近くの公園に、丸い形をした石の椅子がある。椅子は数個あり、それぞれの座面にいろいろなわらべ唄がプリントされている。そのひとつに座って、私は瞑想もどきをすることがある。今朝の椅子には、次のような唄があった。
おさらじゃないよ はっぱだよ
はっぱじゃないよ かえるだよ
かえるじゃないよ あひるだよ
あひるじゃないよ かっぱだよ
解るようで解らない唄だ。ややこしい椅子に座ってしまった。私の雑念が始まる。
椅子は一所不動。それ自体が常に瞑想状態にあるといえる。その椅子に腰掛けて瞑想しようとする私は、言葉が迷走する椅子と対峙し、すぐさま雑念に捉われることになる。
瞑想が極まれば木の葉が地面に落ちる音が聞こえるそうだが、私の耳に入ってくるのは「はっぱじゃないよ」という雑音ばかりだ。はっぱでなければ何なんだ。おさらだよ、という声が聞こえる。そして、すぐさまそれを否定する声が聞こえてくる。かえるだよ、あひるだよ、いや、かっぱだよ。あひるもかっぱも迷走する。
視乎冥冥 聴乎無声とは荘子の言葉だったかな。見えないものを見、声なき声を聞けと言われても、見えるものは、目の前の雑草と子ども達が書きなぐった地面の落書き。
ネットで瞑想という言葉を検索したら、私のパソコンでは、まず「迷走」と出てくるのが皮肉だ。これまでどれだけ多くの「迷走」を打ち込んだものやら。そのあとに「目を閉じて静かに考えること。眼前の世界を離れてひたすら思いにふけること」と変換される。だがはっぱの世界は脳裏を離れず、重たい冬空がずっと眼前を塞ぎつづける。
私の尻の下で静かに瞑想するのは、私ではなく冷たく固い不動の椅子だ。その椅子が捨てていく、おさらやはっぱの雑念が、私の想念をつぎつぎに浸食してくる。瞑想しているのは椅子なのか、私なのか分らない。頑として動かない石の椅子には叶わない。ついにはタイムアップ。私は雑念そのものの塊となって立ち上がる。
この雑念を背負って、きょう一日が始まることになる。おさらやはっぱごときを、今日一日の活力にできるのだろうか。
雑念は濁った水のようなもので、私の体の中を駆けめぐる。朝から昼へ、昼から夜へ、すこしずつ濾過され蒸留されて、一滴の澄んだ水が残るときもある、残らないときもある。今日という日を記憶に残せるときもある、残せないときもある。
おさらであったり、はっぱであったり、あるいはかっぱであったりしながら、日々は雑念の中で雑念と闘いながら過ぎてゆく。
「2025 風のファミリー」