goo blog サービス終了のお知らせ 

風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

海の道

2024年06月13日 | 「2024 風のファミリー」

 

姪の結婚式に招待され、九州に帰ってきた。
私の九州への道は、瀬戸内海の海で繋がっている。そこにはいつもの慣れた道がある。詳しくはわからないが遥かなとき、海を渡った種族の血が海の道へと誘うのかもしれない。祖父は四国から九州へ渡った。父は大阪から九州へと渡った。私は九州から大阪へと渡った。海を渡ることによって、体の中の血も沸きたち動くような気がする。

航行は夜なので、点在する島々の小さな明かりしか見えない。闇に浮遊する、あやふやな光の道しるべに誘導されるのが心地いい。おだやかな潮の流れに浮かんで、日常とは違う波動で夢のなかを西へ西へと運ばれていく。海の道は忘れていた何処かへ戻ってゆくような、緩やかな夢路でもある。
夢から覚めると、朝もやの海に浮かび上がってくる、山のかたちと風のにおいが懐かしい。深く深呼吸をして、すべての風景を吸い込みたくなる。山が街が空が大きな塊となってゆっくりと近づいてくる。

フェリーのエンジン音がいちだんと高くなって、船腹がすこしずつ岸壁に寄っていく。港の人や車やコンテナなど、地上にあるもろもろのものを引き寄せてくる。
海上ではほとんどコンピューターで航行するという9千トンの巨大な船体が、エンジンを止めると港では細いロープで岸壁に繋がれていく。大きな動物が急におとなしくなったようだ。
ここから海の道は陸の道に切り替わる。地上に降り立つと九州の朝がもう始まっている。快晴の空に向かって、山の端が朝陽を背に受けて輝いている。人も車も忙しく動いている。

新緑の明るい丘の上に、ひととき知った顔や知らない顔が集まった。神父もいない、仲人もいない。セレモニーは若い感覚と熱気で演出され進行されていく。会堂の大きくて白い壁面がスクリーンとなり、ふたりのそれぞれの成長の記録と、ふたりの出会いとその後のスナップが映し出される。いくどもフェードインし、フェードアウトする。
映像の過去から祝宴の現在へと、長いカーテンがいっせいに開かれると、戸外がオープンになり、緑色の陽光が会場いっぱいに流れ込んでくる。自然のスポットライトの中で、華やぎは光の中で光を放ちながら始まり、光のように速やかに過ぎ去る。木々の緑と風と、花々の輝きとゆらぎと、歓声と喧騒とフラッシュと、初夏の季節のように豊穣なざわめきがあった。

最後にふたたび暗転。
壁面にはふたりのスナップを背景に、映画のエンドロールのようにつぎつぎと列席者の名前が映し出された。それぞれが自分の名前を見つけては、きょうのキャストの一人だったことに満足する。そして、感動を共有しながらフィナーレへ。
車椅子で参列した母は、だれの結婚式や、と会う人ごとにたずねる。生まれた時から近くで育った孫の花嫁姿をなかなか認識できない。2階で跳びはねて天井の埃を散らしていた、おてんばな女の子しか知らないと言う。母の記憶はとおい過去の波間を漂いつづけている。今日という日に居ながら、今日という日に居ない。明かりの見えない海を渡ろうとし始めているのかもしれない。
海の道はどこまでも続いているようだった。




「2024 風のファミリー」




 


ガラス玉遊戯

2024年06月08日 | 「2024 風のファミリー」

 

久しぶりに、孫のいよちゃんに会ったら、前歯が一本なくなっていた。笑ったとき、いたずらっぽくみえる。乳歯が抜けかかっていたのを、えいやっと自分で抜いてしまったらしい。それを見て母親はびっくりしたと話していた。
その母親は、初めて乳歯が抜けたとき大声で泣いたものだった。親子でもたいそう違うものだ。

わが家に来ると、いよちゃんはどこからか、おはじきを取り出してくる。彼女の母親が、子どもの頃に遊んでいたものだ。私は昔の男の子だから、おはじきは得意ではない。それで、ちょうど組みし易い相手として、私が選ばれることになる。
彼女は負けず嫌いだから、ズルばかりする。ルールは無視するし、形勢が悪くなると、いっきにかき集めて自分のものにしてしまう。そんな、おはじき遊びだった。

きょうは様子がすこし違っていた。おはじきとおはじきの間に指を通す。そのとき微かにでも指が触れると、彼女はあっさりと手を引っ込める。ちゃんとルールを守っているのだ。
私も真剣になった。ガラスの小さな玉をはじくとき、自分の指がすごく無骨にみえた。おはじきの玉はやはり、女の子の細い指の方が似合っている。

ガラス玉を球形にしたのがビー玉で、押しつぶして扁平にしたのがおはじきだ。ふたつのものは、男の子と女の子の遊びの領域を分けていた。ビー玉は戸外の遊びで、おはじきは室内の遊びだった。男の子と女の子の間で、ガラス玉遊戯の越境はなかった。
ただ、ガラス玉はどちらもさまざまな色模様が入っていて、宙空にかざすと、その中に不思議な絵柄が見えるようだった。初めて宇宙の輝きを覗くみたいな、ちょっぴり心躍る体験だったかもしれない。

おはじきもビー玉も、いまでは珍しい遊びになってしまった。おはじき遊びは、おはじきとおはじきの間隔がだいじだ。うまく当てたり外したりして一喜一憂する。
いよちゃんの口元からのぞく前歯の隙間が、おはじきとおはじきの隙間とだぶって、おかしかった。
わがままな女の子が、まともな遊びができるようになったのは、乳歯が一本抜けて、その分だけ幼さがぬけたからかもしれない。




「2024 風のファミリー」





心の旅をしてみる

2024年06月03日 | 「2024 風のファミリー」



最近読んだ旅の冊子に載っていた記事で、「仏とは自分の心そのもの」という言葉が頭の隅に残っている。旅に関する軽い読み物の中にあったから、ことさらに印象に残っているのかもしれない。
仏縁とか、成仏とか、仏といえば死との関わりで考えてしまうが、仏が自分の心そのものという考え方は、生きている今の自分自身をみつめることであり、仏や自分というものを死という概念から離れて、もっと明るい思考へと誘ってくれる気がした。

宗教としての仏教は、難しい教義や儀式があって、われわれの日常生活からは遊離してしまっている。葬式や法事など、儀式としての形だけで関わっているにすぎない。しかし、ときには本来の仏教がもっているにちがいない、生きるための宗教としての部分にも触れてみたくなった。
丹田に力を込め、静かに呼吸を整えながら瞑想をする。深い呼吸によって体のリズムを整えれば、一時なりとも雑念が取り払われ、ありのままの自分の心がみえてくるのではないか。ありのままの心など何処にあるのかと問われれば、あまり自信はないけれど、とりあえずはストレッチでもやるような、軽い気持でやってみる。

普段は敬遠しがちであるが、もともと禅の核心にある教えは、「とらわれない、こだわらない、かたよらない、ありのままの心の状態になる」といった、シンプルで解りやすいものらしい。もとは何でも簡素なものなのだ。そのような無我無心の境地に到ろうとすることが、古代インドで行われていた一般的な修行法だった。そこから得られるものが「仏心」といわれるもので、仏心とは「そもそも心が安全な場所なんかないのであり、その事実を素直に受け入れること」を意味するらしい。じつに素っ気ないものだ。心の安心はないということを知って、心の安心を得ようとするのだ。

さらに、「静かに自分の心を見つめ磨きをかければ、無垢の輝いた仏心が現れる」という。この言葉は観念的で理解しにくいが、この究極の状態を悟りをひらくというのだろう。だが、そこまで到ろうとするのは、われわれ凡人にはどだい無理な話だし、到ろうとする邪心が邪魔して、仏(仏心)はさらに遠ざかってしまうにちがいない。
花や木や山の存在は目に見えるし、手が届くかどうかの距離の判断もできる。けれども、心の距離は見ることも測ることもできない。たとえ自分自身の心であっても、宇宙のように果てなく遠く思われる。しかし、自分の心をみつめるということは、心身をリフレッシュして、心の風景を眺める旅のようなものと考えれば、すこしは自分の心の深奥に近づけるかもしれない。




「2024 風のファミリー」





花の名前は

2024年05月28日 | 「2024 風のファミリー」



キハナ(季華)という名の女の子の孫がいる。いつのまにか、女の子とも言えないほど成長してしまったけれど。その命名には、私も関わりがある。四季折々に咲いている花のようにあってほしい、という思いを込めた名前だった。彼女が花のように育っているかどうかは、まだわからない。いつのまにか高校生になったと思ったら、もうすぐ卒業しようとしている。

何かをたずねると、「わからへん(わからない)」という答えがかえってくる。それが口癖になっているのかもしれない。本当にわからないのかわかっているのか、よくわからない。「わからへん」と言いながら、何事もすいすいとこなしてしまう。脳天気ともいえるが、善意に解釈すれば、いつも自分でわかっていることよりも、さらに先の未知の部分をみつめているのかもしれない、ともいえる。未知のことは、誰でもわからへん(わからない)ものなのだ。

昨年の夏には、通っている高校の学園祭があり、招待券をもらったので参観に行った。クラスで創作劇をすることになり、彼女は尻込みしたが、皆んなに背中を押されて出ることになったと聞いた。劇が始まってみると、彼女はなんと劇中のヒロイン役だった。演技はぎこちなかったが、現代っ子らしい激しい動きのダンスや、さまざまな場面転換の雰囲気を、それなりに楽しんでこなしているようにみえた。

いつからか、大学は東京に出たいというのが彼女の夢になった。家庭の経済のことも考えて、寮のある国立の某女子大がターゲットになった。かなり手ごわい大学だが、推薦入学の一次審査を通り、先日は東京の大学まで二次の面接試験を受けに行った。あいかわらず、どこまでわかっているのかわかっていないのか、試験が楽しみだと言いながら、るんるん気分で出かけていったようだ。

だが面接試験が終わると、とたんにどん底に落ち込んでしまった。まさか面接官の質問に「わからへん」とは答えなかったと思うが、面接官に椅子をすすめられる前に、さっさと自分から座ってしまったし、終わったあとも退席の挨拶もしなかったような気がするという。前もって高校で指導された、面接の基本的なことをミスしてしまった。だからもう駄目だという。
本人は緊張することもなかったというが、あがっていることもわからへんほど、舞い上がっていたのかもしれない。それから3週間、彼女にとっては珍しく暗い日々がつづいた。

合格発表は大学のホームページにアップされると聞いていたので、指定された日のその時間を待って、パソコンにアクセスしてみた。そこには彼女の受験番号があった。なんども確かめた。まるで受験生本人のように動悸がした。さっそく彼女に電話をすると、ほんまに?ほんまに?と、信じられないといった声。パソコンがなぜか繋がらなくて焦っていたという。パソコンが不調だったのか彼女の操作が間違っていたのか、そのことはたぶん、彼女にも「わかれへん」かっただろう。
かくて、彼女の新しい進路も決まった。いまは喜びが大きすぎて、どう喜んでいいのかわからずに戸惑っているようだ。東京での生活は、ほんとの「わかれへん」ものが、もっとたくさん待っているだろう。そこでも「わかれへん」という呪文で、なんとか乗り切っていくのだろうか。




「2024 風のファミリー」





ひとよ 昼はとほく澄みわたるので

2024年05月22日 | 「2024 風のファミリー」



このところ、芳しい若葉の風に誘われるように、ふっと立原道造の詩の断片が蘇ってくることがあった。背景には浅間山の優しい山の形も浮かんでいる。白い噴煙を浅く帽子のように被った、そんな山を見に行きたくなった。

ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした……


私も灰の降る土地で育った。幾夜も、阿蘇の地鳴りを耳の底に聞きながら眠った。朝、外に出てみると、道路も屋根も草や木々の葉っぱも、夢のあとのように色を失って、あらゆるものが灰色に沈んでいた。だから、静かに灰の降る土地に親しみがあった。林の上には沈黙する活火山がある、そんな風景のなかで詩を書いた詩人に、特別な親近感があった。

立原道造は昭和14年3月に、25歳の若さで死んだ。たくさんの美しい詩を残した。
道造が生涯を終えた同じ年頃に、私は新しい生活を始めようとしていた。それまで私は一編の詩も書いてはいなかった。ただ、道造の詩を愛読するひとりにすぎなかった。浅間山と、軽井沢追分の地名と、幾編かの詩の断片が、青春の熱のように私の後頭部を熱くしていた。

新しい生活を始めるために、私たちは上野から汽車に乗った。夜遅く着いた軽井沢のホテルの食堂に、ふたり分の夕食だけが残されていた。そのテーブルに向かい合って座ったとき、ふたりの生活が始まったと実感した。宿泊客がほとんどいない5月のホテルで、2日間、私たちは食事時間以外は、まるで忘れられた客のようになって過ごした。

部屋の前には林と広い芝生の庭が広がっていた。それがゴルフ場であることも知らなかった。終日、誰もいない芝生の上に寝転がって、聞いたこともない珍しい鳥の声に驚いていた。辺りの木々は新緑に包まれ、林の上の青い空には、消え入りそうな優しい形をした山があった。それが浅間山だとはじめて知った。

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫ぜて行く
朝のしめったそよ風の……さうして
一日が明けて行った 暮れて行った


静かに始まった草原の1日に続いて、つぎつぎと慌ただしく1日が明けて行った、暮れて行った。
子どもが生まれて生活が厳しくなった。仕事は楽しかったが、東京の生活に行き詰まりを感じて、身寄りの多い大阪へ移った。日々の生活に追われ時を忘れ、詩や詩人のことなどすっかり忘れた。10年間、家族の生活と平安のために不本意な仕事に耐えた。

やがて、自分がいちばん大事と思い直し、やりたかった好きな仕事を始めた。東京時代に習得した印刷関連の仕事だった。好きなことだから時間も忘れて没頭できた。やればやるだけの収入も得られた。家族も増え住宅も車も手に入れた。あっという間に毎日が明けて行った、暮れて行った。

やがて成長した子ども達が仕事や結婚で家を出ていった。
それまでコンピューターを使ってこなしてきた仕事を、こんどはコンピューターに奪われるようになった。私の作ったデータは無償でコピーされ再生され、私の手から次第に離れていった。さらに同じ仕事を続けるには心身ともに限界にきていた。私は仕事をなくし、同時に家も車も失った。

あとには夫婦2人だけの生活が残った。
生活の不安はあったが、私は妻の同意も得て仕事から離れた。だが残されたものは貧しさと自由な時間だけになった。ほかにも何か残っているかは分からなかったが、私は詩のことを思い出し、少しずつ詩のようなものを書くことを始めた。

しづかな歌よ ゆるやかに
おまへは どこから 来て
どこへ 私を過ぎて
消えて 行く?


ふたたび5月。2人で何十年ぶりかで軽井沢を訪ねた。青く湿った風に吹かれたいと思った。貧しさの中で、貧しかった若い頃に、私の魂は帰りたがっているようにみえた。

ああ ふたたびはかへらないおまへが
見おぼえがある! 僕らのまはりに
とりかこんでゐる 自然のなかに


そこには、変わるものと変わらないものがあった。かつて泊まったホテルの名称も変わっていた。林の木々はやわらかい緑に染まり、鳥たちは、甲高く透き通った声でしきりに鳴いていた。そして浅間山は、懐かしい記憶のかたちのままで残っていた。

ひとよ 昼はとほく澄みわたるので
私のかへって行く故里が どこかにとほくあるやうだ



        (文中の詩はすべて、立原道造の詩集から引用したものです)




「2024 風のファミリー」