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2017-04-27 | 司馬遼太郎



司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 9 信州佐久平みち、潟のみち ほか』★★★


http://publications.asahi.com/kaidou/09/index.shtml



「亀田郷土地改良区」
その考察からくる日本人の土地所有欲について興味深かった。
そうご近所の自称「私道」で未だに起こっている「ここは私道ですから」
監視している老人が哀れでならない。
まさしく苛烈な土地私有欲
それがどこからくるのか考えさせられる。



上手く説明出来ないけどこの項は歴史の深さというか流れというか、
誰も教えてくれないことを気づかせてくれた。
まぁ右から左へと過ぎ去ってゆくんだろうけど・・



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私は十年ほど以前から、日本の社会を混乱させているのは土地制度ではないかと思ってきた。一億人の人間が土地を投機の対象と信じていること自体、経済的狂人の社会というほかないと思っていたし、産業家や商品の問屋や林業家が本業よりそれをころがして儲け、また土地をころがすことであらたな政商が成立し、政治家が受動的もしくは能動的にそういう病的な政治行為の構造の中心に居るようになっては資本主義というようなものでさえないと思うようになっていた。







「子供のころ、おやじに教えられたんですよ。猫が食うモノはみな食えるんだ、と」



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法然の一文不和の念仏



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言葉というのは、本来なりさがりたるものらしい。とくになまな現実感覚を越えてしまった尊称というのは、ひどく下落することがある。
たとえば、聖という言葉である。

聖 ひじり

聖人 しょうにん



高野山を権威と信仰のよりどころにした聖が、高野聖である。


密教と仏教については、空海はべつものだと露骨には言いきっていない。仏教のもっとも進歩発展した体系が密教であると言っている。

密教は、心身ともに密教化してはじめて世界がひらけるものだけに、こんにちの私どもにはまことにわかりにくい。



「別所」

高野山には、もはや平安・鎌倉期のような別所はない。
ただ、名称一ヵ所だけが残っている。
「真別処」



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長野盆地は、信州では古くから善光寺平とよばれてきた。そのほうが風趣がある。


「上田は、六文銭ですな」

「真田の六文銭です」



まことに聖という存在は、中国の過去にも、朝鮮やヴェトナムの歴史にも存在しない。


高野念仏、熊野念仏、善光寺念仏といっても、教団化されていないよさがあった。



私のこの旅は、あたらしい土地へゆくとかならず国府のあとか、それが明瞭でなければ国分寺のあとを訪ねることにしている。そのあたりは上代における国の中心だったから、山河を見わたすだけでも、感慨が深まるような気がする。


日本人は、古来、杜を神聖な場所として大切にしてきた。共同体の中心をなす神社の境内は樹木でうずめ、鬱然たる杜をつくり、杜に神が天降りするという信仰を継承してきた。

人間の心を安らかにするのは、樹木しかない。



本海野宿



胡桃



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「大切な人を失ったかも」
久々に出すポストカードに実感を表すが如く書いてみた。
4度目 せっかくのチャンスだったのに。
もし今度があるのなら黙ってついてゆこう。
でもそうならないのが内に秘めた怒り。








Dua Lipa
声がよいマイブームmusic

 


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