風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

線路はつづくよ何処までも

2022年08月30日 | 「詩エッセイ集2022」



汽車がシュッシュッポッポと 石炭で走っていた頃 窮屈な4人がけの 木製の座席にすわり 野をこえ山こえ谷こえて 一昼夜をかけて東京を目指す 昔も今も線路は 東京まで続いていたのだ そしてそのとき 僕の線路はそこが終着だった かつて線路に耳を当て 近づいてくる汽車の鼓動を探ったり 夜中の貨物列車の 長い連なりを夢の中で追ったり まだまだ玩具の線路の 先の先にすぎなかった 小学校の高学年の頃 クラスで最寄り駅の見学に行く タブレットという言葉を はじめて知り 手の平に載るほどの 金属の小さな円盤を見せられて それがないと 汽車は走れないのだと 駅長さんが自慢気に言った タブレットは汽車よりも先に 駅に送られてきて 到着する汽車の車掌に手渡される 古いタブレットを受け取り 新しいタブレットを渡して発車 線路が単線であっても 汽車同士が衝突することはない タブレットは それほど大事なもののようだった その時の駅長さんの説明には 鉄道の仕組みを面白くするため いくぶんかの誇張があったかも 駅長さんの話しぶりや身ぶりは 手品師のようで 巧みにトリックが隠されたまま 小さな金属の円盤は ぼくの小さな頭の中の線路を シュッシュッポッポと ぐるぐる走りつづけた 駅から駅へどうやって 汽車よりも早く送られるのか いくら考えても解らなかった たぶん駅長さんの説明の 大事な部分を聞き逃したのだろう 見学の帰途 駅長さんが大声で叫びながら みんなを追いかけてきた 筆箱の忘れ物があったという よく見るとそれは 僕のセルロイドの筆箱だった タブレットを忘れて 発車しては駄目じゃないか と駅長さんにからかわれた あれから幾度も 僕はタブレットを忘れて発車した 大事なところで 大事な何かを置き忘れて いくども脱線してしまう どこの駅からどこの駅へ向かうのか それすらも分らなくなる 誰でもそうかもしれないが 鉄道線路の上を ただ走るようにはいかなかったのだ そして歳月は 新幹線のように超特急で 長いあいだ忘れていて 久しぶりに訪ねた郷里の駅は 無人駅になっていた 誰もいない改札口を抜けて がらんとしたホームのベンチで しばらくぼんやりしていたら とつぜん線路がカタカタ鳴って オレンジ色の列車が通過していった 体の中が空っぽになって 風が吹き抜けていったようだった 線路はいまもそのままで 錆色のまま続いているが あの小さな金属のタブレットは 何処へ消えてしまったか いまでは確かめる駅長さんも居ない


自作詩「電車」






みんな何処へ行ってしまったか

2022年08月14日 | 「詩エッセイ集2022」



散歩に出る とても静かだ 道は誰も歩いていない 賑やかだったクマゼミの声も とつぜん無くなった ときおりツクツクボーシの声が どこか遠くで弱く みんな何処へ行ってしまったか 静かに振り返ってみると 近しかった人たちはほとんどすでに 墓の中で眠っている 祖父や祖母はもちろん 父や母やおじおばたち ぼくより若いいとこまで 親友もすでに2人去った 親友といえるものが たった4人しか居なかったから 半分になってしまって 人生の半分が失なわれたようで 半身の淋しさで いま歩いている 夏がぜんぶ夏休みだった あの頃は親しい人だらけで 知らない顔がたくさん はじめて会う顔でも 親戚という名で繋がっていて 表情や声のどこかが似ていて なんとなく近しい そんな人がいっぱい居た 夜はあちこちの家から ご詠歌と鉦の音がチーンチン 仏壇の前の伯父の声が 父の声や祖父の声とだぶって 近しい人たちは同じ声で 生きてる人と死んだ人が ひとつの声で繋がっていた 大阪の実家は融通念仏宗 九州の母の実家は法華宗 愛媛出身の祖父は古義真言宗 ややこしい家系の仏たち と若い頃は 仏教にも興味をもち 古刹を訪ねたり 般若心経を暗記したり 南無妙法蓮華経 南無阿弥陀仏 色即是空 空即是色 漠とした空無の果てには なかなか手が届かなくて いつしか現世利益ひたすらに 時がたち今では 無利益の散歩に落ち着いて きょうは盆風も立ち つくづく一生と ツクツクボーシが鳴き始め 妙にまわりが静かになって 偲ぶことばかり多くなり ふわと浮き上がるわが身 かつて届かなかった空無の果て 其処には何かがあったのだろうか などと遣り残したことへの 数々の悔いや迷い 生きてる人が遠くへ行き 死んだ人たちが近くに来る この日々のそんな瞬間 ふと振りかえると 静寂のなか声だけが近しい

 

 







赤淵の川に河童がいた頃

2022年08月03日 | 「詩エッセイ集2022」



川には河童がいる と信じていた頃 いそぎ裸足で川に行く前に 神棚のご飯を食べていく そうやっておけば 水の中で目玉が光るので 河童は怖がって近づかない 河童は尻の穴を狙ってくる そこから血を吸い取られたら 徐々に体の力が抜けて 泳ぎながら溺れてしまう 河童は何処にいるのやら 分からないが必ず居る 川で泳いでいる子供たち 河童も童も見分けられない 厄介しごく大わらわ 子供はときどき溺れたりして そこには河童がいるものと 信じることも出来はするが 信じる子供も河童だったり 目玉が光れば 河童も童子だったり 流れる川は複雑怪奇 岩を避け砂地を渡り 浅瀬あり深みあり 渦巻く淀みもあったり 水は水でも湧き水は冷たく 田んぼの流水は温いもの 鮒の子は草むらで平たく藻掻き はるか上流で夕立があれば 急に濁って軽石ぷかぷか それでも目玉が光るので 日がな河童と遊び惚ける もはや水から離れがたく すっかり水になって冷えきると 熱した砂地に体をうずめ 産卵する亀になりきって ただ空ばかり雲ばかり 変幻自在入道雲の その膨らみはどんどんと 群青をどこまでも侵食し 満腹過食のモクモク雲は 貪欲灰色の濁りを増して 大粒の雨となりザアザアと 落ちくるものは天然シャワー 背中の砂を洗い流すうち ふたたび空の目玉が光りだし 川苔の匂いもむんむんと 河童の目玉も歓喜に光る 水と戯れ河童と対峙 腹が減ったら川岸の ありがたき胡桃の大木 石を投げて落としたら 砕いて白い実に喰らいつく 硬い殻やら砂粒やらも 舌でれろれろ選り分けて 噛み砕いたり吐き出したり ああ無為徒食漫然と 河童なる夏も終らんと せわしなく背中に風 川面もさざ波が掃いていく トンボばかりが数を増し 今日は何処まで行ったやら 空中の賑わいが侘しくて 細竹鞭を振りまわせば 一瞬かすかな手応えあり トンボは川面に落下して 4枚の翅を開いたまま つぎつぎ川下へ流れてゆく それでそれからそのまんま 夏の饗宴も終わりゆく 河童も山へ帰りゆく とっぴんからり どっとはらえ 


 

 








森に入って苦い実を食べる

2022年07月21日 | 「詩エッセイ集2022」




風を泳ぐ魚になって 朝のジョギングを始める 風を吸い込み風を吐き出す 腕と脚は鰭になって 水と空気をかき分けながら 川上を目指して森を抜ける そこは森のようで森ではない ただの放置された雑木林 公園の一角に取り残された 倒木や苔むした樹々の群れ 鎮守の森よりも貧相だし 魔女も赤ずきんもいない 妖精も小人もいない もちろん南方熊楠もいない それでも汗をかきながら 樹液の風と出会う場所 そこを通り抜けるとき 薄暗さと湿った苔に触れて 時を忘れ自分を離れ 汗のシャツを脱ぎすて 露わになった腕が 木々の雫に撫でられる サワグルミの木がある トチの木がある サワグルミの葉は小さく震え トチの葉は大きな魚のよう シイノキの葉は平らなお皿 かつて山越えの旅人は 家にあれば笥にもる飯を 草まくら旅にしあれば 椎の葉にもる と シイの葉は手の器になり 木漏れ陽は森の深さを トチの実は時の深さを 古くて遠い遠つ川 奈良の十津川村では 太古以来ずっと トチの実は主食のひとつだった と その実はとても苦い 食べるには固い外皮をむき 中身を流水に数日つけおく そのあと谷川の水で 7日間ほどさらし その上で木の臼に入れて搗き モチゴメを加えて蒸し だんごにして食べる 十津川の小高い山の上には 古代の磐座がある 日本最古の神社ともいわれる 玉置神社の周りには 屋久島の縄文杉なみの 樹齢3千年を超える老杉がある 米を初めて口にした 縄文人たちの喜びの声を この樹は聞いたかもしれない 老いた鹿に道を教えられた日 麓の売店でトチモチを買った 味付け加工は現代風だが 草餅と変わらずに美味だった 山や林を駆け回っては 草の根や木の実を齧った頃は まるで野の生き物 小さな縄文人だったかも 葛の根や甘い草の根を 掘り出してかじった アマネは若い穂の 軟らかい綿状のものを食べ ギシギシという草の 葉っぱと茎は 塩でもんで食べた 山ブドウや野イチゴはご馳走 冬枯れに摘む赤い実の 酸っぱさはノスタルジー 貪欲な舌に残りつづける とてつもなく不味く とてつもなく美味しく とてつもなく滑稽な味 贅沢な大人が 同じものを食べてみたが とてつもなく不味かった リスやサルは 木の実を美味しそうに食べる 生き物にとって 本当に美味しいものって どんな味なのか 縄文人が食べたトチの実は 美味しかったか不味かったか 現代人の舌に苦いものが 縄文人にとっても苦かったか どうか 森は吐く息がいっぱいで 今朝もジョギング 駆け抜けようとすると 森の縄文人たちが 苦くない赤い実を探している


 







願いごとは沢山あったけれど

2022年07月13日 | 「詩エッセイ集2022」




7月は七夕の月だった ふと思い出すと 記憶の遠いところで キラキラと短冊がゆれている 子どものころは 願いごとが沢山あって 願いごとをひとつひとつ 色の付いた短冊に書いて 笹にくくりつける 折り紙を切ったり 貼ったりして ささの葉さらさら たっぷり飾り付けて それが七夕の遊びだったが 子どもの願いごとは 身近な日常のことから 遠い将来のことまで 数限りなくあって 短冊の数だけ願いごとはあった 七夕の笹飾りは 賑やかな七夕の ひと晩だけ軒先に飾って 翌朝はやく 近くの川へ流しに行く 釣りをしたり泳いだりする川が そのまま天の川に通じている と信じられていたか 真っ暗な夜の戸外は 明かりも殆どなく 夜空を大きく横切って 天の川がくっきりと流れていた 神話の世界も現実の世界も ひとつに重なっていて 幼い想像力は 容易に美しく溺れていた 願いごとの短冊が どのくらいの日数かかって 天の川に流れ着くのか そんなことは考えなかったが 神様が短冊を拾いあげる頃には もう願いごとのことなど すっかり忘れてしまっていた おとなになっても あいかわらずいつも 新しい何かを願いながら生きて 小さな願いから大きな願いまで 子どものポケットを満たしていた 輝くビー玉はさまざまあって ときには空にかざして 小さくとも美しい ガラスの虹を探したり 喜びや失望の色に 戸惑いながらも 年をとるにつれ 願いごとをかさねても 色褪せていくものに夢ははかなく それでは淋しすぎるから 小さな夢と望みを持ちつづけ ときには子どもになって ささの葉さらさら 願いごとを短冊に書き 運は天に任せて 天の川に流そうとして 妄想の川に溺れていると こんな7月はしばしば 記憶の短冊をひろう すっかり忘れていた 子どもの頃の夢も 夢は夢のままで なお天の川を漂っているかも などと夜空を仰いでみるが 明るすぎていまでは 星屑さえもまばらで 七夕の天の川はどこかへ 消えてしまったままだ