花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

御銘を賜った初生けの竹花入

2022-08-27 | アート・文化
初生けの花入 銘「一滴の奏で」を拝受して
(華道大和未生流「泉」第34号(令和3年4月1日発行)に掲載)

 華道大和未生流の新師範は、師範許状を授与された翌年、流派の新年会で初生けを行うのが決まりである。須山法香斎御家元、菊香斎副御家元、御来賓や諸先輩、お仲間が見守って下さる中で尺八切の青竹に花を生け込む。かつて私も壇上で花鋏を握り、誉れある一生に一度の儀式に臨んだ。持ち帰った青竹は専門家の手を経て淡黄色の地肌をみせる晒し竹になり、何時頃からか浅い一本の竪割れがささやかな景色となった。思い出の竹花入を取り出す度に、厳粛な雰囲気が隅々まで満ちていた式典会場の情景が彷彿と浮かぶ。花入の洞から立ち現れるのは、花鋏の握り方さえも未熟であった姿である。

 そして長らくうこん布に包んだままであったが、昨年一念発起して創業百四十年の京都桐箱工芸さんに竹花入を納める桐箱の作成をお願いした。御当主は、御家元に銘をお付けいただく所存ですという申し出を丁寧に聞いて下さり、端正な会津桐、四方桟蓋の桐箱を一か月後にお届け下さった。御家元の御宅に竹花入を携えて参上したのは師走も押し迫った頃である。そして年が明けて本年、御家元から拝受した御銘は《一滴の奏で》(ひとしずくのかなで)であった。墨色麗しく御揮毫下さった御銘を拝見した時は、只々有難く何ものにも代え難い喜びで一杯であり、身に余る御銘を戴いた竹花入は生涯の宝物となった。

 その節に頂戴した直筆の御手紙には、《一滴の奏で》が「花器を竹からしたたり落ちたしずくと見立てた」所以の銘であること、さらに「清竹から一すじのしずくが静かに流れ落ち美しい器を誕生させた。そこには、そっと挿される花や木の音に奏でられ、舞いはじめたその姿にはほのかな笑みがみられる。」との御言葉がしたためられていた。「竹瀝」はハチクから得られる清熱化痰薬の生薬であるが、竹竿を人為的に加熱して得られる液汁である。竹からおのずと滴り落ち《一滴の奏で》と化すしずくには微塵も作為的な計らいはない。それは善く萬物を利して争わない水であり、天然自然が与え賜うた甘露である。翠竹の一滴から化生した器が相応しい挿花を得る暁には、そこに清々しくも妙なる共振現象が起きて、あたかも迦葉尊者がお見せになった如き微笑が生まれるのであろう。

 古来、竹は此君と愛でられ、天性の好所は正直、虚心、高節である。これらの徳には遥かに程遠い境涯ゆえに、私はなお一層脩竹に惹かれてやまない。日莫れて途遠く、まだ歩かねばならない人生行路で行き暮れる今、《一滴の奏で》の御銘を賜った竹花入に心新たに真向かい、ふたたび蟻の歩みの一歩を始めようと思う。御家元が研究会で折に触れ御教示下さる世阿弥の芸術論にある言葉は「能には果てあるべからず」、そしてわが心に銘記すべきは「花には果てあるべからず」である。