ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『関心領域』を観て

2024年06月21日 | 2020年代映画(外国)

『関心領域』(ジョナサン・グレイザー監督、2023年)を観てきてから1週間が経ってしまった。

第2次世界大戦下のポーランド・オシフィエンチム郊外。
アウシュヴィッツ強制収容所を囲む40平方キロメートルは、ナチス親衛隊から関心領域と呼ばれた。
収容所と壁を1枚隔てた屋敷に住む所長とその家族の暮らしは、美しい庭と食に恵まれた平和そのもので・・・
(映画ナタリーより)

きれいな屋敷と庭園。
アウシュビッツ強制収容所所長・ルドルフ・ヘスと妻、そして乳飲み子を含めた5人の子供にとっての居心地のよい生活環境。
時には、家の近くのソラ川の川沿いで、家族揃って乗馬やピクニックをする。
穏やかな日々。
ただ、家のすぐ横の塀の向こうにあるのは強制収容所という事実。
そこから何か聞こえてくるのは、微かな怒鳴り声や叫び声らしきもの。
そして青く澄み切った空の向こうからの黒っぽい煙。
そんな状況の中でも、家族にとって塀の向こう側のことは関心がなく、ただただ幸せ一杯の日常である。

作品は、アウシュビッツ強制収容所の実態は描写せず、ルドルフ・ヘスの家庭の幸福な一面を見せることによって、その悲惨な状況格差を表現しようとする。
ただ、そのような暗示的表現が観客にとって心にストンと落ち込んできて情動化されるのかというと、少し疑問も残る。
それは多分、塀の向こうの暗喩を表現するために、こちら側の家庭の幸福を強調しようとする監督の奇をてらう方法が見えてしまうためではないか。

この作品によって、また一つアウシュヴィッツ強制収容所関係ものを観たという思いと共に、少しシックリ来なかった後味も残った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『人間の境界』を観て

2024年06月08日 | 2020年代映画(外国)

『人間の境界』(アグニエシュカ・ホランド監督、2023年)を観た。

「ベラルーシを経由してポーランド国境を渡れば、安全にヨーロッパに入ることができる」という情報を信じ、
幼い子どもを連れて祖国シリアを脱出した家族。
やっとのことで国境の森にたどり着いたものの、武装した国境警備隊から非人道的な扱いを受けた末にベラルーシへ送り返され、
さらにそこから再びポーランドへ強制移送されることに。
一家は暴力と迫害に満ちた過酷な状況のなか、地獄のような日々を強いられる・・・
(映画.comより)

中東やアフリカからの移民・難民たちがベラルーシ・ミンスク空港に降り立つ。
その中の、幼い子供2人と乳飲み子、年老いた父親もいるシリア人夫婦の一家。
そして、飛行機の中で知り合ったアフガニスタンの女性。

時は2021年10月。
シリア人一家を含めた難民たちがベラルーシ西側にある森林の鉄条網からポーランド側に入る。
しかし、ポーランドに来た喜びの難民たちの前に立ち現れる国境警備隊。

強制的に再度、ベラルーシ側に送り返される難民たち。
その扱いは非人道的で物扱いである。
そしてベラルーシ側も見つけた者を片っ端らにポーランド側に送り込む。
凍てつく国境付近の森の中を右往左往する難民たち。
食べ物もなく水さえ手に入らない。
国境警備隊員にお金を差し出し、やっと手にできると思ったペットボトルの水は、その警備隊員が目の前で地面に流す。

この作品は4つの章に分かれていて、まず「難民」側、そして「国境警備隊」側、次に「難民支援者」、
続いて「難民と遭遇した女性精神科医が支援者」として自覚していく様子。
そしてラストに「エピローグ」が付く。

このように多角的視点からの物語を、メリハリの効いたモノクローム映像で表出されるため、正しくドキュメンタリーそのものと錯覚するほどの緊迫感を醸し出す。
そして驚くのは、このような完璧な作品を僅か1ヶ月以内の撮影で行なったということ。
私がこの作品に衝撃を受けるのは、難民の苦悩は当然のこととして、国境警備隊員の自分の任務に対する疑問、苦悶。
人道支援者が難民を救助しようとしても、その立ち入り禁止区域内に入れば自分が逮捕されるため十分に活動ができないということ。

ポーランド政府は、このような国境近くに立ち入り禁止エリアを設けることによって、難民を宙ぶらりんの状態に置く。
それをこの作品はえぐり出し、問題提起する。
そして痛烈な政権批判として、「エピローグ、2022年2月26日」で、政府が人道支援として隣国ウクライナから2週間で200万人もの難民を受け入れ、
国境警備隊員たちはウクライナ難民に対して良き人たちだった事実を描く。

ではなぜ、ベラルーシが大量の難民を受け入れると見せかけポーランドに送り込んだのかの現実問題は、勿論背景があるがここでは省略したい。

『太陽と月に背いて』(1995年)、『ソハの地下水道』(2011年)の題名は聞いて知っていても、これらがこのアグニエシュカ・ホランド監督作品とは知らなかった。
覚えておこうと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『戦雲(いくさふむ)』を観て

2024年05月13日 | 日本映画

『戦雲(いくさふむ)』(三上智恵監督、2024年)を観てきた。

与那国島、石垣島、宮古島、沖縄本島 ──
この美しい島々で、日米両政府の主導のもと急速な軍事要塞化が進行している。
自衛隊ミサイル部隊の配備、弾薬庫の大増設、基地の地下化、そして全島民避難計画・・・

2022年には、「台湾有事」を想定した大規模な日米共同軍事演習「キーン・ソード23」と安保三文書の内容から、
九州から南西諸島を主戦場とし、現地の人々の犠牲を事実上覚悟した防衛計画が露わになった。
しかし、その真の恐ろしさを読み解き、報じるメディアはほとんどない。
全国の空港・港湾の軍事拠点化・兵站基地化が進められていることをどれほどの日本人が知っているか。
本当の「国防」とは何か。
圧殺されるのは沖縄の声だけではない。
(「戦雲」チラシより)

この作品は、三上智恵監督が2015年から8年かけて沖縄・南西諸島を取材したドキュメンタリーである。

与那国島では、町に何も知らされないままミサイル基地建設が決まり、戦車やPAC3積載車が公道を走る。
石垣島では、若者主導の住民投票運動は市政に潰され、ミサイル基地が島の真ん中にできた。
宮古島では、集落の程近くにミサイル基地、射撃訓練場を備えた弾薬庫も完成した。
沖縄本島では、島々に配備されたミサイル基地統括本部がまもなく完成、民間の港が次々と軍事訓練に使われている。
(これも、チラシより)

日本の最西端に位置する島々、先島諸島。
そこでは、粛々と確実に基地整備がされて来ている。
当初、島に自衛隊が来ることによる経済効果も期待した人もいたが、結果、効果なんてなかった。
素朴な風景の美しい島の穏やかな生活が変化してくる。
反対運動を持続させる島の人々。
矢面に立たせられるのは自衛隊員であり、悲しいかな、彼らは何の権限も持っていない。

「台湾有事」の場合時の南西諸島を主戦場とする防衛計画。
いざと言う時、狙われるのは基地のある島々である。
島民を守るためと言いながら、戦争気配になった場合のために全島民の島外退出計画をしている。
現実的には、国は島民および、ひいては国民を守る気はサラサラないとしか思えない。
威嚇のために着々と進めている戦争設備。
今の世界を見てもわかるように、そのようなことをして仮想敵を刺激して何をしようと考えているのか。

悲しいかな、このような作品を観なければ情報に接することができない日本とは何か、と考えさせられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『オッペンハイマー』を観て

2024年04月08日 | 2020年代映画(外国)

『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督、2023年)を観てきた。

1926年、ハーバード大学を最優秀の成績で卒業したオッペンハイマーは、イギリスのケンブリッジ大学に留学するが、
そこでの環境や実験物理学に嫌気が差して、ドイツのゲッティンゲン大学に留学する。
留学先で出会ったニールス・ボーアやヴェルナー・ハイゼンベルクの影響から理論物理学の道を歩み始める。

1929年に博士号を取得した彼はアメリカに戻り、若く優秀な科学者としてカリフォルニア大学バークレー校で教鞭を取っていた。
オッペンハイマーは自身の研究や活動を通して核分裂を応用した原子爆弾実現の可能性を感じており、
1938年にはナチス・ドイツで核分裂が発見されるなど原爆開発は時間の問題と考えていた。

第二次世界大戦が中盤に差し掛かった1942年10月、オッペンハイマーはアメリカ軍のレズリー・グローヴス准将から呼び出しを受ける。
ナチス・ドイツの勢いに焦りを感じたグローヴスは原爆を開発・製造するための極秘プロジェクト「マンハッタン計画」を立ち上げ、
優秀な科学者と聞きつけたオッペンハイマーを原爆開発チームのリーダーに抜擢した・・・
(Wikipediaより一部抜粋)

この作品、観てから1週間も経ってしまった。
その間、感想を書こうと思いあぐねているうちにズルズルになってしまった。
要は、作品主題に対して軽々しく扱えないなとの思いも関係している。
だから今回は内容に触れず簡単に記しておしまい。

オッペンハイマーとは、歴史上どのような人物だったのか。
クリストファー・ノーランがこの人物に込める考えが力強くヒシヒシと伝わってくる。
その点、凄い作品と言っていいかなと思う。
ただ悲しいかな、会話劇を私は字幕で読まなければいけない。
画面は見ているが、半分は字幕を見て内容を理解する。
本を読む場合、気になったところは立ち止まって反芻できるが、映画はどんどん進行してしまって待ってくれない。
それが3時間続くので緊張感の連続であった。
だから正直言って、この作品を十分に納得いくように理解できたのか心許ない、との思いが残った。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』を観て

2024年03月26日 | 日本映画

『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』(井上淳一監督、2023年)を観てきた。

1980年代。
時代も人も変わった。シラケ世代と言われ、熱くなることがカッコ悪いと思われていた時代。
ビデオが普及し始め、映画館から人々の足が遠のき始めた時代。
それに逆行するように、若松孝二は名古屋にミニシアターを作る。
その名はシネマスコーレ。ラテン語で「映画の学校」。

支配人に抜擢されたのは、結婚を機に東京の文芸坐を辞め、「これからはビデオの時代」と地元名古屋でビデオカメラのセールスマンをやっていた木全純治だった。
木全は若松に振り回されながらも、持ち前の明るさで経済的危機を乗り越えていく。

そこに吸い寄せられる若者たち。まだ女性監督のほとんどいなかった時代。
金本法子は「自分には撮りたいものなんか何もない」と言いながら、映画から離れられない。
田舎の映画青年だった井上淳一もまた映画監督になりたい一心で若松プロの門を叩く。
己れの才能のなさを嫌でも自覚させられる日々。それでも、映画を諦め切れない。
救いは、木全が度々口にする「これから、これから」という言葉。 
今がダメでも次がある。涙だけじゃない。そこには笑いがある。絶望だけじゃない。希望がある・・・
(公式サイトより)

【シネマスコーレ】


開館当時のオーナーは映画監督でもある若松孝二である。
若松は「若い映画製作者が自分の思うような映画を作っても、現実的にメジャー作品を配給する映画館ではそれを上映することが難しい」と考え、
場を提供することを目的として映画館を作りたいと考えていた。
当初は東京の新宿に映画館を開館させる予定だったが、条件の合う土地やビルがなく断念せざるを得なかった。
若松は知人が保有する名古屋駅西側のビルを借り、1983年(昭和58年)2月19日にシネマスコーレを開館した。
支配人として、池袋文芸座にいた「木全純治」が就任し、若松亡き後も館を守り続けている。
(Wikipediaより)

すっごくいい映画を観た、と感激してしまった。
内容は公式サイトからの引用にあるように、若松孝二が名古屋で映画館を作り、それに携わる人達の青春群像。
若松孝二と言えば、数々の作品がある中で私にとって青春時代の神様。
それは以前、ブログ“「ピンク映画」、そして若松孝二へ”に書いたとおりである。

この作品内容のシネマスコーレの話を、当の“シネマスコーレ”で観る。
出演者は俳優が演技するとしてもすべて実在の人達。
その一人、当の劇場に入るためのキップを売っているのが実際の木全純治さん。

「では、肝心の作品の出来は」となるが、ひいき目を抜きにして素晴らしい。
勿論、作品の中で会話される監督等の人物のことが理解できるということもある程度影響しているかもしれないが、文句なしである。
満足して、会場を後にする時、出て来た人たちを見送る木全さんのほんのり笑顔にほだされて、井上淳一監督ほかのサイン入りパンフレットも記念に買った。
パンフレットと言えば、最近はよく、ネットで読める“公式サイト”に誰かの対談、解説ぐらいでお茶を濁してあるのが多い中で、
このパンフレットは値打ちなうえに、120ページ近くもある正しく本に近い代物。
おまけに、近頃見かけないシナリオまで付いていたりしていたりつくせりである。

思い返すと、シネマスコーレができた当時、若松孝二が名古屋に映画館を作るとはどういう意味だろうと不思議な気がした。
それでもマイナーで気になる作品が係ると観に行ったりして、その後、この作品の筋にもあるようにピンク映画がかかるようになって足が遠のいたりもしたが、
それ以降、中国映画の特集を重点的に組んだりしてアジア作品を観るなら“スコーレ”で、という案配になって今に続く。
私はシネマスコーレにとっての決していい観客ではないかもしれないが、それでも色々なミニシアターの経営が危ぶまれているなか、どうか頑張ってほしいと影ながら祈らずにはいられない。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『哀れなるものたち』を観て

2024年03月05日 | 2020年代映画(外国)

『哀れなるものたち』(ヨルゴス・ランティモス監督、2023年)を観てきた。

不幸な若い女性ベラは自ら命を絶つが、風変わりな天才外科医ゴッドウィン・バクスターによって自らの胎児の脳を移植され、奇跡的に蘇生する。
「世界を自分の目で見たい」という強い欲望にかられた彼女は、放蕩者の弁護士ダンカンに誘われて大陸横断の旅に出る。
大人の体を持ちながら新生児の目線で世界を見つめるベラは時代の偏見から解放され、平等や自由を知り、驚くべき成長を遂げていく・・・
(映画.comより)

奇想天外なお話。
だって、河に投身自殺した女性ベラを「フランケンシュタイン」と同じようにゴッド(ゴッドウィン)は蘇生させたんだから。
その方法は、死んでいるベラの脳と生きていた自分の胎児の脳を入れ替えるやり方。
ゴッドの実験研究は、弟子マックスに記録させてベラのその後の成長過程を調べること。
と言うわけで映画の始まりは、身体は大人でも行動は幼児のベラのおこない。

そんなベラだが、徐々に物事を覚え、家の中だけの体験だけでは飽き足らず外界を知りたいと思うようになっていく。
その外界の世界へ、と話は進んでいく。
それと同時に困ったことに性の快感も覚えて突き進むこと。
だからこの作品はエロ・グロで成り立っている。
そこのところが、上品な人には抵抗感がある内容かなとも思う。
私自身は面白かったが、そこまでやるの、という気は確かにしたりもした。

この監督、ランティモスは以前に『ロブスター』(2015年)を観て、変わった作品を作るなぁとは感じたが、今回は映像マジックも加味されてそれに輪をかけた内容だった。
それを表現すると、常識を外されずっこけて深い穴に落ち込んでしまったと錯覚するような感じだった。
だから、傑作だとか駄作だとかの基準じゃなくって、映画は想像からはみ出す作品があるからとっても面白いなと感じた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ゴジラ-1.0』を観て

2024年03月02日 | 日本映画
やっと、『ゴジラ-1.0』(山崎貴監督、2023年)を観てきた。

戦後の日本。
戦争によってすべてを失い、文字通り「無(ゼロ)」になったこの国に、追い打ちをかけるように突如ゴジラが出現し、その圧倒的な力で日本を「負(マイナス)」へと叩き落とす。
戦争から生きて帰ってきたが、両親を失い孤独の身になった青年・敷島は、焼け野原となった東京で、赤ん坊を抱えた若い女性・典子と運命的な出会いを果たす。
彼ら戦争を生き延びた名もなき人々が、ゴジラに対して生きて抗う術を探っていく・・・
(映画.comより)

評判がいいから今でも上映しているこの作品、遅ればせながら観てきた。
前提として、“ゴジラ”だから当然ワクワク感の期待があった。
しかし、正直言って評判ほどの素晴しさは感じられなかった。
なぜだろう。
まず、出演者の演技過多、感情表現過多、これらを見せられるとどうもネと退いてしまう。
だって、自然体の上手いあの安藤サクラでさえ、オーバーな演技をして、チョット頼むワとなってしまった。
そればっかりかドラマ部分が弱くって、大袈裟な悲壮感を振りかざしてくれるし、一昔前の根性ものらしき内容を見せられてもねェ、と言うのが正直な感想。
それでもなぜか飽きずに観せてくれるところは立派。
それはやはり“ゴジラ”を観るという期待感がこちらにあったからだろうか。

クライマックスでのゴジラとの対決に流れる、あの「ゴジラのテーマ」曲。
その場面での盛り上がり感には最高に痺れた。そんな“ゴジラ”映画でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『落下の解剖学』を観て

2024年03月01日 | 2020年代映画(外国)
『落下の解剖学』(ジュスティーヌ・トリエ監督、2023年)を観てきた。

人里離れた雪山の山荘で、男が転落死した。
はじめは事故と思われたが、次第にベストセラー作家である妻サンドラに殺人容疑が向けられる。
現場に居合わせたのは、視覚障がいのある11歳の息子だけ。
証人や検事により、夫婦の秘密や嘘が暴露され、登場人物の数だけ<真実>が現れるが──。
(公式サイトより)

死亡した男性は、事故か、自殺か、他殺か、その不審死の真相を求めての法廷劇。
そこで暴かれるのは、仲睦まじそうにみえた夫婦の間柄。
考えてみれば、多少似たような夫婦間は世間では有りそうなことである。
それが裁判にかかるとプライベートな事実を容赦なく剥き出しにされる。
 
この作品を観て思うのは、物証のない裁判はいかに陪審員を説得させるかに係ってくるかということ。
ここで言う陪審員とは観客である。
その人たちを前にして、弁護士、検事それぞれは弁論の力量によって裁判の行方を左右しようとする。
この弁論が双方とも素晴らしく、そこに証人も加わるから、観ている方は、実際の裁判に参加していると錯覚するほどのめり込んでしまう。
それ程、作品内の人物が生きている。
中でも容疑者サンドラを演じるザンドラ・ヒュラーが素晴らしく、今後忘れられない存在になるのではないかと思う。
それと特筆はスヌープ役の犬。詳しく書けないが、生身の犬を使ってどうやって撮影したのか不思議でならない。

それにしても、価値ある作品を一気に観させられたと感心するばかりだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『瞳をとじて』を観て 

2024年02月24日 | 2020年代映画(外国)
『瞳をとじて』(ビクトル・エリセ監督、2023年)を観てきた。

映画「別れのまなざし」の撮影中に主演俳優フリオ・アレナスが失踪した。
当時、警察は近くの崖に靴が揃えられていたことから投身自殺だと断定するも、結局遺体は上がってこなかった。
それから22年、元映画監督でありフリオの親友でもあったミゲルはかつての人気俳優失踪事件の謎を追うTV番組から証言者として出演依頼を受ける。
取材協力するミゲルだったが次第にフリオと過ごした青春時代を、そして自らの半生を追想していく。

そして番組終了後、一通の思わぬ情報が寄せられた。
「海辺の施設でフリオによく似た男を知っている」・・・
(公式サイトより)

ミゲルとフリオは若い頃、海軍の兵役仲間であり、当時ミゲルが治安紊乱罪で逮捕されると、無関係だったフリオも同居していたために連行された。
そのような間柄の映画監督ミゲルと俳優フリオ。
そのフリオが、映画「別れのまなざし」の撮影中に失踪してしまって22年。

未解決事件を扱うTV番組に証言者として出演するかつての映画監督、ミゲル。
フリオはなぜ失踪したのか。
その疑問を解き明かせないかとミゲルは過去の記憶を探る。
そして、TV番組プロデューサーのマルタからフリオの娘アナの電話番号を教えてもらい、アナと会う・・・

静謐な会話劇、その中で時間はゆったりと流れていく。
結局、フリオの情報は思わぬところからもたらされる。

フリオの現状に戸惑うミゲル。
この辺りから、映画的内容はより濃密となって凝縮されていく。
失踪以降のフリオの人生はいかなるものだったのか、そして失踪そのものの原因はなんだったのか。
それは他人にはわからないし、もはや本人でもわからないはずだ。

この作品は、監督エリセが言うように、正しく“アイデンティティと記憶”をテーマとしていて内容が深い。
『マルメロの陽光』(1992年)から実に31振りの作品。
『ミツバチのささやき』(1973年)から僅か3本の長編しか残していないビクトル・エリセである。
同時代的にエリセを観てきた私にとって、『エル・スール』(1983年)の感想のところでも書いたように待ちに待った作品である。

ラストのフリオの顔に、重い感動に襲われ、観てよかったと感慨深いものが溢れた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『夜明けのすべて』を観て

2024年02月21日 | 日本映画
『夜明けのすべて』(三宅唱監督、2024年)を観てきた。

PMS(月経前症候群)のせいで月に1度イライラを抑えられなくなる藤沢さんは、会社の同僚・山添くんのある行動がきっかけで怒りを爆発させてしまう。
転職してきたばかりなのにやる気がなさそうに見える山添くんだったが、そんな彼もまた、パニック障害を抱え生きがいも気力も失っていた。
職場の人たちの理解に支えられながら過ごす中で、藤沢さんと山添くんの間には、恋人でも友達でもない同志のような特別な感情が芽生えはじめる。
やがて2人は、自分の症状は改善されなくても相手を助けることはできるのではないかと考えるようになり・・・
(映画.comより)

PMSのためにイライラし怒りを爆発させる藤沢さんは前の職場でも居づらくなり、今では顕微鏡や天体望遠鏡を製造販売している家内工業的な会社に勤めている。
そこに後輩として勤めだした山添くんはパニック障害の持ち主。
二人は最初、馴染めない同士の相手だったが、時が経つに連れそれぞれの病気を理解するようになり、互いに思いやるようになる。

登場する人物みんながいい人で、藤沢さんも山添くんも苦しい症状を抱きかかえているけれども、映画そのものは穏やか。
そして、観ている側としてはPMSやパニック障害について、少しでもより多く理解が深まっていく、そんな風な勉強にもなる作品でした。
それと、出てくる人たちがみんな自然体の演技で、特に萌音ちゃんがとっても素晴らしくって、ついつい引き込まれてしまった。
これは監督三宅唱のなせる技だなと、つくづく感心させられもしました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする