ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『5時から7時までのクレオ』を観て

2019年07月30日 | 1960年代映画(外国)
ここのところ、ジャック・ドゥミとアニエス・ヴァルダ夫妻の作品が続き、今回は『5時から7時までのクレオ』(アニエス・ヴァルダ監督、1961年)である。

パリの午後5時。
占い師の所から出てきた歌手のクレオは、イヤな占いの結果で落ち込む。
自分が癌ではないかと疑っているクレオは、今夜、先生に電話して精密検査の結果を聞くことになっている。

カフェで、クレオは付き人のアンジェールに不安を訴える。
二人はそこを出て帽子屋に入り、クレオは気休めに気に入った帽子を買う。

家に着いて休みかけたところへ、恋人のジョゼが「近くに来た」と言い、立ち寄る。
仕事が忙しいジョゼは、クレオが重大な病気かもしれないのに、ちっとも心配してくれない。

ジョゼが帰った後で、クレオの歌の練習のために作曲家のボブが来る。
ボブは、「恋の叫び」を歌うよう勧める。

<ミシェル・ルグラン(ボブ)の伴奏でコリーヌ・マルシャン(クレオ)が歌うシーン>


クレオは歌詞の不吉な内容に気分を害し、黒い服を着て、ひとり街に出ていく・・・

この作品は、死への恐怖を懐いているクレオが眺めるパリの街の風景、人々の日常の動きがドキュメンタリー・タッチで映し出される。
それは、クレオとアンジェールが乗るタクシーであったり、クレオの一人歩き、友人ドロテの運転する車に同乗するクレオ。
今度は、クレオとドロテでのタクシー。
そして、モンスリ公園で知り合った帰休兵アントワーヌと一緒に病院へ向かうバスだったりする。

興味をひくのは、音楽を担当しているミシェル・ルグランが役として実際に出てきたりすること。
そればかりか、ドロテの恋人ラウルが上映する無声短編映画に、ゴダールやアンナ・カリーナ等が出演していたりする。

ラスト近く、一人ぶらつくモンスリ公園の滝で、アントワーヌがクレオに声を掛ける。
クレオは、おしゃべりなアントワーヌにいらつく。
アントワーヌは、「今夜、帰隊する」と言い、自分にも死が待ち受けている可能性をしゃべる。
“大きな恐怖は死”だと内心怯えているクレオは、アントワーヌに共感を覚える。

アントワーヌは、「病院へ行って、直接先生から結果を聞いたほうがいい」と、クレオに付き添って行く。
結果を聞いたクレオは、今アントワーヌが一緒にいることによって、怖さを克服し幸福さえ感じる、と思うようになる。

ドラマ的な内容でないのに、のめり込むようにこの作品を観れることに、不思議な快感を味わう。
やはり、アニエス・ヴァルダはただ者ではないと、痛感した。
ついでに言うと、高校生の時に観た『幸福』(1965年)は、色彩感覚の豊かさと共にその内容も今だ印象強く記憶にある。
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『天使の入江』を観て

2019年07月27日 | 1960年代映画(外国)
『天使の入江』(ジャック・ドゥミ監督、1963年)を観た。

パリ。
銀行員のジャンは、ギャンブル好きの同僚キャロンに連れられて、市営カジノに行く。
ギャンブルに興味のないジャンが、ルーレットで少額を賭けると運よく当たり続け、大金を手にする。
気をよくしたジャンは、今までの消極的な人生とはおさらばしてもっと儲けようと、ニースへ行こうとする。
それを聞いた父親は、賭けで身を滅ぼした人間をたくさん見てきているため、意見を聞こうとしないジャンを勘当する。

ニースに着いたジャンは、“天使の入江”(アンジェ湾)の海岸通りで安ホテルに投宿し、カジノへ行く。
ジャンが賭けるルーレットの数字に、そこにいたブロンド髪の女性、ジャッキーも乗り、それを機会に二人は意気投合する。
二人は同じ数字を賭け、それが当たり続け・・・

ジャッキーがジャンと知り合った時の状況は、お金を使い果たしパリに帰ろうとしたが、それでももう一度カジノへ行き、電車賃としての有り金もなくなる寸前だった。
それが勝ったので、二人はホテルの高級レストランで食事をし、運がありそうとジャッキーはまたカジノに行きたがる。
ジャンは止そうと思ったが、その結果は、二人とも大負けしてスッテンテン。
駅のベンチで寝ると言うジャッキーを、ジャンは同情しホテルの部屋に泊めてやる。

二人は勝って負け、また勝ってと、金を運のツキに任せての大勝負のため、ついにモンテカルロまで行く。

ジャッキーは全くのギャンブル依存症である。
彼女は、「賭けているのが何よりも楽しいから」と言う。
「金は目的でない。賭けの魅力は、贅沢と貧困の両方を味わえることで、この情熱で生きられるの」とも言う。
そのために、夫とは離婚し、3歳の息子ミシューは夫が親権者となっていて、週に一度しか会えない。
 
ジャンは、ジャッキーを愛するようになる。
しかし、ジャッキーは「私たちはただの賭け仲間よ。一緒に泊まったのは、あなたが幸運をもたらすからよ」という言葉を吐く。

こんなジャッキーを、目が離せないリアルさで“ジャンヌ・モロー”が演じ、強烈な印象を残す。
そして、ミシェル・ルグランの音楽が実にいいのである。


日本でもIR実施法を成立させたが、その前の推進法案の段階で、ギャンブル依存症とは何かを考えるために、
議員たちはこの作品を観ておく必要があったのではないか、との感想を抱いた。
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『ローラ』を観て

2019年07月22日 | 1960年代映画(外国)
ヌーヴェルヴァーグ左岸派の監督、ジャック・ドゥミと言っても『シェルブールの雨傘』(1964年)と『ロシュフォールの恋人たち』(1967年)しか知らず、
今回初めて第一作目の『ローラ』(1961年)を観た。

フランス西部の港町、ナント。

ローランは、試用期間の身でありながら寝坊し、遅刻したために会社をクビになる。

当てもないローランが本屋を覗いてみると、デノワイエ夫人と娘セシルが客としていた。
セシルは仏英辞書を欲しがり、店に無いことを小耳に挟んだローランは、プレゼントすることを申し出る。
彼は、セシルという名で、戦争以来15年間会っていない幼なじみを思い出していた。

アメリカ人の水兵たちがキャバレー“エル・ドラド”に入っていく。
その内の一人、フランキーとダンサーのローラは、一時的にできている。
ローラはフランキーが、昔の男で水兵だったミシェルに似ていると言う。
そのミシェルは、ローラが妊娠を告げると、植民地に行くと言ったまま戻って来ていなかった。

ローランは、ある美容院に行くと仕事があるようだ、とカフェの女主人から聞き、出掛けることにした。
途中、すれ違いざまに人と肩がぶつかり、見るとそれは偶然にも幼なじみのセシルだった。
セシルは、今はローラと名乗って、キャバレーで仕事をしていて・・・

ローラは、息子イヴォンが生まれてから7年経っても現れないミシェルを、今も待っている。
そんな彼女を、ローランは以前から愛していたと、カフェで打ち明ける。
でもローラは、愛しているのはミシェルだけだとやんわり断る。

ローランは、もし自分の愛が受け入れられたならば、胡散臭い仕事のヨハネスブルグ行きを取りやめようと考えたが、これで行く決心をする。
それに彼には、ローラとフランキーが、ローラの家に入るのを目撃したという理由も重なっていた。

片や少女セシルのこと。
ローランとセシルが本屋で知り合ったように、アメリカ水兵フランキーとセシルも偶然にそこで知り会う。
14歳になるというセシルのこの出会いは、丁度、ローラが14歳で初恋したミシェルの話と重なってくる。
そして、フランキーとセシルが祭り会場の遊具で一緒に遊ぶシーンが、当時のローラの姿も想像されてくる。

もう一人、セシルの母親デノワイエがローランに思いを寄せる。
そのほのかな恋心の中には生活の寂しさが漂い、それがなんとも言えないほど心に沁みる。

わずか3日間だけの出会いと別れ。
その中での、ローランとミシェル、フランキー。
3人はローラを挟んで、同じ時間、同じ場所を共有するが、知り合うこともない。

冒頭での海岸通り、ミシェルが高級なオープンカーを走らせる。
横断しようとする5人の水兵に、危ないと注意される。
そして続いて、寝過ぎたローランが飛び起きる場面。
たったこれだけで、主要人物が揃う。

それをラストで、ミシェルとローラが乗った車と、歩くローランがすれ違って行く。
そのローランの後ろ姿から見てとれる哀愁感は計り知れない。
それをジャック・ドゥミが第一作目として作る。
ちょっと他では、マネができない芸当ではないか、と思う。

物語に登場してくる人物をものの見事に絡み合わせ、それを数日の出来事として描く、
このような作品を観ると、正しくこれこそ真の傑作だと感心し唸ってしまう。
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イングマール・ベルイマン・2~『鏡の中にある如く』

2019年07月19日 | 1960年代映画(外国)
『鏡の中にある如く』(イングマール・ベルイマン監督、1961年)を観た。

北欧の、海に面し他に誰もいない孤島の別荘。
登場人物は4人。
作家である父親のダヴィッド、その娘夫婦である医師のマッティンとカーリン、カーリンの弟で17歳のミーヌス。

夕暮れ近く、4人が海から上がってくる。
カーリンとミーヌスがミルクを取りに行っている間、マッティンは義父のダヴィッドにカーリンのことを打ち明ける。
友人の精神科医によれば、カーリンの病状は再発する可能性があるかもしれない、と。

夕方、庭での食事時間。
夏の間は父親と過ごせると思っていたミーヌスだったが、また外国に出掛けなければならないと言う父親に失望する。
ダヴィッドは、その場の気まずさを察し3人に土産を渡すが、4人の気持ちはギクシャクする。
それを取り直すつもりで、ミーヌスが書いた戯曲を彼とカーリンが演じ、ギターの伴奏をマッティンがした。

朝の早い時間、4時頃。
何かの気配で目覚めたカーリンは2階の空き部屋に入る。
破れ目がある壁に耳を当てたカーリンにはその奥から人の声が聞こえてくる。
その幻聴にカーリンは、髪をかきむしり、のたうち回る。

書斎で、眠れぬダヴィッドが原稿を見直しているところへ、先程のカーリンが疲れ果ててやって来る。
カーリンを休ませた丁度その時、ミーヌスが網を引き揚げる誘いに来、ダヴィッドは出掛ける。
目を覚ましたカーリンは、父親の机の引き出しを開き、中にあった日記を読む。
そこには、“カーリンの病気は耐えがたいが、病状の進行を観察して、精神が壊れゆく様を克明に記録し題材にしたい”と書いてあり・・・

この作品には、“神”についてが重要な要素として現れてくる。
例えば、カーリンはミーヌスを例の2階に連れて行き、自分の体験を話す。
壁を押し分け入ると、大勢の人たちが“あの人”の来るのを今かと待っている、と言う。
私はその神が来るのが待ちきれない、この話は現実であって、違う世界が私を待っている、とも言う。

カーリンの狂気が剥き出しとなる後半では、海辺の廃船で、彼女はミーヌスを激しく抱き、一線を越える。
そのことに対して、カーリンは“神に命令されて”やらされた、と父に告白する。
この二つの世界に生きるカーリンは、次第に悩むのに疲れ果ててくる。
しかし、“ついに現れた”と言う、狂気の狭間のカーリンをその神は救ってくれない。

この作品は、随分と前に観ている。
だが、物語を追わない、室内劇風の個人の内面が徐々に剥き出しとなってくるベルイマンの作風は、題名と他の内容とがごちゃ混ぜになり記憶に溶け込んでいる。
ここで描かれている家族でも、ミーヌスが言うように、“みんな、殻に閉じこもっていて”個々の心理はバラバラである。
ダヴィッドの場合は、カーリンが妻と同じ病気になって苦しむのを見たくなかった、と後悔を滲ませる。
そんな暗い内容でも、ラストで、ダヴィッドとミーヌスが心を通じ合わせる場面を見て、救われたような気分になりホッとする。
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イングマール・ベルイマン・1~『沈黙』

2019年07月16日 | 1960年代映画(外国)
イングマール・ベルイマン監督の『沈黙』(1963年)を観た。

スウェーデンに戻る国際列車の客室に三人の旅行者が乗っている。
翻訳家のエステル、それに妹のアンナと子供ユーハン。
蒸せるような暑さの中、エステルが身体の調子を崩し、三人は途中下車する。
一行は、言葉も通じない、軍事的緊張下にあるらしい見知らぬ街の大きなホテルに入る。

アンナはバスタブで入浴した後、ユーハンにローションを塗ってやり二人して眠ってしまう。
中仕切りのある部屋の一方のベットに伏せっていたエステルは、多少元気になって飲みながら翻訳の続きを始める。

目覚めたユーハンはホテルの廊下を歩き回り、こびと一座の部屋で、こびと達に女装されられて一緒に遊ぶ。
このホテルには、他に誰ひとり客がいない。

アンナは、止めようとするエステルを無視して、一人で街に出掛ける。
部屋に取り残されたエステルはヒステリーに襲われ、ウイスキーを飲みながらベットから転げ落ちる。
エステルは床で、自分の家で死なせて、と神に願う・・・

公開当時この作品は、ショッキングな内容ということで成人映画になり、センセーショナルな話題が先行していた。
特に、アンナの“バーの男を誘って、教会に入り柱の裏の暗がりでセックスをした”というセリフが、
教会を冒涜しているとキリスト教国を中心に非難ごうごうだったと記憶している。
そんなこともあり、十代だった私は、見てはならないものを覗く気分で緊張し映画館に入った。
だから、この映画の記憶は、ベットを象徴の中心として強烈に残っている。

だが今回、50年以上経って観ると、普通の一般的な映画の印象で、当時からの衝撃的な記憶は何だったかと拍子抜けしてしまう。
自慰とか、観ていて想像力はかき立てられても、表現としての猥雑さはどこにもない。
そんな作品である。
でもこの作品には、ベルイマンらしく、映像的構図のすばらしさと引き換えに、難解さはどうしても否めない。
それは、架空の街やホテルの雰囲気、言葉が通じない老執事からもわかる。

そして、数少ないセリフの中から、徐々にエステルとアンナの確執が見えてくる。
ベルイマンが敢えて、“神の沈黙”作品の三作目と呼んだ理由が、観る者を悩ます。
というのは、エステルとアンナの会話、それぞれの考え方の中に“神”は出てこない。
あるのは、アンナが言う「姉は、エゴで優越感ばかりを持ち、ずっと私を嫌っていたはずだ」との思い。
それに対してエステルは否定し、「アンナを愛している」と言い、そのように言う妹を憐れむ。
が、アンナが外出することに、エステルは身体の弱い自分への当てこすりと思い、屈辱を感じる。

そこにあるのは、どうしようもない二人の意識の断絶。
それに加えて、エステルの死への恐怖。
このような重要な状況の中で、なぜ神は現れて物事を解決してくれないのか、果たして本当に神はいるのか、
とベルイマンは問題提起しているのではないかと想像する。
そのようにいろいろと考えさせてくれるベルイマンの作品が、私には興味深い。
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『ラ・ジュテ』を観て

2019年07月11日 | 1960年代映画(外国)
ヌーヴェル・ヴァーグの左岸派映画作家、クリス・マルケル監督の『ラ・ジュテ』(1962年)を観てみた。

この作品が以前から気になっていた理由は、クリス・マルケルが製作した『ベトナムから遠く離れて』(1967年)を上映当時観ていたことに加え、
あの『12モンキーズ』(テリー・ギリアム監督、1995年)がこれを原案にしているということに興味があったからである。

作品は、30分弱の短編でSF仕立ての内容となっている。
それを、モノクロの静止画像で繋いでいき、その画面にナレーションが無駄なく静かに被さっていく。
これがラストまで続く中、一瞬だけの動画が目を引く。

このような作品には、よかったとか良くないとかの評価はあまり意味がないのではないか。
受け手がどのくらいのイマジネーションを感じるかによって、評価がそれぞれ分かれるかも知れないと思ったりする。
いずれにしても、このような作品が存在することは貴重である、と感じる。

この内容を忘れないためにも、以下に筋を記しておきたい。

少年の時に見た光景に取りつかれている男の話。
その男が少年期に見たのは、オルリ空港での出来事。
時は、第3次世界大戦勃発の数年前。

ある日曜日、家族で空港を見物した。
少年は、そこで見た送迎台の光景とひとりの女性の顔をそれ以後忘れない。

ずっと後になって気づく。
それは、戦争前の平和な時代の彼女の顔。
しかし、これは現実なのか、それとも戦争から逃避する幻想なのか。

程なくしてパリは崩壊。
そして、勝利者を名乗る者は他者を捕虜にした。

生存者は放射能のせいで地下で暮らす。
勝利者が地下を支配し、捕虜を実験台とした。
失敗が繰り返される中、例の少年だった捕虜が選ばれる。

人類の滅亡を防ぐために、勝利者は時間を操作しようとする。
時間に穴をあけ被験者を送り込めば、薬やエネルギーを持ち帰れるはず。
実験は、時間の穴で過去と未来を繋ぎ、現在を救うのが目的である。

彼が選ばれた理由は、想像力が強く、過去に執着していたから。
現在のすべては剥奪され、彼は平和な時代の過去に行く・・・

16日目、無人の送迎台。
30日目、二人は再会する。
彼は時間の感覚を失っていても、彼女について見覚えがある。
彼は彼女に話しかける。
二人にとって、過去も未来もなく現在だけがある。
二人は公園でデイトするが、残念なことに彼は気を失う。

別の時間。
散歩する二人。
そこにあるのは無言の信頼。
だが、彼は現実の世界に、突然戻される。

50日目、剥製のある博物館で二人は出会う。

このようにして操作する側は、被験者を思い通りの時間に送り込むことの確証をする。
そして彼女の方も、突然現れ、消える彼を自然現象として受け入れるようになった。

過去への旅は成功し、次は未来である。
未来は過去より難しい。
何度かの実験の後、彼は未来へ到達した。

地球は変貌し、再建されたパリ。
彼は全産業を復活させるエネルギーを持ち帰る。

その後、彼は少年期の映像を与えられ、快適に暮らす。
だが役目はもう終わっていて、後は抹殺されるだけだ。

彼は未来人からメッセージを受ける。
「仲間にする」と。
が、彼は平和な未来よりも少年期に戻りたい。
彼女の待つ過去へ。

オルリ空港。
大戦前の暑い日曜日。
彼は幼い頃を思い出す。
彼は送迎台で彼女を見つける。
しかし、走り、駆けつける彼には追跡者がいて、ここからの脱出は不可能である。

少年の頃に見た映像は、自分の死の瞬間だった。
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『ファントマ/電光石火』を再度観て

2019年07月08日 | 1960年代映画(外国)
十代に観た映画は粗筋とかはぼけてしまっても、そこから受けた印象は何かの弾みで記憶の片隅から現れる。
そんなファントマシリーズの第2作、『ファントマ/電光石火』(アンドレ・ユヌベル監督、1965年)。
当然に、サスペンスコメディである。

一年前、国民を恐怖に陥れたファントマを追い払った功績のジューヴ警視への勲章授与式。

盛大に行われているその会場に、ファントマからの伝言が入る。
「受勲おめでとう ファントマ また会おう」

場所は変わり、ファントマが部下を従え科学研究センターに乗り込み、マルシャン教授を拉致する。

マルシャン教授と共同研究をしているルフェーヴル教授。
二人とも催眠術の専門家で、他人の思考を制御し離れた場所から指令を送れるテレパシー光線の装置を開発中である。
これが完成し、ファントマが手にすれば世界征服する可能性がある。
だからファントマは、次にルフェーヴル教授を誘拐するはずである。

ファンドール記者は、ルフェーヴル教授が行く予定のローマの科学会議に、自分が教授に変装して身代わりに行くことにする。
片やジューヴ警視も、ファントマが現れるはずだとローマ行の列車に乗り込む・・・

ローマに着いてからの、ファンドール記者が扮しているルフェーヴル教授が、観ていてややこしくなる。
ファントマも、ルフェーヴル教授に扮して現れるのである。
それに、当のルフェーヴル教授も後からローマにやって来る。
みんな同じ顔をしている。
だから、ファンドール記者の恋人エレーヌと弟ミシューは、うっかりファントマに拉致されてミシューが人質になってしまう。

変装は、ジューヴ警視もいろいろとやってみせる。
神父の格好をした時なんか、観光客から赤ん坊に洗礼をしてくれと絡まれ困ってしまう。
そんなおバカなジューヴ警視のド・フュネスを見ていると、映画の楽しみが100%滲み出てくる。

そして終盤の、宮殿にての仮装舞踏会以降。
ファントマに捕まってしまうファンドール記者やジューヴ警視たち一行に、例のテレパシー銃の試作品が威力を発揮する。
続いて、追うファンドール記者とジューヴ警視。逃げるファントマ。
ファントマは最後には、なんと車が飛行乗用車となって空を飛んでいく。
それでも追う二人は、運よく飛行機で追いかけるが、そこはドジなジューヴ警視のために取り逃がしてしまう。
という、お話し。
映画の面白さは、こうでなくちゃと言う見本がここにある。
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高校生のころ・10~『ファントマ/危機脱出』

2019年06月07日 | 1960年代映画(外国)
中学生の頃から映画の魅力を覚えて観だしたが、それはほぼテレビでの鑑賞だった。
高校になると、多少自由が利くようになり映画館に足を運び出した。
だが、観る基準もなくあれこれ観ていると、随分とつまらない作品にも当たって失望したりする。
なので、以前にも書いたようにキネマ旬報で評価されているシリアスな作品を意識して観るようになった。
と言っても娯楽作品も好きで、面白くて単純に大喜び出来れば、それはそれで大満足の至福の時だった。
そして、それに合致したのが『ファントマ/危機脱出』(アンドレ・ユヌベル監督、1964年)であった。

鮮やかな手口で宝石を盗み出す怪盗ファントマがパリの街に出現。
ファントマは好き勝手に暴れまわり、パリ警視庁も手を焼いていた。
市民の不安を消すため、ジューヴ警視がテレビで「ファントマを必ず捕まえる」と宣言する。
新聞記者のファンドールは、この騒ぎに便乗して「ファントマは架空の人物で存在しない」という記事を出す。
センセーショナルな記事は飛ぶように売れたが、ファントマと警視庁の両方を怒らせてしまい・・・
(ザ・シネマより)

今観ると、映像的には時代のずれを感じて多少のかったるさを感じる。
それでも、やはり面白い。
新聞記者のファンドールがジャン・マレー。
その恋人でカメラマンのエレーヌがミレーヌ・ドモンジョ。
ファントマをどうにかして捕まえようと躍起になるジューヴ警視役のルイ・ド・フュネス。

このド・フュネスがいるから、痛快活劇に可笑しみが加わる。
それにミレーヌ・ドモンジョが可愛らしくて無茶苦茶いい。
ド・フュネスもミレーヌ・ドモンジョもこの作品で知って、ひょっとしたらジャン・マレーだってこの時初めて覚えたかもしれない。

そればかりか、百の顔を持つファントマがゴムマスクを脱いで次の顔が現れるところなんか、当時は本当にたまげた。
そして、後半のアクション。
ファンドールとジューヴ警視がファントマをオートバイで追いかけ、次ぎに汽車に乗り移り、ついにヘリコプターでも追っかける。
行き着く先は、潜水艦に逃げ込み姿を消すファントマに対し、大海原でアップアップする二人と、小さなゴムボートで助けにくるエレーヌ。
この三人の姿が笑える。

このシリーズは「電光石火」、「ミサイル作戦」と続くのである。
だから次回は『ファントマ/電光石火』の感想となる。
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忘れ得ぬ作品・11~『かくも長き不在』

2019年06月04日 | 1960年代映画(外国)
『かくも長き不在』(アンリ・コルピ監督、1961年)を観た。
この作品は、世の中を映画によって知り始めた頃の高校の時、その印象が余りにも強烈で、今日に至っても忘れ得ない映画となっている。
そして、前から再度観てみたいと思っていたら、偶然にも“GYAO”が無料放映していた。

第2次世界大戦後、パリ郊外のうらびれた街角でカフェを営む女性経営者テレーズはある日、
自分の店に立ち寄ったホームレスの男性を見て強く衝撃を受ける。
彼が第2次世界大戦中、出征し、ナチスドイツに拉致されてから行方知れずとなっていた彼女の夫、アルベールにそっくりだったからだ。
テレーズは、過去の記憶を失ったホームレスの男性と寄り添うように交流しながら、なんとか彼の記憶を蘇らせようと懸命に努力を続けるが・・・
(GYAO!より)

浮浪者がテレーズのカフェの前を通る。
その浮浪者を見たテレーズの表情。
その時、テレーズは確信している。
あれは私の夫だと。
後日、テレーズは浮浪者の後を付けて行く。
浮浪者の住んでいる所は、セーヌ川の川べりの掘っ立て小屋。

浮浪者を夫だと確信しているテレーズがいじらしい。
どうにかして記憶喪失の夫に、私が誰かを思い出させたい。
バカンスで町に人が居なくなったそのカフェでテレーズは、浮浪者アルベールに好物のブルーチーズを食べさせダンスをする。
ダンスをしながら、テレーズがアルベールの頭部を触る。
その時気づくのが、頭部の深い傷痕。

どうにかしてアルベールの記憶を戻してほしいと願うテレーズ。
そのテレーズを演ずるアリダ・ヴァリの秘めた静かな思いが凄い。
私にとってアリダ・ヴァリと言うと、この作品と『夏の嵐』(ルキノ・ヴィスコンティ監督、1954年)、当然なことながら『第三の男』(キャロル・リード監督、1949年)を瞬時に思い出す。
それ程、この女優は観る者に強烈なインパクトを与える。

戦争は、敵味方双方が傷つけ合うばかりでなく、市民にこのような形で影響を与える。
この映画には、戦争のかけらも出てこない。
しかし、アルベールに対するテレーズの必死の思いをみれば、行き着く先は戦争悪にたどり着く。
その隠れたメッセージが強烈すぎ、脳裏から離れない。

私には、この作品へのおもいれが強いためか、随分と前に、ちくま文庫の『かくも長き不在』(マルグリット・デュラス、ジェラール・ジャルロ、阪上脩訳:1993年)を購入し愛読してきた。
それを思わぬ形で今回再会でき、感謝している。
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ブニュエルの『小間使の日記』

2019年05月20日 | 1960年代映画(外国)
ルイス・ブニュエル監督の『小間使の日記』(1964年)を観た。

パリから小間使いとして田舎のサントーバン駅に降り立ったセレスティーヌ。
出迎えた使用人のジョゼフの馬車で向かった先は豪華な屋敷だった。
ここのモンテーユ家では夫人が全体を仕切っていて、夫はその陰で精力を持て余し何かと欲求不満の状態にある。
また、夫人の父親は靴フェチで、早速セレスティーヌに自分の好みの靴で歩かせたりする。

モンテーユ夫婦が出かけた日、セレスティーヌが庭に行くと隣人の元大尉が石を投げ入れてきた。
それを切っ掛けにセレスティーヌは元大尉と親しくなるが、実はモンテーユ家とは犬猿の仲であった。
 
ある日、モンテーユ家の父親がベットで婦人靴を抱かえた状態で急死する。
そして丁度その日、使用人部屋に出入りしていた少女クレールが行方不明になって・・・

セレスティーヌはクレールを好いていた。
モンテーユ家の父親が亡くなりパリへ帰ろうと駅に行ったセレスティーヌは、そこでクレールが惨殺されていたことを知る。
セレスティーヌは犯人を突き止めるため、再度モンテーユ家に戻る。
彼女はジョゼフが犯行を行ったと目論んでいて、と物語は進んでいく。

まず、この作品が凄いと思うのは、メリハリの効いた野外風景などに見る映像造りのうまさ。
特に少女クレールが森でエスカルゴを探す短いシーンは、『処女の泉』(イングマール・ベルイマン監督、1960年)を連想するような一瞬の不気味さがある。
そして、セレスティーヌ役のジャンヌ・モロー。
言葉少ない会話をしながらの眼の動きと言うか、眼そのものの表情。
まさしくこの作品では、ジャンヌ・モローの独特な雰囲気の魅力が百パーセント発揮されて、それだけでも酔いしれる。
そればかりか、個々の人物もそれぞれクセがあって内容に味をもたせる。

ジョゼフを落とし入れ、隣人大尉と結婚したセレスティーヌは、朝のベットの中で何を思っていたのか。
そのラストシーンは、一般人が考える常識的な結末と違い、はぐらかされたようでありながら興味深く印象強い。
これだから、人間の欲望をあぶり出すブニュエルの映画は面白い、とまたしても思った。
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