風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

星の世界をゆく

2025年01月30日 | 「2025 風のファミリー」



いままでに見た、いちばん心に残った夜空の星は、標高1800メートルの山頂で見た星空だった。
美しいとか素晴らしいというよりも、圧倒されたと言った方がいいかもしれない。星が幾重にも重なって輝いている透明な壁のようだった。手を伸ばせば触れることができそうで、それでいて無限に深く澄み渡っているのだった。星ではない何か、空を覆いつくしているもの、空そのもの。昼でもない夜でもない、もうひとつの、はじめて見る空の形だった。

夜に向かって山に登るな、という山登りの鉄則は知っていた。だが、目当てにしていた麓の山小屋が雪崩をうけて潰れていた。もはや引き返すこともできない。そのまま山を越えることにしたのだった。
すでに陽も沈み、登るほどに夕闇が追いかけてきた。山頂に着いたときは、すっかり夜の幕が下りていた。冷たい風が吹き抜けていくなかで、無数の鈴を鳴らすような澄んだ響きが辺りに満ちていた。凍った草の葉先が触れ合ってガラスのような音を発しているのだった。まるで満天の星と共鳴する天上の音楽だった。

体が急激に冷えたので、コンクリートでできた無人の非難小屋に入って風を避けた。中は何もなく暗闇だ。四角いがらんどうの窓に、ぎっしり詰め込まれたように光っている星。充満しているのに空洞のような、異界の景色を見ているようだった。
懐中電灯で5万分の1の地図を照らし、目指す谷あいの山小屋の位置を確かめた。どこも一面の雪だから、道があるかどうかもわからない。自家発電が止まってしまわないうちに、山小屋にたどり着かなければならなかった。

斜面を下りはじめたら風もなくなった。明るすぎるほどの星空に比べて、足元はあやふやな闇の底だった。懐中電灯で照らされた所だけ積雪が白く浮き上がる。わずかに平らな部分を道だと推測しながら足を下ろす。確かなものがない心もとない歩行だった。
積雪の表面に張った薄氷が靴の下で細かく砕ける。その感触だけが歩いているという実感だった。立ち止まると砕けた雪氷の細かい欠片が、闇の斜面をすべり落ちていく。そのせせらぎのような音はしばらく鳴り止まない。吸い込まれていく音の先には深い谷があるようだ。足を滑らせたら、どこまで落ちていくかわからなかった。

星空が美しすぎて恐かった。山の鉄則を犯した自分は、すでに異界の宇宙を歩いているのかもしれないと思った。無数の星が饒舌に瞬いている。しかし音を発するものはひとつもない。豊穣なのに静寂、ひしめき合っているのに言葉はない。
星々の異常なまでの明るい輝きと地上の闇。それは、ぼくがそれまで生きてきた世界ではなかった。生の世界から死の世界へと入っていくのは、容易なことかもしれないと思った。気付かないうちに、その一歩を踏み出していて、ふと居眠りをする、その程度のことが起きようとしているのかもしれなかった。

どのくらい歩いただろうか。妄想か現実かわからない中で歩行を続けていたら、とつぜん暗闇のずっと先に光っているものが見えた。宇宙から落ちた星がひとつだけ光っているようだった。いままで自分は宇宙を歩いていたのか。感覚がすこし狂っていた。
この地上にも光は存在し、光を発するものがあるということを認識するのに間があった。それは温かくて柔らかい色をしていた。そこには人が居て生きていると思える色だった。体じゅうが熱くなった。深い雪に足をとられながら、その光る地上の星を目指してまっすぐに歩いていった。

 

 

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