電話があったの」「えっ、兄さんも・・・」
久乃が言うので啓太はやや当惑した。兄の国雄が来ると一人でしゃべりまくるので、啓太夫妻はいつも“刺身のつま”にされる感じなのだ。兄は春江のことをあまりよく思っていない。それもあって、彼女も国雄を敬遠しているのだ。
ちょっと面倒なことになるかなと啓太は思ったが、久しぶりに実家に来たので早々に帰るわけにはいかない。兄が来たら適当に引き払うことにして、啓太は両親との雑談にしばらく時を過ごした。
やがて国雄が現われた。
「よお、元気でやってるか? 春江さんも変わりないね」
ざっくばらんな彼は2人に声をかけると、すぐに会話の中心に陣取った。国雄はひと通り自分の家族の話をすると、今度は勤務する社会福祉団体のことにまで触れていく。そういう話はあまり興味がないので、両親も啓太たちも無言で反応を示さなかった。
すると、国雄は急に話題を変えて啓太に聞いてきた。
「どうだ、子供はまだできないのか?」「うん、まだだね」
啓太が答えると国雄がさらに続ける。
「励まないといかん、励まないと」
これには答えようがなく啓太は苦笑した。隣の春江もばつの悪そうな感じだ。国雄の“あけすけ”な物言いは慣れているとはいえ、春江と一緒にいるとハラハラする時がある。啓太はそろそろ引き上げ時かなと思っていると、国雄がなおも続けた。
「お前が“養子”に入る話はどうなったの? 俺はどちらでもよいと思っている」
「そんなのまだ決めてないよ」
啓太夫妻にとって最も重要な問題を、国雄がいとも簡単に聞くので啓太は逃げるように答えた。実は春江は姉との2人姉妹なので、実家の小林家に養子縁組するかという話が前から出ていた。これは国義・久乃の両親にとっても最も関心がある事柄なので、あえて国雄が聞いてきたのだろうか・・・
「まあ、いいじゃないか、ゆっくり決めればいいことだ」
中に入るように国義が言葉を挟んだ。この問題はあまり詰めたくないので会話は他に移ったが、啓太には最も気になる話なのだ。それからしばらくして、彼は春江をうながして退出することにした。
親戚から届いたミカンだけは受け取り2人は家路についたが、養子縁組の話が出たことで、啓太はなにか気が重い感じになったのである。
 
翌日の月曜日はいつもどおりの出勤で、これといった出来事はなかった。週に1回、遊軍班のメンバーが内勤班の手伝いをすることになっていたが、啓太はその担当でニュース原稿を数本 書いた程度で終わったのである。
明くる26日(火曜日)は、啓太が水上冴子とデートの約束をしていた日だ。彼は職場に着いた午前中からなんとなく落ち着きがない。彼女をまず連れて行く四谷の小料理店は決めていたものの、同僚たちにはあまり勘づかれたくないのだ。
いつごろ冴子に電話をしようかと迷っていると、午後になって今村直樹が啓太に声をかけてきた。
「山本、今夜は空いている?」「え、なに?」
「水戸(みと)の吉村さんが契約更改で、もうすぐ社に上がってくるそうだ。帰りに一杯やろうかと、さっき電話が入ったよ。どうだ、付き合わないか?」
「うん・・・でも、今夜は先約があって駄目なんだ。残念だな」
啓太は仕方なくそう答えた。吉村さんというのは水戸在住のフリー・カメラマンで、毎年 FUJIテレビと取材契約を更改しているのだ。その彼が上京したついでに、仕事上 関係のある遊軍班とも一杯やろうということだが、啓太は冴子とのデートがあるため断わった。
今村も残念そうな素振りを見せたが、それ以上はなにも言わなかった。彼が席を外したあと、頃合いを見て啓太はアナウンス室に電話をかけた。すると、同期の森末太郎が電話口に出てきて、すぐに水上冴子を呼び出してくれた。
「やあ、山本です。お元気ですか?」「はい」
啓太の問いかけに彼女は素直に答えたが、低い声でどこか当惑しているような感じだ。
「約束の日が来たね。まず僕の知ってる店へ行こうよ、いいかな?」
啓太は努めて明るい声で呼びかけた。当然、冴子は彼の申し出を受けるだろうと・・・ ところが、彼女の返事は意外なものだった。
「いえ、申し訳ないですが、今日は別の会合の予定が入ったのです。キャンセルしてもらえますか?」
啓太は唖然として言葉が出なかった。キャンセルするなら、事前に連絡をくれたらいいではないか・・・ すると、冴子が言う。
「申し訳ありません。どうしても外せない会合なので」
「どんな会合なの?」
「どんなって・・・外せない会合なのです!」
冴子の声は凛として高まった。啓太はそれ以上 話す気持になれなかった。
「分かった、分かりました、もう結構です」
それだけ言うと、彼は乱暴に受話器を切った。
 
冴子にデートを断られて啓太はがっくりと落ち込んだ。今さら吉村さんとの会合に行く気にもなれず、退社すると彼はそのまま帰路についた。
自分は冴子に嫌われたのか・・・ いや、警戒されているのだろう。女子アナと見るとすぐに声をかける俺の“悪い癖”が、アナウンス室で取り沙汰されているに違いない。啓太はそう思い、仕方がないと諦めた。
軽々しく彼女たちに声をかけるのはやめよう。悪い評判が立つだけだと自戒しながら、彼は電車を乗り継いで川口駅のところまで来た。すると急に寄り道をしたくなり、啓太はそこで下車した。
時々立ち寄る駅前の居酒屋に入ると、顔見知りの店主が笑顔で迎えてくれる。そこはゆっくりとくつろげる気持の良い店なのだ。啓太はビールなどを注文して、店主と雑談を交わした。店には愛想の良い若い女のお手伝いさんもいる。
1時間余りそこにいると、啓太は嫌な気分もほぐれて店を出た。しかし、混んだ電車に乗ると、冴子に断られた時の模様がまた蘇ってきた。彼女は別の会合の予定が入ったと言ったが、あれは本当なのだろうか。
どんな会合なのか言わなかったので、もしかすると嘘かもしれない。自分とのデートをキャンセルするための言い訳だったのでは・・・ そんな思いが去来すると、啓太はまた憂うつな気分に陥った。
せっかく川口の店で気分転換をしたというのに、彼は落ち込んだまま南浦和駅で下車した。10月末の大気はけっこう肌寒く感じる。うつむき加減で歩いているうちに、啓太は馴染みのレコード店のところに来た。
すると、立て看板にある小柳ルミ子の姿が変わっている。また、新しい歌でも出すのかと思ったが、もう見る気がしない。彼は以前 冴子に対し「君は小柳ルミ子に似ているね」と言ったことが、かえって重く心にのしかかってきたのだ。
アイドル歌手の立て看板を避けるようにして、啓太は自宅のアパートにたどり着いた。気を取り直すようにして玄関に入る。
「お帰りなさい、遅かったわね」
「うん」
「晩御飯は?」「食べたよ」
春江の呼びかけにそっけなく答えると、彼女はすぐに続けた。
「きょう、大変だったのよ。上の階でまた大喧嘩があったの」
「えっ、またか」
真顔(まがお)になった啓太に春江が説明を始めた。それによると、昼過ぎにヤクザっぽい男が2階の部屋を訪れ、住人の女と喧嘩になったそうだ。単なる言い争いならいつものことだが、今日は物が壊れるような激しい音がして、尋常ではなかったという。
「だから、私はすぐに大家さんにこのことを報告したわ。上の階の人に注意して欲しいって」
「そうか・・・」
 
啓太は春江の話を聞いて、マイホームを手に入れたいという気持がますます強くなった。このアパートから早く出たいのだ。2階の住人とは直接のトラブルはないが、ヤクザっぽい男が出入りするのはやはり気持が悪い。
「来年には会社から融資を受けて、新築の家に移りたいね」
「ええ」
啓太の考えに春江はもちろん賛同している。来年には会社のマイホーム融資枠が200万円に拡大するそうだが、希望者が大幅に増えることも予想され、200万円の満額を受けられるかどうかはまったく分からない。
もし融資枠が減らされたら、両方の実家から借金するしかないか・・・ そんなことまで考える今日このごろだ。しかし、月額2万2千円の家賃は家計をかなり圧迫している。啓太の毎月の手取りは7万円程度なのだ。
新築のマイホームに住めば生活費や借金の返済は大変でも、“夢と希望”が確実にふくらむではないか。そして、待望の子供が生まれるかもしれない。2人の愛の結晶だ。
そんなことを考えていると、春江が声をかけてきた。
「あなた、明日から週2回、渋谷のM体操教室に通います。いいですね」
「うん、分かった」
この件はすでに了解済みだ。そう答えると、啓太はすぐに風呂に入った。いろいろ考えることが多いが、なんとかなるだろう。
余計な考えごとは気持を乱すだけではないか。そう思っていたが、なぜか水上冴子の幻影がまた浮かんでくる。
啓太はそれを振り払うようにして、風呂から上がった。明日の仕事の予定は特になかったな? そう思いながら、彼は新妻が待つベッドにもぐり込んだ。10月も末になると、夜はなんとなく寒い。さあ、春江との愛を育もう。
「いいかい?」
啓太が問いかけると彼女は黙ってうなずいた。枕元の明かりを消すと、2人は愛の営みを始める・・・ その夜は幸い、2階の騒がしい物音はなかった。(完)

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