:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》  = ルブリン編 =

2014-01-06 18:57:02 | ★ シンフォニー 《ポーランド》

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  シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》

= ルブリン編 = 

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WYDは思いがけず長くなり、最後の《秘話》を入れると全8編になった。

ここで、今まで中断していた 《シンフォニー》 のテーマに戻って完結しようと思う。

あれから旅の一座はアウシュヴィッツを発って、ルブリンに向かった。

約360キロの道程は高速道路が無いので、バスで6時間ほどの長旅だ。

 

途中クラカウの街で小休止。クラシックな馬車がお似合いの美しい街だ。

小雨でなければ、白い幌は後ろに倒してオープン馬車になるのだが・・・

 

     

クラカウの司教館は前回のポーランド巡礼(ブログ参照)でも紹介したが、入り口の上には今でも

教皇ヨハネパウロ2世の写真が飾られている。そして、中庭の回廊には教皇暗殺の瞬間の写真パネルがまだ残されていた。

 http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/ccc56dc64253860d0e70aa67f3ba9e35

 

 

夕方ルブリンに着いた。私にとっては二度目の訪問だ。

一度目は、私が神学生としてローマに来て2度目のクリスマスだったと思うが、

休暇中ポーランド人の若い神学生 コンラード・チュバ 君の実家に世話になった。

20年前のコンラードはまだ初々しい色白の少年だったが、その後神学生を辞めて国に帰り、

結婚して7人の子持ちになり、再会した時には、顎鬚に白いもののまじった立派な父親になっていた

 

キコは何故ルブリンをシンフォニーの演奏地に選んだのか?

それは第二次世界大戦のさなかに起きたナチス・ドイツによるユダヤ人への迫害の追憶のためだ。

 ルブリンは緑豊かな閑静な街で、ヨハネ・パウロ2世が教鞭をとったことで有名なヨハネ・パウロ2世・ルブリン・カトリック大学がある。そして、日本ではあまり知られていないが、郊外のマイダネクには、ナチス・ドイツによって建設されたルブリン強制収容所があって、

その規模はアウシュヴィッツ=ビルケナウに次ぐ大きさだった。

 ルブリンにはもともと人口のおよそ40%を占める活発なユダヤ人社会があったが、1939年、ドイツ軍に占領され、1941年に郊外に巨大な絶滅収容所建設されると1942年に町のユダヤ人の大半が殺害された。

 

 高さ4メートルの支柱を2列に立ててその間を有刺鉄線で結んでフェンスとし、2列の柱の間に対角線に渡された有刺鉄線には高圧電流が流れていた。一定間隔に機関銃を備え付けた監視塔を設け、警察犬として200頭のシェパードも飼われていたという。


 

マイダネクにある慰霊碑の建材には犠牲者の遺灰が混ぜられている。

20年前、コンラードは私をここに案内した。そのとき私が撮ったフイルムは既に散逸して無いが、

それは、クリスマスの頃、マイナス20度のどんよりと曇った雪景色の慰霊碑の写真だった。

凍てついたコンクリートの巨大なモニュメント。急な階段を上って中に入ると、吹きさらしの中に

やや黄味を帯びた白い大きな砂山のように見えたが、実は全て人間の屍体の焼却灰だった。

右手の階段を上り切った黒い影の部分が、人間の背丈の二倍近くあると言えば、全体の巨大さが想像できよう。

 

 様々な国籍の人々がマイダネクに収容されていた。囚人は総計50万人に及んだという。このうち全体の60%以上にあたる36万人が死亡したといわれる。その内訳は、21万5000人が飢餓・虐待・過労・病気により、14万5000人が毒ガス・銃殺によるという。

 1942年4月頃のルブリン・ゲットーの解体、1943年5月頃のワルシャワ・ゲットーの解体の際にはそこで暮らしていた大量のユダヤ人がマイダネクに移送されてきている。

 ガス殺にはチクロンBと一酸化炭素が併用されていた。1度に1914人をガス殺することが可能であった。現在このガス室は一般に公開され、天井に沈着する青々としたチクロンBを今でも眺める事が出来る。

 マイダネクでは銃殺による虐殺も数多く行われた。規模が一番大きかったのは1943年11月3日の「収穫祭作戦」(囚人からは「血の水曜日」)と呼ばれるユダヤ人大量銃殺だった。マイダネク収容所にいた8400人と他の収容所や町から連れてこられた1万人の合わせて1万8000人のユダヤ人がこの日に銃殺された。

 マイダネクのガス室については、1944年8月12日のソ連の通信員ローマン・カルマンの次のような報告がある。 「私はマイダネクで今まで見たことのないおぞましい光景を見た。これは強制収容所などではない。殺人工場だ。ソ連軍が入った時、生存者の多くは既に他に移されていて、収容所は生ける屍になった収容者が1000人程度が残されているだけだった。ここのガス室には人々が限界まで詰め込まれたため、死亡したあとも死体は直立したままであった。私は自分の目で見たにもかかわらずいまだに信じられない。だがこれは事実なのだ。」(この10行余りはウイキぺディアを要約して書いた)

 

キコはここで亡くなった人々の魂に捧げるために

 シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》

をユダヤ人の兄弟たちの前で演奏したかったのだ

  

   

王城前の貝殻状の広場は、芝生の緩やかなスロープも含めて理想的な自然の野外コンサート場になっている。 

  左の写真の後列に見える青い椅子席のあたり    その青い椅子の後ろから眺める舞台はかなりのスケールだ

 

指揮者のパウがリハーサルに入った頃はまだ晴天で、Tシャツがピッタリの暖かい日差しに包まれていた。

 

   

バイオリンも、ソロでマリアを歌う彼女も、ハープも、管楽器も、みんな最後の調整に入っていた。

 

 

    

 ルブリンやクラカウのカトリックの高位聖職者も歓談しながら開演を待っていた。

 

    

しかし、今日の主賓は何と言ってもユダヤ人のラビたちやユダヤ人社会のリーダーたちだ。右端のキコは彼らを心から迎える。

 

  

おや? この娘は一体何をしている? 大きながまぐち風のハンドバックを頭に載せて? そうです。にわか雨です!

 

 急に頭上を黒雲が覆い、鋭い稲妻が走り、つんざくような雷鳴が轟き渡った。キコの後ろの垂れ幕も、流れ落ちる水で縞模様になった。楽屋のエンジニアは、落雷や漏電を恐れて、機材を護るために電源を切った。マイクが死んでは会衆に呼びかける手だてもない。

さあ、キコどうする?

彼は間を持たせるために、オーケストラに共同体のコミカルな元気の出る曲の演奏を命じた。

一同は楽譜の用意もなかったのに、即興でそれに応じた。

 

  

 ひらめく稲妻、絶え間なく轟く雷鳴。土砂降りの雨。司教さんたちは不安顔。しかし、イタリア人の参列者は陽気なものだ。

 

20分経ち、30分が経っても一向に止む気配がないのに、椅子席や芝生を埋めた観客は立ち去ろうとはしない。

 

    

小1時間して、さしもの雨も弱まり、電源が戻った。キコが挨拶をし、パウがシンフォニーを演奏し始めた。

だが、演奏が始まると無情の冷たい雨脚は再び強まり濡れた衣服に吹き付ける風で体温を奪われ、震える人もいた。

 

  

シンフォニーは、クライマックスを迎え、 「シェマー・イスラエル」 《聴けイスラエルよ!》 を、

客席のユダヤ人もキリスト教徒も心を一つにして高らかに歌い上げた。

それを受けて、ユダヤ教会堂のプロの歌い手による「ホロコーストの犠牲者を悼む哀歌」が、

切々と詠唱された。

 

 

夜、ホテルの庭の特設テントの中では、ユダヤ教のラビたちや紳士淑女を招いて

キコのオーケストラのメンバーとの懇親会が開かれた。暖房が十分効いて快適な気分だった。

 

共同体のキコの歌の中には、ユダヤ教から借りてきたものが多数ある。

ラビたちの歌の数々を、キコの共同体はミサなどの祭儀でヘブライ語を随所に交えて日常的に歌っているのだ。

 

キコのメインテーブルに着くラビたちは、驚きと感激をもって、次々と繰り出される彼らの歌に聞き入っている。

 

  

やがての事に、ステージでホロコーストの哀歌を歌ったラビたちが、自ら立ってユダヤ教の歌を歌い始めた。

夜も更けて、ユダヤ人の客人たちは感激と喜びのうちに退出していった。

2000年間相互に反目し合ってきたユダヤ人とキリスト教徒が、こんなに打ち解けて仲よく交歓する景色はかつて

この地上に存在しなかった。これは、少年時代からユダヤ人を友として育ったポーランド人教皇ヨハネパウロ2世と、

それにぴったり呼吸を合わせて働いたキコの共同作業が起こした、歴史上の奇跡といえるだろう。

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/af28860920e0e8f809dab37c43c1cbdb

 

明日は最後の会場、ハンガリーの首都ブダペストのオペラハウスに向かう。

一旦クラカウに戻り、国境を越えて、昨日の倍ほどの行程の大強行軍が待っている。

 

(つづく)

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★ シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》 =アウシュヴィッツ編(その-2)=

2013-08-24 01:16:22 | ★ シンフォニー 《ポーランド》

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  シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》 

= アウシュヴィッツ編 = ②

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早々とボランティア―の場内整理係が配置に就き始めた

 

午後4時開演なのに、正午には人が入り始めた

前の方に席が取れれば、舞台の様子も見えるが、1万2000席の最後尾では舞台の人は豆粒ほどにしか見えない

各所に配置された大きなスピーカーと大きな電光スクリーンだけが頼りになる

イスラエルの旗を掲げたグループは、クラカウあたりからのユダヤ人の団体だろうか

リュックを背負ったシスターの姿もある

キコがどんなルートを使ってどのような層の人々を招待しているのだろうか、興味がある 

 

キコは、続々と入ってくる一般聴衆のほうに目をやって、なにやら満足げだ 


早々とクラカウの大司教、スタニスラオ枢機卿が前方の来賓席のあたりに姿を現した

彼はポーランド出身のヨハネ・パウロ二世教皇の秘書だった

大司教になってかなり太ったように見受けられる

その左側の司教の顔も見覚えがあるが、さて、どこの誰だったか・・・

 

  

左の写真の真ん中、黒いキッパ(ユダヤ人の男性が頭に乗せる皿形の帽子)のラビ(ユダヤ教の教師)と挨拶しているのは、

オーストリアのウイーンの大司教のシェーンボルン枢機卿(カトリックの枢機卿は赤のキッパを頭に乗せるのが習わし)。

彼は今回のコンクラーベ(教皇選挙)では有力な教皇候補だったと言う話をきいた。

右の写真でシェーンボルン枢機卿と話をしているのは、たしかホロコーストの生き残りのラビのアルトゥール・シュナイアー師

ではないか、そして右側で右を向いているのは全米ユダヤ人協会国際部長のラビ・ローゼンだ。

いずれもアメリカでのシンフォニーツアーのとき、ニューヨークでも、シカゴでも、ボストンでも重要な役割を演じた人たちだった。

 

来賓のラビたちと歓談するキコ

 

バチカン側からは、元コル・ウヌムのコルデス枢機卿(左)、

信徒評議会議長のリュウコ枢機卿(右)などおなじみの顔が並んでいる

 

  

たぶん、ポーランドのユダヤ人社会の中で有力なラビたちなのだろう。 アメリカツアーの会場では見かけなかった

顔ぶれが大勢いる。

 

いよいよ演奏開始。 スペイン人の若い指揮者 パウ が客席に向かって一礼をする。

 

コンサートホールの生の音とは違うが、大スピーカーから吐き出される演奏はそれなりに強烈な迫力がある

この日、アウシュビッツ第二強制収容所を訪れた人々は皆、それを遠くに聞いただろう

人々は、このアウシュヴィッツの殺人工場と言う特別な環境で、

ガス室で殺され、焼却炉で灰にされていった110万の人の

「無垢な人々の苦しみ」

という表題で演奏された5楽章のシンフォニーをどういう感動をもって受け止めただろうか

その大部分がユダヤ人だったこの魂たちの苦しみには、一体どういう意味があったのか

同じヤーウエの神をいただくユダヤ教徒とキリスト教徒の

2000年にわたる相互憎悪(と言ってはきつすぎれば)、相互否定、相互拒否

の不幸な歴史にこのシンフォニーは終止符を打ち

相互の赦しと和解に道を開き、

一致して唯一の創造主なる神の 救済の福音伝達に協力し

ともに復活と永遠の命を告白する第一歩を印す歴史的な出来事の始まりがここにあった

 

キコのシンフォニーに応えて、ユダヤ教の会堂の有名な歌い手が、

ホロコーストの悲劇の哀歌を朗々と歌い上げた

その中で、アウシュヴィッツ、ダッハウ、トレブリンカ、等々、

一連の世界に有名な強制収容所の名前が、メロディーを付けずに連呼された

 

クラカウの大司教スタニスラオ枢機卿が結びの挨拶に立ち、この日の歴史的な意味について話した

 

来賓席の後ろあたりで、見知らぬご婦人が私を呼び止め、

 「あなたは人ばかり写しているが、たまには自分も写ればいい」

といって、カメラを取り上げ、シャッターを押してくれた。

 

全てのプログラムが終り、余韻をかみしめ名残を惜しむ交流が舞台と客席の間にあった

 

2013年の東欧の長い夏の日もいつしか終わり、太陽が西の空に沈もうとしていた。

次はポーランドの首都ワルシャワの東にあるルブリンの町での演奏だ。


昨年5月のアメリカ東部のコンサートツアーの記事と合わせて読んでいただくと

全体が立体的に見えてきます。是非お勧め!

( つ づ く )

 

 

 

 

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★ シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》 =アウシュヴィッツ編=

2013-08-22 15:47:59 | ★ シンフォニー 《ポーランド》

 

ジャガイモ畑の向こうの 麦畑のさらに向こうはるかに ビルケナウ強制収容所の監視塔が見えてきた

 

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  シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》 

= アウシュヴィッツ編 =

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前日に見たアウシュヴィッツのホロコースト博物館から バスで5分と離れていないところに

アウシュヴィッツの第二強制収容所がある

悪名高き 「ビルケナウ強制収容所」 だ

今は ユネスコの 「負の世界遺産」 として認定されている

その広大な敷地は 東京ドームの約37倍で 世界最大の 絶滅収容所」 と呼ばれる 

 

 その正面の入り口に向かって 一本の引き込み線が今も真っ直ぐに延びている

 

収容所の構内に貨車でたどり着いた人々を待ち受けている運命については

前のアウシュビッツの記事の描写で十分すぎるほどだから 敢えて繰り返さない

ただ一つの違いは

その規模がそれよりさらに何倍も大きいということだろうか

 

その構内からふと外を見ると 何やらロックコンサートのステージのようなものが 設営の真最中だった

 

一口に野外ステージと言うが 横から見ても その大きさは半端ではない

 

巨大なスピーカーがパイプ枠の中に吊り上げられ 仮設トイレも万里の長城のように並べられていく

 

ステージの上では オーケストラが既にリハーサルの真最中だった

前年5月 ボストン ニューヨーク シカゴ とアメリカの東部をツアーで回った

あのキコお抱えの お馴染みのオーケストラだ

 

ステージからは ビルケナウ強制収容所の正面がすぐそばに見える

 

目を上げると お天気が怪しくなってきた 黒雲が空を覆い始め 風がステージのシートをばたつかせた

と思ったら バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が 雷鳴と共に叩きつけてきた

 

ヴァイオリンも オーボエも ティンパニーも ハープも

ステージの中に容赦なく横殴りに吹き込む雨の前には なす術もない

みんな 楽器をかばいながら 周りの仮設のテントの中に 走り込んで遁れる他はなかったのだが

強制収容所の佇まいも雨に煙っていた

 

待つこと約1時間 嵐が通り抜けた後には 虹が立った

 

虹を背に ステージの赤い絨毯はびしょ濡れだったが もうあまり時間がない

 

ステージの前には リハーサルに並行して 手際よく椅子が並べられていった 

雨上がりに 1万2000席が用意された ニューヨークやシカゴの時と規模が全然違う

各々の楽器に直接マイクロフォンが取り付けられ 一つ一つテストして

それをミキサーが集めて大スピーカーから流すという手法は

野外ロックコンサートなどと同じ原理だが クラシックの音楽の場合 はたしてどういう結果に終わるのか・・・

 

世界に生でオンエアーするテレビの中継車も画像と音響の調整に余念がない

 

そんな中 若いハンサムなスペイン人の指揮者 「パウ」 は 通し演奏の棒を振るのに余念がない

 

マイクの前に立つ コーラスを下支えするバスも 下腹に力が入っている

 

聖母マリアのパートのソロを天使のように澄み切った声で歌うソプラノは まだ20歳に満たない

さて 本番はどのような展開になるか それは次回のお楽しみ・・・

 

( つ づ く )

 

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★ 無垢な人々の苦しみ ① =アウシュヴィッツ= 

2013-07-15 02:31:16 | ★ シンフォニー 《ポーランド》

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 無垢な人々の苦しみ ① 

=アウシュヴィッツ=

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私は通算何度アウシュヴィッツに足を踏み入れただろうか?

今回は 「新求道期間の道」 の創始者であるキコが作曲したシンフォニー

「無垢な人々の苦しみ」

アウシュヴィッツ他で演奏するツアーに参加するためだった。

私は一年前にも同様のツアーに参加した。

2012年5月のツアーはアメリカ東部、ボストン、ニューヨーク、シカゴだった。その時の体験は

このブログの 「アメリカレポート」 全20編 に詳しく紹介したので、あらためて見ていただきたい。

今回のツアーは、ポーランドのアウシュヴィッツ、ルブリン、

そしてハンガリーのブダペストでの公演が中心だ。

前回のアメリカツアーもそうだったが、

今回の東欧ツアーにも、オーケストラのメンバーでもなく、コーラスでも歌わない私が

なぜ紛れ込んでいるのか?

それは、キコが将来同様のツアーを日本でも行いたいと考え、

その時のマネージャー役に私を選び、あらかじめ雰囲気を掴ませておくためであるらしい。


 

ローマからアウシュヴィッツ最寄りのクラカウ空港に着いてみると、そこにキコはいた。

何やら打ち合わせに集中している気配。

 

 

共同体の兄弟の運転するマイクロバスの窓から見える標識には

Oswiecim にアクセントをつけた地名が見えるが、それがポーランド語で表記した

「アウシュヴィッツ」


その夜は宿でくつろいだ。


 翌朝、キコと一緒に朝の祈りを唱えた一行はアウシュヴィッツの

ホロコースト・ミュージアムに向かった。

 

 

ミュージアム前のベンチには、戦争を知らないポーランド娘たちが笑いさざめいていた

しかし、彼女たちが生まれる少し前のポーランドが

ソ連の衛星国として今よりはるかに貧しく暗く厳しい生活に喘いでいたことを彼女たちは知らない

 

    

 

ホロコースト(「焼き尽くす捧げもの」=燔祭=古代ユダヤ教の犠牲の祭り 「ナチスによるユダヤ人大虐殺」

博物館になっているアウシュヴィッツの強制収容所の入り口の左側で私たちを待っていたガイドさん

彼女の解説は要所要所でピリリとわさびが効いていて、ユダヤ人を迫害した者とその子孫の心に刺さってくる。

              彼女はユダヤ人なのだろうか? 

  

 

アウシュヴィッツの強制収容所のメインゲイトの上に掲げられた鉄文字のモットーはドイツ語で

"ARBET MACHT FREI"

「労働は自由にする」

私は今までここを訪れるたびに何度もこのモットーを写真に撮ってきたが、

いつも左の写真のようにどれかの文字が陰に入って完全に写せなかった。

それが、今回はどうだ! うんと離れて望遠で煉瓦の背景に全文字きれいに映し出すことに成功した。

まさにそのゲートをくぐろうとしているのは戦争を知らない世代の若者たちだ、

だが、70年近く前の現実は全く違っていた。

 

(博物館内の各所に立てられたパネルから)

 

囚人のユダヤ人画家が描いた強制労働に向かうユダヤ人たち。

何故労働に向かう時の絵か?それは上のローマ字が裏返っていないからだ。

画家は明らかにゲートの外から描いている。彼は命令で描かされている。

彼が命令通り絵を描いている限り、ガス室送りから猶予されているのだ。

生きるために必死で描いている気迫がこの絵から漂ってきませんか?

 

 

一日の強制労働で死ぬほど疲れて帰ってきた囚人たち。それを迎える同じ囚人たちのオーケストラ。

パネルの下の説明文によれば、キャンプのオーケストラは囚人たちがゲートを通過する時、

ここに集まって行進曲を演奏しなければならなかった。それは

囚人たちを整然と歩かせ、人数の点検をしやすくするためだった。

一人の脱走者もなく全員帰還したことを証明するために、過労死したものの屍も運び込まれねばならなかった。

音楽家はこの仕事をする限り、強制労働とガス室を免れてしばらく生き延びることが出来た。

 

ナチスのSSが写した実際のオーケストラの姿 (1941年)

 

 

囚人画家の手になる 何千人、何万人の囚人たちの点呼風景。手前左には死体も。

 

 

収容所の中と外界を隔てる高圧電流の流れていた二重のバラ線の囲い。

生きる希望を失った囚人が、ガス室を待たずにこの電線に触れて感電死を選ぶのだが、

その度にヒューズが飛んで故障するのに手を焼いて、実際には

ある一定距離以上この線に近づいたものは、その場で見張り塔から射殺されるようになったようだ。

 

(今日はお手柔らかに、シンフォニーの「序曲の序曲」、で終わりとしましょう)

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