ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

グラウベル・ローシャ・3~『バラベント』

2021年03月14日 | 1960年代映画(外国)
『バラベント』(グラウベル・ローシャ監督、1962年)を観た。

ブラジルのバイーヤ沿岸で暮らす黒人漁師たち。
その祖先はアフリカから奴隷として連れて来られ、子孫たちは今も黒人密教を崇拝、悲劇的かつ運命論的な神秘主義に囚われ、
神の国を待つ人々特有の従順さで貧困、文盲、搾取などを受け入れている。
イエマンジャーは海の女神でイレースの母、漁師たちを守り、時には罰を下す海の支配者。
“バラベント”とは大地と海が一変し、愛や生活や社会が変貌する激しい瞬間のこと。

と、タイトルの後に字幕が出る。

村の男は都会に出ても仕事はなく、できることは魚を捕ることだけである。
その地引き網漁は網元の親方に支配されていて、村人は食べていけるのがやっとの状態である。

警察に追われ破壊活動分子と思われているフィルミノが都会から村にやって来る。
以前、村人から彼はのけ者にされたが、今は恨んではいなく、反対に彼らを憐れな連中と思っている。
そして、村を親方の支配から解放しようと考える。

フィルミノは、親方が都会から連れてきて育てた青年アルーアンを、親方の言いなりで服従するだけだと感じている。
彼は祈祷師の所へ行き、アルーアンと網に呪文を唱えてくれるよう依頼する。

親方一味は漁の配分が不満ならと網を撤収する。
それを受けてアルーアンは、危険ないかだで魚を捕ろうと海の中を進める。

呪文は失敗し、アルーアンが無事海から帰ってくる。
フィルミノは、アルーアンが女神に護られて神様扱いになるのを恐れて企む。
そして、海が荒れるのはアルーアンが霊を怒らせたからだと煽動する。

二人は対決し、フィルミノは、最後にアルーアンに見逃してやるから同胞を救えと言い、
そこにいる皆にアルーアンに従えと言う。

漁師は網で魚を捕るのが正道だと、アルーアンは都会で働いて網を買って皆の暮らしを変えようと決心する。

因習、民間信仰が深く絡まって、それに合わせての太鼓と合唱などの土着音楽。
物語の筋は、恋愛も絡まっていても多少の単純さが物足りないが、それをはねのける程の得も言われぬ独特のモノクロが、
圧倒的な力強さで画面いっぱいに醸し出されて満足十分の作品であった。
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グラウベル・ローシャ・2~『アントニオ・ダス・モルテス』

2021年02月27日 | 1960年代映画(外国)

昔観たことのある『アントニオ・ダス・モルテス』(グラウベル・ローシャ監督、1969年)を観た。

ブラジル東北部、アラゴアス州の荒涼とした村。
カンガセイロのコイラナ大尉や若い聖女と共に大勢の信者たちは激しく踊り歩く。
カンガセイロを憂慮する警察署長のマトスは殺し屋“アントニオ・ダス・モルテス”を呼び寄せる。

町の地主(コロネル)は盲目でありながら、権力を振るって影響力を与えている。
そのコロネルは、コイラナ大尉が虐げられた民衆を解放しようとしていることに対し、ダス・モルテスに助けを求めなかった。

だがダス・モルテスは、マトスの要請によりコイラナ大尉と決闘し、相手に深手を負わせる。
荒野で聖女と対峙したダス・モルテスは、聖女から、荒野の民だった祖父母、両親、兄弟を己から殺されたと聞く。
それを聞いたダス・モルテスは、許してほしいと聖女にうなだれる。
それを機にして、ダス・モルテスはコロネルに、民衆に食糧を開放してほしいと頼むまでになっていく。

ダス・モルテスが民衆に寄り添うようになると、コロネルは彼を危険視して、マタ・バカを首領とする一団を雇って殺害を命じる。
片やマトスは、コロネルの妻ラウラといい仲であるのを本人にばれてしまい、短剣で、ラウラによって殺されてしまう。

いよいよ、ダス・モルテスはマタ・バカの一団と対決することになり・・・

前回の『黒い神と白い悪魔』(1964年)の、その後の物語である。
だから、カンガセイロのランピオンとかコリスコのことが出てくる。
(カンガセイロ等については前回の記事)

体制側の殺し屋アントニオ・ダス・モルテスが飢えに苦しむ農民たちを間近に見て、次第に民衆の側の考えに立っていく。
そこには、身にしみた汚れを清めて人生をやり直したいという願いが込められている。
そして、神が過去の誤りを正してくれると信じる思いがある。
ダス・モルテスは、自分が捜していた居場所を聖女の中に見る。
それと共に、真の敵は誰かと目覚めてくる。

この映画の作りは独特で、自然の中での荒野の舞台劇のようなイメージを伴う。
人物にしても、例えば、ダス・モルテスが敵としてコイラナ大尉に致命傷を与えて、それ以後何かと付き添ったりしても細かい心理描写はない。
そのような見慣れない感じがなぜか最後まで飽きさせないし、たまらなく痺れる。

その雰囲気をYouTubeから貼り付けておきたい。


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グラウベル・ローシャ・1~『黒い神と白い悪魔』

2021年02月21日 | 1960年代映画(外国)
『黒い神と白い悪魔』(グラウベル・ローシャ監督、1964年)を再度観た。

民衆が虐げられていた大地主制度下のブラジル。
貧しい牛飼いのマヌエルは、妻のローザと老母の三人で細々と暮らしている。
ある日、彼が地主の所へ牛運びの金をもらいに行った折、ひどい仕打ちを受けて地主を殺してしまう。
追手により老母を殺されたマヌエルはローザを連れて山へ逃れ、山中で大勢の信者を従える聖セバスチャンの教えに共感する。

やがてセバスチャンは、信者と共に地主や政府軍と戦うようになる。
それに対し地主たちは殺し屋のアントニオ・ダス・モルテスを雇い討伐に向かわせる。

そんなある日、折から現れたダス・モルテスは信者たちを皆殺しにし、片や、赤ん坊を信仰の犠牲にされたローザは聖セバスチャンを刺し殺す。
ダス・モルテスから見逃されたマヌエルとローザは、コリスコ大尉が率いる義賊カンガセイロに出会い、それに加わる。
だがダス・モルテスに狙われたコリスコは決闘の末、殺されてしまう。
マヌエルはこの決闘でローザと逃げるが、途中、息切れて動けないローザをそのままにどこまでも走り続ける・・・
(MOVIE WALKER PRESSを修正)

貧民のマヌエルは、黒人で山の聖人セバスチャンの教えによって、いずれ、約束の土地である島の統治者になる希望をもつ。
そしてセバスチャンの死後、荒野を行くマヌエルとローザは、カンガセイロのコリスコ大尉らに出会う。

カンガセイロとは、19世紀末からブラジル北東部で活動した盗賊の総称である。
彼らは、農村社会からの逃亡者が団を編成、武装して無差別に農村部を略奪した。
しかし、中には大土地所有者をも標的とした者がおり、それが、農奴同然の生活を送る農場労働者から義賊として扱われるようになった。
(Wikipediaより)

本来匪賊であるカンガセイロが、義賊とされて民間伝承となっていく。
その民間伝承・フォークロアの物語を、ローシャは歌詞に乗せて歌わせ、乾いた映像として表現していく。
実在したコリスコも登場させ、有名なランピオンも妻マリア・ボニータと一緒に3日前に殺されたと、1938年の時代としての背景を流す。

マヌエルが考える約束の土地、そのようなものはやはり幻想だったのか。
内容は寓話的であっても、この作品は強力なメッセージを隠している。

1950年代後半にフランスで新しい波“ヌーヴェルヴァーグ”が起こったように、ブラジルでも同じように“シネマ・ノーヴォ”が起きる。
その指導、代表者がグラウベル・ローシャ(1938年-1981年)である。
この作品は、背景を何も知らずに単なる他国映画として観た場合、面白くも何ともないとも思う。
しかし、少しその背景を知って観ると、つい知らず知らずにのめり込んで観てしまう。
大袈裟にいうと、麻薬と一緒で中毒症状になる。

今回、ローシャのDVD-boxを購入したので、次回は、これも随分と前に観た姉妹編『アントニオ・ダス・モルテス』(1969年)を再確認しようと思う。
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『日曜はダメよ』を観て

2021年02月11日 | 1960年代映画(外国)
『日曜はダメよ』(ジュールス・ダッシン監督、1960年)を観た。

ギリシャの港町に、アメリカ人のホーマーがやって来た。
“ギリシャ栄枯盛衰の研究”が目的だったが、上陸してまず酒場に入ったホーマーは、言葉が通じないために町の男たちと大ゲンカ。
そこへ割って入ったのが金髪でグラマーなイリアだった。
陽気な彼女は英語のほか、仏、露、伊語と外国語がペラペラ。
しかも習ったところは「ベットの中」とアッケラカンと答えるイリアにホーマーはびっくり仰天。
「ならば僕がお堅い娘に変身させる!」と、一大決心を固めるが・・・
(DVDパッケージより)

ホーマーはよその国に来て、やめとけばいいのに売春婦のイリアに、教養のある女性に変わってほしいと奮闘する。
ホーマーの熱意にほだされたイリアも、今までの生活を閉じ込めようと努力するが、そんなに事はうまく運ばない。

ホーマーはジュールス・ダッシン自身。
片やイリアはメリナ・メルクーリ。
二人はその6年後結婚する。
だから息が合っているというか、安心して見ていられる感じ。

何と言っても、あのギリシャの開放的な明るい世界での物語。
観ていて清々しい。
そして、あの曲。

【YouTubeより】


下は、劇中のメリナ・メルクーリの歌。


この作品はそれこそ大昔テレビで見て、印象は残っているけれども、内容があやふやなために今回DVDを購入して観てみた。
監督のジュールス・ダッシン、有名作がいっぱいあるけれど今に至るまで、他の作品を観るチャンスがない。
だから今後、意識しながら少しずつでも観ていこうと思っている。
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『情事』を再度観て

2020年12月30日 | 1960年代映画(外国)
なぜかミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品が気になり、随分と前に観た『情事』(1960年)のDVDをネットで取り寄せた。

ローマに住む外交官の娘アンナには、恋人として建築家のサンドロがいる。
だが二人の愛は、もはや冷えかかっている。

夏の終わり、二人はアンナの親友クラウディアも交え、上流階級の友人たちとシチリア島沖のエオリエ諸島へヨット・クルージングに出かけた。
アンナやクラウディアたちは海で泳ぎ、その後、岩肌で覆われた小島に上陸する。

アンナは元々サンドロの言う愛に不安感を持っていて、島でそのことを問い質し、その直後になぜか忽然と行方不明となる。
サンドロとクラウディアは他の者たちと島中を必死に探したが、アンナの姿はどこにもない。
溺死したとしても死体は見つからず、警察の捜査も打ち切られてしまう。
しかし、クラウディアとサンドロは、島から離れた町でアンナらしい人物を見たという微かな情報を頼りに捜索を共にする・・・

消えたアンナを二人はあてもなく、シチリアの各地を巡りながら探す。
その早い段階で、サンドロはクラウディアに“愛している”と口にする。
クラウディアはためらい、親友であるアンナのために気後れする。
だが行動を共にするうちにクラウディアも、やましさを覚えながらもいつしかその気になり、二人は愛し合うようになる。

アンナはどこへ消えたのか。
映画は最後までそれに答えないし、理由も明かさない。
そもそも主人公たちの行動の目的も理由があるようでいて心理ははっきりしないし、行く場所もあてどもない。

そしてラスト近くのこと。
夜、ホテルでのパーティーに出席したサンドロは、朝方になっても二人の部屋に帰って来ない。
不安になったクラウディアは、パーティー会場にサンドロを探しに行く。
もう誰もいなくなったそこでクラウディアが見たのは、ソファーで知らない女と抱き合って眠っているサンドロの姿だった。

絶望したクラウディアは外の小高い場所まで行き、それを追いかけてサンドロも行く。
ラスト、ベンチに座って涙を流すサンドロに、クラウディアは後ろからそっと頭を撫でる。


不思議なラストである。
普通の感覚なら、クラウディアはあそこでサンドロと決別するだろうと思うのだが、アントニオーニは、クラウディアをサンドロに寄り添わせる。
ただそこから見えてくるのは、今後の二人の不安定さ。

アントニオーニの“愛の不毛三部作”として名高いこの作品だが、そもそもサンドロは女性にだらしないと言うか、女に弱いだけの男ではないだろうか。
そう考えると、当然愛も不毛で終わってしまうよね、と思ってしまう。
ただ、筋書きがはっきりしないこの作品は、モニカ・ヴィッティの顔のアップとか、風景の中の人物構図とか、風景そのもの自体の映像の魅力も重なって、
どこまでも飽きがこない。

音楽は、アントニオー二作品の多くを手がけているジョヴァンニ・フスコ。
【YouTubeより】映画 『情事(L'avventura)』 original sound track 1960.


このテーマ曲は、映画音楽も好きだった関係上、高校生の時に購入したニッコ・フェデンコの盤のレコードを今でも持っていて、懐かしい一曲である。
【YouTubeより】情事のテーマ TRUST ME/ニッコ・フィデンコ


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『ピアニストを撃て』を観て

2020年09月09日 | 1960年代映画(外国)
『ピアニストを撃て』(フランソワ・トリュフォー監督、1960年)を観た。

パリの酒場でシャルリがピアノを弾いている。
そこへ、強盗仲間に追われた兄のシコが逃げてくる。
4人兄弟のシャルリは末っ子のフィドと二人で地道に暮らしていて、一方、二人の兄リシャールとシコは悪の道にはまっている。
だから二人は、運送車を襲ってかすめ取った札束を独り占めしようとして、仲間のエルネストとモモから追われている。

店が終わったシャルリは偶然に、ウエイトレスのレナを家まで送っていくことになった。
レナはシャルリに秘かに思いを寄せていて、シャルリも、途中で手を握ろうとしたが臆病なためにできない。
レナの部屋には、シャルリが輝かしかった頃の演奏会のポスターが貼ってあった。

シャルリは、本名をエドゥアール・サローヤンといい、元々、一流のピアニストだった。
彼がピアノ教師をしていた頃、レストランで給仕をしていたテレザと結婚した。
彼女の働く店に興行師シュメルも来て、それがキッカケで、エドゥアールはシュメルによって売り出されて瞬く間に名声を得ていった。
彼の成功の最中、テレザは苦悩し、実はエドゥアールが興業できるようになったのは、シュメルとの肉体関係が引き換えだったと告白する。
そして罪の意識を抱いたままで絶望したテレザは、窓から飛び降り自殺をしてしまった。

シャルリから過去を聞いたレナは、彼を愛し、もう一度エドゥアール・サローヤンに戻るよう願った。
片や強盗仲間二人は、シコの行方を突き止めようとシャルリとレナにつきまとい出し、末っ子フィドを誘拐した・・・

レナはシャルリと店に行き、やめることを申し出る。
そのレナが店主のプリヌと言い合いをし、止めに入ったシャルリはプリヌと戦う羽目になってしまった。
そして、首を絞められたシャルリは包丁でプリヌを刺してしまう。
車で逃げるレナとシャルリ。
隠れ家の近くの雪道でシャルリは、レナに別れを告げる。

リシャルとシコの雪深い隠れ家の辺り。
町に帰ったレナは、舞い戻ってきてシャルリに正当防衛が認められたと報告する。
町へ戻ろうとするシャルリは雪の中にレナを待たせる。
そこへ、フィドを連れた強盗の二人組がやってくる。
撃ち合いとなり、レナが撃たれる。

一見、フィルム・ノアールもの。
そう思って観ていると、筋が脱線だらけで訳がわからなくなってしまった。
最初、シコが追われて逃げ、てっきり主人公かと思えば、中心人物は“シャルル・アズナブール”のシャルリである。
まあ、このような調子で、会話の脱線やシャルリの過去の逸話の物語とかでストーリーはあってないようなもの。
頭がこんがらがってムシャクシャしてしまったので、再度観てみた。

そうすると、わからないと思ったものがスッキリと見えてくる。
どうでもいいような会話のやりとりやカーラジオから流れる歌。
サスペンスものらしい映像の中での、わざとのようなコミカルさ。映画での遊び。
要は、これこそヌーヴェル・ヴァーグそのもので、トリュフォーからすると長編二作目の作品。
それを今回初めて観たわけである。

若い頃、トリュフォーの長編第一作目の『大人は判ってくれない』(1959年)を観た時はその新鮮さに驚き、唸った。
でもこの年になってから、このような作品を初鑑賞すると、面白いことには面白いが何故かしっくりと来ない。
そう言えば、ゴダールの『気狂いピエロ』(1965年)を封切りで観た時、拍手喝采の思いだったが、後年、年を取ってから再度観たら面白くもなんともなかった。
やはり、映画はその時代、その時の年齢に関係するのかとつくづく思った。
だから、昔観たトリュフォーの『突然炎のごとく』(1961年)や『柔らかい肌』(1964年)は、もう一度観て再認識してみたい気もあるが、どうも食指が動かない。
この作品を観て、そんなことを思ってしまった。
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『九月になれば』を観て

2020年09月02日 | 1960年代映画(外国)
『九月になれば』(ロバート・マリガン監督、1961年)を観た。

ニューヨークの若き実業家ロバート・タルボット。彼は毎年9月、ローマの恋人リーザとイタリア避暑地の海沿いの別荘で1ヵ月ほどヴァカンスを楽しむ。
だが今年は7月に突然イタリアにやってきたタルボットは、早速「別荘で会おう」とリーザに電話する。
そのリーザ、タルボットがいつまでもプロポーズしないため諦めてイギリス人のスペンサーと結婚しようとしていたところ。
驚いた彼女はとりあえず、急いで別荘に向かうことにした。
 
こちらは、別荘を管理している執事のクラベル。
主人の留守中は別荘をうまく利用しようと、その間はリゾートホテルとして営業している。
そこへ主人のタルボットがやってきて、クラベルは大慌て。
タルボットは、自分の別荘に若い娘たちがはしゃぎながら部屋に入っていくのを見て、ビックリ・・・

タルボットは、何でここに他人であるアメリカの女学生たちがいるのかクラベルに問い詰めるが、クラベルの方はノラリクラリ上手に話を切り返す。
学生の一人、心理学専攻のサンディ。言いくるめるクラベルの話を信じ、戦争で精神がダメージを受けてここのオーナーづもりのタルボットの精神を救おうと頑張る。
しかし残念なことに、このことで真相がばれてしまい、クラベル、クビを言い渡される。

そんなこんなで、そこへ、タルボットが別荘にやってくる道中、車で抜きつ抜かれつした4人組のアメリカ青年もやってくる。

このようにして話は、イタリアの陽光の明るさとマッチしてうまくシナリオに乗り、ドンドン飽きもさせずテンポよく進む。
そしてトラブル続きであっても、これは正真正銘の素敵なロマンティック・コメディとして最後は花開く。

その妙は人間関係。
タルボットとリーザ、サンディに対し車でやって来た青年のトニー、この二組の恋のやり取り。
サンディの保護者気分になったタルボットは、サンディにトニーを寄り付かせないようライバル意識をチラつかせる。
一方リーザは、サンディに恋について示唆したりする。
そのリーザにトニーは憧れに近い感情もある。
その他に、主人トニーと執事クラベルの主従トラブルや、女子学生たちの付添いアリソンとクラベルの恋愛絡みも出てくる。

いずれにしても、青春を謳歌することに前向きの若者たちと、少し上世代のタルボットとリーザの恋愛やり取り。
何とも言えない懐かしさを含んだあの時代のほのぼのとした雰囲気に、無条件に浸ってしまう。
そして、これはいい、と堂々と叫んでもいいやと思ったりする。

タルボットがロック・ハドソンで、リーザはジーナ・ロロブリジーダ。
片やトニーはボビー・ダーリンであり、サンディがサンドラ・ディー。
このコンビが何とも言えない。
もっともこれが縁でボビー・ダーリンとサンドラ・ディーは結婚したりと、オマケがつく。

この作品の主題曲、ボビー・ダーリンの『九月になれば』は、シングル盤のレコードを十代に買って今だに持っている。
だから、昔から一度は観てみたいと思っていた映画である。
それが今ごろになってやっと叶えられたということになる。
それとダブって、ボビー・ダーリンと言えば、彼の半生映画『ビヨンド the シー 夢見るように歌えば 』(ケヴィン・スペイシー監督、2004年)も観ているなぁ、と思い出したりする。

九月になれば / ボビー・ダーリン楽団【YouTubeより】


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『鞄を持った女』を観て

2019年09月22日 | 1960年代映画(外国)
少し前、クラウディア・カルディナーレの作品を観たので、今回も彼女の『鞄を持った女』(ヴァレリオ・ズルリーニ監督、1961年)を観てみた。

イタリアのパルマ。
偽名を使っているマルチェッロが、売れない歌手のアイーダを乗せ車を走らせる。
マルチェッロはパルマ近くで、アイーダを捨てる。
アイーダは鞄ひとつを持って、ある豪邸でマルチェッロのことを尋ねるが、応対に出た弟のロレンツォは、マルチェッロに言い含まれていて「知らない」と言う。

困惑するアイーダをロレンツォは、ホテルに送っていく。
翌日、アイーダから電話を受けたロレンツォは、ホテルにいる彼女を訪ね、そして、いつしか心持ちアイーダに惹かれていった・・・

女性、世間に対して何も知らない青年が、年上の女性に恋い焦がれる。
その想いは、一歩下がって控え目で、大人のやりとりの世界を見る。
そして、後で分かってくるが、アイーダの方は子持ちで、一週間に一度、施設に会いに行く境遇にある。
そのため、困窮していて仕事がほしいのをいいことに、男たちがそれをエサに近寄ろうとする。
片や、豪邸に住むロレンツォは、金銭面は叔母が管理しているとしても、その方面では何不自由ない。

ジャック・ペランとクラウディア・カルディナーレ。
デビュー間もないジャック・ペランは16歳の設定。
この二人が醸し出す雰囲気に、我知らず自然とのめり込まれてしまう。
その感覚は、自分の若い頃の想いと重なり合って、ロレンツォの心情が切なく、つい感情移入してしまう。

もっとも、作品の作りとしては、一連の流れの中で後半、トーンが変わったりして統一性が乱されたりする。
そう言うことがあったりしても、このような雰囲気の作品は、無条件に大好きでいいなあと思う。

それはそうと、“鞄を持った女のブルース”の曲は、若い頃からファウスト・パペッティ楽団で聞き慣れ、イメージを膨らませてきたが、シーンでは歌の曲だったのに驚いた。
ニッコ・フィデンコの"愛への願い(Just that same old line)"(YouTubeより)


また、曲そのものは知っていても、曲名がわからなかったり、ミーナの“星影のナポリ”も聞こえてきて、映像以外の楽しみも倍加した。
La ragazza con la valigia - buonanotte.mpg (YouTubeより)


Claudia Cardinale e Jacques Perrin sulle note di "Impazzivo per te" (YouTubeより)

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『ブーベの恋人』を再度観て

2019年09月04日 | 1960年代映画(外国)
『ブーベの恋人』(ルイジ・コメンチーニ監督、1963年)を観た。

1944年、連合国軍が北上するイタリアの田舎町。
若い女マーラの家に、戦死したマーラの兄と共にパルチザンとして戦った青年ブーベが訪れる。
マーラのことを聞いていたブーベは、彼女にパラシュートの絹布をプレゼントする。

ブーベがまた訪ねてくるのを願うマーラだったが、彼からの手紙の文面には愛の言葉がしたためてない。
しかし父親は、その後訪れたブーベと、勝手にマーラを彼の婚約者に決めてしまっていた。
怒るマーラだったが、もともとはブーベを秘かに愛していたこともあり・・・

ジョージ・チャキリスとクラウディア・カルディナーレの甘く切ない恋愛物語。

封切り当時、劇場で観たこの作品は、どうも甘ったるすぎる恋愛物だなとの印象で、そんな記憶を引きずってきた。
だから、そんなに観ようとは思っていなかったが、無料配信サービスがあったので今回観てみた。

そしたら、勝ち気な所もあるマーラ役のクラウディア・カルディナーレが初々しくてとても良く、自然とのめり込んでしまった。
前回から50年以上も経てば、やはり背景はすっかり忘れてしまっていたが、イタリアの戦中末期の状況がはっきりわかり、作りもしっかりしている。
それでもって、殺人を犯したブーベが国外逃亡する段のマーラとの別れ。
それに被さる例のテーマ曲。

「ブーベの恋人 、La ragazza di Bube」サウンドトラック (YouTubeより)


ブーベから何の連絡もないマーラは、田舎にも居づらくなり、町に出て一人暮らしを始める。
そして、女友達の計らいで誠実な男ステファノと知り合う。
ステファノは上手くいかない彼女がいるが、徐々にマーラに惹かれていく。
マーラは一途にブーベを想っているが、淋しさの中でステファノに対して心が揺れ動く。
そんな中、マーラのもとに、ブーベが国境付近で捕まったと連絡がはいる。
そして、裁判。

今思うと、若い頃は、どちらかと言えば物事に対して斜に構えるところがあって、だから、このような恋愛作品には素直に反応しなかった可能性がある。
でも現在は、これはいい映画だなぁとつくづく感じる。
特に、ファースト・シーンの列車の中でのマーラの独白による回想がラスト・シーンと繋がっていて、
何気なかった最初のシーンが、ラストのマーラの心情を知ることによって、愛の深々としたその重みが強く突き刺さってくる。
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『ファントマ/ミサイル作戦』を再度観て

2019年08月03日 | 1960年代映画(外国)
『ファントマ/ミサイル作戦』(アンドレ・ユヌベル監督、1967年)を観てみた。

スコットランド。
ロールスロイスに乗ったブラウン卿が、ネス湖近くの城の主で友人のマクラシュリー卿を訪れる。
だが実際は、ファントマが変装していて、世界の富豪の一人マクラシュリー卿に次のことを言う。
「金持ちの生存権、つまり命の保証に600万ドルの課税をする。1ヶ月以内に払えなければ増税し、それもダメな時は処刑する」と。
そして、迎えのヘリコプターの乗ったファントマは、ブラウン卿の遺体を投げ落として行く。

マクラシュリー卿からパリのジューヴ警視に電話があり、警視は部下のベルトランとスコットランドへ飛ぶ。
そして、ファンドール記者と恋人でカメラマンのエレーヌも行くことになる。

マクラシュリー卿が世界の富豪を集めて会議をする。
彼は、ファントマをこの城におびき寄せるために、囮としてジューヴ警視やファンドール記者、エレーヌを招待したと言う・・・

またまた、ファントマがいろいろな仮面をかぶって、その人物に成りすます。
ブラウン卿や、ギャング団の大物ジュゼッペ、そしてマクラシュリー卿。
だから、ファントマをいかにしてやっつけようかと計画する重大場面に、当の変装したファントマが加わってしまっている。
要は、筒抜け。

そのファントマを捕まえようとするジューヴ警視と部下のベルトラン。
この二人のやり取りが漫才的コミカルで、今回はそれがメインに近い。
よって、ファンドールとエレーヌの方が、脇に回ってしまった感じもする。

ファントマは、大富豪ばかりかギャング団も一緒に、マクラシュリー卿のお城に来させて、みんなから“100万ドル分のダイヤ”を一気にせしめようとする。
それが上手く成功したファントマは、宇宙に逃げようとお城からロケットを発射させる。
それを英国ジェット機編隊が追い、ミサイルで撃墜する。

この作品は、お城の中とキツネ狩りシーンがほとんどの場面となっている。
だから、前二作と比べるとアクションが少なく、それが物足りない。
そればかりでなく、シナリオにもいい加減な箇所があって、物語のエピソードが完結せずにほったらかしの場面があったりする。
最後なんか、ロケットが爆破されたのに、なぜかファントマは宝石を自転車のカゴに入れ、のんびりと逃げていく。
こんな調子だから、ファントマ自身は捕まっていないのに、シリーズとしては三作で息切れしてしまったのだろうか。
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