風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

その林檎の味は変わらないか

2022年10月21日 | 「詩エッセイ集2022」




期せずして孫のiPhoneが 僕のところに回ってきた これまでずっと僕のスマホは 中華製の格安スマホだったが 孫が手にするアップルのスマホの スマートでしゃれたデザインを いいないいなと眺めていたのを 12型から最新の14型に 買い替えたのを機に 12型が僕のところに というか 僕にiPhoneを使わせたいと あえて14型に買い替えた ようでもあるが もちろん僕にとっては 羨望のiPhoneだから 断る理由は何もない それも最上位クラスのPro Max これで存分に写真が撮れると 僕にとってスマホは 通信よりもカメラなので それと懐かしい林檎のマーク ふたたび林檎を齧れる歓び 久しぶりの林檎との再会 その林檎とともに 苦闘した日々が甦ってきた その頃は文字の暮らし というか活字なるものが ぼくの生活の中心だった アルバイトで入った出版社で 写真植字というものに出会い さまざまな文字の形を知り 自在に文字を作るレタリングや 文字の美しさを視覚的に捉えていく タイポグラフィなどという 文字を扱う楽しさに熱中していた ところにちょうど アップルという林檎で スティーブ・ジョブズが開発したのが マッキントッシュという名のパソコン それによって 文字もデジタル化され 豊富な書体やバランスのとれた文字など パソコンで扱えるフォントが 彼によってさまざま創り出された 「マッキントッシュは世界で初めて美しい活字を扱えるパソコンになった」 とジョブズは言った 僕がはじめて手に入れたパソコン マッキントッシュは 日本語がとても貧弱だった 文字(フォント)の形も美しくはなく 種類も明朝体とゴシック体だけ まだ仕事として使えるものではなかった それでもマウスを操作すれば 自分で文字を作ることはできた モニターの何もないところに 文字が浮かび上がってくる それは新しい体験であり 未知の世界を発見する わくわくする楽しさがあった マッキントッシュという器械にも ふんだんに遊び心があり その感覚を享受できる喜びがあった 一方いきなり 爆弾マークが飛び出して 画面がフリーズしてしまうと 作業も心臓も止まるほどだったが 進化を続けるマッキントッシュに モリサワフォントが導入され 日本語フォントも豊かになっていく 写真植字のガラス板文字で モリサワの活字とは親しんでいたので パソコン上でも 馴染みの活字に再会できて嬉しく 仕事はどんどん拡大した そして時はすすみ ジョブズが最後に作り出したのは マウスではなく指先で操作できる iPadという掌にのる 小さなコンピューターだった パソコンが人に近づき 誰でも気軽に扱える器械になって 皮肉にもぼくのパソコンは 仕事としての機能を失っていく "Stay hungry. Stay foolish." (ハングリーであれ バカであれ)は ジョブズが若者たちに贈った言葉だった ぼくはもう若くはないけれど 今でもハングリーであり バカであると思っている バカは孫からもらったiPhoneの 小さなコンピューターの 林檎にふたたび齧りついている かつて飢えた魂で赤い林檎を齧った そのときの新鮮な感覚と感動を いままた取り戻そうとしている




自作詩『コスモス』



 


季節がずれていくように

2022年10月07日 | 「詩エッセイ集2022」

 

息をすると 鼻の奥にツンとくる この風の味が懐かしい 騒がしかった夏が終わり 季節が変わろうとして 静かに寄せてくる 周りの澄んだ静寂が 広い空間に感じられて その隙間にいろいろなものが 水のように沁み込んでくる 今まで聞こえなかった 微かな物音であったり 天井のしみや障子の破れなどが 急に見えてきたりして 夏の間にできてしまった 感覚のずれや反応のずれなど 小さなものかもしれないが 見詰めすぎると些細なずれが 亀裂になってしまうこともあったり ずれたままで重ならないままでも あえて心地のいい方へ動いていく ずれた感覚に浸ってみるのも ときには快いものだったりもして そのうち季節の方でも 少しずつずれながら 秋もしだいに深まってゆくようで 今はそんな季節だろうか 久しぶりに本を読みたくなって そうしていつのまにか 川上弘美の短編小説の 不思議な世界にずれこんでいく 熊の神様のご利益とは…『神様』 恋をする河童たちの…『河童玉』 壺の中で生きる若い女の…『クリスマス』 人魚への奇妙な偏愛…『離さない』など 日常生活から少し ずれた非現実なところに かなしい真実があったりする

「このところ、夜になると何かがずれるようになったのである。何がずれるのか、時間がずれていくような気もしたし、空気のずれていくような気もしたし、音がずれていくような気もしたし、全部ひっくるめてずれていくのかもしれなかった。それで、昼間梨畑で働かせてもらうことにした。」

これは川上弘美の短編『夏休み』の一節 ある日「わたし」は 梨畑で白い毛の生えた 3匹の生き物を見つけ 家に連れて帰る 2匹はすこぶる元気だが 1匹は臆病で引っ込み思案 「ぼくいろいろだめなの」と言葉も喋る 「ぼくが入ってもぼくが抜けても、その場所が変わっちゃうのがだめ」と言う この1匹は仲間とずれている それが「わたし」は 気になって仕方ない 梨の収穫も 終わりに近くなって 最後の日 主人の原田さんから あの3匹は シーズンが終ると消えてしまうよ と奇妙な話をされ その日の夜になって 「わたし」に激しいずれがやってくる

「空気や地軸がずれる感じではなく、からだ全体がすっぽり抜けてしまうようなずれだった。」

寝ている自分と 立ちあがった自分の ふたりがいる 横たわっている自分の からだを残したまま さかんに梨畑に行きたがる3匹を 肩に乗せて梨畑に向かう 活発な2匹は 木のてっぺんに登って 木守りの梨をかじりはじめるが 引っ込み思案の1匹は 「こわい」と言いながら 「わたし」の肩の上で震えている

「震えが伝わる部分があたたまって、ゆるんでくる。肩から胸から腹から腕から足まで、次第にゆるみはじめる。湯に入っているようだった。」

やっと弱虫の1匹も 幹にとびうつって 木守りの梨を食べはじめる そのうちに3匹は 梨の木の白い瘤になってしまう 「わたし」も同じように 瘤に引き込まれそうになるのを 必死で振り払ったら 重さというものをなくして 軽くなった体でとんで帰る 翌日「わたし」は原田さんを訪ね 雇ってもらった礼を言い 帰りがけにもういちど 梨畑に寄ってみるが どの木に白い瘤がついているのか 既にわからなくなっている そこで梨の木の1本を 思わずとんとんと叩いて いろいろとありがとうと呟く 読んだあとに すじ雲が高く残った 秋空のような爽やかさが残る


自作詩『コップのうみ』



 


秋の夕やけに鎌を研ぐひと

2022年09月22日 | 「詩エッセイ集2022」



きょうの夕焼けは 空が燃えているようだった よく乾燥した 薄い紙のような雲に 誰が火を点けたのか 激しく静かに燃えている 炎の広がりに染っていると どこか空の遠くから 秋の夕やけ鎌をとげ と叫ぶ祖父の声が聞こえてくる 夕焼けした翌日は晴れる 祖父は稲刈りをする 鎌をとぐ祖父は百姓だった 重たい木の引き戸を開ける 薄暗い家の中に入ると その家だけの土壁の匂い 踏み固められた土間が 風呂場と台所に続いている 脱衣所でもある納戸には 足踏みの石臼が埋まっていて 夕方になると祖母が いつも玄米を搗いている 片足で太い杵棒を踏みながら 片手は壁で体を支えているが その壁の一角には 鎌や鍬が並んで架かっている それらはずっとそのままで 祖父に聞いた話だが 祖父のさらに祖父は 刀で薪を割っていたという どんな生き様の人だったか 面白いが想像もつかない 名前はたしか新左衛門といい シンザさんと呼ばれ その呼称が屋号として残り ぼくの父が子どもの頃でもまだ シンザさんとこの子などと 近所では呼ばれていたという そのシンザさんとこの悪ガキは 家の障子やふすまに ところかまわず落書きをする 祖父がいくら叱りつけても止めない 逃げ足も速いが描くのも速い よくよく見ると 子どもながらも面白い絵で ついには祖父も 叱るのを諦めたという 悪がきの僕の父は 学校もろくろく行かず 次男坊だったので 船場に丁稚に出されてしまい 其処で商人としての 父の人生が決まったようだ 僕が子どもの頃にいちどだけ 父が絵を画いたのを見たことがある 白い画用紙のまん中に 大きな赤いかたまりがあった それは何なのかと聞くと 父は岩だと言った そんな赤い岩があるのかと聞くと 夕焼けに石が燃えているのだ と父は言った 九州の田舎を行商していた その折に見た光景だったのだろう 子どもの前で父が絵を画いたのは それがいちどだけだった 金儲けに忙しい商人に 絵を画いたりする暇はなかった 小学生の時から僕は ソロバン教室に通わされ 夜は店を閉めたあとに 父の帳簿付けの計算をさせられた ソロバンを弾いたのも 父の商売を手伝ったのも それだけしかない 高校を卒業すると息子は ソロバンを捨てて家を出た 人あしらいのうまい父の才覚が 息子にはないことを父も よく知っていたのだろう 父は80歳で店を閉め それから6年後に死んだ ときどき自分の店の前で ぼんやり西の空を眺めている そんな父を見かけたことがある ひとは普段ほとんど 空の存在など忘れている 空に語りかけたりもしない 誰にもふり向かれなかった空の 夕焼けは1日の名残りの 静かな叫びなのかもしれない 百姓の祖父も死に 商人の父も居なくなって あとには シンザさんとこの 夕焼けだけが残っている お~い鎌をとげよう と誰かが叫んでいる夕焼けだ だが今では シンザさんとこに 稲刈りする百姓はいない 鎌をとぐ者ももう居ない




自作詩「弔辞」

 

 

 


さんま苦いか塩っぱいか

2022年09月17日 | 「詩エッセイ集2022」



信楽焼の長方形の皿がある なんとなくその上に 拾ってきた落葉をのせた 今の時期なら この皿の上には秋刀魚 それがいつもの習いなり なのにその姿はない 去年もなかった 一昨年もなかった 秋刀魚はいつのまにか 手が届きにくい魚 遠くの魚になってしまった スーパーの秋刀魚は 腹わたも無さそうな痩せっぽち 高島屋の秋刀魚は ツンとお澄まし高級魚 どんなに秋刀魚を恋していても つれない顔に見えてしまう さんま苦いか塩っぱいか なま唾ごくりと こころ残してスルーする そんなわけで お皿の落葉は あわれ秋刀魚の身代わり 箸をつけること能わず 錦に頬染めし落葉は 秋刀魚よりも美わしい などと負け惜しみするが 美わしかれど身に添わず 食欲を充たすこと叶わず 武士は食わねど落葉かな 夕餉にひとり さんまを食らひて 思ひにふける やはり秋刀魚は旨いのだ そいつは苦くて塩っぱいけれど 落葉はたぶん無味乾燥 苦くもなければ塩っぱくもなく 箸を付けることもままならず ただ眺めているやるせなさ 忘れがたき秋刀魚の旨さ その苦いのは腹わただが いちばん旨いのも腹わたで その腹わたを食べない人もイルカ 秋刀魚の腹を包丁で割き あわれ腹わたは生ゴミとなり だいじな味をポイすることに ああさんまよさんま 苦くて塩っぱいその旨さ 月みる月はこの月の月 秋の夜長を鳴きとおす 秋刀魚の味が忘れられない かたちは魚に似ていても 落葉はしょせん落ち葉なり 賞味期限はたったの1日 落葉は夕焼けに輝けど 月夜の晩に消え失せる 落葉はやがて色あせて 干からび粉々に砕け散る せめて麗しきこの1日を 酒のサカナにいいかもしれぬが 秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ 葉っぱの秋宴 いかに信楽焼でもままならず 秋刀魚の片想い 侘びしいかぎり あはれ秋風よ 情(こころ)あらば伝えてよ



自作詩「潮騒」

 

 

 


5球スーパーラヂオに恋してた

2022年09月04日 | 「詩エッセイ集2022」



深夜のラヂオを抱きしめる 真空管がピーピー鳴るんだ 温かいねラヂオの匂い 5球スーパーマジックつき シゲがラヂオを自慢する なかなか合わないダイヤル すばやく逃げる電波 耳をすまして追いかける ニュースも音楽も恋も 新しいものは遠くにある 見えないものはすべて 波に乗ってやって来る ラテン音楽はうねりながら 眠れない夜を犯しにくる ベッキーサッチャーの声に誘われ トムソーヤーが山から下りてくる 電波は混信し世界は混線する モスクワ放送だけ静かに日本語 歌うような北京放送 平壌放送はスミダスミダ カミナリ先生のハングル文字 誰も読めないノートの秘密 コメだイモだと 悪がきシゲが喧嘩する 叱責するオトンの叫びは アイゴーアイゴー アイゴチョケッター 逃げ出す息子はグッバイ チャオチャオバンビーナ ゴムのズック靴を脱いで つま先にたまった砂粒を払う それがシゲの潔癖 ついでにズボンからチンポを出す 僕らも強いられて真似をする 痛みを我慢して包皮をむく 遠くの感覚が押し寄せてくる 津波のように体が浮きあがる 周波数の合わない ラヂオの悲鳴に貫かれて アンテナの先から落下する 雑音だらけの言葉に溺れながら 恋ってこんな気分やで とシゲが言う 僕らは頭だけが熱いので 冷たい鉄路で耳を冷やす 近づいてくる微かな響き 汽車は幾つもトンネルを抜け 電波は幾つも山を越えてくる そんな風景に閉じこめられている やがて誰もが山を越える 戻ってくる者は忘れられる アバヨッバイバイ アルデベルチ シゲは穴のあいた靴を履いて 肩をいからせ山を越える 波のように押し寄せてくる 波のように引いていく 難破したラヂオとともに 残された者はただ漂っている 夜になると真空管の熱を慕い いつか捨ててしまうだろう 迷走する夢にダイアルを合わす
 



自作詩「残されて、夏の」