クリスチャンではないので、教会にはあまり縁がないが、旧軽井沢の聖パウロカトリック教会のことは、強く旅の印象に残っている。その素朴な建物に魅せられたのだった。引き寄せられるように教会の中に入ったが、居心地が良くて、しばらくは出ることができなかった。
周りの木々に調和した木造の建物は、柱や椅子、十字架にいたるまで、木が素材のままで生かされており、親しみのある木の温もりの中に、優しく癒されるものが宿っているようだった。
正面の十字架の周辺には四角い窓があり、眩い外光が、頭上のⅩ字型に組まれた木の柱や椅子に、やわらかい影をつくり、山小屋や農家の納屋にいるような、厳粛さなどとはちがった、もっと和やかで穏やかな空気を漂わせている。
やはり木は優しいのだ。木は建物の一部になっても生きつづける。その木肌に折々に触れた人々の汗や油を吸収し、艶となって鈍く輝いていて、静かに昔語りをするようだ。
「初めに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なり」と語られる西洋の神よりももっと古い、言葉よりももっと古い神が、木には宿っているような気がするし、私らが慣れ親しんでいる神も、そのような木の神に近いものだと思った。そんな馴染みのある神が、この木の教会には、柱の陰などにひっそりと隠れているようだった。
いつか四国の古い芝居小屋で感じた、あの独特のくつろいだ雰囲気を思い出した。
小屋には晴れやかに人々が集う日と、がらんとして静まりかえっている日があり、その繰りかえされる日常生活の隙間に、人々を日常の外へと誘い出す、神のようなものがそっと潜んでいるようだった。信仰の神というよりも、芸能の神に近いもので、その場にいると、いつもより気分を高揚させる何かがあるのだった。
旧軽井沢の木の教会もまた、時空を超えて静かに落ち着ける場所だった。
そこは、いろいろな神の近くにいるような、あるいは夢幻の領域に引き込まれていくような、そんな不思議な感覚の中で、しばらくは時を忘れることができる空間だった。
木の舞台と木の教会、ゼウスの神とミューズの神が仲よく共存していそうな、どちらも古くてやさしい木の棲み家だった。
「2024 風のファミリー」