ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『正体』を観て

2024年12月04日 | 日本映画

『正体』(藤井道人監督、2024年)を観てきた。

日本中を震撼させた凶悪な殺人事件の容疑者として逮捕され、死刑判決を受けた鏑木が脱走した。
潜伏して逃走を続ける鏑木と日本各地で出会った沙耶香、和也、舞そして彼を追う刑事・又貫。
又貫は沙耶香らを取り調べるが、それぞれ出会った鏑木はまったく別人のような姿だった。
間一髪の逃走を繰り返す343日間。彼の正体とは?
そして顔を変えながら日本を縦断する鏑木の【真の目的】とは・・・
(公式サイトより)

2時間一気に観れて、かつ面白かった。
演出が上手いせいか、カメラワークが力強く、出演者もそれぞれ役にはまっていて引き込まれる。

と、観た直後は手放しで褒めちぎりたい思いだったが、観て二日後、ちょっと冷静に考えてみた。
内容は、高校生だった死刑囚・鏑木が逃亡し、行く先々で他人と個人的に関わる。
その先々では、もう仕事をしていて仕事探しの苦労は出て来ず省略されている。
完全なサスペンスでもなく、社会劇を追求しているわけでもないからそれはそれでいいとしても、
鏑木の“真の目的”があからさまになった後からのラストまでの過程が余りに単純というかスッキリし過ぎている。
最近、袴田巌さんのそれこそ長きに渡る再審無罪が確定した事件と比べると、チョット安易過ぎるのではないかと思えてしまう。

まあ、そうは言っても上質な娯楽映画として楽しめました。 

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忘れ得ぬ作品・13~『誓いの休暇』

2024年11月28日 | 1950年代映画(外国)

『誓いの休暇』(グリゴリー・チュフライ監督、1959年)を再度観た。

若い兵士アリョーシャは戦場で思わぬ武勲を立て、特別に6日間の休暇を与えられる。
往復だけで4日かかる故郷の母のもとへ向かうアリョーシャだったが、お人よしの彼は道中で人助けのために貴重な時間を費やしてしまう。
ようやく貨物列車に乗り込んだアリョーシャは、そこでシューラという少女に出会う。
2人は惹かれ合い、束の間の幸せな時間を過ごすが・・・
(映画.comより)

町に通じ、誰もが通るこの道からアリョーシャはもう戻って来ない。
そんな出だしからアリョーシャのことの回想が始まる。

通信兵のアリョーシャは、戦場で、九死に一生を得る思いで、敵の戦車を2両、対戦車銃で撃破する。
そして、その勲功により、自分の希望した故郷の母の元へ帰る休暇を認められる。
道中、見知らぬ兵隊から妻への伝言を頼まれたり、駅では、除隊した傷病兵を手助けし付き添ったりもし時間が過ぎる。

途中、哨兵に缶詰で買収し、軍事物資の輸送列車に乗り込む。
列車は走り続け、アリョーシャが干し草の間で横になっていた時、一旦停車した列車はまた走り出す。
その間に、アリョーシャの貨車に一人の少女がこっそり乗り込んで来た。
少女シューラはそこに男がいることに驚き、走る列車から飛び降りようとする。

この作品はベータ版のビデオで長い間保存していた。
元はNHKからの録画だったと思う。
その録画テープはいつの間にか紛失し、ベータ・デッキも随分前から故障したままである。
観ることが出来ないとなると、最近無性にもう一度観たくなって、とうとうDVDを購入した。

物語のメインとなる、アリョーシャとシューラの貨物列車の中でのやり取り。
アリョーシャを警戒するシューラが少しずつ心を開いていく。
そして、徐々に心を通わせていく二人。その初々しさ。
だが、やがて別れはやって来る。
その過程は、当時観た時の印象のままに繰り広がれる。
本当に、心奥底まで染み込んでくるような柔らかさと映像の力強さ。

冒頭からアリョーシャがもうこの世にいないことが判っている。
だから母の哀しみがヒシヒシと伝わる。
そればかりか、別れたアリョーシャとシューラはどんな奇跡を願っても、もうこの世では会えない。

『誓いの休暇』(Ballad of a Soldier)/1959/予告編 (YouTubeより)

戦争は悪である。
そんなことはわかりながらも、現在も非道なことを大義名分を持って行なう権力者がのさばっている。
その独裁的権力者の配下で、自国民も相手国民も非権力者は悲劇の対象となっていく。
ソ連の監督チュフライがウクライナ出身であったということは、皮肉な運命の巡り合わせなんだろうか。

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『2度目のはなればなれ』を観て

2024年10月31日 | 2020年代映画(外国)

1週間前になるが、『2度目のはなればなれ』(オリバー・パーカー監督、2023年)を観てきた。

2014年、夏。
イギリス、ブライトンの老人ホームで暮らす老夫婦バーナード(バーニー)とレネは、互いに寄り添いながら人生最期の日々を過ごしていた。
ある日、バーナードはフランスのノルマンディーへ向かってひとり旅立つが、彼が行方不明だという警察のSNS投稿をきっかけに、世界中で大きなニュースとなってしまう。
バーナードとレネが離ればなれになるのは、今回が人生で2度目だった。
決して離れないと誓っていたバーナードがレネを置いて旅に出たのには、ある理由があった・・・
(映画.comより)

バーニーは、団体ツアーで行くノルマンディ上陸作戦の70周年記念式典への申し込み期限をうっかり逃してしまった。
どうしても式典に参加したい彼は、早朝、老人ホームをこっそり抜け出し、ドーバーからフェリーでノルマンディーに渡る。
フェリーでの道中、名門校の校長だったというアーサーが、親切にも、行き当たりばったり出てきたバーニーのために式典チケットやホテルの手配をしてくれ、仲良くなる。

戦中、ノルマンディ上陸に当たっての自分が命令したことによるバーニーの後悔と、その後のトラウマ。
似たような後悔とトラウマをアーサーも抱えている。

ストーリーは、邦題から連想されそうな起伏ある内容ではなく、どちらかと言えば淡々としている。
バーニーとレネの戦中に知り合ったキッカケや、バーニーのノルマンディ上陸時のシーンもフラッシュバック的で深くは追求していない。
それでも退屈しないのは、バーニー役のマイケル・ケインとレネ役のグレンダ・ジャクソンの仲むつまじさがヒシヒシと伝わってくるからである。
それに加えて、この作品が実話に基づいており、かつ、マイケル・ケインの引退作品であり、
グレンダ・ジャクソンが作品完成直後に亡くなっていることを知った上で鑑賞しているので余計、内容が現実味を帯びてくる。
老人施設での人生の最後に当たるバーニーとレネの寄り添うような穏やかな生活は何物にも代えがたいと、観ていて納得する。

そのような老夫婦の物語で思い出すのが、内容の感じは全然違うとしてもヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーンが演じた『黄昏(たそがれ)』(マーク・ライデル監督、1981年)である。
あの作品もヘンリー・フォンダの遺作となってしまって印象深かった。

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『侍タイムスリッパー』を観て

2024年10月13日 | 日本映画

評判が良さそうということで『侍タイムスリッパー』(安田淳一監督、2023年)を観てきて、もう2週間以上にもなってしまった。

時は幕末、京の夜。
会津藩士高坂新左衛門は暗闇に身を潜めていた。
「長州藩士を討て」と家老じきじきの密命である。
名乗り合い両者が刃を交えた刹那、落雷が轟いた。

やがて眼を覚ますと、そこは現代の時代劇撮影所。
新左衛門は行く先々で騒ぎを起こしながら、
守ろうとした江戸幕府がとうの昔に滅んだと知り愕然となる。

一度は死を覚悟したものの心優しい人々に助けられ少しずつ元気を取り戻していく。
やがて「我が身を立てられるのはこれのみ」と刀を握り締め、
新左衛門は磨き上げた剣の腕だけを頼りに「斬られ役」として生きていくため撮影所の門を叩くのであった・・・
(公式サイトより)

観てすぐに記事にすればよいけれど、最近書き出しては途中放棄となる作品が増え、だから下書きだらけになってしまっている。
そういうことで、この作品、観た直後の新鮮な気持ちからは遠ざかってしまっているけれど、一言で言えば、すごく面白かった。

江戸末期の侍・新左衛門が雷に打たれて、気が付けば今のこの現代。
ただ場所が時代劇撮影所だった関係上、本人は当時の時代だと錯覚し勘違いし続ける。
だから、違った服装の人も混じっているので変だなと思いながらもキョロキョロ、ウロチョロウロチョロ。

何と言っても、新左衛門の真面目さの設定がいい。
そして、それに輪を掛けての脚本の上手さ、素晴らしさ。
だから上映時間を忘れてのめり込むほどの楽しさ。
映画館で自然と声を出して笑ったのは久し振りで、思い出しても「フーテンの寅さん」の初期作品以来かもしれない。
そんな愛着を感じるこの作品、余裕があればもう一度観たい。
そしてなにもかも忘れて笑いたい。

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『ぼくが生きてる、ふたつの世界』を観て

2024年09月29日 | 日本映画

『ぼくが生きてる、ふたつの世界』(呉美保監督、2024年)を観てきた。

宮城県の小さな港町。
耳のきこえない両親のもとで愛情を受けて育った五十嵐大にとって、幼い頃は母の“通訳”をすることもふつうの日常だった。
しかし成長するとともに、周囲から特別視されることに戸惑いやいら立ちを感じるようになり、母の明るさすら疎ましくなっていく。
複雑な心情を持て余したまま20歳になった大は逃げるように上京し、誰も自分の生い立ちを知らない大都会でアルバイト生活を始めるが・・・
(映画.comより)

聴覚障がいの人が身近にいないためか、聞こえない親のもとで育った聞こえる子の生活、ひいてはその精神的な負担について考えたこともなかった。
そのことを作品は気付かさせてくれた。
主人公の五十嵐大は、この作品の原作者の名そのもので、自伝的エッセイとして書かれているという。
だから内容的にリアルさがあり、大は小さい頃から、手話による親と世間の橋渡しが当然のように行動していた。
しかし、徐々に自分の家族と世間の家族のギャップを知り、中学生の頃には、親に距離を置くようになっていき反抗的な態度を取るようになる。

大は、自身の家族のことの悩みを打ち明ける機会も相手もほとんどいない。
だから孤独だと思う。
そのためだろう、それを振り払うように東京へ。

この作品で、聞こえない親のもとで育った聞こえる子のことを“コーダ”と言うことを初めて知った。
以前『コーダ あいのうた』(シアン・ヘダー監督、2021年)を観ていても“コーダ”の意味を考えずに通り過ぎていた。
このような“コーダ”が日本には2万数千人いることを今回教えてもらった。

作品の作りそのものも素晴らしく、素直な気持ちで感動させてもらった。
そして、今年のベストワンと言える秀作だと言い切れるほどだなと思った。

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『ソウルの春』を観て

2024年08月31日 | 2020年代映画(外国)

『ソウルの春』(キム・ソンス監督、2023年)を観てきた。

1979年10月26日、独裁者とも言われた大韓民国大統領が、自らの側近に暗殺された。
国中に衝撃が走るとともに、民主化を期待する国民の声は日に日に高まってゆく。
しかし、暗殺事件の合同捜査本部長に就任したチョン・ドゥグァン保安司令官は、陸軍内の秘密組織“ハナ会”の将校たちを率い、
新たな独裁者として君臨すべく、同年12月12日にクーデターを決行する。

一方、高潔な軍人として知られる首都警備司令官イ・テシンは、部下の中にハナ会のメンバーが潜む圧倒的不利な状況の中、
自らの軍人としての信念に基づき“反逆者”チョン・ドゥグァンの暴走を食い止めるべく立ち上がる・・・
(オフィシャルサイトより)

9代大統領の朴正煕が暗殺された後の、イ・テシン首都警備司令官とチョン・ドゥグァン国軍保安司令官がメインの政治劇。
フィクションなのだが歴史的実話を基にしているので、首都警備司令官は張泰玩(チャン・テワン)であり国軍保安司令官は全斗煥(チョン・ドゥファン)となる。

そして、12月12日の夕方からの“ハナ会”を率いての全斗煥の軍事反乱。
正規軍と反乱軍によるソウル攻防。その時間は9時間ほど。
それをこの作品は、アクションシーンをほとんど使わずに緊迫した会話劇で一気に突き進む。

映画の中で、チョン・ドゥグァンの「失敗すれば反逆罪!成功すれば革命だ!」という言葉。
皮肉なことに歴史は、全斗煥の革命が成功したということになって行く。

当時、全斗煥のクーデターニュースを耳にしても韓国の深い実情は知らず、今回、このようなことが起きていたのかと改めて勉強になった。
当然その後、1980年5月の学生・市民の民主化要求に対する武力弾圧“光州事件”となって行くわけだが、そのことも詳しくは知らない。
それらに関する韓国映画もあることだし、これをキッカケに韓国の現代史を知ってみたいと感じた。

この作品に関して欲を言えば、クーデターを起こすほどのチョン・ドゥグァン保安司令官なのでその役ファン・ジョンミンが、もっとドス暗い内面を秘める演技をすると、
ヒシヒシと迫る威圧感と凄みが表現され、圧倒的な存在感が醸し出されるのではないかと感じた。

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グザヴィエ・ドラン・3~『わたしはロランス』

2024年08月26日 | 2010年代映画(外国)

『わたしはロランス』(グザヴィエ・ドラン監督、2012年)を観た。

カナダ・モントリオール。
国語教師をしながら小説を書いているロランスは、35歳の誕生日を迎え、交際相手のフレッドにある告白をする。
それは、自分の身体の性に違和感を持っており女性になりたいと思っているということだった。
この告白にショックを受けたフレッドは、これまでに二人が築いてきたものが偽りであるかのように思えてしまい、ロランスを非難する。
しかしかけがえのない存在であるロランスを失うのを恐れ、フレッドはロランスの良き理解者となることを決意。
ロランスに女性の立場からメイクなどについてアドバイスするが、モントリオールの田舎町では偏見を持たれ、彼らに対する風当たりは強かった・・・
(MOVIE WALKER PRESSより)

カミングアウトするということ。
女性になりたい願望のロランスはフレッドにそのことを打ち明ける。
ただ、ロランスはその願望があっても男性を好きになるわけではなく、女性のフレッドを深く愛している。
ショックを受けるフレッドはロランスを愛するがうえに理解者として努力する。
しかし、女装したロランスに世間の目は冷たい。
それが故に、ロランスは職を失い、やがてフレッドはうつ病となっていく。

やがて二人は別れ、ロランスは理解者シャルロットを得、フレッドは彼氏アルベールと結婚しレオを産む。
そんなロランスとフレッドだが、内心の愛は変わらない。
再会した二人の、雪積もるケベック州の小島“イル・オ・ノワール”への逃避行。

ロランスは自分に正直でありたいのに、フレッドはロランスを男として愛したい。
その葛藤故にまたしても別れ。
数年後、再びバーで再会する二人だったがそこでも口論になり、それが決定打となり、秋の気配の中、完全に別々の道を歩み出す。

ラストでの、1987年の二人の出会いのシーン。
あれから時は経ち、もうすぐ21世紀、その長きに渡るロランスとフレッドの愛の軌道。

作品は2時間50分近くの長さがあるが、その間退屈さを感じさせない。
要所要所に現れるビジュアル化された映像とか、二人の言い合いにおける素早いカメラの動き。
二人が感情を露わにするロランス役のメルビル・プポーとフレッド役のスザンヌ・クレマンの心情表現の凄さ。

監督のグザヴィエ・ドランは、自身が“ゲイ”であることを自認していることもあってか、感情の機微の表し方がとても20代前半の人間とは思えないほど卓越している。
この作品はとても重要だと感じるので、再度機会を見つけて観てみたいと思う。

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『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』を観て

2024年08月03日 | 2020年代映画(外国)

『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』(グレッグ・バーランティ監督、2024年)を観てきた。

1969年、アメリカ。
人類初の月面着陸を目指す国家的プロジェクト「アポロ計画」の開始から8年が過ぎ、失敗続きのNASAに対して国民の関心は薄れつつあった。
ニクソン大統領の側近モーは悲惨な状況を打開するべく、PRマーケティングのプロフェッショナルであるケリーをNASAに雇用させる。
ケリーは月面着陸に携わるスタッフにそっくりな役者たちをメディアに登場させて偽のイメージ戦略を仕掛けていくが、
NASAの発射責任者コールはそんな彼女のやり方に反発する。
ケリーのPR作戦によって月面着陸が全世界の注目を集めるなか、「月面着陸のフェイク映像を撮影する」という前代未聞の極秘ミッションがケリーに告げられる・・・
(映画.comより)

60年代末までに人類初の月面着陸を成功させると、ケネディ大統領が掲げたアポロ計画。
映画は、そのアポロ計画中のアポロ11号にまつわる事柄を、実は極秘でフェイク映像も撮影していたという内容に置き換えたコメディタッチの作品。
そして、ケリーとコールを中心とした二人のラブストーリーは、よくあるアメリカ映画そのものらしい雰囲気。
クライマックスにあたるフェイク映像で行くか実映像で行くかとなる肝心な重要場面では、少し手抜き過ぎているんじゃないかと思うけど、
まあそれもいいかと認めてしまう、そんな中々面白い作品だった。

それにしても実際問題として不思議なのは、当時ソ連と宇宙飛行競争をしていたとしても、現在の段階で再度月面着陸して月の調査をしようとしないことの疑問。
勿論、莫大な国家予算が必要だとしても、あれから50年以上経った今では飛躍的に科学技術は進歩しているはずである。
それを行なおうとしないから、アポロ11号の月面着陸は、この作品を含めフェイク映像でどうのこうの、あれは嘘で、捏造されたと主張される所以だと思う。

これに関連して、映画『カプリコン・1』(ピーター・ハイアムズ監督、1977年)を思い出す。
有人火星探査宇宙船にまつわる話で、ロケットの打ち上げ寸前に故障が発覚。
関係当局は大掛かりなセットを組んで、人類初の火星着陸の中継映像を捏造するというもの。
随分と昔に観たが、あの作品は傑作で面白かったと今でも認識している。

 

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グザヴィエ・ドラン・2~『胸騒ぎの恋人』

2024年07月20日 | 2010年代映画(外国)

『胸騒ぎの恋人』(グザヴィエ・ドラン監督、2010年)を観た。

ゲイのフランシスとストレートのマリーは姉と弟のような親友同士。
ある日、2人は友人らとのパーティで1人の明るく社交的な美青年ニコラと出会う。
フランシスもマリーも口では好みでないと言いながらも、ニコラに一目惚れする。
そんな2人とニコラは友人として親しくなり、3人で遊ぶことも増える。

フランシスもマリーもそれぞれセックスの相手には不自由していなかったが、
無邪気なニコラと親しくなるに従って、ニコラへの想いを募らせて行く。
マリーがニコラに対して積極的なのに対し、フランシスはマリーを気遣ってニコラに対しては遠慮がちであったが、
3人で小旅行に行った先で、ニコラと楽しげに戯れるフランシスに嫉妬したマリーは、フランシスと取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。
その様子を目撃したニコラは、この出来事以降、2人と距離を置くようになる。
そんなニコラへの想いを抑え切れなくなったフランシスとマリーはそれぞれニコラに告白するが、ニコラはきっぱりと拒絶する・・・
(Wikipediaより)

ニコラに想いを寄せるフランシスとマリー、その三角関係の進み具合は、内容的にさして深みがある感じがしない。
でも、飽きなく見せる手腕は評価できるんじゃないかと思う。
映像が時にアートぽかったり、進行テンポも手際よかったりするためだろうか。

映像自体は目新しそうで、いつかどこかで観たような記憶が蘇る。
1960年代のジャン=リュック・ゴダール辺りだろうか。それも昔のことで定かではないが。
そうだ三角関係と言えば、『突然炎のごとく』(フランソワ・トリュフォー監督、1962年)があった。
青年ジュールとジムがジャンヌ・モロー扮するカトリーヌに同時に恋する話だった。
その作品を観たのは10代の時だったので、記憶もあやふやになっている。
ジャンヌ・モローが歌う「つむじ風」ももう一度聴いてみたいので、是非、再度観てみたい気がする。

そんなことを思わせるグザヴィエ・ドランの第2作目作品だった。

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グザヴィエ・ドラン・1~『マイ・マザー』

2024年07月17日 | 2000年代映画(外国)

『マイ・マザー』(グザヴィエ・ドラン監督、2009年)を観た。

17歳の少年ユベール・ミネリはカナダ・ケベック州の何の変哲もない町でごく普通に暮らしていたが、
ここのところ自分の母親が疎ましく思えてどうしようもなかった。
洋服やインテリアを選ぶセンスのなさ、口元には食べカスをつけ、口を開けば小言ばかりと、母親の一挙手一投足が癪に触っていた。
母親を受け入れ難く思う一方、理由もなく苛立ってしまう自分にも嫌気がさしていた・・・
(MOVIE WALKER PRESSより)

観たことがないグザヴィエ・ドランの監督作品を今後観て行こうと思う。
まずは、19歳の時の初監督作品で脚本、主演も兼ねた半自伝的な内容という本作。

青年期特有の現象と言っていいのか、二人暮らしをしているユベールの過剰な母親への反撥。
その鬱屈した母親に対する態度の中には、幼かった頃に注がれていた愛情たっぷりの生活の裏返しが潜んでいたりする。
ユベールは独立して一人生活をしたいのに、まだ子供としてしか認めて貰えず、挙げ句の果ては寄宿学校へ行かされてしまう。
そんなユベールは同性愛者であったりするので、それを他から教えて貰った母親は動転するより仕方がなかった。

親との不和、愛情と嫌悪、それに対するユベールの苦悩が目いっぱいに描かれていて、筋としてはほぼそのことで終わっている。
だから内容の起伏は貧しいとしても、19歳の青年がこれぼどまでに出演者の人間性を生かし切っている現実に感心させられる。
それ程才能がほとばしっている、と言っていいのではないかと納得した。 

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