:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話-その2

2015-01-29 17:11:26 | ★ 日記 ・ 小話

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知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話-その2

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このブログは 2009-03-17 23:34:53 に一旦アップして、その後ずっと封印されていたものです

懐古趣味で一時公開して、2-3日したら元の場所に戻しましょう

 

えぞ鹿さんは、僕をまずウトロから知床五湖へ案内してくれました。ウトロの絶壁の下には岩の上に海鵜が羽を休め、海はあくまでもコバルトブルーに輝いていました。もうここから知床半島の先までは船でしか近寄ることが出来ません。



遊覧船の航跡を目で追いながら、大自然の美にすっかり心を魅了されて、思わずえぞ鹿君に訊ねました。



〔ウサギ〕 世界遺産にもなったこの美しい自然は、どうしてあるの?
〔シカ〕 それは創造主の神が作られたからだろう。
〔ウサギ〕 どうやって?
〔シカ〕 はじめに神がいた。神だけがいて、神のほかには何もなかった。神のほかに絶対的虚無だけがあったという言い方は、人間の言葉の形容矛盾と言うべきか。
〔ウサギ〕 それでは、この世界は神が無から呼び出したもの?
〔シカ〕 そうさ、何の素材も使わずにね。
時計作りの職人の話を知っているかい?昔、あるドイツ人の詩人から聞いた話だが・・・。一人の職人がいた。薄い真鍮の板から大小の歯車を切り出し、細い鉄棒を短く切って軸を作り、設計図どおり懐中時計の枠の中に組み立てていく。発条(ゼンマイ)を入れ、文字盤と針を付け、最後に発条をしっかり巻くと、出来上がり。コチ、コチと正確に時を刻み始めるのを確かめると、爺さんは鼻眼鏡をはずし、その時計を仕事台の上に残し、通りのカフェに入ってコーヒーを注文して、店のマスターと世間話を始めた。作ったばかりの時計のことはひとまず忘れて・・・。それでも、時計は忠実に時を刻み続けているだろう。
〔ウサギ〕 それで、神様も世界を創造したあと、何処かへ行って休んで、新聞読みながらコーヒーを飲んでいるの。だって、この世に神なんていないもの。誰もまじめに信じてなんかいないよ。
〔シカ〕 そんなことあるものか。神が自分の創った世界のことを一瞬でも意識の外において忘れたりしたら、その瞬間、この世界はもとの無に帰ってしまうもの。この世界は、神が一瞬一瞬その意識の中に保ち、愛をもって存在の世界に呼び出し続けていなければ、つまり、絶え間なく創造し続けていなければ、神を離れて自分だけで存在することはあり得ないんだから。
〔ウサギ〕 ふーん?!なんだか分かったような、分からないような・・・。日本人は普通、世界はずっと昔からあって、いつまでも続くと考えているみたい。せいぜい、神は混沌を材料にして、それに秩序を与えると、それを措いて、何処か遠くに行ってしまったと考えているのじゃないかな。科学者は、エントロピーが増大して、混沌に向かい、最後は冷たく無秩序の中に停止してしまう、或いは無限に輪廻を繰り返す?
〔シカ〕 それは違うだろう。見えない神が、見える世界を自分に象って創り、ご自分の見えない美で、見える世界を包んだに違いない。そうでないとしたら、この美しく輝く海をどう説明すればいい?
(二人は知床五湖をめぐりながら、さらに「愛について」、「死について」、「悪について」など、延々と語り継いでいくでしょう) 

(つづく)

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★ 知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話-その1

2015-01-27 23:00:34 | ★ 日記 ・ 小話

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知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話ーその1

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このブログは 2009-03-11 23:24:59 に一旦アップして、その後ずっと封印されていたものです

懐古趣味で一時公開して、2-3日したら元の場所に戻しましょう

 

今年のごく早いころ、知床の鹿さんからお誘いがありました。日程は10月の初めごろからと決まりました。ところが、その後だいぶしてから、ほぼ同じ日程で別の大切な集まりがあることが分かりました。しかし、散々迷った末、結局は最初の約束を果たすほうを選びました。
女満別(めまんべつ)に飛んで、レンタカーに乗って、町を出ると、カーナビをつけて見てびっくり。何?これは!?一本の線だけ?これで無事鹿さんのところまで行けるの?と不思議に思いました。



知床半島に入ると、鹿さんは約束の場所に迎えに出てくれました。初対面の彼は、立派な角を生やした蝦夷鹿君でした。




彼はお友達の雌鹿を僕に紹介してくれました。彼にお似合いの美人さんでした。どうです?あなたを見つめるこの潤んだ瞳!



彼らは、知床の自然の中で、神様の偉大さを賛美し、人の世の小さな善意を見つけては喜び、戦争などの大きな醜さに心を痛めていました。これからの3日間、彼らと一緒に旅しながら、どんな対話をすることになるのでしょうね。楽しみです。(つづく)



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★ 「日ソ円卓会議」 の 「想い出」

2015-01-25 21:02:42 | ★ 日記 ・ 小話

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「日ソ円卓会議」「想い出」

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齢を重ねると、ふと思い出したことを、何となく書き留めておきたいと思うものらしい。



ローマの昼下がり、平山司教様のお部屋で午後のお茶を二人で楽しんでいたとき、話題が旅の思い出に及んだ。司教様も地位相応にあちこち世界を旅されたようだが、世俗の生活の長かった私は、公私にわたってそれ以上の旅を経験している。

1980年の秋、まだコメルツバンクにいた頃かすでにリーマンブラザーズにスカウトされた後だったか、ある日、「日ソ円卓会議」という組織から封書が届いた。中には、同会議への招待状が入っていた。

鳩が豆鉄砲を食らった思いがしたが、若くて好奇心が旺盛だった私は、一体何の話かはあとでゆっくり調べることにして、取り敢えず「喜んで招待をお受けする」旨の返事を書いた。

数日を経ずして、アエロフロートのファーストクラスのモスクワ往復切符と共に日程表が届いた。いつのまにか私は「日ソ円卓会議」の宗教部会の「カトリック日本代表」ということになっていた。だんだん謎が解けてきたぞ。

北方領土問題が未解決であるため、日ソ間に平和条約が存在しないことは幅広い分野における両国関係の進展にとって大きな支障になっている。(それは今も変わりない。)その不都合を少しでも補うために、1979年12月に第1回「日ソ円卓会議」がホテルニューオータニで開かれていたことなど、そのとき私はまだ全く知らなかった。

政界、財界はもちろんのこと、科学も、スポーツも、音楽も、映画も、あらゆる分野の交流が相乗りしていた。日本側は一応民間を装ってはいたが、代表団の団長は与党の桜内幹事長だったし、窓口には社会党の関係者が多数名を連ねていた。また、ソ連側は露骨に共産党の要人が前面に出ていた。

翌1980年には第2回「日ソ円卓会議がモスクワで開かれることになった。日本からは130名の代表団が大挙参加した。新たに加えられた宗教交流部会も、ロシア側はもちろんモスクワ総主教以下のロシア正教会がホスト役。日本からは伝統仏教各宗派や神道の他、天理教、創価学会、立正佼成会、などの新宗教にプロテスタント各派もこぞって参加したのだが、カトリックの代表がいないのは画龍点睛を欠くということになったらしい。

では何故一介の国際金融マンの私に一本釣りの的を絞ってきたのだろう。それは当時、日本のカトリック教会がロシア革命を逃れてアメリカに亡命したロシア正教会と外交関係にあり、モスクワの正教会とは断絶状態にあったためのようだ。だから、モスクワは東京のカトリック司教協議会にではなく、社会党に近いプロテスタント教会にカトリック代表の人選を求めたのだろう。私はベトナム反戦運動以来、同和問題や反公害運動などでプロテスタント左派にお友達が多く、その線からの推薦で選ばれたに違いなかった。


共産圏初のオリンピックのために国威をかけて新築されたホテルコスモスの威容


同年7月に開催されたオリンピックに向けて大改修をしたモスクワ空港は、もう粉雪の舞う季節だった。降る雪の彼方の白樺林は灰色で憂鬱な感じがした。円卓会議の会場のホテルコスモスは、オリンピックに合わせて開業したソ連で最もモダンな欧米式の巨大ホテルで、中は快適そのものだった。どの部門も友好ムード一色に華やいでいて、ロビーでテレビニュースのカメラのインタビューなど受けると、偉い人になったような錯覚にも誘われた。

何もかも申し分なくみんな満足していると思われたのだが・・・、最初の夕食の席で、自民党の田舎代議士と思しき男が、タダワインを飲みすぎたか、突然大声で騒ぎだした。

「なんだ、こんな萎(しな)びたリンゴを出しやがって!日本人をバカにする気か!」と、赤く上気した顔でいきり立っている。思わず私は自分のテーブルに目をやったが、そこには形の整わない小さな赤いリンゴが食後の果物として盛り付けてあった。


ホテルコスモスの大食堂 私たちの時は丸テーブルの点在だったような気がするのだが・・・


ドイツで何度も冬を過ごした私は、それが冬の北欧では特上のもてなしであることを知っていたので、酔っぱらいの罵声に身の竦(すく)むような恥ずかしさを覚えた。

次の日、銀座の千疋屋で一個何千円もしそうな大きく艶やかな林檎がどのテーブルにも山と盛り上げられたのは言うまでもない。その日のうちに狸穴のソ連大使館に電信が入り、東京中で買い占めたものを、次のアエロフロート便が急送したものに違いない。つまり、あのテーブルの給仕はただのホテルマンではなかったということではないのか。日本人同士の気を許した会話をスパイできる日本語のわかる人材が給仕姿で各テーブルに張り付いていたのかもしれないのだ。

別の日、午後から自由時間だった。戦後日本の社会党委員長を務めた川上丈太郎の長男、当時社会党の国際局長をしていた川上民雄の秘書の M. I. 嬢(皆さんプロテスタント)と仲睦まじく、モスクワの庶民の長距離乗合バスに乗って、できるだけ遠く郊外までいって、庶民の生活に直接触れようと冒険に出かけた。バスの乗客は見慣れぬ日本人の若いカップルを黙って観察していた。モスクワ市街を抜けると、すぐ灰色の貧しい雪景色に変わった。開放感と好奇心から、二人は車窓の景色を眺めながら仲睦まじくおしゃべりに夢中になっていたが、1時間余りも走った頃か、後部座席に居た制服に自動小銃の若い兵士が近づいてきて、きれいな英語で、「お客様、どうぞ次の停車場からモスクワにお戻りください」と言った。言い方はあくまでも慇懃だったが、それは任務を帯びた者の冷たい響きがあった。従わなければ即逮捕もありえた。当時のソ連では、許可なく都心から60キロ以上離れることは許されていないことを、ホテルに帰ってから知った。この一見「恋人」たちはホテルを出たときからあの兵士に尾行されていたのだった。

鉄のカーテンの向こう側、共産圏ソ連の緊張した社会を思い出させるエピソードだった。今のロシアはそんなことはなかろうと思うが、逆に、日本の社会はいま、戦前、戦時中を思わせるような「物言えばくちびる寒し」の世界に変わりつつあるような、嫌な予感がする。

* * * * *

35年まえ、お金持ちの国際金融マンだったわたしは、ニコンのボディーを複数個、長短のレンズを何本か持って写真を撮ることを趣味にしていたが、今のデジカメと違って、どんどん溜まっていくネガの整理が追いつかず、神父になった今、当時の写真はすべて失われてしまった。このブログをたくさん撮った自分の写真で飾れないのはまことに残念だ。 

(続く)

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★ 歴史を記憶に刻まないものは・・・

2015-01-25 18:44:18 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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歴史を記憶に刻まないものは・・・

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 アウシュヴィッツ強制収容所博物館には下のようなパネルがある

「歴史を記憶に刻まない者は、きっと また 同じ目に会うに違いない。」
ジョージ サンタヤーナ

 

「国連グローバー勧告」から見えてきた「福島」原発事故の問題点-④

日本人は、旧ソ連、今のロシアを、自分たちより民度の低い粗野な国だと、心のどこかで卑下していないだろうか。

そのロシアでチェルノブイリの事故が起きると、年間5ミリシーベルト以上の地域が「移住地域」に、1ミリシーベルト以上の地域が「避難の権利区域」に指定され、避難を希望する者は、補償や移住のための包括支援、医療支援が受けられる、とのポリシーが確立し、影響を受けた人々に対する長期間の保養、年に1、2度の包括的な健康調査が実施した。国連が勧める「人道的な対応」をしているといえるだろう。

それに対して日本では、1ミリシーベルト以上、20ミリシーベルト以下の地域に住む膨大な数の人々が、

     -避難したくても国の支援が得られない。

     -健康に不安を感じても健康診断を十分に受ける機会がない。 

     -健康に対する被害や不安について、口にするだけで、バッシングされる。

など、かけがえのない「人権」としての健康を守る視点が置き去りにされ、切り捨てられている

「リスク対経済効果」の原則に立ち、国民の「人権」よりも「経済」を優先する日本は、ロシアに比べてはるかに民度の低い野蛮な国と言わざるを得ないのではないか。

日本には「電離放射線法障害防止規則」(1972年)というのがある。今も有効な法律だ。それによれば5ミリシーベルト相当以上の地域は「放射線管理区域」に指定され、その地域には一般の立ち入りが禁止され、何びともそこでの宿泊や飲食は禁止されている。この規則は何十年にわたり遵守されてきた。

それなのに、原発メルトダウンという最悪の過酷事故が起きると、今の政府はその有効な法律自ら違反して、福島県内外に5ミリシーベルト以上の地域が広範囲に存在するにもかかわらず、子どもや妊婦も含めた住民に対する避難の支援や適切な健康診断、長期間の保養、その他の有効な対策がなされていない。

2年前には第一原発から半径20~30km圏内の避難準備地区の指定が解除された。しかし、放射線への不安から住民の帰還は進んでおらず、今も14万人もの人々が避難生活を続けている。

それなのに、高度に汚染されたために住民を一旦は強制避難させた地域が、除染が済んで20ミリシーベルト以下になったからと称して避難指定を解除し、支援を打ち切り、住民を、懸念を抱えながらも元住んでいた家に帰還をせざるを得ない状況に追い込もうとしている。

原発から大量の放射性物質が環境中に放出されたのに、政府も電力会社もその影響をなるべく小さく見せようと躍起になった。学校教育、社会教育で低放射線の危険性を無視し、文部科学省の外郭団体である放射線教育フォーラムでは全国各地の学校の先生を集め、放射線安全教育を行い、100ミリシーベルト以下は安全だと生徒に教えるように指導している。

3.11のあと、2011年4月12日から甲状腺被曝状況を核種別に測定可能な測定器を用いて測定が始められたが、福島県の圧力を受けて、たった5日間、わずか62人の測定をしたばかりのところで打ち切られた。チェルノブイリ原発事故後の旧ソ連では数十万人規模の測定が行われたことと比べて、恐るべき対応のずさんさと言わざるを得ない。

現在福島県が行っている「県民健康調査」、“健康被害は考えられない”から安心しなさいと言って県民の不安を打消すこと目的に開始されたものだ。このように、福島県に雇われた学者たちは故意にリスクの過小評価を行い、また、事故初期に健康被害がないことを医療従事者や一般市民に強調して回った。

その結果、行政や国、そして≪専門家≫に対する「不信」が広がった。被曝限度を1ミリシーベルトから20倍の20ミリシーベルトに引き上げて移住回避を図り、同じ限度量を用いて4月から通常通りの学校の開校も行われた。食品に対しては、年間5ミリシーベルト相当の暫定基準値を設けて、住民レベルでの食品測定は行われず、学校給食は“地産地消”のスローガンを子供たちに押しつけ、“不検出”という“汚染ゼロ”と混同されるような聞きなれない言葉によって、さらなる不信を招いた。

そして、人々が目覚めて「被曝」についての知識を身に着けていくにつれ、国、県、それらに雇われた学者、いわゆるカッコつきの≪専門家≫たちの放ったこれまでの “虚言” の数々が、次から次へと明らかになってきた。

事故当時の被曝の実態と、現在も続く被曝の現状とそのリスクを “ぼやかしたまま” 安全と安心を根拠なく押し付ければ押し付けるほど、不信は高まっている。

医療機関に対する不信も高まっている。≪専門家≫による現地の医師たちに対する情報提供は、「100ミリシーベルト以下は、健康に影響はない」と誤解させるもので、その結果市民が真剣に相談しようとしても、医師たちから冷たくあしらわれるようになった。

ここに、AAR(難民を助ける会)の相馬事務所が閉鎖になり、関係者が全員解雇された背景が見えてくる。それは、同事務所が、政府、県、東電の方針に沿わず、真実を伝え、住民の信頼を得ていたからに他ならない。国の虚偽宣伝に対して真実を明らかにすることは「国家に対する反逆罪」であり、真実のために働く者は「非国民」として容赦なく抹殺されねばならない。それが今の日本という国だ。

今や、日本は法整備においても、言論統制においても、戦争当時の状態に逆戻りしてしまった。準備はすでに整いつつある。後は、海外派兵し、戦争に突入する日を待つばかりだ。

福島原発事故の処理や補償の費用、老朽原発の廃炉費用、使用済み核燃料の処理費用などを計算に入れれば、他のどの発電手段よりも格段に高くつくのに、原発による電気代は安いと嘘の宣伝をし、ナチスの宣伝相のように、「嘘も百回言えば本当になる」を押し通し、再稼働をゴリ押ししている。

日本の50基余りの原発が、日本の潜在的核戦力であることを、静止衛星を軌道に投入できる精緻なロケット技術が、地球上どこでも射程に入る長距離弾道ミサイルそのものであることを、アメリカも、ロシアも、中国も知りぬいている。そして、日本人だけが核と宇宙開発の平和利用の「神話」を信じ込んでいる。「嘘も百回言えば・・・」の宣伝効果はすっかり浸透していると言うべきだろう。

沖縄から米軍が動こうとしないのは、日本を仮想敵国から護るためなんて真っ赤な嘘で、日本が同盟国の意に沿わない形で核兵器を製造し、衛星運搬ロケットを弾道ミサイルに転用しようとすれば、いつでも日本を制圧するぞという脅しのための抑止的前進基地であることを、いい加減に見破らなければならない。1951年の講和条約締結後も戦後の日本支配構図は終わってはいない。

同じ敗戦国のドイツは、ロケットの産みの親であったのに、弾道ミサイルに転用できる独自のロケットの開発をやめ、潜在的核戦力である原発を持つこともしないで、実質的平和国家への道を歩んでいるのに、歴史の先駆をなすノーベル賞ものの「憲法9条」を掲げた日本は、何としても憲法改正を行って、好戦的な野蛮国家への道に逆戻りしようとしている。国民はそういう政府に三分の二の議席を献じて白紙委任を表明してしまった。

歴史を記憶に刻まないものは、福島の教訓に学ばず、いま脱原発の選択をしなかったら、次の巨大地震で必ず福島の惨禍の2の舞を経験するだろう。そして、100年後にはその恐ろしい結果を刈り入れることになるに違いない。奢って盲目になり、自然を恐れず、神を畏れないものは必ずその報いをうける。日本の美しい島は本当に住めなくなるかもしれないのだ。

(おわり)

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★ ローマで見る 「サーカス」

2015-01-07 18:54:27 | ★ ローマの日記

福島の話が連続すると、ブログのアクセスが減る。これはその話題に対する読者の関心が薄いと云うことだろうか。

或いは、真面目な話に人は長く耐えられないのかも知れない。

そういうときは、肩の凝らない軽い話題に限る。


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ローマで 「サーカス」 見る

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75才のお爺さんになっても、私は何故かサーカスに心ひかれる。 

ローマは東欧、ロシアまで地続きだから、ヨーロッパ中のサーカスが入れ替わり立ち替わりやって来て、絶えず何処かでテントを張っている。

先日、アッピア街道を郊外へ向かっていると、環状高速道路と交差する少し手前でやっていた。時間があって、吸いこまれる様に入ってしまった。 「リディア・トンニ 一座、と言う事は、座長は女性か?


              

開演35分まえ。切符売り場には親子連れが並んでいる。ためらわず一番いい席を求めた。大枚20ユーロ。前から2列目。意外と安くないですか?子供半額として、孫を3人連れたお爺ちゃんのお財布の負担は50ユーロ。後ろの席はもっと安い。庶民の手の届く範囲ですね。 

開演を待つ間、子供たちは馬やラクダに乗って円形の舞台 (だから 「サーカス」 と言う) をゆっくり回る

「サーカス」 の縁は順番を待つ子供たちでごった返す 

 

 

 

 

                  

女性を乗せた黒い十字架の板はおへそを中心にぐるぐると早く回転する。頭が上、左、下、右と激しく位置を変える。それをめがけて目隠しをした粋なお兄さんが短刀を投げる。ガツン!ガツン!という音を立てて板に刺さる。回っているのに何故か正確に両脇の板にだけ刺さり、彼女は無傷だった。ハラハラさせられる一場面だった。  

 

   風船人間。これが身軽に片手で逆立ちしてとび跳ねたり・・・

 

分かりますか?数匹の子犬達の演技。愛くるしくて、滑稽で、客席は拍手と爆笑だが、写真では・・・。

写真が無力なのは、巧妙な、ハラハラさせる一連の大型手品もだ。それも巧く写っていなかった。 諦めて紹介を省く。

 

 


 フラフープも器用なお嬢ちゃんの域をはるかに超えている。これ、クルクル回っているのですよ。

大ボリュームの音楽に合わせて、カラー照明が絶えず激しく点滅するので、

同じ露出でも写真の上がりの色合いは全然ちがう。

 

白馬の群舞は幻想的で美しいの一言に尽きる


  

15分間の休憩時には、ポップコーンと白い綿菓子が定番メニューだ


中休みの間も子供達はサーカスの中をさっき演技したばかりの白馬に乗って優雅にお散歩となる。

 

  

海賊にふんした男と縫いぐるみは、休憩中観客席をまわり子供たちと記念写真を取る。此れもサーカスの収入になる。

 

後半が始まった。 象さんの上には綺麗なお姉さんが。

 

  

ジョグラ―のこん棒も上下左右に激しく飛び交っているのだが、静止画面では感じがいま一つ・・・。

 

空中演技もカメラでは捕えられない。スポットライトは明るいが、場内は意外と暗いのだ。一瞬静止した時はまだいいが、激しく動かれると流れてピントが全く合わないのだ。写真は全部失敗。

 

 

 大人の雰囲気のモダンダンス。美しいと思った。

二本のポールの下を半円形の台が支えている。絶えずぐらぐらするのでバランスを取る。

それだけでも大変なのに、両手と片足で二本のポールを操りながら、自由な片足の甲に受けたボールを蹴上げて頭で支えたさいころ型の枠の中心で受け止める。3度失敗して4度目に見事成功! 大喝采!!

 

  

猛獣使いはサーカスの花。4頭のトラは一見借りてきた猫のよう。火の輪くぐりの時は照明を落としたので写真にならなかった。

ピシリと鞭がなる。棒で突くと、ガオ―!と吠えて、爪を立てた前足で反撃の構え。相手は猛獣。事故とは隣合わせだ。

 

早くもフィナーレ。猛獣の金網の内と外にオールスター勢ぞろいの御挨拶。


 

 ピエロもこのとき半泣きの顔だった。そういう一面に僕は惹かれるのかも知れない。

そう言えば、ルオーの絵のピエロも、厚化粧の下で泣いていたのではなかったか。

 

こういうとき、平面顔のアジア人より絵になるなと思った。事実だから仕方がない。

 

  

 この人達、子供たちを相手にしているが、真剣に自分の芸に生きているな、と思った。 さて、神父はどうだろう?

 

帰り道はもう夜だった。 もう一度ローマでサーカスを見ることがあるだろうか? と、ふと思った。

(おしまい)

 

 

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★ 嘘も100回言えば本当になる?(ゲッペルス)

2015-01-04 20:28:45 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

 

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嘘も百回言えば本当になる?

「国連 グローバー勧告」 から見えてきた 「福島」 原発事故の問題点-③

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日本の政府の 原発事故対策を見ていると、そして、「国連グローバー勧告」に対する政府の反論を見ていると、自然にナチスの国家宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスの「嘘も100回言えば本当になる」と言う言葉を思い出す。ゲッペルスは、本当は同じ事をもう少し敷衍した言葉で言っているのだが、ゲッペルスがそういう言い回しを使ったと100回言われれば、そういうことにもなる。

日本の政府は、広島・長崎の経験から、1ミリシーベルト以上は安全でないと一貫して語って来たのに、福島以来突如一変して、20ミリシーベルト以下なら、100ミリシーベルト以下でも安全と言い始めた。そしてそれを100回言って真実にしようとしている。



私は自分のブログのコメント欄への投稿を興味深く見守っている。

私が「グローバー勧告」に関する記事の②で書いた「いささかえげつないが、分かりやすい例え」がそのままでは政府の「リスク対経済効果」にぴったり当てはまらない事に気づいた人からの指摘を待ったが、それは無かった。それだけ読者の関心が薄いと云う事か。まあ、それも仕方がない。


あの「たとえ」では、切り捨てられるのは救出が極めて困難な3%の人(圧倒的な少数派)と言う事になっているが、実際に政府が切り捨てたのはその逆で「圧倒的な多数派」だと云う点にすぐ気が付いた人は何人いただろうか。

政府が福島原発事故で救済の対象としたのは、年間被曝が20ミリシーベルト以上、特に100ミリシーベルト以上の人達だけだった。それは人間の健康にとって極めて危険な値で、流石の政府もその人達に対しては、強制疎開や避難命令で対処するほかはなかった。然し、その地域は半径20キロ圏、30キロ圏を中心にその外では飯館村などと極めて狭く、そこに住む住民の数もおのずから限られていた。

問題は、1ミリシーベルトから20ミリシーベルトまでの広大な地域に住む膨大な数の人々が切り捨てられたと云う点だ。

あの譬えと現実に起こった事との共通点は、その人達を切り捨てずに助けようとすると、恐ろしい額のお金がかかると云う点だ。

しかし、政府も東電も、「1ミリシーベルト以上の地域に住む膨大な数の人々を救済し、補償し、検査を継続するにはお金が掛かり過ぎるから、あっさりと切り捨てさせていただきました」とは、口が裂けても正直に言わない。

もっともらしい説明として其処で持ち出されたのは、《敷居値》(しきいち)という非科学的な概念だ。専門家がどう定義するかは知らないが、要するに、この数値以下の放射線を浴びても癌は発症しません。癌死もおきません。いや、発症し、起きているかもしれないが、それが原発事故由来の放射線に依るものだと云う疫学的証拠が見つかりません、だから・・・、というものだ。あるとしても、証明困難であれば無い事にしよう、と言っている様なもので、これは「悪い事をしても発見されなければよい」、と開き直っているのと同じ様なものだ。政府はこの筋の通らない言いがかり的反論で、国際的に恥の上塗りをしている。

「リスク対経済効果」の立場から、持ち出されたこの「しきい値」として恣意的にはじき出された20ミリシーベルトが、科学的に何の裏付けもないものである事は、「国連グローバー勧告」の64ページ「放射線によるDNA損傷」を見れば明らかだ。

 

 

生命の遺伝子情報は螺旋形によじれた二本のリボンをつなぐ塩基の配列として伝えられる。このリボンは非常に弱い化学結合エネルギー(数電子ボルト)で結合しているが、X線のような15,000倍以上ものエネルギーの放射線が当たると損傷する。一本のリボンだけが傷ついた時は自分で修復するが、同時に2本が傷つけば、塩基の配列が変わって突然変異が起きる。一旦起きた変異は細胞分裂のたびに再生産され、その蓄積が癌の原因になる。これはどんなに少ない放射線によってでもおきるから、「敷居値」以下では癌は起きないと云う説は誤っている。しかも、異変の発生率は放射線の量に正比例するから、線量が2倍になれば2倍、20ミリシーベルトなら1ミリシーベルトのときの20倍に癌発症率と癌死のリスクが増えると云う事だ。

チェルノブイリ事故の場合は、年間5ミリシーベルト以上の地域が移住地域、1ミリシーベルト以上の地域が「避難の権利区域」と指定され、避難する者には、補償や移住のための包括支援、医療支援を受けられるとのポリシーが確立し、影響を受けた人々に対する長期間の保養、年に1、2度の包括的な健康調査等が実施されてきた。これは、日本が福島事故以前には、広島・長崎の原爆の時も、JOCの臨界事故の時も維持してきた基準に沿うものだ。

それが、福島の事故を前にして、突然医学的に維持できない「敷居値」の概念を持ち出して、「リスク対経済効果」の政治的判断で20倍の20ミリシーベルト以下切り捨てを断行したのだが、これを国連は「非人道的」として是正勧告している。

ロシアは人口密度の低い広大な土地を持っている。それに引き換え、日本は現に人が住んでいなくて、しかもタダの土地なんて何処にもない。もし、ロシアがやった様に、5ミリシーベルト以上の地域の人を全て移住させ、1ミリシーベルト以上の人に「避難の権利」を保障し、包括的支援と医療支援を行おうとしても、それを実行するだけの空いている土地は無く、仮に時価で手当てしようとしたらその費用は天文学的な数字になる。まして、長期間の保養や、年に1、2度の健康調査等、対象者が余り多すぎて財政が持たない。だからと言って、国連勧告を無視し、「人権」には目をつぶって、20ミリ以下の被災者をばっさり切り捨てる政府の決定を、黙して受け入れるべきなのか。

巨大津波が起こりうる事はしっかり予見できていたのに、万一起こった場合は「想定外でした」と言う政治答弁で言い逃れしようと、初めから対策のシナリオを用意して、「リスク対経済効果」の観点から、確信犯として原発を推進し、アメリカ企業と一体になって世界に輸出してひと儲けようとした政治家たちに、先の選挙で「ノー!」を突きつけず、3分の2の議席を献上したのは誰か、と言いたくもなる。

私は投票日にたまたま日本に居たので、1票の「ノー!」を投じるためにわざわざ住民票のある雪の長野県信濃町役場まで行った。然し、国民の半数近くが近くの投票所に行こうとしなかった。此のままでは日本は再び戦争への破滅の道を突き進む事になるだろう。


3.11がたまたま短命民主党政権期間中に起こった事は、まことに皮肉な歴史の偶然と言うほかはない。これが与党、自民党政権中だったら、今頃状況は全く違っていただろうに、と思う。

民主党は福島原発事故に見舞われ、自民党の垂れ流しの尻拭いをしかねてつぶれた面がある。これが野党でいた間に起こっていたら、笠にかかって自民党の原発依存を非難し、追い詰め、それだけでも政権を取れていたかも知れないのだ。それが、事故がたまたま民主党政権下で起きたため、もたもた対応しかねている間につぶれてしまった。その反動で、自民党が何食わぬ顔をして3分の2の議席を背景に、何の反省もなく、やりたい放題を続けようとしている。

ロシアの完備した人道的な法整備がなされたのは事故から5年目の1991年の事だった。日本も国連の勧告を受けて、今から法整備を急いでも決して遅くはない。経済効率よりも人権が尊重される国に転換するために。

(つづく)

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