季節は海のようだと思うことがある。秋は引き潮のように遠ざかってゆき、春は満ち潮のように寄せてくる。大きな季節の巡りのなかで、遠ざかっていたものが、ふたたび戻ってくる。春はそんな季節だろうか。
遠くから潮騒のような音を引き連れてやってくる。春は、海からの音が聞こえてくるような気がする。
お水取りが終わると春が来る、と近畿では言われている。奈良東大寺二月堂でのお水取り(修二会)の行事は、3月1日から14日までの2週間行われる。
火の粉を散らしながら外陣の廊下を駆け抜ける大松明(おおたいまつ)は、11人の練行衆を本堂へ導くための足元を照らす明かりだという。激しくて華々しい火の粉を、冷たく深い闇にまき散らしていく。冬の大気を焦がしながら、強引に春の扉を押し開いていくようだ。
かたや堂内では、千年以上も欠かさずに続けられてきた行法が、現代もひそかに行われている。司馬遼太郎の『街道をゆく』の中に、閉ざされた堂内の様子が次のように記述されている。
「どういう変動期にも、深夜、二月堂のせまい床の上を木沓で走り、また跳ね板の上に自分の体を投げて五体投地をやり、あるいは「達陀(だったん)」という語意不明のはげしい行法では、堂内で松明を旋回させてまわりに火の粉をふらせるのである」と。
せわしく駆けまわる木沓の音を、本堂をとりまく外陣の廊下に居て聞いたことがある。背後のぼんやりとした燈明のなかで動く影に、こもりの僧たちが行をする気配が漂っていた。奇妙にかん高い音のひびきと突然の静寂。冬から春へと移ろうとする季節の分かれめで、闇の窪みから生まれ出ようとする生き物がうごめいているようだった。そのような生き物のイメージが、「だったん」という言葉と音になって、しばらくは頭から離れなかった。
「だったん」という不思議な言葉は、あれから、私の中で春の音になったのだった。木を打つ音。土を踏みしめる音。扉を叩く音。今また、春の足音となって聞こえてくる。
「2025 風のファミリー」