西やん中洲にいます。

西やん67歳、日々の出来事独り言

思い出話79 【仕事の辞め方9】

2017-02-11 19:49:55 | 思い出話
こんばんは。

今日は、休日出勤+夜の仕事の日です。
今日のペアは、おしゃべり好きの Tさんです。

昨日は、『セクハラ』があって、当時の課長を追放した事を書きました。
ただ、私にとっても、相当な賭けでした。

その後は、所長が替わり、本社の部長が兼務され、やはり、毎週2日ほど来られる体制が続きました。

福岡の事業所の管理職は、私と事務を担当する自衛隊OBのM課長の2人になりました。
その頃から、私は出張などで事業所に居ない時を除いて、最後に帰宅するようにしていました。

若い人が多く、一人二人で残業をして、もし問題が起きた場合に、無駄な時間を使う事になるからで、私は居ても、自分の仕事をして、手出しをする事はありませんでした。

私が転職で入社したのは、福岡に事業所が出来て2年目の平成4年4月でした。
事業所開設時には、所長、課長、係長の3人が本社から来ていて、地元の中途採用が3人。新卒が、男性2人、女性4人でした。

私が入社した日に、他に中途採用が1人。新卒が男性2人、女性6人が入社しました。

新人の割合が多く、大変でしたが、それぞれ、少しずつですが、育ってくれました。
それぞれが2年目を迎える頃から、徐々に力の差が見えてきます。

でも、早いか遅いかはあるのですが、だんだんと、あるレベルには到達するものです。

ただ、私の入社前に新卒で採用された男性2人は、育たなかった。
3年、4年たっても覚えが悪く、性格がおとなしく、前に出る積極性もなく、客先に出すための面接に行かせても、ことごとくNG。
当然、同期だけでなく、後輩にも抜かれ。

彼ら2人を見ていて、この先も、この仕事で伸びるのは難しい。私達は、技術職で、営業や事務の部門がある訳でもないので、配置転換と言う事もできない状況。

入社4年か5年目の頃、2人を面接しました。それで。
『このまま続けて、5年後、10年後の自分の姿が描けるか。』
『他に自分に合った仕事を探した方がいいんじゃないか』
と諭すように、その方向に持っていきました。

それは、評価に差が付いたとしても、若いうちは給与面での差は大きくなく、昇進を伴って、顕著に差が出てきます。
昇進の目処もたたず、後輩に抜かれていくのも、本人にとってきつい面もあるであろうし、仕事の差があっても給与の差がないと、周りの士気にも関わります。

そうして、向いていない事を伝える事も、時には必要ではないでしょうか。


ドライバーKさん。
やはり、向いてないかな。

昨日、2時過ぎに2人の方を送って、お店に戻ったのが3時頃だったそうです。
一昨日、私がほぼ同じコースを走り、店に戻ったのが、2時40分頃でした。

『何処を走ってるんだろう?』
これが、みんなの疑問。
ただ、いろんな話を総合すると、頭の中で、道がつながらないような感じです。
地図が読めないというか。

一度走ったコースを外れると分からなくなるので、分かるところまで戻っている感じです。応用が利かないというか、新しい道を覚えようとしないと言うか。

私を含めた他のドライバーは、ルートに関して、情報交換をするのですが、Kさんは全くしません。

いつまで、この状況が続くかな。


忙しくなり、少しずつ入力していたので、日が替わってしまいました。

では、また。


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思い出話78 【仕事の辞め方8】

2017-02-10 21:57:34 | 思い出話
こんばんは。

今日は、寒い日でしたね。
博多でも雪が舞いました。まだまだ、これからかも知れませんが。

昨日は、【ドライバーKさん】の事を書きましたが。

【辞め方】ではなく、【辞めさせ方】について、私のした事を2つ。



【セクハラ】
私が福岡で勤めた会社は、私が勤める前の年に事業所が開設されました。

私を面接して下さった、同郷(福井)の所長と、本社から来ていた係長の喧嘩はいつもで、事業所内が険悪な雰囲気で、『転職に失敗した』とも思いました。
ただ、しばらくして2人とも居なくなりました。その経緯は分かりません。

それで、所長になったのが、本社の常務でした。

私が入社した時に、私と同じ、『課長代理心得』と言う肩書の方が居たのですが、中途採用の女性と意見が合わなく、仕事の進捗も進まず。
常務に言われ、その2人の上に立ちました。その結果、私の判断で、2人が争っていた部分をまとめ、期限内に仕事を終わらせる事ができました。

その後、常務の呼ばれ。もう一人の『課長代理心得』の方が、今後、この事業所でやっていけると思うかと問われ。私は。
『難しいと思います』と答えました。
常務は、その言葉を待っていたのかも知れません。その後、もう一人の『課長代理心得』の方は辞められました。

私の、『難しいと思います』の判断は、間違っていないと思っています。
部下と戦って、決着が付けられないようでは、難しい。ある程度、『圧倒的な』部分を持たないと、チームをまとめるのは難しいと思っています。

ここまでは、これまでの事なのですが。

もう一人、『課長』が居ました。
福岡事業所の創設メンバとして、家族(奥様と子供)と共に福岡に来ていた方でした。
実は、名前も忘れてしまいました。仮に、『A課長』とします。

この方は、なぜ福岡に来ていたのか。
私から見ると、ある分野では長けているのですが。その他は、あまり経験のない方。

私が一番嫌った部分は。酒が入ると『粗暴な』人格になる事。
会社の年末の納会や、飲み会になり、アルコールが入ると若い男性の社員に手荒い態度をとるのです。
その場の雰囲気が、一挙の険悪になるくらいに。

これは、ストレートに書きますが。
ある日、当番で早く来て、掃除をしていた男性社員が来て。
『応接室にゴムがありました。』
と私に報告をしてきました。

その前の日に、誰が夜、夜中に会社に残っていたのかは、私は知っていました。
Aさんと、女性社員です。

報告した男性社員には、他言しないように伝え、様子を見る事にしました。

ただ、もう一人、自衛隊で定年を迎え、事務担当の課長としていらっしゃった方には、その事を話していました。
M課長です。
その当時は、常務が所長で、常駐ではなく、週に2日ほど来られていた程度でした。

ある日、1年目の女性社員から、『A課長からセクハラを受けた』との訴えがありました。
私は、彼女を連れて、M課長に事情を話した上で、M課長のご自宅に行き、相談をしました。

その結果、出た結論は。
『明日の朝、2人で本社に行き、常務(所長)にその旨を伝える』
と言う荒行でした。

翌朝、福岡空港で待ち合わせをし、東京の本社に行き、常務に『セクハラ』の内容を伝えました。

その後、私と彼女は福岡に戻り、彼女は自宅に返し、私は会社へ。
そこで、A課長から呼び出しがありました。

当時、何度か言った事のある博多のスナックに呼び出され、1対1で会いました。

A課長は、すでに飲んでして、いろいろ怒鳴ってきましたが。
私も、本社に行く際に、覚悟は決めていました。常務がどちらに着くかは分からない。仮に『クビ』になってもいい覚悟で東京に行っていたので、A課長に対して、冷静に対応する事ができました。

A課長は、その後、会社に出社する事もなく、東京に戻りました。

その後、知った事ですが。
常務は、A課長が結婚された際の仲人でした。
常務から、過去に同様の事があた事を聞きました。それが福岡に来ていた理由なのかは定かではありませんが。
A課長は、その後、子会社に転籍となりました。その後の事は知りません。

これで、随分と事業所の雰囲気が良くなりました。

この事を、どうとられるかは、皆様が感じられるとおりで良いと思いますが。
もう一人の『課長代理心得』が辞められた事で、私は『課長代理』になりました。
更に、A課長が居なくなった事で、私は『課長』になりました。


ちょっと、赤裸々に。私の過去の事を書いてみました。

もう一つの、当時の私の話。ドライバーKさんと重なる話は。

また、別の機会に。

では、また。


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思い出話77 【仕事の辞め方8】

2017-01-03 21:12:31 | 思い出話
こんばんは。

1月3日も終わろうとしています。
明日の4日からは、昼の仕事も始まります。
今日は、火曜ですよね。明日が水曜。
少しの間ですが、曜日の感覚が無くなってしまいます。

今日は、夜の仕事の2連チャン、2日目です。

少し、間が空きましたが、『仕事の辞め方』です。おさらいを。

前回までは、熊本に居た時の会社を辞めて、福岡で職を探し、専門学校の先生と、東京に本社のある会社の福岡の事業所とで迷った結果、開発の現場である会社を選んだ事までお話ししました。

いざ、この会社に入ってみると。
最初から管理職での入社でしたが、『課長代理心得』と言う肩書。
私の入社前年採用の6人と、同じ年採用の8人の新人が居て、開発の仕事をするには、日々、教える事ばかり。それも、大変でしたが。

はっきり言って、この会社の事を、あまり調べずに入社してしまいました。
ただ、調べても分からない事だったとは思うのですが。

当時の所長(私を面接して下さった方)は、防衛大学校卒業の自衛隊OB でした。私と同郷の福井出身。
この所長と、東京の本社から立ち上げメンバーとして来ていた係長の人が犬猿の仲と言うか、しょっちゅう喧嘩して、怒鳴り合い、事業所の中が、どよーんとした雰囲気に包まれていました。

『(転職を)失敗した』と思いました。

それが、私が入社して1、2ヶ月で、突然、二人が居なくなりました。その情報はほとんど耳に入って来ませんでした。
所長は退職。係長は東京に戻されました。

それで、代わりに所長になったのが、本社の常務取締役。もちろん、兼務です。毎週、水曜、木曜に一泊で来られるようになりました。

懇親会をして、二次会でカラオケに行った時に、私がCHAGE&ASKAの曲を歌ったら。
『西山さんは、若い人を相手するため若い歌を覚えて、偉い』と、褒めて下さった方です。

それから、私は新人6人を抱えて、あるメーカーのシステムを、別のメーカーのコンビュータに移植するシステムを担当しました。
対象のコンビュータが無いため、地場のソフト会社に一部を発注し、そこの会社のコンビュータを借りました。

この仕事は、自衛隊関係の仕事で、全体は本社で請けているもので、私は、本社との調整と、地場の会社との調整。そして、6人の新人の指導と、最初からハードな仕事をしていました。

あるとき、別の仕事で問題が起こりました。
私より先に入社した、『課長代理心得』のHさんの仕事で、サブに、中途採用の女性のYさんが付いていたのですが。

この仕事がスケジュール通りに進まず、大きく遅延していました。
原因は、H課長代理心得とYさん(係長)との確執。何かともめて、方針が決まらないため。Hさんは制御ソフト畑の方で、業務ソフトの経験がなく、Yさんは業務ソフト一筋の方。その経験とブライドから意見が合いませんでした。

それで、ある日、所長(常務)に呼ばれ。
『西山さんが上にたって、仕切りなさい。2人にも、そう命じるから。』
と言われました。

Hさんは、私より年上でしたが、所長命令で上にたち、状況を把握して、方針も決めて、2ヶ月くらいで、何とか終らせる事が出来ました。

すると、また、所長に呼ばれ。
『西山さん。Hさんはどう思う?やっていけそうかな。』
と聞かれました。
その時、私は、Hさんは、この会社では無理だなと感じていたので、率直に。
そして、所長が私に求めていた答えも察しがついたので。

私『難しいと思います。』
と理由も説明して、答えました。

その直後に、所長と話をしたHさんは、退職しました。
私は、彼のためには、その方がいいと判断したのですが、その後の展開が早すぎて、苦労されたかな。と思いました。

その直後に、『心得』がとれて、『課長代理』になりました。

『辞め方』の話ですが、しばらくは、『辞めさせ方』の話になります。

『冷たく』です。
そう言う時期がありました。


では、また。


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思い出話76 【仕事の辞め方7】

2016-12-25 20:37:12 | 思い出話
こんばんは。

今日は、夜の仕事の日です。
今月は、奇数日が夜の仕事で16回。今日を合わせて、あと4回です。

1月のスケジュールはまだ出ていませんが、大晦日に夜の仕事は3年連続です。今年も、『紅白歌合戦』はお店の車のラジオで聞く事になります。

【仕事の辞め方6】で、次回からは私の本性をと書きましたが、その前に、熊本から福岡へ転居した時の事を書きます。

熊本の会社は、3月31日まで勤務しました。有給消化もしませんでした。
翌日の4月1日からは、福岡の会社に通いました。

最初の週は、会社が準備してくれたホテルに泊まりました。2週目は、引越の準備もあり、特急で通いました。

転居先は、春日市にあらかじめ決めていましたが、引越しは、4月の中旬になりました。

可哀想だったのが長女。小学校3年になったばかりで、わずか3日ほど熊本の小学校に通い、福岡に転校しました。

長男は、かみさんが、是非、熊本信愛女学院の幼稚園に入れたいと言って、年中の1年で福岡に移る事になりました。

かみさんに話はしていましたが、結構、強引に進めてしまった事もあり、家族には迷惑をかけたのですが。
半年後に、熊本の事業所が閉鎖される事になり、もし、そのまま残っていたら、九州を離れる気はなかったので、もっとバタバタして職探しをする事になったと思います。

半年の差ですが、バブルも弾けて、求人も減ってきていた時期でした。
残った人達は、ほとんどか地元出身で、中途採用の人は地元に帰るための転職でしたから、再就職に苦労したと聞いています。

引越しは、確か土曜日で、荷物を出した後、自分の車でトラックを追い、その日の内に転居先に運び込みました。

熊本を出る時は、近所のかみさんの友達や、子供の友達が見送ってくれました。

日曜に荷物をほどき、月曜は休みをもらって、長女を小学校に連れていきました。
担任になる女性の先生が、玄関まで迎えに来て下さり、娘はそのまま教室に行って、授業を受けました。
その時の、娘の気持ちがどうだったかは聞いた事がありません。

ただ、友達はすぐに出来ていました。

息子も、新しい幼稚園に入りました。
こちらも、友達はすぐにできたようです。

熊本で次女も生まれていて、まだ、7ヶ月くらいでした。

月曜は、転居の届けなどを済ませ、翌日から、また、新しい会社に勤務しました。


新しい会社には、最初から管理職で採用されました。役職名は、『課長代理心得』って。『心得』って何?と言う感じですが。

福岡の事業所には、所長と課長、私と同じ、半年ほど早く中途採用で入社していた、もう一人の『課長代理心得』のHさんが居て、もう一人、自衛隊OBの事務職のM課長。私を合わせて、管理職は5人居ました。

そして、社員は、東京から一人。中途採用で5人。初年度採用の新卒者が6人(男2人・女4人)。私と同じ日に入社した新人が8人(男2人・女6人)

管理職で採用されたものの、部下はほとんどが新人。厳しい。

更に、入社早々に、いろいろ大変な事が起こります。
最初は、『この転職は失敗か』と思いました。


この続きは、次回。

では、また。


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思い出話75 【クリスマスの思い出(過去記事)】

2016-12-23 18:40:38 | 思い出話
こんばんは。

休日出勤1日目から帰ってきました。
今日は、寒いです。ダウンのジャケットを着て行きました。

今から、夜の仕事です。

明日は、『クリスマスイブ』ですね。休日出勤ですが。
それで、過去記事を2つ、まとめて掲載します。



☆ 2015年12月22日の記事 ☆

【クリスマスの思い出】

もうすぐ、クリスマスですね。

今年は?今年も?クリスマスイブは、夜の仕事の日です。
独り身の私には、とくにすることもなく、会う人も居ないので、家に居るよりは、仕事の方が気が楽というか。

ふと、クリスマスの思い出って考えてみたら。(元)かみさんとの初デートがクリスマスの頃でした。

一度、再掲載して消してしまったのですが、もとの記事は『縁とか運とか』のカテゴリーに残っています。私が九州に居る理由です。

19才の年末にバイト先で気になる娘がいて、たまたまバイト先にいたご夫婦の社員の方に間に入ってもらって、初めてのデートの約束をして。

それが、クリスマス頃。

阪急電車で、京都の嵐山へ。寒かった。
話したことなど覚えてません、帰る頃には雪になって。
大阪の池田市にあった寮まで送りました。
雪のクリスマスなんて。

その後は、つき合ってくれたので、一応、気に入ってもらえたのかな(笑)

今となっては、いい思い出です。

なんて事を、思い出してしまいました。



☆ 2015年12月24日の記事 ☆

【30年目のクリスマスデート】

まだ、終わってはいませんが、帰ってきました。
これから、残りをやるか、眠るかは、この後の体調をみて(眠いかどうか)で決めます。

昨日の続きのような話になりますが、クリスマスの思い出。もう一つ、思い出しました。

昨日、書いたように、(元)かみさんとの初デートは、19才の冬。クリスマスでした。日にちは覚えていないのですが、23日から25日の間だったと思います。
嵐山に行って、大阪の池田まで送った頃には夜になっていましたから、それなりの時間を過ごしたと思います。

それからは、バイトの帰りに池田まで送るようなことをしていたと思います。

かみさんと結婚したのは、私が高校の教員になって、2年目に胃潰瘍の手術で胃を3分の2切除して。それが、5月、6月頃で、退院した時には夏休みになっていて。
すでに、その時にはいっしょに住んでいました。いわゆる同棲です。その夏休みに、結婚しました。
8月22日。夏の盛りです。
その時の私の年は23才です。(翌月24才になっています)。ちなみに、かみさんは同級生。1月生まれです。

それから月日が流れて、結婚25年。銀婚式ですね。

実は、これが何もできなかった。特に、イベントも何もなくて。忘れていたのか、(仕事とかで)できなかったのかは覚えていませんが、とにかく何も特別な事がなくて。

それで、いろいろ考えてみて、お互い19才の時に知り合い、クリスマス頃に初デートして。それから30年。
49才の冬に、かみさんと二人での旅行をすることにしました。私が勝手に決めて、予約してしまったのですが。時期はクリスマス頃。
銀婚式はできませんでしたが、初めてデートしてから(知り合ってから)30年の記念で、行先は京都。

博多から、『三都物語』で新幹線とホテルを予約して、朝、早い時間に新幹線に乗って京都へ。
もちろん、子供達には理由を説明して、留守番してもらいました。

1日目に行ったのは、やはり嵐山、嵯峨野。当時、歩いたと思う道を思い出しながら散策しました。

宿泊は、京都中心部の日航ホテル。行ってビックリで、相当いいお部屋でした。

翌日は、阪急電車で、大阪府茨木市へ。
30年。相当変わっていましたが、よく行った喫茶店や、もう経営は変わっていましたが、知り合ったバイト先。
そして、もう無いだろうと思っていた、当時住んでいたアパート。残っていました。

その後は、大阪市東淀川区。阪急電車の上新庄駅。
私が通った大学の最寄駅です。

この駅の近くに、一時期、私が住んでしたアパートがあり、20才の時にかみさんと最初にいっしょに住んだ場所でもあったのですが、そこは無くなっていました。
風呂のない所で、近くの銭湯に行っていました。若い人は知らないかな。かぐや姫の『神田川』の世界でした。

30年の月日の経過で変わってしまったもの、変わらず残っているもの。2日間の短い時間でしたが、辿ることができました。

これが、知り合って30年目のクリスマスの思い出。
今から9年前ですね。

まあ、こう言う時期もありました。という事です。

では、また。
おやすみなさい。


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