『アンナ・カレニナ』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1948年)を観た。
アンナ・カレーニンは、ペテルブルグからモスクワへ向かう汽車の中で老夫人と一緒だった。
駅に、アンナには兄のオブロンスキーが、老夫人は息子ヴロンスキー伯爵が迎えに来た。
ヴロンスキー伯爵は、アンナを一目見るなり、その美貌に釘付けとなる。
そもそもアンナがモスクワに来た理由は、兄の浮気がもとで妻のドリイが屋敷を出て行こうとしたためである。
それをアンナが取りなす。
ドリイには妹のキティがいて、キティはヴロンスキー伯爵を好いている。
そのキティに対しては、リョーヴィンという領主が思いを寄せている。
翌日、メシュコフ家で舞踏会が開かれる。
ヴロンスキー伯爵はキティでなく、アンナを踊りに誘う。
この会でキティの失望を察したアンナは、ペテルブルグに早々と帰ることにした。
帰途、吹雪が荒れ狂うなかのクリン駅。
そこに降り立ったアンナの前に現れたのは、追って来たヴロンスキーだった・・・
物語は、筋も分かりやすく、文芸的な雰囲気も醸しながらと滞りなく進んでいく。
アンナと夫アレクセイとの関係。
冷めている生活の中で、社会的地位と体裁を重んじる夫。
その二人の中に深く関わり込んで、波乱を巻き起こすことになるヴロンスキー。
何しろ、ヒロインがヴィヴィアン・リーなので、片時も飽きることがない。
と、のめりこんで観ていると、どうも後半に差し掛かってくると違和感が出始めてくる。
作品そのものが余りにもアンナだけの感情に寄り添い過ぎているためか、
ヴロンスキーに夢中になる様が、ただ単なるわがままで、何の分別もない女性としか感じられなくなってくる。
だから夫のアレクセイの方が、古い考え方であっても誠実な人間味のある人物だなと、何となく肩を持ちたくなってしまう。
そのように観客を思わせる作りが、何としても残念としか言いようがない。
いっそのこと、ヴィヴィアン・リーの相手役はローレンス・オリヴィエだったら、
実際、現実味も帯びて、もっと面白かったのではないかと勝手に想像する。
いずれにしても、観やすい内容なのに、ヒロインに対してもう少し客観性をもたせてくれたらなと、ちょっと物足りなさも感じる作品だった。
アンナ・カレーニンは、ペテルブルグからモスクワへ向かう汽車の中で老夫人と一緒だった。
駅に、アンナには兄のオブロンスキーが、老夫人は息子ヴロンスキー伯爵が迎えに来た。
ヴロンスキー伯爵は、アンナを一目見るなり、その美貌に釘付けとなる。
そもそもアンナがモスクワに来た理由は、兄の浮気がもとで妻のドリイが屋敷を出て行こうとしたためである。
それをアンナが取りなす。
ドリイには妹のキティがいて、キティはヴロンスキー伯爵を好いている。
そのキティに対しては、リョーヴィンという領主が思いを寄せている。
翌日、メシュコフ家で舞踏会が開かれる。
ヴロンスキー伯爵はキティでなく、アンナを踊りに誘う。
この会でキティの失望を察したアンナは、ペテルブルグに早々と帰ることにした。
帰途、吹雪が荒れ狂うなかのクリン駅。
そこに降り立ったアンナの前に現れたのは、追って来たヴロンスキーだった・・・
物語は、筋も分かりやすく、文芸的な雰囲気も醸しながらと滞りなく進んでいく。
アンナと夫アレクセイとの関係。
冷めている生活の中で、社会的地位と体裁を重んじる夫。
その二人の中に深く関わり込んで、波乱を巻き起こすことになるヴロンスキー。
何しろ、ヒロインがヴィヴィアン・リーなので、片時も飽きることがない。
と、のめりこんで観ていると、どうも後半に差し掛かってくると違和感が出始めてくる。
作品そのものが余りにもアンナだけの感情に寄り添い過ぎているためか、
ヴロンスキーに夢中になる様が、ただ単なるわがままで、何の分別もない女性としか感じられなくなってくる。
だから夫のアレクセイの方が、古い考え方であっても誠実な人間味のある人物だなと、何となく肩を持ちたくなってしまう。
そのように観客を思わせる作りが、何としても残念としか言いようがない。
いっそのこと、ヴィヴィアン・リーの相手役はローレンス・オリヴィエだったら、
実際、現実味も帯びて、もっと面白かったのではないかと勝手に想像する。
いずれにしても、観やすい内容なのに、ヒロインに対してもう少し客観性をもたせてくれたらなと、ちょっと物足りなさも感じる作品だった。