風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

ネズミはどこへ消えたか

2024年07月11日 | 「2024 風のファミリー」

 

いまでは、いちばん古い記憶かもしれない。
幼少期、祖父に力づくで押さえつけられ、灸をすえられたことがあった。だからずっと、祖父のことを恐い人だと思っていた。
その後は九州と大阪で離れて暮らすことになったので、長いあいだ祖父には会うことがなかった。高校生になり一人で旅行ができるようになって、10年ぶりに祖父と会ってみると、おしゃべりな祖母の後ろで静かにしている、そんなおとなしい人だった。

夏休みの短い期間だったが、無口な祖父と高校生では会話も少なかった。だが気がつくと、祖父は私のそばに居ることが多かった。なにか用がある風でもなく、ただ黙ってそばに居た。
そんな祖父だったから、その口から出た少ない言葉はよく覚えている。
それは息子のこと、すなわち私の父のことだった。父はよく障子や襖にいたずら書きをする子どもだったという。つい見入ってしまうような絵だったので、叱ろうとするときには、すでにその場から逃げ出していたという。
息子のいたずらには、灸をすえることも出来なかったようだ。

父はらくがきの絵心を、生涯ずっと持ち続けていたかもしれない。父がだいじにしていた花札がある。その花札のすべての絵は、父が若い頃に描いたものだと自慢していた。
農家の次男坊だった父は、わんぱくで勉強嫌いだったので、早くから家を飛び出した。行先は大阪の老舗の粟おこし屋だった。そこでは菓子作りの地味な職人ではなく、むしろ商人として鍛えられたようだ。それで絵描きではなく商人としての道が決まってしまった。

私の記憶の中では、父は一度だけ絵を描いたことがある。
どこかの田舎の道を描いたもので、その道の真ん中に赤っぽい大きな塊が描かれてあった。その赤いものを何かと尋ねたら、それは夕焼けに染まった石だと、父は答えた。そんな石のようなものが絵になるのかと、ぼくはびっくりした記憶がある。日々の生活に追われていた父が、絵など描いたのを見たのは、それだけだ。

祖父は死ぬ前に、朦朧とした意識の中で、3匹のネズミが九州から会いに来たなどと、うわ言のように言ったと、後になって聞いたことがある。どうやら3匹のネズミとは、私と2人の妹たちのことだったらしい。
ネズミの祖父は白髪だったが、その息子である父は歳とともに髪の毛が薄くなった。ひな鳥のようになった頭を、孫たちが面白がってからかうと、寝ている間にネズミが髪の毛を齧りに来るんだと言って、チビたちを笑わせていた。
わが家のネズミは、父親の脛を齧っただけではなかったのだ。




「2024 風のファミリー」




 


記憶の川を泳いでいる

2024年07月05日 | 「2024 風のファミリー」

 

大気が湿っぽい今頃の季節になると、ふるさとの川で魚釣りばかりしていた少年のころを思い出す。さまざまな魚たちの、その素早い動きやなめらかで冷たい触覚は、いまでも手の平から滲み出してくる。
雨の匂いがすると、私はすぐに近くの川に飛び出していく。魚が呼んでいるというか、魚のにおいに引き寄せられるというか、釣り少年の本能がかきたてられるのだった。
そんなときは川上で雨が降っていて、川の水が急に濁りはじめて水かさも増してくる。大岩の脇の淀みを目がけて釣竿を振ると、そこには、水の濁りに異変を感じた魚たちが、避難のためかエサ取りのためか、いっぱい集まっているのだった。

ウグイのことを、その地方ではイダといい、まだ若い小型のものはイダゴと呼ばれた。大型のイダはもっぱら夜釣りで、小型のイダゴは昼間の川でもよく釣れた。
エノハと呼ばれていたのは、一般的にはヤマメのことで、ヤマメの幼魚をシバコといった。荒い瀬にひそんでいる美しい魚で、めったに釣れない貴重種だった。エノハとは榎の葉っぱからとった呼称で、シバコとは柴の子ということかと想像する。昔の人は木々の葉っぱの化身とでも思ったのかもしれない。

魚類図鑑などでみるカマツカのことは、カマスカと呼ばれていた。砂地が彼らのテリトリーで、砂に埋もれて目だけ出してじっとしている。箱メガネで覗きながらヤスで突いて捕ることもあった。
ドンコはドンカチとも呼ばれ、大岩の下などに潜んでいて、釣り落としても幾度でも食いついてくる愚鈍な魚で、釣りの初歩はドンコ釣りと決まっていた。
ハヤとかオイカワのことは、ハエと呼ばれていた。俊敏な動きで川の流れをかき回していた。ハエの成魚で口のまわりや腹部が赤くなったものは、アカブトと呼ばれ、岸辺のネコヤナギの陰などに潜んでいることが多かった。ハエに似たアブラメというのもいた。鱗はなく肌にぬめりがあって、食べても美味しかった。

鯉はコイ、鮒はフナで、ウナギやドジョウにも特別な呼び名はなかった。
その川にはなぜか、アユはいなかった。海から遠く、その頃はまだ放流もしていなかったからかもしれない。
川の瀬に張り付いている虫を餌にして、瀬釣りといって、瀬から瀬を渡りながら竿を振る。釣り糸につけた小さな綿くずの動きで魚信をキャッチして合わせる。そのタイミングが難しかったが面白さでもあった。瀬の深さや流れ方によって、釣れる魚はおおよそ決まっていたから、その川のことは知り尽くしていた。

川のそばに、四軒家と呼ばれる集落があった。
沖縄出身のトウマ(當間)さんという人が住んでいて、馬車で材木を運ぶ仕事をしていた。若い色白の奥さんが、家の裏の川でよく洗い物をしていた。そのあたりは川幅も広くて、浅瀬にはアヒルが数羽いつも泳いでいた。そこではシラハエと呼ばれる銀色の魚がよく釣れた。
ある日、馬車引きのトウマさんが、なにやら叫びながら血相を変えて走り回っていた。あとで知ったのだが、奥さんが川の浅瀬に顔を浸すようにして死んでいたのだった。いつものように、洗い物をしていて貧血を起こしたらしいとか、自殺をしたのかもしれないとか、おとなたちの間で噂がたっていた。

そんなことがあったりして、川が少し遠くなりつつあった。私もそろそろ、子どもの釣りから卒業する年頃だった。
川の瀬も狂気じみた魚が集まって朱色に染まる季節だった。魚たちは腹を真っ赤にして産卵をする。魚たちがより魚になるための、賑やかなのに静寂でもある、近づきがたい川の祝祭が始まっていた。
梅雨が明けると炎天の夏。川の魚たちは、岩陰やネコヤナギの下に静かに身をひそめる。大きな瀬も小さな瀬も、変わらずに流れ続けるだろう。私が釣竿を捨てたその時から、たくさんの銀色の魚が、記憶の川を泳ぎはじめるのだった。




「2024 風のファミリー」




 


6月の風

2024年06月29日 | 「2024 風のファミリー」

 

いまは6月の風が吹いている。
空は灰色の雨雲に覆われ、風はたっぷり湿っている。天気が気になる季節でもある。空を見上げることが多くなり、風や雲の存在が急に近くなる。
雲がだんだん厚くなっていくのは、水でいっぱいに膨らんでいるからで、風がせわしなく吹いているのは、雲の膜を破って雨を降らそうとしているからだ、などと思い込んでいた頃もあった。

雲の動きを見つめながら雲の形や色を、灰色のクレパスでノートに描き写してみたことがある。写しとってみると、それは雲ではなかった。雲は手に取ることも確かめることもできなかった。正確に写しとったつもりでも、ノートの雲はまるで別物だった。とても雲には見えなかった。
風や雲のような茫漠としたものを手にとってみること、ものの本当の姿を捉えようとすることは、とても難しいことだと知った。

草も木も潤って勢いづく、ちょうど今頃の季節だっただろうか、雲も捉えることができないくせに、特定の女の子を好きになることがあった。すれ違うとき、かすかに風が起きて良い匂いがした。
ときどき頭の芯や胸の奥が熱くなって、とりとめもなく膨らんでくるものを、無意識に吐き出したり吸い込んだりしていた。それは忙しげな呼吸のようなものだった。音にも言葉にもならない、自分でも捉えがたい想いに動かされているのだった。そんな曖昧な心の衝動を現わすことや、それを誰かに伝えることなど、まだ私にはできなかった。

なにかが、私の体の中を渦巻き吹き抜けていく。それは甘い薫りをはこんでくる、すこし湿り気を帯びた、6月の風みたいなものだったかもしれない。
そんな時はハーモニカを吹いた。ハーモニカは吐く息と吸う息の呼吸が、さまざまな音になる楽器であり、呼吸はまだ言葉にならない胸の中の想いのようなものだった。ハーモニカに息の風を吹き込んでいると、見えない想いが音になって広がっていき、呼吸だか風だかが一体になって、体全体が大きな風になったようで、いつのまにか呼吸と想いがひとつになっていくようだった。

とっくの昔にハーモニカを吹くことも忘れてしまったが、いままた6月の風を大きく吸い込むと、懐かしい風の匂いが体の中を吹き抜けていく。
6月は草木がさまざまな花をつけ、さまざまな実が熟していく季節でもある。風がどこから吹いてくるのかわからないけれど、ときに6月の風がやさしくて甘いのは、どこかで甘い花の蜜を吸い、熟した果実を齧ってきたばかりの、そんな風の息を感じるからかもしれない。




「2024 風のファミリー」




 


あんたがたどこさ

2024年06月24日 | 「2024 風のファミリー」

 

私が子どもの頃は、子どもたちはみんな、家の前の道路で遊んでいた。ゴム跳びや瓦けりは、男の子も女の子もいっしょになって遊んだが、球技はもっぱら男の子の遊び、鞠つきは女の子の遊びと決まっていた。ぼくも鞠つきには何回か挑戦したが、どうやっても女の子にはかなわない。女の子が手まり唄を歌いながら鞠をついているときは、側でぼんやり眺めているしかなかった。
 
    あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ
 
鞠つきが人一倍に上手なエミ子という女の子がいた。手まり唄の最後で、「それを木の葉でちょいとかぶせ」というところで、スカートでひょいと鞠を包み込む。このときに鞠を落としてしまうと駄目なのだが、エミ子の動作はすばやかったし、決して鞠を落とすこともなかった。ただ、エミ子はパンツを穿いていなかったので、鞠にスカートをかぶせるとき、スカートの中が丸見えになってしまうのだった。けれどもそのことで、誰もエミ子をからかう者はいない。彼女の報復が怖かったからだ。
 
    せんば山には たぬきが おってさ
 
この唄の「せんば山」のところを、ぼくは最近まで「てんば山」だとばかり思い込んでいた。てんば山のてんばは、お転婆の転婆で、パンツも穿かない勝ち気なエミ子にぴったりだったのだ。
エミ子は父親のことを「おとさま」と呼んでいた。近所の子どもたちは「おとうちゃん」とか「とうちゃん」が普通だったから、エミ子の「おとさま」は特異だった。お転婆娘にしては、言葉遣いだけが丁寧すぎた。

エミ子のおとさまは隠坊だった。その頃は、亡くなった人を焼く仕事がまだ残っていたのだ。
私の祖母も伯母も、おとさまの大八車で山奥の焼き場まで運ばれ、夜中に薪で焼かれた。そして翌日になって、おとさまが大きなかまどからごそっとかき出した灰の中から、身内のものが骨を探し出して拾い集めるのだった。焼き場の片隅には、残って捨てられた骨や灰が、山積みになって放置されていた。

エミ子には兄貴がひとりいて、この兄貴も父親のことを「おとさま」と呼んでいた。母親は早くに死んだらしく、父親と3人で小さな汚い家で暮らしていた。
エミ子の兄貴と父親はよく喧嘩をしていた。兄貴が竹の棒を持って父親を追いかけると、その兄貴をエミ子が追いかける。3人で大騒ぎしながら集落の道を駆け回る。まわりでは、また始まったという感じで、誰も止めるものはいなかった。

ずっとのちに、私が東京で学生生活をしていた頃、エミ子に頼まれ事をしたことがある。彼女は中学を卒業すると、東京で住み込みの家事仕事をしていたのだが、そこを辞めたときに最後の給料を貰っていないので、ぼくに受け取ってきてほしいというものだった。最後の給料をもらっていないということは、なにか訳ありな辞め方をしたような気がして、私は気が進まなかったのだが、なにせお転婆はいつまでもお転婆だから、気の弱い私は断りきれなかった。
エミ子からもらった住所のメモを頼りに、成城という街を半日歩きまわったが、ついに目的の家を見つけられず、そのことをハガキで彼女に連絡すると、あれは住所が間違っていたということで、私は無駄足をしてしまったのだが、その 時の彼女からの返信ハガキは誤字だらけで、それでいて言葉遣いだけがばかに丁寧だったのを覚えている。

エミ子のおとさまは、それからまもなく死んだということだったが、隠坊が死んだら誰が隠坊のおとさまを焼いたのだろうか。その頃にはもう、立派な火葬施設ができていたのかもしれない。それ以後、エミ子には会っていない。
手まり唄のてんば山がせんば山だということを知ったとき、私は可笑しかったと同時に、すこしがっかりした。パンツを穿かない少女が鞠つきをしているのは、やはり、せんば山よりもてんば山の方がふさわしかったからだ。
『あんたがたどこさ』などという手まり唄を、いまでは知っている人も少ないのではないだろうか。もしかしたら、肥後のてんば山では、パンツを穿いたタヌキが鞠をついているかもしれない。




「2024 風のファミリー」




 


木にやどる神

2024年06月19日 | 「2024 風のファミリー」

 

クリスチャンではないので、教会にはあまり縁がないが、旧軽井沢の聖パウロカトリック教会のことは強く旅の印象に残っている。その素朴な建物に魅せられたのだった。
引き寄せられるように教会の中に入ってしまったが、居心地が良くて、しばらくは出ることができなかった。周りの木々に調和した木造の建物は、柱や椅子、十字架にいたるまで、木が素材のままで生かされており、木の温もりがあり、その温もりの中に神が宿っていそうだった。ただそこに居て、木の椅子に座っているだけで、誰かに抱きしめられているようで心地よかった。

「初めに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なり」と規定される西洋の神よりももっと古い、言葉よりももっと古い神が、木には宿っているような気がしたし、私らが慣れ親しんでいる神があるとすれば、そのような木の神に近いものだと思った。
子供の頃の記憶で、大きな木の肌に耳を当てると神様の声が聞こえると言われた、そんな馴染みのある神が、この木の教会には、柱の陰などにひっそりと隠れているような気がした。

正面の十字架の後ろには四角い窓があり、眩い外光が室内のⅩ字型に組まれた木の柱や木の椅子に、やわらかい影を投げかけている。山小屋や農家の納屋にいるような、厳粛さなどとはちがった、もっと和やかで愉しい空気に包まれる空間があった。
やはり木は優しいのだ。木は建物の一部になっても生きつづける。その木肌に折々に触れた人々の汗と油を吸収し、艶となって鈍く輝いている。静かに昔語りをする老人のようでもあった。

いつか四国の古い芝居小屋を訪れて感じた、あの独特のくつろいだ雰囲気を思い出した。古くから土地の人々の生活とともにあって、そこには晴れやかに人々が集う日と、がらんとして静まり放置された日があり、その繰りかえされた生活の空隙に、木の舞台や奈落の装置は残されたままで、いまも人々を日常の外へと誘い出そうとしているようだった。
その場にいると、いつもより気分を高揚させる何かがあるのだった。あるいは夢幻の領域に引き込まれていくような、そんな不思議な感覚の中で時を忘れることができた。ゼウスの神とミューズの神が仲よく共存していそうな、やさしい木の棲み家だった。




「2024 風のファミリー」