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as if there is a god - 地鎮祭の話から




話の収拾がつかないのだが、いちよう昨日の続き...


先日、タンブラーでこんな記事が回って来た。

「自衛隊は兵器(装甲車、戦車、航空機、艦船)を導入する時、神主にお払いされる。

ソニーがアメリカに工場を建てる時、地鎮祭を行って
アメリカ人に「日本人は何をやってるんだろう」と疑問に思ったそうな。
「全ての土地には神が住む、我々は許しを乞うて工場を建てる」
とソニー側が説明したと言うお話。 」


わたしは日本で生まれ育った日本人なので強いバイヤスがかかっているのかもしれないが、なんと美しい心情なのだろうと感動した。

以下はわたしはごく一般的な話をしている、という前提でお読み下さい。

日本人の多くは神道と仏教の混合したコスモロジーを「信じている」とは言わないまでも、無意識に規範にして生きて来た。
これは中沢新一的に、われわれはこの世界/自然の中に後から来て、様々なものを「贈与」されながら生きている、という感覚で、日本へ布教に来た初期の宣教師が「日本人には(一神教の)神がないのに非常に倫理的な人々である」と評したことの元になっているのではないかと思う。
日本人が倫理的なのは、世間体を異常に気にし、村八分を恐れるからだ、という言い方もあるが、それは原因ではなく結果だろう。

人類が現れる前から、世界は/自然はあった。特に日本列島には日光、海、土、雨、水、風、火、山、川、木、...が豊かで、後から来たわれわれはそこから直接、あるいは木の実や魚や野菜や穀物やらの形で贈与されて生きている。日本列島が例えば砂漠やツンドラではなく、海に囲まれ森林に恵まれ水も豊富なのは、日本人の心情の形成に大きな役割を果たしたと思う。

われわれは世界/自然から贈与されている。そこには与えてくれる何かが存在する。つまりあちこちに神様(八百万の神)がおられることになる。
われわれは彼らに恥ずかしくないよう、迷惑をかけすぎないよう、彼らから取りすぎないよう、彼らを怒らせないよう、さらに豊かに与えてくれるよう、気を配る。受け取ったら来年も再来年も与えてもらえるようお祭りをする。
わたしが思うに、これが「日本人は世間体を異常に気にする」人々になり、「現世利益」を求める人になった理由である。


キリスト教は「神の意思を理解する」ために自然を利用し搾取することによって科学を進歩させて来たが、日本はそういう道をとらなかった(のに急激にその方向に転換したために現代の齟齬が生じていると思う)。だからといってわたしはキリスト教徒はもっと謙虚になれなどと言うつもりも全くなく、はっきり恩恵も受けているし、やはりどういう世界/自然の中に後から来たかという違いで人間の世界観にこうも違いが出るのか、と驚くばかりだ。


地鎮祭...使わせてもらっている、贈られている、未来にも使わせてもらえるように大切にし気を配る、そういう気持ちを忘れたくないと思う人々が地球上にいるのは良い(日本の他にもそういう人たちはいるのかなあ。そういう人たちが絶滅していないといいなあ。日本でも滅びないといいなあ)。
さらにはわれわれが受け継ぐ文化や言語も、そういう気持ちで使いたいと思う。

こういう話をこちらの人にも紹介したいと思うこともあるのだが、そんなチャンスはなかなか巡って来ない。
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