「なんだったんだ、あいつ――」と、男は舌打ちをしながらつぶやいた。
髪の毛を金色ではなく、間違って黄色に染めてしまった運転手が、恐る恐るバックミラーで後部座席に座る男の顔色をうかがった。
「なに見てんだよ」
思わず目が合い、ドン――と、運転席の背もたれを蹴られた若い運転手は「すンません」と頭を下げながら、あわてて前に向き直った。
「ちぇっ、どいつもこいつも」
あの日の夜は、とんだ失態を見せてしまった。数年前から始めた事業が成功し、あれよあれよという間に蓄えができたのに気をよくし、ついつい飲み過ぎてしまった。
今までは、地方議会にも顔が利く父親の陰に隠れて、じっと耐え続けてきた。父親は、昔から厳格だった。なにも問題のない兄弟に比べ、末っ子の自分ばかりが辱められる。と、どこか逆恨みをしている部分もあった。
そんな父親が、念書も取らずまとまった資金を融資してくれた時は、涙が尽きるほどうれしかった。
しかし、事業が成功して初めて自分の会社を訪れた父親は、ろくに話も聞かないまま、すぐに帰ってしまった。
後になって母親が言うには、毎晩遅くまで飲み歩いている噂を聞き、自分の事のように心配していたという。
「――あ、もしもーし」
と、携帯電話に出た男の声は、同じ人間かと疑いたくなるほど、トーンが上がっていた。
「はいはい、今日も行っちゃうヨ……えっ、先月も誕生日じゃなかったっけ……うん。うんうん。わかった」
携帯電話をスーツの内ポケットにしまった男は、うっとりと夢を見ているような優しい顔になっていた。
その顔が、もとの鬼瓦のような顔に一変した。
「あいつ……」
レザー張りのシートの上に膝立ちになりながら、男は開いたドアの窓に両手をついて、食い入るように外を見た。
「どうしたんスか?」と、信号待ちで停車した運転手が、後ろを振り返って言った。
「あいつだよ、あいつ。間違いねぇ」と、後部座席にいた男は、歯をむき出しながらシートに座り直した。「おい、ここはどの辺だ」
運転手がカーナビを確認すると、詳しい場所を聞いた男は、腕を組みながら「ハハン……」と、片方の唇を意地悪そうに吊り上げた。