今日は沖縄の日、という放送を聞いてかってお世話になった那覇市の友人に電話してみました。娘さんが出て一昨年両親もなくなりましたという言葉に50年前お世話になった友人を思い出しもっと早くお会いしておけばよかったと・・・
今から50年前は海外旅行は私には簡単にはできませんでした。せめて日本に返還される前の沖縄に行こうと思いました。そこで沖縄の新聞社2社にどなたか泊めてくださいと投稿したら4人の方から宿泊OKの郵便が届きました。
沖縄は当時は外国扱いでしたので予防注射とパスポートが必要でした。
そのころは沖縄までは船で2日間かかりました。途中、台風を避けた船が瀬戸内海で座礁し潮が上げてくるまで待機することになり私たちは国外から来たという扱いで学校の体育館に収容され役所の方があいさつに来て体育館の外に出ないように言われましたが船内で知り合った若者たちとこっそりとタクシーでお風呂に入りに行ったのを覚えています。
台風のおかげで2泊の予定が4泊になり船の中で働く人達と仲良くなり夕食の配膳の準備まで手伝ったりして楽しみました。船上から見る海にはカメが泳いでいるのも見えます。
新聞社への投稿では4人から返事がありました。さすがに独身の男性の家には泊まらなかったけど普通の人は歩けないよと言いながら本土復帰前の基地周辺や夜の飲食街を案内してくれました。それはまるで西部劇で見る夜の繁華街でした。彼はお嫁さんを探すために私に返事をくれたそうです。また若い女性の家ではバストイレ付の家を初めて見ました。また町の通りの肉屋さんでは暑いのに沢山の豚肉が冷蔵庫に入れることなく店にぶらさがっていました。
最後に泊めていただいたのは年配のご夫婦で2週間もお世話になってしまいました。朝早くから朝市に行くよと起こされたり車で島を案内してくださったりしました。
印象に残っているのはひめゆりの洞くつでした。洞内の明かりは蝋燭のみで案内人もいなく若い乙女達が自決した場所は一人ではちょっと怖いと思いました。
数十年後家族で再び訪れたひめゆりの塔は洞窟内に入ることはできず入口に写真のように場所が書いてあるのみは残念に思いました。
その夜、友人から前回来たときは自分の母親のことはとても話す勇気がなかったといって語り始めました。米軍が沖縄の海岸に上陸しみんなで海岸を逃げた時母が砂浜で転んでしまい子供だった友人にあなた達は逃げなさいといわれ逃げて翌日母親を探しに行ったときの母親の非業な最後について初めて語られ戦争の怖さと悲惨さに絶句しました。
話は最初に戻りますが私も休暇もなくなるのに台風の余波で船は出航できなく、帰るのに困っていたら飛行機のチケットを手配して5万円を貸してくださり無事職場に戻りことができました。
その後、友人夫婦は東京の新橋に部屋を借りて旅を楽しんでいましたが老後の住居を本土にと探していたようでした。私も結婚して15年前に家族で沖縄を尋ねた時はゲストハウスを建てたからいつでも来てねと言われたのにいつかと思いながらお別れすることになってしまいました。時々電話をしていましたが近年はそれもご無沙汰していました。
再びお会いできないのは寂しいけど生前何度か送っていた落花生を墓前にご冥福をお祈りしたいと思います。