寝床の中でYouTubeの朗読を聴いている。
やわらかく耳から入ってくる音声が、まだ目覚めぬ夢のつづきが語られているように心地いい。
意識よりも感覚の海を漂っている感じだ。
困ったな困ったなという、あいまいな思いの小舟が揺れている。
今日あたりは桜が満開にちがいない、という意識がかすかに波立っている。
桜が満開であるだろうということが、なぜだか、そのことが困ったことのように思えている。
たぶん、まだ寝ぼけている。
聴こえてくる物語は、坂口安吾の短編小説『桜の森の満開の下』。
ぼくの困った桜は、しだいに物語の桜へと誘惑されていく。
大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした……という。
満開の桜の下を通り抜けようとすると、旅人はみんな花の下で気が変になったという。そんな街道はだれも通らなくなるのだが、そのさびれた桜の森にひとりの山賊が住み始める。
彼は剛毅な男だったけれど、それでも満開の桜は嫌いだった。
花の下では、風もないのに冷たい風がごうごうと鳴っていて、花びらがぼそぼそ散るのが、まるで魂が散って、命が衰えていくように思われるからだった、という。
それでも桜の森に住み続けているうちに、山賊は8人も妻ができてしまう。もちろん略奪した女ばかりだ。そして最後の8人目の妻は、絶世の美女。だが恐ろしい女だった。
自分以外の女たちを殺すことを、彼女は男に命じる。男がためらっていると、「お前は私の亭主を殺したくせに、自分の女房が殺せないのかえ」と迫る。
女が女中に選んだいちばん醜い女を残して、男はほかの女をすべて殺してしまうが、さすがの山賊も不安になって腰を抜かしてしまう。それでもなお、女の美しさに魂は奪われている。
男の不安な気分は、あの桜の花の下を通るときの気分に似ていると、男には漠然とそれくらいのことしか分からない。
8番目の妻はとてもわがままな女だった。
櫛や笄や簪や着物と、女は際限なく物を欲しがるので、男は都へ出ていくことを決心する。
都では、男は夜ごと着物や宝石などを盗み出してくるが、女が欲しがるものはそんな物ではなく、人の首だった。その首で、女は首遊びというものを始める。
それは残酷きわまりない遊びだった。女は首遊びに飽きることを知らず、男は首にも都にも、そんな涯のない生活に耐えられなくなってくる。
ある朝、満開の桜の下で目を覚ました男は、桜の森を思い出し山へ帰ろうと決心する。山には女が欲しがるようなものは何もないからと、男はひとりで帰ることを打ち明ける。
男の決心が固いことを察した女は、「お前と首と、どっちか一つを選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ」と、心にもないことを言って男を喜ばす。
この女にもそのような思いやりの心があったかと、男は嬉々として女を背負って桜の森へと帰っていくのだが。
おりしも桜は満開。花の下は四方から冷たい風が吹き寄せていた。いつのまにか、女の手もすっかり冷たくなっている。男は異変に気づいて振り返る。すると、背中にしがみついていたのは、紫色の顔をした鬼だった。
すっかり目覚めたぼくは、朝のウォーキングに出かけた。
おりしも公園の桜も満開。
見あげると、空が明るすぎて桜の花は翳ってみえる。ひんやりと冷たい風も吹いていそうで、花の領域はどこまでも涯が無いようにみえる。
去年も今年も、満開の桜は同じだと思ってしまう。まばゆく華やかだが、明るさの中に小さな影をいっぱい包み込んでいる。
困ったな困ったなと、なんだかまた困ってしまうような感覚に捉えられてしまった。