矢嶋武弘・Takehiroの部屋

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「ちょっとだけよ」の限定容認論

2015年02月14日 09時58分02秒 | 政治・外交・防衛

<以下の文を復刻します>

集団的自衛権の論議を聞いていたら、昔、ドリフターズの加藤茶が「ちょっとだけよ」と言って大うけしたコントを思い出した。はじめは何でも「ちょっとだけよ」で始まる。卑近な例が、若い彼が愛を求めると、はじめは彼女は「ちょっとだけよ」と言って、軽いキスしか認めない。しかし、それがだんだんエスカレートして、やがて抱擁からディープキスや愛撫へと発展し、最後はセックスで完了するのだ。
若い恋人はそれで良いかもしれない。2人はそれで幸福になれば結構なことだが、政治や経済、防衛などはそうはいかない。最も代表的な例が“赤字国債”である。たしか昭和40年に1年限りの限定で発行された。これもはじめは「ちょっとだけよ」の気持で発行されたのだが、やがてどんどんエスカレートして、いまや何百兆円だかの巨大な“借金”に膨れ上がった。財政赤字の最たるものだ。
このように、集団的自衛権の限定容認も、はじめは「ちょっとだけよ」の気持で自衛隊の任務拡大を認めれば、やがて必ずエスカレートしていくことは目に見えている。それが世の中の“成り行き”というものだ。人間というのは弱いもので、世の流れや趨勢になかなか逆らえない。戦前の日本では、わざわざ「不拡大方針」を閣議で決めても、戦争は拡大し、戦線は伸びていったのである。それを見れば明らかだ。
戦前と戦後は違うというかもしれないが、戦後はもっと巧妙になっている。たしかに“シビリアンコントロール”はある。戦前のように、軍部の独走ということはあり得ない。しかし、例えば「国際協力」とか「国際貢献」というのは何だろうか。一見して、国際協力や国際貢献は良いことだ。
しかし、日本の協力や貢献は、はっきり言って「同盟国」に対するものだけではないか。対アメリカ、つまり対米協力・対米貢献だけである。それで良いという人も大勢いるだろうが、私は決して良いとは思わない。ここから先はそれぞれの価値観で違ってくるから、論争するのは止めよう。日本の安全保障や防衛政策は別の所でやれば良い。
要は「ちょっとだけよ」の気持で集団的自衛権を認めれば、その解釈はおのずと拡大し、限定といっても必ず“歯止め”が効かなくなる恐れがあるのだ。水は小さい穴から流れ出す。それがやがて拡大し、最後は堰でも堤防でもぶっ壊すのだ。集団的自衛権の限定容認は、“無限容認”の第一歩だと受けとめた方がいい。


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