風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

父の帽子

2025年03月19日 | 「2025 風のファミリー」



父の死後、3年ほどがたっていたと思う。その頃はまだ、玄関の帽子掛けに父の帽子が掛かったままになっていた。何気なくその帽子をとって被ってみた。小さくて頭が入らなかった。父の頭がこんなに小さかったのかと驚いた。離れて暮らしていた間に、父は老いて小さくなっていたのだろうか。

私も背丈は高い方だが、父は私よりも更に1センチ高かった。手も足も私よりもひと回り大きくて、がっしりとした体格をしていた。父の靴と私の靴が並んでいると、父の靴のほうが大きくて、私の靴は萎縮しているようにみえたものだ。
一緒に釣りに行くと、たいがい父の方が多く釣った。将棋も花札も父には敵わなかった。いつだったか、パチンコをしながら父が言ったものだ。勝とうと思ったら、まじめに真剣にやることだ、と。

私の記憶の、おそらくは最も古い部分に、大きくて温かい父の背中がある。幼い私は父に背負われて、どこかの川の瀬を渡っている。それだけの記憶であるが、その時の父の背中はそのままずっと、私の記憶の中にしっかり存在しつづけていた。
そして父が死んだとき、その背中がとつぜん無くなったような気がした。その時まで生きていた人がいなくなったというより、私の中にあった大きな背中が無くなった、そんな喪失感だった。

農家の家を飛び出した父は、一代きりの商人だったがよく稼いだ。そのお金で5人の子供を育て、のちには老いた母を立派な介護施設に入れることもできた。
私は25歳まで仕送りをしてもらったが、自立しても父ほどに金を稼ぐことは出来なかった。やはり、まじめさと真剣さが足りなかったのかもしれない。
ときどき、父の帽子のことを思い出す。あの帽子を被っている父の姿を想像すると、なんだか複雑な気分だ。この春、父の年齢に追いついた私は、あの帽子より少しだけ大きな帽子を被っている。

 

 

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だったん、春の足音が聞こえてくる

2025年03月11日 | 「2025 風のファミリー」



季節は海のようだと思うことがある。秋は引き潮のように遠ざかってゆき、春は満ち潮のように寄せてくる。大きな季節の巡りのなかで、遠ざかっていたものが、ふたたび戻ってくる。春はそんな季節だろうか。
遠くから潮騒のような音を引き連れてやってくる。春は、海からの音が聞こえてくるような気がする。

お水取りが終わると春が来る、と近畿では言われている。奈良東大寺二月堂でのお水取り(修二会)の行事は、3月1日から14日までの2週間行われる。
火の粉を散らしながら外陣の廊下を駆け抜ける大松明(おおたいまつ)は、11人の練行衆を本堂へ導くための足元を照らす明かりだという。激しくて華々しい火の粉を、冷たく深い闇にまき散らしていく。冬の大気を焦がしながら、強引に春の扉を押し開いていくようだ。

かたや堂内では、千年以上も欠かさずに続けられてきた行法が、現代もひそかに行われている。司馬遼太郎の『街道をゆく』の中に、閉ざされた堂内の様子が次のように記述されている。
「どういう変動期にも、深夜、二月堂のせまい床の上を木沓で走り、また跳ね板の上に自分の体を投げて五体投地をやり、あるいは「達陀(だったん)」という語意不明のはげしい行法では、堂内で松明を旋回させてまわりに火の粉をふらせるのである」と。

せわしく駆けまわる木沓の音を、本堂をとりまく外陣の廊下に居て聞いたことがある。背後のぼんやりとした燈明のなかで動く影に、こもりの僧たちが行をする気配が漂っていた。奇妙にかん高い音のひびきと突然の静寂。冬から春へと移ろうとする季節の分かれめで、闇の窪みから生まれ出ようとする生き物がうごめいているようだった。そのような生き物のイメージが、「だったん」という言葉と音になって、しばらくは頭から離れなかった。
「だったん」という不思議な言葉は、あれから、私の中で春の音になったのだった。木を打つ音。土を踏みしめる音。扉を叩く音。今また、春の足音となって聞こえてくる。

 

 

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わたしを忘れないで

2025年03月07日 | 「2025 風のファミリー」



新しい朝は、どこからかやってくる。
明け方の、薄れかかった夢の中へ、ラジオの低い声が侵入してくる。
ニュースでもない、朗読でもない。アナウンサーの声に乗ってくるのは、誰かが放送局に送った「お便り」だった。
その年は、お雛様が飾れなかったという。とおい終戦の年のことらしい。だいじなお雛様が食料の米に代わってしまったのだ。ひと粒の米が、人の命をつないだ時代の話だった。

その人はお雛様を手放したことが忘れられない。生きることが辛かった時代を忘れられない。まさに、その年の3月10日には、東京大空襲があり、10万人が命を落としたという。そんな時代のかなしい話だった。
お便りの人は、この季節になると、その失われたお雛様のことや、戦禍で亡くなった親しい人たちのことを、しみじみと思い出すという。
お雛様が繋いでくれた貴重な命を生き延びて、その人は無事にこの春を迎え、今もそのお雛様の行方を偲んでいるのだった。

わたしを忘れないで……
という小さな声が聞こえてくるようで、この季節になると、わが家のお雛様とも1年ぶりの再会となる。
戦後に生まれた、わが家のお雛様はいまも無事である。米に代わることもなかった。贅沢な生活はできなかったが、米のご飯が食べられない日はなかった。なんとか平和な時代を生きてこれたといえる。

質素なお雛様だが、その年によって大きく見えたり小さく見えたりすることはあった。娘が生まれた6畳ひと間の生活だった頃は、お雛様もそれなりの存在感があった。わが家の貧しい生活には似つかわしくなかったものだ。もう少しで、米と代わってしまいそうな生活だったかもしれない。
その後も住むところや生活によって、お雛様の表情も明るいときや暗いときがあったりした。

わたしを忘れないで……
という声は小さい。だが、その小さな声は語りつづける。楽しかったことや辛かったことなど、あんなことやこんなことや、雛の人形とともにあった日々のことなど、いつも同じ話ばかりだったりするけれど、変わらない顔の人形が語る小さな声には、しみじみ耳を傾けてしまう。

 

 

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人形のとき

2025年03月02日 | 「2025 風のファミリー」



まだ雪が舞う日もあるような春だった。九州の田舎の、すり鉢のような小さな街を、雛の節句を祝う静かな華やぎの風が漂っていた。
さまざまな雛人形が、古い時代の装いや表情をして、家々の玄関や店先に飾られていた。人形のあるところには、いつもとはちがう少しだけ華やいだ風景があった。
住む人も減り、人の影もめっきり少なくなったのに、着飾った人形ばかりが勢ぞろいして、かつて賑わった街の記憶を無言で語りかけてくるようだった。

そんな季節に、父は逝った。
父は翌日出かける予定があったのか、ていねいに髭を剃り顔も洗って寝た。そして、夢のなかで出かける場所を間違えたのか、そのまま戻ってくることがなかった。
その夜、家族は眠り続けている故人を取り囲んで、記憶の中の父と語り合った。冬でもないが春でもない、夜が更けるにつれて外の冷気に包まれてくる。すこしでも暖を取ろうと、寝かされた人の夜具に手や足を入れてみるが、死んだ人の氷のような冷たさが、夜具にまで重たく沁み込んでいた。

父を送る慌ただしい数日間が過ぎて、気持ちの整理もできないまま、雛祭りをする街の中を歩いてみた。
人形の顔は何百年も変わることがない。古い時代の人形は、いまも古い時代を生きているようにみえた。人形の記憶は、失われることも蘇ることもないのだろう。変わらないということは、人形の不気味さでもあり、変わらない表情のままで、人の記憶の脆さをじっと見つめ返してくるようだった。

人はさまざまな記憶を失ったり蘇らせたりしながら、記憶と現実の流れのなかで、とても危うく生きているのかもしれない。
最近、妻の記憶が曖昧になった。娘が置いていった小さなお雛様を、毎年この時期になると出すのだが、妻は初めて見るような顔をして眺めている。娘が生まれた最初のひな祭りに、娘を抱いて池袋の東武デパートにお雛様を買いに行ったが、妻はその時の記憶も失くしている。ときには娘の名前さえ忘れてしまう。変わらない表情で、様々なことを語ってくれる人形と、妻はただ可愛いと言いながら対面している。かたわらで今は、人形の時だけが静かに流れている。

 

 

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天然のスイーツ

2025年02月27日 | 「2025 風のファミリー」



山裾の一角の、岩肌が露わになったなんでもない場所が、とつぜん夢の中で浮かび上がってくることがある。ふだんは思い出すこともないが、子供の頃のある時期には、とてもだいじな場所だったようなところ。そんな場所だ。
そこはいつも、山の清水が滴り落ちている。寒い冬の朝、雫が凍って氷柱(つらら)になっている。手を伸ばして氷柱を折る。細く尖った先の方から口に入れてガリリっと噛み砕く。氷が溶けて、口の中に草のような土のような匂いと味がひろがる。冷たくて麻痺した舌に、岩肌を伝ってきた岩苔の味もかすかにのこる。

それは夢の情景だが、目覚めてみると、子供の頃の記憶の情景と鮮明に繋がっている。北国の冬ではないから、いつも氷柱が出来るとはかぎらない。とくに寒い朝だけ、その一角に珍しく貴重な氷の柱が現れる。
氷柱には大小のさまざまな形があった。子供にとって、その不思議な形と輝きは、とても自然の造形とは思えないものだった。
氷だから、手に持っているとすぐに溶けてしまう。ポケットに仕舞うわけにもいかない。大切なもののようだけど、どうしていいかわからない。とりあえず口に頬張ってしまう。噛み砕いてみる。とくに美味しいものでもなかったと思う。

秋の山ぶどうやアケビは、甘かったり酸っぱかったりするものだった。葛の根や甘根草の根はすこし苦かった。春先のツバナの白い穂は無味だった。
食べられると教えられたものは、なんでも口にしてみる。野山にあるものに接すること、それが田舎の子供たちの遊びであり習性でもあった。まず咀嚼してそれぞれの味を確かめてみようとする。そうやって、しらずしらずに自然の味が、小さな体にしみ込んでいったのかもしれない。

タイムカプセルを開けるように、夢はときどき古い箱を開いてみせる。
記憶の氷柱をガリリっと齧っているのは、子供なのか大人なのか夢の中ではわからない。美味しくも不味くもない、曖昧な味がする。
細い氷の柱。小さな体が記憶した天然の味。たまたま寒い朝に恵まれた物。定められた場所に、有れば歓喜し無ければ落胆した。いまでも夢の雫となって滲み出してくるほど、私にとっては忘れられない、とても美味な冬のスイーツだったようだ。

 

 

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