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as if there is a god




娘はここ英国でキリスト教系の私立女子校に通っている。
聖餐式や大小の礼拝はもちろん「宗教」の授業と試験があり、16歳までに受験するGCSE(義務教育修了試験)では宗教は受験必須科目に定められている。

授業の内容等を見ると、ユダヤ、イスラム、ゾロアスター、ヒンドゥ、シーク、と来て、今は仏教をやっているらしい。聖書の解釈をひととおり終えた後は、各宗教の価値観やコスモロジーの方を重点的に勉強していることになる。ベルギーで通ったキリスト教系の小学校でも、聖書の中の重要な概念やイベントを学んでから他宗教についても勉強していたし...
最近は単一神教的に勉強させる傾向もある、と言っていいのだろうか。
つい30年前(つい、じゃないわな..)わたしもキリスト教系の女子校にいたが、聖書以外を勉強するなどありえなかったのになあ。

とは言え、前回の論文試験で「私は無神論者だ」と書いた子がFをもらったと娘が憤慨していたから、その論文の内容が理論的にどうだったのかは別にしても、神の存在そのものを否定するのは許されてはいないようだ。なら、「無宗教です」と書いたらどうなるんだろう? 娘によると論文内では信心深さを積極的にアッピールすると配点が上がるそうだが。

無神論だと語った子がFをもらったのは、「キリスト教系の学校に在籍している以上は」という至当な、あるいは建前的な意味でなのか、「この世をあたかも存在しているかのごとく見せている神の力」を否定することは自分の存在をも否定することになるといった一神教の核の問題なのか、単に理論が破綻していたのか、全部なのか、どれでもないのか...ちょっとわたしには想像もつかない。


日本人が日本人の間で「無神論者」や「無宗教」であることを告白しても別にどうということもないが、一神教信者や敬虔な信仰家にとっては、「文明人にあらず」とか「無神論であると言う当のお前自身も、神ぬきではそのように言うことすらできない」などという問題に発展する可能性があるのだ。そもそも旧約聖書はのっけから「初めに言葉があった」と語り出す。「言葉は神であった」と。

先日はタンブラーで「私は無神論者」と言う欧州人のブログが回って来、彼女はひどい集中攻撃を受けていた。曰く「気取るな!」とか「あなたのお父様はなんと嘆くか!」とか...


「文明人」は内輪以外では(匿名以外では・笑)、決して宗教を話題にしないので、相手の信心深さの濃淡や他宗教に対する寛容度の高低(敬虔でない人も無宗教の人も少なくはない)など、いったいどの程度なら質問してもいいのか発言してもいいのか、「空気を読む教」信者の日本人であるわたしはいつまでたっても加減が分からないのである。このようになかなか話題にできないために加減の分からないことは外国生活では...外国生活に限らないかも...多少ある。

こうして、相手の信心を知る機会もめったにないが、自分の信心を語る機会もまたない。
仲間内、親戚内で質問されたら、「仏教徒でーす」と言うことにしている。大抵、「ああ、あれは way of life の哲学だね!」と言ってもらえる。そこで「ニーチェが言ったように精神衛生学ですよ。」などとはぐらかす。

わたしはカミュの、 "I would rather live my life as if there is a God and die to find out there isn’t, than live my life as if there isn’t and die to find out there is"「神様なんかいるもんかという態度で生きて、死んでから、ウッソー!やっぱりいてはったんや!と気づくより、神様がおられるからと生きて、死んでから、ああ、おられなかったのだ...と気づく方が私はいい」という寸言が大好きだ。

カミュは(文脈からも、彼の立ち位置からも)ここで神様がいるともいないとも言ってはいない。単に、褒美や懲罰などの裁きを下す最高の存在(神)がいないとしても、従うべき規範が全くないとしても、そしてたとえ人間の生に意味がないとしても、それでもわれわれ人間は「最善」をつくして生きるべきである、という強い人間像を語っている。
しかしこの寸言にしても簡単に曲解されて、カミュは神は存在すると思っていたか否かという問題にされたことがあるから...やはり難しい話題なのである。


で、なぜこんなことをダラダラ書いてるかと言うと...

これ以下がなかなかまとまらないので明日かまた今度にしよう。
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