ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『ANORA アノーラ』を観て

2025年03月10日 | 2020年代映画(外国)

『ANORA アノーラ』(ショーン・ベイカー監督、2024年)を観てきた。

ニューヨークでストリップダンサーをしながら暮らす“アニー”ことアノーラは、職場のクラブでロシア人の御曹司、イヴァンと出会う。
彼がロシアに帰るまでの7日間、1万5千ドルで“契約彼女”になったアニー。
パーティーにショッピング、贅沢三昧の日々を過ごした二人は休暇の締めくくりにラスベガスの教会で衝動的に結婚!
幸せ絶頂の二人だったが、息子が娼婦と結婚したと噂を聞いたロシアの両親は猛反対。
結婚を阻止すべく、屈強な男たちを息子の邸宅へと送り込む。
ほどなくして、イヴァンの両親がロシアから到着して・・・
(公式サイトより)

カンヌやらアカデミー賞で賞をいっぱい取ったので、さぞかし素晴らしいだろうと期待して観に行ってきた。
結果は期待外れだった。
18禁映画だから裸やセックス場面は想定していたのでそのことはいい。
そして演じている俳優たちも役に徹していて雰囲気も素晴らしい。
おまけにコメディぽくもあって場面場面が楽しい。
それでも余り評価できないのは、物語りの内容が単純過ぎて、こちらの思い通りの展開でそれでお終い。
要は筋書きに深みがなくって、だからワクワク、ドキドキ感もなくってこちらは途中で疲れてしまった。
つまり、面白いんだけどチョットなぁというやつ。
そう思って見ていると、上映時間も長くってなぁと感じた。

そんな印象の映画だったので、この作品についてはこれでお終い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『愛を耕すひと』を観て

2025年03月06日 | 2020年代映画(外国)

『愛を耕すひと』(ニコライ・アーセル監督、2023年)を観てきた。

18世紀デンマーク。
貧窮にあえぐ退役軍人のルドヴィ・ケーレン大尉は、貴族の称号を懸け、ひとり荒野の開拓に名乗りを上げる。
しかし、それを知った有力者フレデリック・デ・シンケルが自らの勢力が衰退することを恐れ、ありとあらゆる手段でケーレンを追い払おうと躍起になる。
襲い掛かる自然の脅威とデ・シンケルからの非道な仕打ちに抗いながら、彼のもとから逃げ出した使用人の女性アン・バーバラや
家族に見捨てられた少女アンマイ・ムスとの出会いにより、ケーレンの頑なに閉ざした心に変化が芽生えてゆく・・・
(オフィシャルサイトより)

正直、深く胸に突き刺さる作品だった。

退役軍人であるケーレン大尉は、耕作不能であるとされてきたユトランド半島のヒース(荒地)の開墾を財務省に願い出る。
その広大なヒースの開墾は、貧困な生まれから大尉に登りつめたケーレンにとって貴族の称号に繋がる唯一の道であった。

過酷な自然の脅威と闘いながら不毛な土地と対峙する寡黙なケーレンには、更なる障害が待ち受けることになる。
近隣の領主デ・シンケルが領有権を主張し、行く手を阻んでくる。

前半の重苦しい流れの中で、このまま観ることに耐えられるかと不安もよぎったが、
物語りが、デ・シンケルから逃げてきた元使用人夫婦ヨハネスとアン・バーバラや、
鶏を盗みにくるタタール人の少女アンマイ・ムスが絡みだす辺りから、いつしか時間を忘れてその内容に身を委ねていた。
そして、その後の展開の中で、グイグイとクライマックスに向かって幾重にも重層的に引っ張られていく。

孤独で寡黙な執念の持ち主が愛に目覚め、徐々に人間的な厚みをなしていく様が手に取るようにわかる。
それをマッツ・ミケルセンが演じる。正しく適役である。
マッツ・ミケルセンは『アナザーラウンド』(トマス・ビンターベア監督、2020年)で印象深かったが、この作品によって彼の表情はもう忘れることがないと思う。
こんなに感動できる作品に出会えたことに感謝したい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『セプテンバー5』を観て

2025年03月04日 | 2020年代映画(外国)

『セプテンバー5』(ティム・フェールバウム監督、2024年)を観てから、もう2週間経ってしまった。

1972年9月5日。ミュンヘンオリンピックの選手村で、パレスチナ武装組織「黒い九月」がイスラエル選手団を人質に立てこもる事件が発生した。
そのテレビ中継を担ったのは、ニュース番組とは無縁であるスポーツ番組の放送クルーたちだった。
エスカレートするテロリストの要求、錯綜する情報、機能しない現地警察。
全世界が固唾を飲んで事件の行方を見守るなか、テロリストが定めた交渉期限は刻一刻と近づき、中継チームは極限状況で選択を迫られる・・・
(映画.comより)

早朝、銃声らしき音が聞こえたABCのテレビカメラクルー。
本来、報道班が行なう報道を、事件発生場所のミュンヘンオリンピック担当班が実況中継を行なうために本国とやり取りし、
そして、事件の全体を把握することができないまま、すぐそこで起きている事実を自分たちの判断で生中継していく。

「黒い九月」によるイスラエル選手団人質テロ事件。
オリンピック開催中での選手団11人が人質となり、この時点で2人が殺害されている。
その歴史的事実の再現。
それをテレビクルーが常駐するコントロールルームの一室を中心に描く。
だから事件そのものの全容は直接見えない。
そこにあるのは、刻々と過ぎていく時間の流れの中の緊迫感。

クルーたちはライブゆえに常に緊張を強いられる。
それを観ている我々観客も同感覚を体験させられ、その空気にドップリと浸かることになる。
そして、一日の時間は瞬く間に過ぎていく。

テロ事件の全世界向け実況生中継。
テレビクルーが行なう実況放送は犯人たちもテレビでそれを見ている。
情報が筒抜けであることに対して、果たして報道の自由とは何か、それに対する責任はどうなるのか、との問題提起が滲み出る。

この作品から受ける感覚は、歴史的事件報道の緊迫したやり取りは十分に堪能できるが、
視点が一室をメインとしているため外で起きている事件の客観性がぼやけ、そこが少し物足りない印象として残る。

それにしても私が20代前半の時のミュンヘンオリンピック。
オリンピックにそんなに興味があったわけでもなかったのか、最悪の結果を迎えることになるこの事件のことは左程印象に残っていない。
後々に、「黒い九月」を扱った『ブラック・サンデー』(ジョン・フランケンハイマー監督、1977年)をビデオで観てから多少関心を持ったが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『大きな玉ねぎの下で』を観て

2025年02月17日 | 日本映画

『大きな玉ねぎの下で』(草野翔吾監督、2025年)を観てきた。

同じ場所にいるのに会ったことがない2人。
丈流(たける)と美優(みゆう)は、 夜はバー、昼はカフェになる「Double」でそれぞれ働いている。
“夜の人”と“昼の人”を繋ぐのは、連絡用の<バイトノート>だけ。
最初は業務連絡だけだったが、次第に趣味や悩みも綴るようになった。
会ったことがないからこそ、素直になれた。
でも実は、2人は顔見知り。しかも、全くそりが合わず関係は最悪。
お互いの素性を知らないまま、2人は大きな玉ねぎの下(武道館)で 初めて出会う約束をするがー。

一方、あるラジオ番組では30年前の文通相手(ペンフレンド)との恋が語られていた。
顔は知らないけど好きな人と武道館で初めて会う約束をして・・・
(映画『大きな玉ねぎの下で』より)

爆風スランプのヒット曲「大きな玉ねぎの下で」(1985年)に影響を受け、イメージをふくらませてこの作品ができたらしい。
今のスマホ時代に、一風時代遅れにみえるノートを媒体としたやり取り、そこんとこが上手に繰り込まれてるなと感心する。

丈流と美優。ある日、別々のグループだけど飲み会で席が横ということがあって知り合う。
でもお互い、印象が良くない。
そんな二人が、相手を知らずに交換ノートをし、徐々にイメージをふくらませ思いを寄せていく。
その片方の美優。演じる桜田ひよりの表情が何とも言えなくってとってもいい。
もう知らず知らずのうちにスクリーンにのめり込み。

片や、昭和から平成に変わる時、文通してる高校生が友だちに代筆をさせてる話が加わる。
それは種を明かせば何と言うことはない、丈流の親のことだったりする。
現在の丈流と美優、過去の丈流の両親。両方とも武道館でのコンサートの約束、さあどうなるのでしょう。

過去と現在のストーリー展開が似ていて、内容が案外こじんまりじゃないの、そういう感じもするけど、何しろ全体の心地良い雰囲気があって許してしまえる。
観てるこっちだって、昔ペンフレンドと文通してたし、次の手紙が来る期待のときめきは知っているから、主人公たちの相手を想う気持ち、よくわかります。

この作品、この年になっても胸キュンの感じになって、とっても好きだなって意識する。
だからあの、流れてくるasmi(アスミ)の甘ったるい声、歌い方、始め気になったけど、そのうち何となく自然と快くなってしまった。
居心地がよくって何度でも観たい映画って、こういう作品だななんてつくづく思ってしまう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『正体』を観て

2024年12月04日 | 日本映画

『正体』(藤井道人監督、2024年)を観てきた。

日本中を震撼させた凶悪な殺人事件の容疑者として逮捕され、死刑判決を受けた鏑木が脱走した。
潜伏して逃走を続ける鏑木と日本各地で出会った沙耶香、和也、舞そして彼を追う刑事・又貫。
又貫は沙耶香らを取り調べるが、それぞれ出会った鏑木はまったく別人のような姿だった。
間一髪の逃走を繰り返す343日間。彼の正体とは?
そして顔を変えながら日本を縦断する鏑木の【真の目的】とは・・・
(公式サイトより)

2時間一気に観れて、かつ面白かった。
演出が上手いせいか、カメラワークが力強く、出演者もそれぞれ役にはまっていて引き込まれる。

と、観た直後は手放しで褒めちぎりたい思いだったが、観て二日後、ちょっと冷静に考えてみた。
内容は、高校生だった死刑囚・鏑木が逃亡し、行く先々で他人と個人的に関わる。
その先々では、もう仕事をしていて仕事探しの苦労は出て来ず省略されている。
完全なサスペンスでもなく、社会劇を追求しているわけでもないからそれはそれでいいとしても、
鏑木の“真の目的”があからさまになった後からのラストまでの過程が余りに単純というかスッキリし過ぎている。
最近、袴田巌さんのそれこそ長きに渡る再審無罪が確定した事件と比べると、チョット安易過ぎるのではないかと思えてしまう。

まあ、そうは言っても上質な娯楽映画として楽しめました。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘れ得ぬ作品・13~『誓いの休暇』

2024年11月28日 | 1950年代映画(外国)

『誓いの休暇』(グリゴリー・チュフライ監督、1959年)を再度観た。

若い兵士アリョーシャは戦場で思わぬ武勲を立て、特別に6日間の休暇を与えられる。
往復だけで4日かかる故郷の母のもとへ向かうアリョーシャだったが、お人よしの彼は道中で人助けのために貴重な時間を費やしてしまう。
ようやく貨物列車に乗り込んだアリョーシャは、そこでシューラという少女に出会う。
2人は惹かれ合い、束の間の幸せな時間を過ごすが・・・
(映画.comより)

町に通じ、誰もが通るこの道からアリョーシャはもう戻って来ない。
そんな出だしからアリョーシャのことの回想が始まる。

通信兵のアリョーシャは、戦場で、九死に一生を得る思いで、敵の戦車を2両、対戦車銃で撃破する。
そして、その勲功により、自分の希望した故郷の母の元へ帰る休暇を認められる。
道中、見知らぬ兵隊から妻への伝言を頼まれたり、駅では、除隊した傷病兵を手助けし付き添ったりもし時間が過ぎる。

途中、哨兵に缶詰で買収し、軍事物資の輸送列車に乗り込む。
列車は走り続け、アリョーシャが干し草の間で横になっていた時、一旦停車した列車はまた走り出す。
その間に、アリョーシャの貨車に一人の少女がこっそり乗り込んで来た。
少女シューラはそこに男がいることに驚き、走る列車から飛び降りようとする。

この作品はベータ版のビデオで長い間保存していた。
元はNHKからの録画だったと思う。
その録画テープはいつの間にか紛失し、ベータ・デッキも随分前から故障したままである。
観ることが出来ないとなると、最近無性にもう一度観たくなって、とうとうDVDを購入した。

物語のメインとなる、アリョーシャとシューラの貨物列車の中でのやり取り。
アリョーシャを警戒するシューラが少しずつ心を開いていく。
そして、徐々に心を通わせていく二人。その初々しさ。
だが、やがて別れはやって来る。
その過程は、当時観た時の印象のままに繰り広がれる。
本当に、心奥底まで染み込んでくるような柔らかさと映像の力強さ。

冒頭からアリョーシャがもうこの世にいないことが判っている。
だから母の哀しみがヒシヒシと伝わる。
そればかりか、別れたアリョーシャとシューラはどんな奇跡を願っても、もうこの世では会えない。

『誓いの休暇』(Ballad of a Soldier)/1959/予告編 (YouTubeより)

戦争は悪である。
そんなことはわかりながらも、現在も非道なことを大義名分を持って行なう権力者がのさばっている。
その独裁的権力者の配下で、自国民も相手国民も非権力者は悲劇の対象となっていく。
ソ連の監督チュフライがウクライナ出身であったということは、皮肉な運命の巡り合わせなんだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『2度目のはなればなれ』を観て

2024年10月31日 | 2020年代映画(外国)

1週間前になるが、『2度目のはなればなれ』(オリバー・パーカー監督、2023年)を観てきた。

2014年、夏。
イギリス、ブライトンの老人ホームで暮らす老夫婦バーナード(バーニー)とレネは、互いに寄り添いながら人生最期の日々を過ごしていた。
ある日、バーナードはフランスのノルマンディーへ向かってひとり旅立つが、彼が行方不明だという警察のSNS投稿をきっかけに、世界中で大きなニュースとなってしまう。
バーナードとレネが離ればなれになるのは、今回が人生で2度目だった。
決して離れないと誓っていたバーナードがレネを置いて旅に出たのには、ある理由があった・・・
(映画.comより)

バーニーは、団体ツアーで行くノルマンディ上陸作戦の70周年記念式典への申し込み期限をうっかり逃してしまった。
どうしても式典に参加したい彼は、早朝、老人ホームをこっそり抜け出し、ドーバーからフェリーでノルマンディーに渡る。
フェリーでの道中、名門校の校長だったというアーサーが、親切にも、行き当たりばったり出てきたバーニーのために式典チケットやホテルの手配をしてくれ、仲良くなる。

戦中、ノルマンディ上陸に当たっての自分が命令したことによるバーニーの後悔と、その後のトラウマ。
似たような後悔とトラウマをアーサーも抱えている。

ストーリーは、邦題から連想されそうな起伏ある内容ではなく、どちらかと言えば淡々としている。
バーニーとレネの戦中に知り合ったキッカケや、バーニーのノルマンディ上陸時のシーンもフラッシュバック的で深くは追求していない。
それでも退屈しないのは、バーニー役のマイケル・ケインとレネ役のグレンダ・ジャクソンの仲むつまじさがヒシヒシと伝わってくるからである。
それに加えて、この作品が実話に基づいており、かつ、マイケル・ケインの引退作品であり、
グレンダ・ジャクソンが作品完成直後に亡くなっていることを知った上で鑑賞しているので余計、内容が現実味を帯びてくる。
老人施設での人生の最後に当たるバーニーとレネの寄り添うような穏やかな生活は何物にも代えがたいと、観ていて納得する。

そのような老夫婦の物語で思い出すのが、内容の感じは全然違うとしてもヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーンが演じた『黄昏(たそがれ)』(マーク・ライデル監督、1981年)である。
あの作品もヘンリー・フォンダの遺作となってしまって印象深かった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『侍タイムスリッパー』を観て

2024年10月13日 | 日本映画

評判が良さそうということで『侍タイムスリッパー』(安田淳一監督、2023年)を観てきて、もう2週間以上にもなってしまった。

時は幕末、京の夜。
会津藩士高坂新左衛門は暗闇に身を潜めていた。
「長州藩士を討て」と家老じきじきの密命である。
名乗り合い両者が刃を交えた刹那、落雷が轟いた。

やがて眼を覚ますと、そこは現代の時代劇撮影所。
新左衛門は行く先々で騒ぎを起こしながら、
守ろうとした江戸幕府がとうの昔に滅んだと知り愕然となる。

一度は死を覚悟したものの心優しい人々に助けられ少しずつ元気を取り戻していく。
やがて「我が身を立てられるのはこれのみ」と刀を握り締め、
新左衛門は磨き上げた剣の腕だけを頼りに「斬られ役」として生きていくため撮影所の門を叩くのであった・・・
(公式サイトより)

観てすぐに記事にすればよいけれど、最近書き出しては途中放棄となる作品が増え、だから下書きだらけになってしまっている。
そういうことで、この作品、観た直後の新鮮な気持ちからは遠ざかってしまっているけれど、一言で言えば、すごく面白かった。

江戸末期の侍・新左衛門が雷に打たれて、気が付けば今のこの現代。
ただ場所が時代劇撮影所だった関係上、本人は当時の時代だと錯覚し勘違いし続ける。
だから、違った服装の人も混じっているので変だなと思いながらもキョロキョロ、ウロチョロウロチョロ。

何と言っても、新左衛門の真面目さの設定がいい。
そして、それに輪を掛けての脚本の上手さ、素晴らしさ。
だから上映時間を忘れてのめり込むほどの楽しさ。
映画館で自然と声を出して笑ったのは久し振りで、思い出しても「フーテンの寅さん」の初期作品以来かもしれない。
そんな愛着を感じるこの作品、余裕があればもう一度観たい。
そしてなにもかも忘れて笑いたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ぼくが生きてる、ふたつの世界』を観て

2024年09月29日 | 日本映画

『ぼくが生きてる、ふたつの世界』(呉美保監督、2024年)を観てきた。

宮城県の小さな港町。
耳のきこえない両親のもとで愛情を受けて育った五十嵐大にとって、幼い頃は母の“通訳”をすることもふつうの日常だった。
しかし成長するとともに、周囲から特別視されることに戸惑いやいら立ちを感じるようになり、母の明るさすら疎ましくなっていく。
複雑な心情を持て余したまま20歳になった大は逃げるように上京し、誰も自分の生い立ちを知らない大都会でアルバイト生活を始めるが・・・
(映画.comより)

聴覚障がいの人が身近にいないためか、聞こえない親のもとで育った聞こえる子の生活、ひいてはその精神的な負担について考えたこともなかった。
そのことを作品は気付かさせてくれた。
主人公の五十嵐大は、この作品の原作者の名そのもので、自伝的エッセイとして書かれているという。
だから内容的にリアルさがあり、大は小さい頃から、手話による親と世間の橋渡しが当然のように行動していた。
しかし、徐々に自分の家族と世間の家族のギャップを知り、中学生の頃には、親に距離を置くようになっていき反抗的な態度を取るようになる。

大は、自身の家族のことの悩みを打ち明ける機会も相手もほとんどいない。
だから孤独だと思う。
そのためだろう、それを振り払うように東京へ。

この作品で、聞こえない親のもとで育った聞こえる子のことを“コーダ”と言うことを初めて知った。
以前『コーダ あいのうた』(シアン・ヘダー監督、2021年)を観ていても“コーダ”の意味を考えずに通り過ぎていた。
このような“コーダ”が日本には2万数千人いることを今回教えてもらった。

作品の作りそのものも素晴らしく、素直な気持ちで感動させてもらった。
そして、今年のベストワンと言える秀作だと言い切れるほどだなと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ソウルの春』を観て

2024年08月31日 | 2020年代映画(外国)

『ソウルの春』(キム・ソンス監督、2023年)を観てきた。

1979年10月26日、独裁者とも言われた大韓民国大統領が、自らの側近に暗殺された。
国中に衝撃が走るとともに、民主化を期待する国民の声は日に日に高まってゆく。
しかし、暗殺事件の合同捜査本部長に就任したチョン・ドゥグァン保安司令官は、陸軍内の秘密組織“ハナ会”の将校たちを率い、
新たな独裁者として君臨すべく、同年12月12日にクーデターを決行する。

一方、高潔な軍人として知られる首都警備司令官イ・テシンは、部下の中にハナ会のメンバーが潜む圧倒的不利な状況の中、
自らの軍人としての信念に基づき“反逆者”チョン・ドゥグァンの暴走を食い止めるべく立ち上がる・・・
(オフィシャルサイトより)

9代大統領の朴正煕が暗殺された後の、イ・テシン首都警備司令官とチョン・ドゥグァン国軍保安司令官がメインの政治劇。
フィクションなのだが歴史的実話を基にしているので、首都警備司令官は張泰玩(チャン・テワン)であり国軍保安司令官は全斗煥(チョン・ドゥファン)となる。

そして、12月12日の夕方からの“ハナ会”を率いての全斗煥の軍事反乱。
正規軍と反乱軍によるソウル攻防。その時間は9時間ほど。
それをこの作品は、アクションシーンをほとんど使わずに緊迫した会話劇で一気に突き進む。

映画の中で、チョン・ドゥグァンの「失敗すれば反逆罪!成功すれば革命だ!」という言葉。
皮肉なことに歴史は、全斗煥の革命が成功したということになって行く。

当時、全斗煥のクーデターニュースを耳にしても韓国の深い実情は知らず、今回、このようなことが起きていたのかと改めて勉強になった。
当然その後、1980年5月の学生・市民の民主化要求に対する武力弾圧“光州事件”となって行くわけだが、そのことも詳しくは知らない。
それらに関する韓国映画もあることだし、これをキッカケに韓国の現代史を知ってみたいと感じた。

この作品に関して欲を言えば、クーデターを起こすほどのチョン・ドゥグァン保安司令官なのでその役ファン・ジョンミンが、もっとドス暗い内面を秘める演技をすると、
ヒシヒシと迫る威圧感と凄みが表現され、圧倒的な存在感が醸し出されるのではないかと感じた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする