西やん中洲にいます。

西やん67歳、日々の出来事独り言

思い出話84 【ホワイトデーは長女の誕生日2】

2017-03-15 19:46:39 | 思い出話
こんばんは。

今日は、夜の仕事の日です。
来て早々に、ドライバー Tさんから私に、勤務日のチェンジの依頼があったとの事。
22日と24日のチェンジ。その結果、24日と25日の連チャンになりましたが、金曜、土曜なので、快くOKしました。

お互い様。ですからね。

昨日は、ブログ更新せずに寝てしまいましたので、長女の話が飛んでしまいました。

今日は、続きを。

【事故2】
前回、娘の引越の時に、彼氏が来て、初めて会ったことを書きました。

父親は、自分も『馬の骨』だった事を忘れ、娘が男を連れてきた時に、『何処の馬の骨か分からないヤツ』と思ったりするものです。


娘が、自分の車(オレンジ色のラパン)で、彼氏を連れて福岡に帰ってきた事がありたした。
その日は、こちらは家族全員で、夕方、外食に行きました。
その後、娘たちは熊本に帰り、私達は、那珂川町と言うところにある中之島公園と言うところにホタルを見に行きました。

そこから帰る時に、娘から電話が入りました。
『お父さん。車ぶつけられた。もう動かない。どうしたらいい?』
私は、場所と事故の状況、ケガがないかなどを確認して。
私『車は保険会社に連絡して、レッカー移動してもらうから。それから、今からそこに行くから、安全な所で待ってなさい』
と伝え、娘の車は、私の車と同じ保険に入れていたので、保険会社に連絡して、レッカー移動を依頼しました。

それで、家に帰り、息子と二女を降ろして、九州道の広川インターまで飛ばしました。

娘たちは、高速は使わず、国道3号線で熊本に帰っていました。
ちょうど、広川インターに入る交差点の1つ手前の信号で信号待ちをしていた時に、後方から来た車に追突されました。完全に停車中の事。

追突された娘の車は、前の車に追突し、更に、前の車は、その前の車に追突。3台が巻き込まれる事故でした。

後で、修理工場で車を見せてもらったのですが、後方も前方もグチャリとつぶれ、二人が座っていたシートも『ハの字』に変型していました。
大きなケガが無かったのが不思議なくらい。

車で2人を迎え、熊本まで送りました。
2人とも、勤務先が熊本赤十字病院だったので、彼に病院に電話をしてもらい、救急で検査をしてもらえる様に手配してもらいました。

熊本の病院に着くと、彼のお母さんが待っていて、ここで、初めてのご対面となりました。

その後、2人は検査で異常はでませんでした。ただ、車は、ボディ、シート、その他を相手の保険で修理しました。
場所は、広川インター近くの修理工場。
引き取りには、かみさんと2人で行き、かみさんが娘の車を運転し、私が自分の車を運転して、熊本まで運びました。
運んでまではもらえませんてした。

前回の自転車での事故といい、娘が乗っていた乗り物はメチャクチャになっていますが、娘たちは、びっくりするくらい無事で。
大事にならずに済みました。

【長女の結婚式】
娘の結婚式は、熊本の市内から熊本空港に続くバイパス沿いにある結婚式場でありました。
熊本地震で大きな被害があった益城町に近いところです。

花嫁の父なので、娘をエスコートして、バージンロードを歩きます。
当日に、一度だけ練習。
娘『お父さん、歩くの早い!』
娘にしかられながら、スタッフに説明を受けながら、たった一度の練習。

本番は緊張して。何が何だか。とにかく、言われた通りに、早足にならないように、それだけ。精一杯。

披露宴が始まると、他の結婚式とは違うところが。それは、親族以外、誰も席に居ない事がしばしば。

それは、二人の職場が同じ病院で、科は違いますが、ドクターもナースも基本は知り合い。大きな病院ですが、気さくなのか、仲がいいのか、ケーキカットだの何のと何かあるたびに、親族以外の人が二人を囲んでしまって、誰も席に居なくて。

式場のスタッフの方にも、こんなに誰も席に居ないのは珍しいです。と言われました。

そして、披露宴のクライマックス。
娘が手紙を読む時が来ました。

娘が手紙を読み、父親である私の事を話始めた時に、不覚にも涙が出てきて、その後、号泣してしまって。

後で、かみさんと娘に、『何泣いてるの。恥ずかしい。』なんて言われちゃいました。
何だか、突然、いろんな事を思い出してしまい・・・。

【初孫】
孫は『かわいい』と言いますが。

娘が、最初の子供を出産した日、かみさんと面会に行きました。
嫁に行った娘の子。つまり、外孫です。

退院後、実家である我が家に、子供を連れての里帰り。
赤ちゃんが家に居る。と言うのがどれくらいぶりか。だっこしていいと言われても、我が子を抱いて以来なので、あかちゃんのだっこの仕方も忘れて、恐かった。

次女の名前は、「なな○」と言いますが、姉である長女も、家族みんな、はたまた友達も、そして、本人も、「なな」と呼んでいました。

長女は、この2文字が続く響きが好きだったようで、最初の子供、女の子に、『や』の行の二文字の名前を漢字にして付けました。
二人目の女の子は、『ら』行の二文字の名前を漢字で。

娘は、月に1回くらい帰ってきていましたし、次の子供が生まれた後も、里帰りしていたので、孫が帰ってきた日は、休みの日の朝は、孫を連れて近くの公園に遊びに行くのが私の役目でした。

娘がゆっくり寝るため。

でも、おじいちゃんは、それを喜んでいたのでした。


相当、長くなってしまいました。

では、また。


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思い出話83 【ホワイトデーは長女の誕生日】

2017-03-13 19:55:30 | 思い出話
こんばんは。

今日は、夜の仕事の日です。
3月13日は、313で『サンドイッチの日』だそうですね。

そして、明日、14日は『ホワイトデー』です。が、私の長女の誕生日です。
明日で、33歳になります。3児の母です。

長女が生まれたのは大阪で、一歳で熊本に引っ越したので、長女に大阪の記憶はありません。
そして、小学校3年生になって、1週間だけ熊本の小学校に通い、福岡に引っ越しました。長女は、熊本生まれの福岡育ちと思ってます。(大阪で生まれた事は知っています)

生まれた頃の事は、去年も含め、何度か書いていますので、大きくなってからの話です。


長女は、中学校で吹奏楽部にはいり、パーカッションを担当しました。
それが、県立武蔵丘高校に進学して、吹奏楽部に入るときには、フルートに転向したいと言って、私の知り合いに紹介してもらった楽器屋さんで、中古のフルートを買いました。

長女は、今も熊本の『市民吹奏楽団』に入って演奏を続けています。もちろん、フルートは自分で立派なのを買っていました。

高校は自転車通学で、30分から40分くらい。
かみさんの反対を押しきって、今は無いかな。PHS を持たせました。
一度、朝。『自転車のチェーンが外れた』と娘から連絡が入って、出勤前に車で直しに行ったこともあります。
高校生の時は、学校まで、よく送り迎えもしました。かみさんからは、『甘い』と言われました。

ある朝、前日から大雨で、娘を学校に車で送り、家に戻って、歩いて駅に行く間にずぶ濡れになり、やっと動いた電車で博多駅まで行ったら、博多駅周辺が水浸しと言う事がありました。会社の近くの地下で、女性が一人亡くなった時です。
そう言う日も含め、よく送り迎えしました。


長女は、熊本大学付属医療技術短期大学部の最後の学生として、試験に合格し、3年間、熊本市内で一人暮らしをしました。

【事故その1】
ある日、突然、娘から電話が入り。
『お父さん。自転車で車に跳ねられた。今から、救急車に乗るから。』
詳しい状況は分からないまま。

かみさんに連絡して、早退して、熊本まで車で駆けつけて。
娘が居る病院に行って、娘を見たら、かすり傷程度で。そこで、加害者にも会って。若い男性。
まあ、『救急車に乗るから』と自分で連絡してきたので、大した事はないかもとは思ったのですが。

熊本の中心部の『水道町』と言う大きな交差点で、自転車で横断歩道に入ったところで、左折してきた車にぶつけられたようで。
娘に言われて、その交差点に置きっぱなしの自転車を取りに行ってびっくり。

前輪がへしゃげていて、乗れるような状態ではなくて。もう少し、タイミングがずれていたら、まともに側面にぶつかり、撥ね飛ばされたかもしれません。

とりあえず、大ケガでなくて良かった。
と言う感じでした。

【事件】
ある朝、娘が泣きながら電話してきました。
『お父さん。自転車がメチャクチャに壊された。今日、試験の日なのに。』

近くに交番があるのは知っていたので、交番でお巡りさんに状況を説明して、試験に行くように伝えました。
帰る時間を聞いて、かみさんと車で熊本まで行きました。

娘に会うと、警察から事情の説明があり、同じ建物の上の階に住む男性が、友人と酒を飲んでふざけたか暴れたかで、娘の自転車などを壊したようです。

しばらくすると、大分から来たと言う父親に連れられた男性が来て、謝罪と自転車の弁償と言う事で訪ねてきました。
父親は、息子を大分に連れて帰ると言っていました。

原因や理由が分からないままだと、娘も、親の私達も不安だったと思うのですが、その日に解決して、良かったです。

【彼氏との対面】
娘は、卒業して看護師になり、熊本赤十字病院に勤める事になりました。

その前に、免許を取り、中古のオレンジ色のラパンを買って、それで通勤していたのですが、病院のすぐ近くの職員宿舎(4階建のマンションの様なところ)に引っ越す事になり、かみさんと手伝いに行きました。

ひととおり運び込んで、片付けをしていた夕方に娘に連絡があり。
『彼氏が来るから』
と突然。
私『何だか、のどか渇いたな』
くらいしか言えなくて。

そして、娘がでて行って、しばらくして、ベランダから下を見ると、娘と男性が歩いてきて。

この時が、娘の彼氏(今の旦那)との対面。
同じ病院の男性看護師で、同期。
新人の研修で知り合ったようです。

会ってみると、よさそうな青年で。


長くなりました。
仕事も、ばたばたしてきたので、続きは明日にでも。

では、また。


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思い出話82 【3・11を迎える前に】

2017-03-09 20:09:54 | 思い出話
こんばんは。

今日は、夜の仕事の日です。
今日は、3月9日。あと2日で11日です。

『3・11』を迎える前に、私の記憶に残っている事故、災害の記憶をいくつかたどってみたいと思います。

【花巻空港着陸失敗事故】
1993年(平成5年)4月18日。
私は、福岡から東京に出張するため、福岡空港に行きました。
チェックインして、待ち合いのロビーに入ると、テレビの所に人だかりがしていて。

私もテレビを見ると、JAS(日本エアシステム・後に日本航空と合併)のDC-9型機の事故の映像が流れていました。

千歳から花巻、花巻から名古屋に飛び、折り返しで、名古屋から花巻に飛んだ便の着陸失敗による炎上事故でした。
幸い乗客乗員は全員脱出し、死者は出ませんでしたが、3名の方が骨折のケガをしました。

当日の花巻空港は、強風の横風が吹いていましたが、この便の操縦は、機長ではなく、副操縦士でした。
この副操縦士は、まだ、着陸時に操縦する資格がなく、また、機長も指導操縦士の資格を持っていなかったのにも関わらず、副操縦士が強風の中で操縦し、ウインドシアで急激に高度が落ち、予定地点より手前で滑走路に強い衝撃で着地し、主翼を破損して、滑走路の反対側で停止したというものです。

これらの、細かな状況は後で分かったものですが。

その日、私が出張で乗るのも、機種は違いましたが、JAS で、フライト中は不安を覚えました。
もちろん、無事に着きましたが。

それで、この事故は記憶に残っています。

【阪神淡路大震災】
1995年(平成7年)1月17日。
この日も東京に出張する日でした。

始発の便に乗るため、5時すぎに起きたのですが、テレビのニュースで、関西での地震発生を伝えていました。
ただ、まだ直後で、神戸の震度は出ていなくて、比較的強い地震だと言う印象だけ持ちました。

そして、福岡空港に行き、またテレビで、神戸が壊滅的な被害を受けた事を知りました。
ただ、火災の事までは知らないまま、飛行機に乗りました。

私の座席は左の窓側でした。

離陸して、飛行を続け、四国上空を過ぎたあたりで、淡路島、大阪は分かったのですが、神戸の上空だけ、厚い雲がかかっていました。

後で知ったのは、あれは雲ではなく、火災の煙でした。

その後の状況は周知のとおりですが。
当日、私はそういう状況でいました。

羽田に着いて、大阪の茨木に住む兄の家に電話をしまさたが、すぐには繋がりませんでした。

【JR福知山線尼崎脱線事故】
2005年(平成17年)4月25日。
その日も、東京の本社で会議があり、朝一の便で羽田に飛び、新宿の本社での会議に出席しました。

お昼の休憩に入り、食事をして会議室に戻ると、テレビがついていて、役員をはじめ、そこに居た全員が、テレビを食い入るように見ていました。

スビードの出しすぎで、カーブを曲がりきれなかった電車が脱線し、線路脇のマンションの1階に突っ込み、一両めと二両目が大破しました。
100名以上の死者を出した大事故です。

テレビは、救出の様子を生中継していました。衝撃的な映像で、印象に残りました。

午後の会議は、そのニュースを見るため、30分ほど遅れてはじまりました。


書いてみて、たまたま、私の出張の日だったんですね。

どれも、テレビで映像を見ているので、印象に残りました。
ただ、何と行っても、東北の大震災は、津波の映像が衝撃的で。唖然としました。

地震の多い日本ですが、大惨事が起きないよう、祈ります。

では、また。


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思い出話81 【18歳、26歳】

2017-02-26 19:43:59 | 思い出話
こんばんは。

今日は、4日振りの夜の仕事の日です。
3日夜の仕事がないのは初めてかな。

今朝は、相当早く起きてしまって。
「ONE OK ROCK 18祭」を観て。blogを書いて。
『また、寝ます』と書いたものの、すぐには眠れず、「ぼくらの時代」を観ている間に、終わりがけに寝てしまったようで、1時間ほどの睡眠でした。
その後は、だらだらして。東京マラソンのスタート中継を観て。

溜まっていた洗濯をして・・・。
のんびりはしましたが。

今朝の「ぼくらの時代」の中で、『26歳、転機説』と言う、どなたかの本の話がでました。

今日は、『18』と『26』。2つの年齢が出ました。

【18歳】
高校から大学進学で大阪に出ました。

高校に進学する頃は、家の経済的な理由で難しかった大学進学でしたが、3番目の兄が行かせてくれる事になって。

もちろん、国公立に行く頭はなく。兄が面倒を見てくれると言っても、極力、学費の安い大学という事で、大阪で2校。東京で1校を受験し、結局、合格したのは一番行きたかった大阪の「大阪経済大学」。

大学に進学して、最初から決めていたのは、教員免許を取ること。「商業」と「社会」の免許を取ることができましたが、単位の関係で、在学中に取れたのは「商業」。

学校の「先生」になる事は、その頃は目標の1つでもありました。子供の誰かが教員になる事を親は望んでいたようですが、大学に行けたのは、私と1つ上の兄だけ。

兄は、教員免許の取得は興味なかったようで。

ただ、私も『絶対に教員になりたい』と言う強い目標ではなく、選択肢を拡げる程度でいたと思います。
現に、19歳の頃に、バイト先でかみさんと知り合い、就職先として受けていたのはスーパーなどの流通業でした。場所も熊本。

すでに、20歳前から同棲し、その頃は、かみさんを優先していたつもりでしたが。

熊本に就職活動で行った帰りに、大学の掲示板で『商業科教員募集』の掲示を見付けて、結局、そちらに行きましたから。

定まっているようで、定まってなかったですね。何がしたいのか。

大阪の私立の男子校の教員になり、2年目の一学期に胃潰瘍になり、大量に吐血して、手術して3分の2を摘出して、2ヶ月入院して。

その年の夏休みの終わり。24歳になる手前で結婚して。

その年度末で、学校を辞め、紹介してもらった、やはり、大阪の私立の女子高で非常勤講師を1年。夜は、出身の大学に通い、「社会」の教員免許を取るため、通いました。

【26歳】
学校の教員をあきらめた訳ではないのですが。そのままでは、収入も安定せず、その頃は、かみさんもバイトだったので、26歳の時に、新たに就職活動をしました。

あくまでも、まだ、頭の中には『教員』があって、「商業」の教員をやるには、これからはコンピュータだ。と。

素人で雇ってくれる会社を探し、大阪に本社のある会社に入社しました。

それから、何度か会社は替わりますが、それ以降の私は、コンピュータソフトの技術者の道を続けてきています。今も、本業はそれです。

18で、目標が定まらないまま、教員免許をとりあえず取得して。熊本で就職するつもりが、大阪で教員になり。病気になり。
26で、『教員に戻るための知識を得たい』ために入ったコンピュータソフトの世界にはまり、そのおかげで、転職で熊本に住む事が出来て。一生の職業もできて。

少し遠回りでしたが、26は、私にとって、転機だったのでしょうね。

そんな事を、今日は、思い出していました。

では、また。


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思い出話80 【子供の受験】

2017-02-25 23:00:29 | 思い出話
こんばんは。

22時頃に帰ってきました。
何とか、今日済まさないといけない部分は終わったので、明日は休み事にして、H部長、S次長に連絡しました。

今朝の記事で、受験生の宿がない話を書きましたが。
それで、私の子供の受験の事を思い出しました。

【長女の場合】
長女は、福岡県下の県立高校に進学しました。
結構、しっかりした娘で。

高校の推薦をもらい、その高校から誰も受験した事のない、熊本大学医療技術短期大学部(最後の募集)を受験し、合格しました。

ただ、その受験前に、自衛隊の看護学生の試験と、防衛医科大学付属看護学校の試験を受けました。
自衛隊の看護学生の試験は、地元の陸上自衛隊福岡駐屯地での試験だったので、すぐ近くだったのですが。
防衛医科大学付属看護学校は、埼玉県の所沢になります。

かみさんは関東の地理に不慣れで、私は、自衛隊の仕事をしていて、入間基地などにも言っていて、地理には慣れていたので、娘の受験の時には私が付いていきました。

所沢の西武の航空公園駅で降りて、娘は受験に。私は、航空公園で時間を潰しました。

試験が終わる時間が近づいた頃、駅の方に行った時に、ある女性から声をかけられました。
女性『すみません。この辺りの市外局番は何番でしょうか?』
私『すみません。私、こちらの者ではないので。』
もしかしたら、私と同じ、受験生の付き添いのお母さんかと思い。
私『もしかして、娘さんが受験ですか。私も娘が受験なんです。福岡から来たんですが、どちらから来られたんですか?』
女性『福井です』
私『えっ?私、生まれは福井県です』
それで、話が始まって、驚いたのが。

その方も看護師さんで、勤め先が福井病院と言う病院。
実は、私の一番上の兄の奥さん(義理の姉)が福井病院の看護師で。
私『私、西山と言いますが。西山 〇〇ってご存知ですか?』
女性『西山さんは、大先輩です』

長女の受験のおかげで、ひょんなところで、地元の福井の方と話ができました。

結局、娘は、熊本大学医療技術短期大学部に進学し、看護師になりました。

【長男の場合】
長男は、高校でラグビーがしたいと、福岡の県立高校でラグビーの強い学校に進学しました。
ただ、1年の夏休みの合宿で膝をいため、そのため1年で退部しました。

受験の時期になり、3者面談で、担任の先生から『九州大学1本で大丈夫だと思いますよ』と言われ、九州大学1本で受験して、失敗しました。
翌年は予備校に通い、一浪しての受験で、やはり、九州大学は受験したのですが。今度は、別の大学も受験しました。
受験したのは、早稲田大学と明治大学。

はやり、地理に不慣れなので、受験の際に私が東京に付いて行きました。

明治大学の受験の前日に東京に行き、明治大学の下見に行きました。そこで見かけた母子連れ。

新宿にある、新宿ワシントンホテルのツインルームに宿泊したのですが。同じフロアに、あの母子連れ。

翌日、明治大学に行き、息子は受験。やはり、その時も、あの母子連れを見かけました。

明治大学の試験が終わった後、息子の予備校の友達と待ち合わせをして、早稲田大学の下見に行きました。
ここで、高田馬場駅で、また、あの母子連れ。同じように下見に来たのでしょうね。

もちろん、宿は同じホテルの同じフロア。

翌日、早稲田大学の受験に行き、終わる頃に高田馬場駅で待ち合わせて、羽田空港へ行きました。
福岡行の便を待っていると、また、あの母子連れ。
結局、同じ便で福岡空港へフライトしました。

私達は、地下鉄で博多駅に行き、普通電車に乗って南福岡駅まで帰ろうとしたのですが。
電車がホームから走り出した時、窓から、あの母子連れが見えました。

その後に特急があるので、それで、久留米あたりまで帰るのでしょうか。

ずっと、その母子連れといっしょだった気がします。

息子は、九州大学には合格しましたが。明治、早稲田は不合格でした。

【次女の場合】
次女は、長女と同じ高校を受験して、ダメでした。
それで、福岡市内の私立の女子高に行きました。

いろいろあって、次女も看護師の道に進む事になり、高校から推薦をもらって、こちらも、その高校からの受験が初めての熊本県玉名市にある、九州看護福祉大学を受験しました。

最初の推薦入試は、福岡であったのですが、娘は直前に足にケガをして、松葉杖をついた状態で受験しました。
それで、結果は不合格。

2回目は、本学での推薦入試。
熊本の玉名市なので、私が車で娘を連れて行きました。
受験中は、大学の駐車場に車を停めて、ずっと本を読んでいました。

結果、その推薦入試で、次女は合格できたのですが。

後で聞いた話。
長女は、短大を卒業して、熊本赤十字病院の看護師になりました。次女は面接で。
『私の姉は、熊本赤十字病院で看護師をしていますが、九州看護福祉大学からの実習生は、まじめで、よく勉強をしていると言っていました』
と言い放ったそうです。嘘ではないのですが。

次女が合格できたのは、長女を引き合いに出して、面接で話したからではないか。と、その後、家族みんなで言っていました。


などなど。
私の子供の受験の事を思い出してしまった次第です。

では、また。


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