:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「クリスマスメッセージ」 

2019-12-24 00:05:00 | ★ 教皇フランシスコ

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クリスマスメッセージ

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私が、いま書きたいと思っているテーマは、「創造と進化」なのに、まだ緒についていません。

それは、フランシスコ教皇の来日と、その延長線上に「清水教会の取り壊し問題」に足を突っ込んでしまったからです。

そのフランシスコ教皇は:

死刑を行っている数少ない国の一つである日本に来て、正面から死刑制度反対を訴え、核拡散防止条約を未だに批准しようとしない日本の政府に対しては、「核保有はテロ行為」だと警告し、自然界には存在しない核兵器の材料プルトニュームの製造工場であり、副産物の熱を電力に変えているだけに過ぎない「平和利用」の名で偽装された核兵器工場を、全国に50か所以上展開している潜在的核大国日本に、「原発反対」を訴えました。

今日はクリスマスイヴ、何かそれに沿った話題と思いましたが、もうこうなったら、フランシスコ教皇の記憶が薄れる前に、せっかく多くの人々がアクセスしてくださった機会をとらえて、もう一押し「清水教会」の問題の本質について触れておきたいと思います。

手始めに、次の「決定通知」なるものをお読みください。

決定通知

清水教会聖堂を今後どうするかについての判断は、これより先、補完性の原則に則り、教区が行うものとします。判断に必要な客観的なデータについては、教区建設委員会を通して調査したもののみを用いることとします。(下線は筆者)

これは、2019年1月29日付で教区の公印とプロトコル番号が付された教会の公式文書ですが、一体、これをどう読み解けばいいのでしょうか? まず:

補完性原理(ほかんせいげんり)とは、決定や自治などをできるかぎり小さい単位でおこない、できないことのみをより大きな単位の団体で補完していくという概念。補完性原則、あるいは英語から、サブシディアリティ(Subsidiarity)ともいう。(ウイキペディア)

とある通り、もともとは、「地方自治」を護り促進するために、国はなるべく介入を控え、自治体の自主性をあくまでも尊重しながら、必要な時だけ「補完的」に協力する、という概念ですが、カトリック教会は独自の解釈でその言葉を用いています。

あからさまに言えば、日本のカトリック教会の考える「補完性の原理」とは、末端の教会の信徒が自分たちの問題を主体的に判断し、処理し、行動する当事者能力を欠いていると教会当局が認定した場合は、小教区の主体的判断・行動を停止し、上部機構の教区が自由に直接介入・決定・支配できる」と本来の意味を間反対に読み替えたように見受けられます。

清水教会 の場合も「小さい単位である教会内での主体的決定や自治を出来るかぎり尊重しながら、それを見守る」というのが正しい「補完性」であるはずなのに、清水教会の自治に基づく意思が教会の保存に傾き、解体を目論む教区上層部の意向に添わない気配を察知すると、「清水教会の信徒には当事者能力がない」と決めつけ、清水教会の主体的努力を粉砕し、上から介入・支配しようという誤った対応を正当化する口実として「補完性原理」を持ち出しているかのようです。それは、この「原理」の本来の趣旨を曲解した、原則の放棄、権限の乱用に他ならなりません。

「補完性の原理が地方を苦しめる不思議」という、横浜国立大学経済学部教授 金澤 史男氏の論文にもあるように、国によるこの原理の濫用によって、地方自治体が苦しめられるケースの指摘がありますが、おなじように、司教区の「補完性原理」の濫用によって、清水教会の信徒の意思が圧殺され主体性が蹂躙される事態が生じているのではないでしょうか。

「補完性原理」に則って、小教区の自由と自治を最大限に擁護すべきはずの司教区が、まず、教区上層部の意向に沿はない保存派の信徒会長や建設委員を解任し、新たに司教区の意向に沿って選ばれた撤去派の委員たちの提出する都合のいいデータだけに基づいて、「補完性原理」の名のもとに、信徒の望みを踏みにじって解体撤去に向けて突っ走るという趣旨の「決定通知」は、まさしく「補完性原理」を悪用し冒涜する行為と言うほかはありません。

話しは変わりますが、清水教会では盛んに高位聖職者への従順が説かれているようですが、教会の中では、それには特別な威圧効果があります。

確かにカトリック教会では、教皇不可謬説(きょうこうふかびゅうせつ)というのがあって、カトリック教会において、ローマ教皇が「信仰および道徳に関する事柄について教皇座から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、決して誤りえない」という教義のことを意味します。これは、1870年第1バチカン公会議において教義として正式に宣言されたもので、この宣言に反対的な言辞を述べるものはカトリック教会から離れているとみなされるという一文がよく付加されます。

高位聖職者に対する従順にも似たような側面があります。つまり、司教や主任司祭に対する従順に反する者は、教会から離れているという考え方です。しかし、教皇の不謬権の時と同様に、従順の場合も信仰と道徳に関する事柄に限られるということを見落としてはなりません。

信仰にも道徳にも直接かかわってこない「教会の建物の保存か解体撤去か」をめぐる信徒と一部聖職者の意見の相違について、従順の名のもとに聖職者の考えを一方的に押し付けるのは明らかな逸脱であり、それになびかぬものを、教会から離れたもの呼ばわりして信徒の分断をはかったり、教会の保存を求める一般市民との交流を禁じたり、そのような市民が教会を訪れようとすると、鍵をかけて教会から締め出したり、などはもってのほかでしょう。

外界と遮断された教会内の密室で、陰湿な締め付けが行われ、破門をほのめかしてまで威嚇するような行為は、宗教者によるパワハラ以外のなにものでもありません。私のもとにはそのような相談や訴えが届いています。

しかし、この問題の本当の根は、キリスト教の土着化 (インカルチュレーション) のイデオロギーだと私は分析します。つまり西洋から伝わったキリスト教は、換骨脱胎して、日本伝統精神風土を魂として取り込まない限り、永久に日本に土着化することは出来ない。過去に外国人宣教師たちが持ち込んだ西洋風の教えや教会の建物などは「負の遺産」にほかならず、全て解体撤去し清算されなければならない、という思い込みです。

具体的には、西洋のキリスト教の「父性的」宗教に対して、日本固有の「母性的」キリスト教を創出せねばならないと主張してみたり、キリスト教の教義の中で日本の伝統宗教の教えと相容れない部分(例えば、キリストは人類の唯一の救い主、神の子であり神と同等のもの、人類の中でただ一人復活して全人類のために永遠の命への道を開いた者、・・・)などは、括弧に入れ強調せず、かわりに、エコロジーや環境問題、持続的な平和共存のための諸宗教対話など、どの宗教でも異存のないようなテーマに熱心な反面、宣教活動には消極的・・・、なイデオロギーです。

それらは、遠藤周作の「沈黙」をバイブルとする風潮 (驚くべきことに、スコセージ監督の映画「沈黙」以来、今の西欧の一部知識人聖職者の間でもてはやされる傾向にある) に見られるように、いずれもフランシスコ教皇の容認をとても得られそうにないことばかりです。

今日までの外国人宣教師たちの努力を感謝をこめて評価し、信仰の遺産を尊ぶ普通の信者たちも、平和のシンボルである教会を愛する一般市民も、教会の文化財的価値を認める自治体も、一部の聖職者の歪んだイデオロギーには何の関心もありません。

 

今日、救い主イエス・キリストは臭い動物の糞尿の匂いに満ちた汚い家畜小屋でお生まれになった!

(旅路にあったイエスの母マリアと父ヨゼフは、宿屋に泊まることが出来ないほど貧しかった?)

これが私のクリスマスメッセージです。

次回からは、テーマもトーンもガラリと変わります。乞う、ご期待!!

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★ フランシスコ教皇が残したもの(その-1)

2019-11-30 00:01:00 | ★ 教皇フランシスコ

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フランシスコ教皇が残したもの(その-1)

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世の中、全ての出来事は日々新しい話題で容赦なく上書きされ、記憶の過去に流れ去って行く宿命にある。フランシスコ教皇の訪日も例外ではないだろう。

 

 

手元には教皇訪日のニュースがどのように盛り上がり、どのように忘れられていくかを具体的に数値化した一つのデータがあるので、そのことから始めよう。

現在、グーグルでブログを書く人の数は日本に約290万人もいる。驚くべき数字だ。だがその大部分はささやかな発信で、富士山で言えば広い裾野を形成している。では、自分のブログが富士山の何合目ぐらいにいるか。それは、編集画面のランキングタブをクリックすれば分かる。

富士山の頂上近く、白い雪のように輝いているのは、290万人のうちわずかにトップの数千人だけだ。

ところで、教皇訪日の話題がにわかに注目を浴び始めると、普段は5000位あたりを漂っている私のブログが、めきめきとランクを上げはじめた。

11月23日には 突如 2568位 に上昇。

       24日     1747位 (教皇来日当日)

       25日     1603位 (東京ドーム教皇ミサ)

       26日     1309位 (離日の日)

       27日にはついに 811位  まで上った。しかし、

       28日になると 2239位  まで落ち、さらにずるずると5000位ぐらいまで行くだろうか?

27日の811位 は、私としては過去10年間で最高の数字で、もう2度とないかもしれない。

ともあれ、人気タレントや政治家のブログが幅を利かしているトップ5000の中に、無位無官のカトリックの一神父のブログが常態的にいるというのは珍しい現象ではないだろうか。

ここに、この教皇フィーバーが消える前に是非広く注目してほしいものがある。それは、以前にも取り上げた清水教会の保存の問題だ。

詳しいことは下にURLを記した私のブログ、そして、清水教会のある信者さんの泡沫ブログ(失礼!)に記された意見を参照していただきたいが、この問題の要点は以下の通りだ。

取り壊しの危機に瀕しているのは、1092年にユネスコの世界遺産に登録された「長崎と天草のキリシタン関連遺跡」にも匹敵する、清水教会の古く美しい聖堂。

取り壊す理由は、外国人宣教師の手になったこの種の教会建築は、日本の教会にとっては負の遺産であり、抹消されなければならない、という、誤った土着主義のイデオロギーに染まった一部のカトリック聖職者の確信から生まれたものだと言えよう。

フランシスコ教皇の訪日のモットーは、「全てのいのちを守るため」であったが、「いのちが生み出した全ての美しい遺産」を大切に護ることも、その精神に含まれるはずではないか。

フランス人宣教師の手で建てられたこの美しい教会は、静岡市当局から「重要文化遺産」の筆頭として評価されている。また、第2次世界大戦の爆撃と艦砲射撃を奇跡的に免れ、多くの傷病者のシェルターとなったもので、いまは市民と児童の平和教育の場となっている。

教会当局による取り壊しの意向を知った一般市民は、その保存を求めて8000人の署名を集めて、それをローマの福音宣教省長官フィローニ枢機卿に送った。そのフィローニ枢機卿は、今回のフランシスコ教皇に陰のように寄り添い、日本を訪れていた。

清水教会の信者たちは、保存の一助にと1300万円以上の寄付・献金を集めた。しかし、教会当局はその受け取りを拒否した。

建築の専門家は、同教会の耐震補強は相対的に少ない予算でほどこすことが可能であると言う意見書を、詳細な数字と共に論証している。取り壊す必要性などどこにもないはずだ。

そもそも、ことの発端は、古くて使い勝手の悪い司祭館・信徒会館を、取り壊して新築し、快適なものにする話ではなかったのか。なにも、それに乗じて新しい聖堂を建て、さらに古い貴重な歴史遺産である美しい教会を、民意と信者の願いに反して、余計なお金をかけて取り壊さないではいられない必然性がどこにあるのか。

信徒の意見を聴けば反対されるのを知ってか、信徒の総意を聴こうとはせず、「補完性の原理」とかいう聞いたこともない魔訶不思議な理論を持ち出し、「信徒が事柄の是非の判断をする当事者能力を欠いている場合は、聖職者が信徒に代わって事柄に決定を下すことが出来る」という。だが、一体誰が、この信徒の群れは物事の是非を判断する当事者能力を欠いた無能力者集団だ、と言う判断を下す資格と権威を持っているというのだろう。

私の会った信者の有志達は、自主的に教会を運営し、立案し、必要な資金を調達できる社会良識に沿った正しい判断力を持った立派な信仰者だった。

対話を拒み、まるで信徒も市民も行政も無能力者、欠陥人間であるかのように見做して、「補完性の原理」を持ち出して、一部の聖職者の片寄った意思を押し付け、従順の名のもとに屈服することを強要するのは、誤った時代錯誤的やり方ではないか。

市民や信徒と対話し、その意見を入れて、共通善のために正しい着地点を、-たとえ、それが自分たちのイデオロギー的信条にそぐわなくてもー誠実に模索すべき時ではないのか。

フランシスコ教皇の発言は「すべてのいのちを守るため」という一点に立って、微動もしない「ブレない教皇」という印象を残した。安倍首相などは教皇の前ではこう言い、トランプの前ではああ言い、さらに国民に対してはまた別のことを言うなど、全く支離滅裂である。こういう手合いのことを昔から三百代言という。

フィローニ枢機卿は教皇と共に来日する前に、清水教会の状況に関して数通の嘆願の手紙を受けとっているはずだ。日本にいる間にかれは状況を直接見極められただろうか。

司祭館と信徒会館の新築のための資金負担を求められるのは、結局のところ高齢化しますます家計がひっ迫している末端の信徒たちだ。より合理的でより経済的な信徒の負担の少ない計画のために信徒と話し合い、知恵を出し合い、礼拝堂(教会)の新築と現教会の取り壊しのために大金を支出するよりも、歴史的価値のある貴重な美しい教会の耐震保全と改修を行う、より合理的で経済的な案を選択する英知を期待したいものだ。

「全てのいのちを守るために」という観点から、教皇は日本の死刑制度に反対し、核抑止力をISやアルカイダ以上に巨大なテロリズムだと糾弾し、福島の被災者に寄り添って全ての原子力発電に反対された。

日本人は傲慢な人間を非難し、プライドの高い人には一目置く傾向があるが、日本語以外の言語にはこのような言葉の遊びは存在しない。傲慢は悪徳であり、それをプライドが高いと言い換えようがどうしようが、傲慢は傲慢なのだ。

同様に、日本人は、核兵器廃絶に関して教皇に同意しながら、いわゆる原子力平和利用(原発)は容認しようとする。しかし、教皇にとっては、原子力反応炉は自然には存在しないプルトニュームという核兵器の原料生産工場であって、発電はその過程で生まれる副産物の熱を商業利用したもの過ぎないと看破している。日本に50基余りの原発反応炉があるということは、核兵器の必要材料プルトニュームを大量に生産保有する潜在的格兵器大国であることを意味する。だから、核兵器全廃の教皇の明快な提言を賞賛する人は、原発の全廃にも同意するものでなければならない。

「全てのいのちを守るために」、そして「その命が生み出した全ての美しいものを守るために」、清水教会問題に対して、フランシスコ教皇の言葉に沿った正しい解決がもたらされることが望まれる。

フィローニ枢機卿もフランシスコ教皇もどういう印象をもってローマ・バチカンに帰っていっただろうか。清水教会問題に関しても、今後の展開について、私たちは彼らに詳しく報告をする義務を負っている。市民と信者たちの思いを蹂躙した、権力のゴリ押しが行われないように祈りたい。

 

関連のブログ〕 

清水教会問題「決して起こしてはならない悲劇」 (2019年8月10日)

https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/49b02af2166415437b07dd3a23195106

 

ブログはじめました。「清水教会聖堂の存亡危機に想う」 (2019年10月11日)

https://blog.goo.ne.jp/obatayukie1936/e/6c2892995dcc97ca217c88fd9ad025e8

 

(つづく)

 

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★ 教皇は来て、そして、去って行った 何を残して?

2019-11-27 00:05:00 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇は来て、そして、去って行った

何を残して?

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4週間前にローマでフランシスコ教皇に会って話してきたばかりの私は、来日する教皇の姿を遠くからでも一目見たいものだと、東京ドームのミサに共同司式司祭として申し込んであった。

 幸い、入場許可の手紙が届いて、よかったと胸をなでおろした。

申し込んだが、拒まれた司祭たちもいたので心配していた。

* * * * *

以下、ドキュメンタリー風にスライドショーで追ってみよう。

教皇訪日のスローガンは「すべての命を守るため」だった。

 

余裕をもって東京ドームの指定の入り口でセキュリティーチェックを受けた。

案内された席に着いて待つこと1時間余り。

急に場内が騒然としたので振り向くと、すぐ後ろの席にいた、一見ロシア正教などの東方キリスト教会を代表す高位聖職者と思われる衣装の人たちが一つの方向をじっと見上げていた。

私もつられて振り向くと、左右の巨大なスクリーンに、トヨタ製水素燃料車のパパモビレに乗って野球場のグラウンドに入ってきたフランシスコ教皇が映し出されていた。 

最前列に近い私の席からは、総立ちの観衆と打ち振られる小旗の波の陰で、教皇がどこを移動中かはまだ確認できなかった。

 

やがてのことに、アルプススタンドの真下あたりからまっすぐ正面の祭壇に向かって伸びた赤じゅうたんの上を、パパモビレはゆっくりと近づいてきて、ようやく私のズームレンズの射程内に入った。

 

教皇は差し出される赤ん坊を何人も抱き上げて接吻した。ローマでもよく見かける光景だ。

 

その度に、ドームをいっぱいにした群衆からは万雷の拍手と悲鳴に近い歓声が湧き上がった。まるで、ロックのスターに叫びを贈る熱狂的なファン集団のような群衆心理ではないか!

 

やがてのほどに、教皇は中央の壇の上に上がってきた。

 

壇の下、最前部には赤じゅうたんを挟んで、左右3ブロックに分かれた共同司式司祭たちが、みんなお揃いの祭服を身

に纏って座っている姿がスクリーンに映った。

そのスクリーンに映った司祭たちの姿を私はカメラにおさめた。それが上の写真だ。

 

その写真を拡大してみるとスクリーンにカメラのレンズを向けている自分の姿があった。この写真真ん中後方に、ただひとり、白髪頭の私がカメラを構えている両手がはっきりと分かる。

 

聖書の朗読の間杖にすがって立つ教皇は、連日の殺人的過密スケジュールで、疲れ切っているに違いない。

そこには、テレビカメラを意識して、パパモビレの上であふれる笑顔を振りまいていた教皇とは打って変わった、疲れた老人の姿を私は見逃さなかった。 

その疲れ切った老人の姿を残酷にもこの望遠テレビカメラがスクリーンに曝す。

それをアルプススタンドの最後列までぎっしりと埋め尽くした観衆が見つめている。

ここは読売ジャイアンツの本拠地の東京ドーム。

上段最後列までぎっしり人が入り、その下には全く空席が目立たない。

5万人と聞いた。

 

一部英語だったのと、希に片言の日本語の他は、教皇の説教などはすべてはスペイン語だった。

 

スクリーンにはその説教などの内容が日本語の字幕で伝えられる。

 

説教が終わって、ミサは佳境に入る。

 

聖別されたパンとぶどう酒は、キリストのからだと血に聖変化する。

そのパンは5万人の中のカトリック信者たちにバックスタンドまで短時間に整然と配られた。

さすが全てを任された広告代理店「電通」さんの手際の良さだ。彼らはイヴェントのプロなのだ。

 

 やっとミサが終わって、身を引きずるようにして祭壇を降りる教皇。超人的な意志力だ。

 

翌日26日午後、空港に教皇の姿があった。

 

きもののお嬢さんからサヨナラの花束が贈られた。顔には笑みが戻っていた。

 

ホッとして、気が緩んだのか、何でかは分からないが、大笑いする教皇の姿があった。

 

天皇やトランプや阿部さんが、こんなパーフォーマンスを思いつくだろうか。

13億の信徒の頂点に立つフランシスコ教皇は、タラップを操縦する地上スタッフの手を取って労をねぎらった。

 

さらに、機内に入る前に胸に手をやって地上の人々に丁寧に会釈して別れの挨拶を忘れない。

 

その視線の先には見送りの偉い人達は一人もおらず、長時間、最後まで冷たい雨の中を傘もささずに立ち尽くした名もない地上スタッフや整備員たちだった。

 

最後の挨拶を終えると、くるりと背を向けて機内に消えた。

 

特別機にはバチカンの国旗と日の丸が風にはためいていた。

 

牽引車に曳かれて滑走路に向かう特別機は、JALではなくANAだった。

 

お疲れ様フランシスコ。サヨウナラ!

次の教皇訪日は何年先だろう。前回(そして初回でもあった)は38年前の聖教皇ヨハネパウロ2世だった。

その時、40代初めだった私は、ドイツで働いていて参加を逃した。

 

 

教皇は来て、そして、去って行った 何を残して?

この問いに即答するのは難しい。少し時間をかけて考える必要がありそうだ。

私の心に何が残ったか? あなたの心には?

その波紋は今、広がり始めたばかりだ。

 

 (つづく) 

 

 

 

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★ ローマの報告(そのー2)

2019-11-12 13:22:25 | ★ 教皇フランシスコ

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ローマの報告(そのー2)

教皇フランシスコに盆栽献上(つづき)

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見えますか?教皇の白い帽子の右上、盆栽の陰のおでこの禿げたカメラマンがとらえた写真が翌日のバチカン機関紙「オッセルバトーレ・ロマーノ」の8面に載っていた。次の写真がそれだ。

 

 

この写真に添えられた記事を翻訳すると、

 バチカン広報紙、≪オッセルバトーレ・ロマーノ≫(政治と宗教の日刊紙) 

2019年10月31日号(8面)教皇の一般謁見(10月30日水曜日の関連記事)

 

11月に予定されている日本への使徒的旅行を目前にして、教皇フランシスコへの

二鉢の盆栽の寄贈は重要な意味を持っている。

森高氏は、ジョン谷口神父と共に「これらの盆栽は樹齢150年のものでございま

す・・・。」と説明して、教皇様にそれを贈った。さらに、「思い返せば、2004年

のことですが、私たちはすでに二種類の合計30本の桜の花の咲く苗木を聖教皇

ヨハネパウロ2世に奉納し、今日それらはバチカン庭園で素晴らしく咲き誇ってい

ます。」と付け加えた。

 

盆栽の一行と別れた私は、古巣のローマの神学校に居を移しした。

  

増改築なった神学校の聖堂の正面には、キコの壁画がすでに完成している。

キリストの誕生から十字架上の死と復活、昇天、さらに世の終わりの最後の審判までを、仏教でいえば曼荼羅風に描いたものだ。

フレスコ画ではない。金箔の上に絵の具を乗せた仕上がりで、その面積はバチカン博物館付属のシスティーナ礼拝堂にミケランジェロが描いた最後の審判のフレスコ画よりもやや広い。世界中からの巡礼が見に来るのだが、今朝もアメリカからのグループが絵の説明を受けていた。

10年余り院長秘書として住んだこの神学校を訪ねた今回の目的は、「教皇庁立アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の一部として東京に帰って来るはずだった「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」が現在どんな状態にあるかを、自分の目で確かめることだった。

 

  

 

神学校の大聖堂の脇の階段を上がった2階に、日本のための神学院が独立したチャペルを持っている。チャペルの中には、保護の聖人の聖遺物と共に、日本語の掛け軸が今もかかっている。

 

土曜日の朝、久しぶりに日本のための神学生たちと共にミサを捧げた。

 

 

ミサ後の集合写真。中央右側の紫のストールをつけているのが、現在の院長アンヘル・ルイス神父。

中央が私でその周りに8人の神学生。左から2人目のトモヒロ君は日本人。あとは、世界各国からだ。

写真を撮ってくれているマテオ君を入れて、神学生総勢9人のミニ神学校。

少数と侮るなかれ、宣教に関しては意識の高い精鋭部隊。日本語もそれなりに上達して即戦力がある。

神学校は健在だった。ローマにある限り安泰で、これからも教皇様ご自身の手で

毎年1-3人の新司祭が、日本のための宣教師として叙階され続けていくだろう。

 

バチカンが考えた「アジアのための教皇庁立レデンプトーリス・マーテル神学院」は東京に置かれることを前提に立案された。それは、第三千年紀のアジア全体の宣教の中核拠点となるはずだった。それが予定通り東京に置かれれば、上の「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」もその「教皇庁立の神学院」の一部として、東京に上陸するはずだった。

そもそも、同神学院は聖教皇ヨハネパウロ2世の励ましによって「高松教区立」として1990年に設立されたもので、設立者の深堀司教様が在位中は多数の若い司祭を輩出したが、司教の代が変わると、閉鎖を余儀なくされた。しかし、その消滅を惜しまれた教皇ベネディクト16世は、それをご自分の神学校として「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」と名付けてローマに移植された。同教皇の生前退位後も、それはフランシスコ教皇に受け継がれ、存続していた。

もともと、同神学院のローマ移設は、移設当時の関連文書が示す通り、いずれは日本に返すための暫定的な措置だった。新教皇フランシスコは、すでに期は熟したと見て、教皇庁立の「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の一部として日本に返す案を承認されたのだろう。その案が再び日本の教会の反対にあって拒絶されると言うことは、バチカンにとってはまさかの想定外の出来事であったと思われる。

これは、アジアの教会、そして特に日本の教会にとって貴重な贈り物になるはずであったにもかかわらず、まるで真珠を泥の地面に投げ捨てるような扱いになってしまった。しかし、フランシスコ教皇は黙って身をかがめてそれを拾い上げ、泥をぬぐって、そっとマカオに置かれた。マカオにしてみれば、思いがけない棚ぼたの恵みであったに違いない。

以上が、ローマの教会と日本の教会の間で起きた、3代の教皇を巻き込んだ神学校を巡る今日までのドラマだった。

マカオと聞いて、人はピンと来ない意外な選択と思われただろうか。しかし、イエズス会出身のフランシスコ教皇には、マカオはフランシスコ・ザビエルの時代のアジア宣教の重大な拠点として記憶されていたはずだ。しかも、その選択はただ過去のセンチメンタルな記憶だけによるものとは思えない。

習近平の終身国家主席になる可能性が見え隠れし、かつての中国の皇帝のような絶大な権力を手中に収めつつあるが、中国の無神論的共産党一党独裁があっけなく崩壊する日が来たら、マカオは再び中国大陸宣教の橋頭保として脚光を浴びるかもしれないのだ。

絶対に失敗しないソ連差し向けのプロの殺し屋の銃弾2発を至近距離から腹部に受けた聖教皇ヨハネパウロ2世は、奇跡的に生還した。その結果無神論的共産主義国家ソ連は崩壊した。ならば、フランシスコ教皇の努力如何では、中国の無神論的共産党一党独裁体制が崩壊するという奇跡が絶対に起きないと言い切れるだろうか。その日に向けて、2万人の中国語を話す宣教師の養成が急がれている、と言う話がカトリック教会の中にある。本当だろうか?

しかし、予断は許されない。もし習近平が力を伸ばし、香港を手中に収め、余勢をかって何らかの口実を設けて台湾に電撃作戦に打って出れば、トランプが2-3か月をかけて反撃の態勢をようやく整えた頃には、中国の台湾実効支配はすでに完了していて、手も足も出せない後の祭りということもあり得る。商売人トランプは一銭の得にもならないベトナム戦争の二の舞を大国中国相手にするはずはない。そのようなことになれば、マカオの地位も危うい。「教皇庁立アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の撤退、立地の見直しも必要になって来るかもしれないのだ。

その時、再び最有力候補として浮上してくるのは、地政学的に見てもやはり日本を措いて他にないように思う。高松教区立の「レデンプトーリス・マーテル神学院」を閉鎖に追い込むためには、バチカンを相手に日本の全司教が一致団結したと言われているが、「教皇庁立アジアのためのRM神学院」の東京設置を水際で阻んだのは、必ずしも全司教一致ではなかったと言う話がある。だから、次には三度目の正直で、少なくない数の日本の司教が教皇様の意向を受けいれて実現する希望がないわけではない。その時はじめて、元高松教区立の「レデンプトーリス・マーテル」神学院問題も最終決着を見るだろう。

反対に、もし、マカオの環境が今後も平穏で、「教皇庁立」の神学院が順調に軌道に乗れば、遅かれ早かれ、アジアの各地にマカオの神学院の分身(支部)が置かれることは容易に考えられる。日本のどこかにマカオの支部が置かれれば、フランシスコ教皇の手で、ローマの「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」がその支部と一体化する形で日本に帰ることも夢ではなくなる。

聖教皇ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世、フランシスコと3代の教皇を巻き込んだ「レデンプトーリス・マーテル神学院」問題を巡るローマと日本の司教団との軋轢の構図は、いずれかの形で必ず解決を見なければならない。

フランシスコ教皇の来日が、この問題について何らかの新しい展望を切り開くことを切に望みたい。 

 

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★ 教皇フランシスコに盆栽献上

2019-11-01 16:42:08 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコに盆栽献上

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ローマ空港に届いたばかりの盆栽の点検・手入れに余念のない森高準一氏。翌日、教皇フランシスコに献上されるのだが、ここに至るまでには、苦節15年、執念の日々があった。その歴史を辿ってみよう。 

 

 

話は30年近く前に遡る。リーマンブラザーズなどの国際金融業に見切りをつけた私は、50歳で神父を志して教会の門をたたいた。しかし、全ての門は固く閉ざされていた。恩人の高松教区の深堀司教様は、最後の望みを託して私をローマに送られた。そこで生き延びられなければ、貴方には司祭への召命はないと思いなさい、と言い渡されて

ローマでは、聖教皇ヨハネパウロ2世が1988年に設立したばかりのレデンプトーリス・マーテル神学院に3期生として受け入れられた。

 

 

久しぶりに訪れた同神学校には、刷り上がったばかりの30周年記念誌があり、その中に助祭に叙階されたときの私の写真があった。上の写真中央、黒いボールペンの先の黒髪の若者が私。

司祭の叙階式のあと、ローマで神学の教授資格を取ると、高松教区に戻り、母校の姉妹校の建設に取り組んだ。現在、世界に姉妹校が125あるが、高松のそれは、最初期の名誉ある第7番目だった。

神学校が建設された地元の町長さんは、過疎の地に世界から若者が集まり、地元の活性化と国際交流に貢献してくれることを喜び、東かがわ市の初代市長に就任した機会に、当時の教皇ヨハネパウロ2世に感謝をこめて日本の国花ソメイヨシノを献上しようと考えた。それが、徳島からは蜂須賀桜の苗木が、愛媛からは地元の盆栽が献上される展開とになった。

3県合同の「巡礼団」100名がバチカンを訪れ、バチカン庭園内で、教皇がお人払いして午後一人静かに散歩する小道の両側で、約30本の植樹祭を盛大に挙行してから、すでに15年の年月が経った。当時小指ほどの太さだった苗木も、今は直径12-3センチの成木になり、毎春満開の桜トンネルを繰り広げる。

 

2004年1月22日と記したステンレスの銘板は今も残っている。

 

土を洗い落とし、水蘚で根を巻いた桜はうまくいったが、土のついた盆栽は、思いがけない植物検疫の壁に阻まれて、間に合わなかった。近い将来必ずお納めすると言う言葉と写真の入った豪華なカタログを教皇に渡すのが精一杯で、実物の献上の目途は立たなかった。

事業の浮沈もあったが、今は広大な盆栽農園主に返り咲いた森高氏は、期が熟したと見て、先日、不意に連絡を取って来られた。急いでバチカンの人脈の回復を試みたが、多くは元の職にいなかった。ただ一人、元バチカン庭園担当の農学博士が、出世してまだ関連のポストにいることが分かった。

 

 

謁見の前晩、彼と夕食を共にした。受け取ったバチカンの封筒には、教皇からの白い招待状が2枚入っていた。白は教皇の色。フランシスコ教皇に親しく接見出来ることを保証するもので、他の色の招待状ではだめなのだ。

10月30日は、曇天だった。聖ペトロ広場の教皇の天蓋のある壇の右手の一列目は枢機卿、大司教らの高位聖職者の席だから、一歩退いた我々の席は、庶民としては最前列だった。案内役の衛兵は、手元のリストとカードの番号を見比べ、「盆栽の人」ですねと言って敬礼をした。

盆栽は、離れた下の方の台の上にポツンとおかれ、教皇の席からは明らかに死角にあった。どうして教皇の席の近くに置いてくれなかったのかといささか不満だったが、今さら文句を言えるわけもない。

 

 

待つことしばし、広場には何万人入っているだろうか。定刻に、はるか遠くで歓声が上がった。2000ミリのズームで引き寄せて見ると、パパモビレの上に教皇フランシスコの姿があった。

 

 

見慣れた防弾ガラスの覆いもない。彼は、世界中で一番暗殺される可能性の高い人物の一人なのに・・・。

事実、聖教皇ヨハネパウロ2世は至近距離からソ連差し向けのプロの殺し屋の銃弾2発を腹部に受けた。生ける殺人兵器として訓錬された失敗しない男は、後日、赦しを与えるために牢獄を訪れた教皇を見て、幽霊だと言って怯え、取り乱した。それはそうだろう。殺人マシーンの彼にとって、失敗は絶対に、絶対に、あり得ないことで、しかも彼は奇跡を信じないのだから。 教皇の暗殺失敗は、後のソ連の崩壊につながった。

 

群衆の間を一巡した後、

教皇はやおら正面の座に歩をすすめた。

 

今、これで私たちと教皇の距離は約15メートル。

11月25日の東京ドームでは、はるか遠く豆粒にしか見えないことだろう。

 

 

自分のメッセージと説教が何か国語にも翻訳されて伝えられるのを、忍耐強く聞き入る教皇。

イタリア語、フランス語、ドイツ語、英語、ポルトガル語、ポーランド語、アラビア語、その他私の聴き分けられないいくつかの言葉。

突然、猛烈な通り雨がきた。

一瞬教皇は胸に手を当てて祈ったようだった。数分後に晴天になった。森高氏は、洗礼を授かったと冗談を言ったが、顎からはしずくがしたたり、背広の下のシャツまで濡れていた。

最後の「主の祈り」はラテン語だった。そして祝福があった。

高位聖職者との個人謁見はいつも通り壇の上で行われた。その後、予想に反して、教皇は壇を降りて、一般群衆の最前列にいた病人たち、障害者たちに挨拶し、握手し、頭に手を置いて回った。その間にわたしたちは警備のものに導かれて、盆栽の前で待機した。

 

 

歴代の教皇は、個人謁見の時決して動き回らなかった。最初にパパモビレで群衆の間の通路を回った後は、最後まで壇の上の天蓋の下のポジションをキープし、拝謁を賜るものは列をなし、歩いて教皇の前に近寄るのが決まりだった。

教皇が私たちの許へ歩いてやって来る?あり得ないと思っていた。しかし今、初めて盆栽が壇の下の端に置かれたわけが分かってきた。ほんとうに教皇が歩いて私たちのところに来るのだろうか?

その瞬間が来た。通訳をしようと思ったが、森高氏は緊張してか、ほほ笑むばかりで言葉を発しなかった。  

 

私は、聖教皇ヨハネパウロ2世にも接見の機会があったが、会って、握手して、写真を撮ってもらって、ハイ次の方、という流れ作業だったと思う。

今回は記念の品までもらった。しかし、纏まった会話のやり取りは枢機卿などの限られた高位聖職者の特権だという先入観に縛られていた私は、とっさに、森高氏が誰であるか、日本にお越し下さるに先立って盆栽を献上しに来ました、盆栽の樹齢は150年で・・・、ぐらいまでが精いっぱいで、それ以上に、ここまでの長い歴史を、そもそもから説き起こすことなど、衆人環視の中、状況から言って不可能だったし、心の準備もまるでなかった。 

 

それでも、最後に蛮勇を奮って、実は、私は新求道共同体の司祭であること、そして大変な困難の中にあることを告げた。すると、「わかっている。私は貴方たちを心から愛している。元気を出しなさい!」という力強いお言葉を戴いた。もうそれで満足だった。胸がいっぱいになった。

 

 

清貧を生きたアシジの聖フランシスコを歴代教皇では初めて自分の名に選んだアルゼンチンのベルゴリオ枢機卿は、教皇になっても歴代教皇のバチカン宮殿に移り住むことを固く拒んだ。教皇選挙の時に泊まったサンタマルタというガソリンスタンド前の質素なアパートホテルに居座って、贅沢な生活に慣れ染まった高位聖職者のお歴々に、無言の模範を垂れているのだ。

アパートの入り口には、一人のスイス衛兵と独りの警備員がいるだけで、誰でも側に近寄れる。盆栽の一つは、入り口を入ったホールに置かれ、その間、もう一つは屋外で手入れを受け、適宜入れ替える手筈になっている。

 

 

謁見が終わって初めてローマの町に繰り出した。スペイン階段、カフェ・グレコ、コルソ通り、トレビの泉、真実の口、etc.。遠くの聖ペトロ大聖堂のクーポラ(丸天井)の上に登れば、眼下に桜並木が見える。

 

 

テベレ川はローマの北と南のはずれに落差の小さい早瀬があるので、それを越えての航行は出来ないが、それでもたまには船が通る。

 

冬時間に戻った11月の日は早く暮れる。夕焼けだから明日も晴天だろうか。

 

(このローマの報告、つづく)

 

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★ キコの80歳の誕生日に寄せられた教皇様の祝辞

2019-01-11 09:30:49 | ★ 教皇フランシスコ

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新求道共同期間の道

キコの80歳の誕生日に寄せられた教皇様の祝辞

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Avvenire紙(イタリア)2019年1月10日インターネット版より

教皇様は新求道共同体の道の創始者に対する個人的なお祝いのメッセージの中で「神様があなたの教会に対して行った善の全てに対して報いてくださいますように」 と書かれた。 

 

 

 

「親愛なる兄弟、あなたの80歳の誕生日にあたり、貴方への親近感と兄弟的感謝の数行を送ることなしにこの日が過ぎることを私は望みません。神様に対しては貴方を選ばれたことに感謝し、あなたに対してはあなたの忠実さに感謝します。神様があなたの教会に対して行った善の全てに対して報いられますように。私はあなたに寄り添い、祈り、あなたと共に行きます。お誕生日おめでとう。新求道共同体のひとたちがあなたのために80本のローソクで飾られたケーキを贈るだろうことを希望します。そしてお願いだから私のために祈ることを忘れないでほしい。イエスがあなたを祝福し、聖なる処女マリアがあなたを保護してくださいますように。"あなたを愛しあなたを賞賛する"フランシスコより。」フランシスコ教皇はこの個人的なメッセージが昨日マドリッドで80歳の誕生日を迎えた新求道共同期間の道の創始者キコ・アルグエヨに届くことを望まれた。

キコのフランシスコ教皇への感謝状
教皇のこの心配りを「大きな感激」をもって受け止めたキコは、火曜日の朝サンタマルタの家で行われたミサの終わりに、彼の「教会の中で行った使徒的情熱」に対して教皇が感謝の言葉をかけられたことに対して、昨日すでに謝意を伝えていた。一つのメモの中でキコは、道の共同国際責任者であるマリオ・ペッツィ神父とマリア・アシェンシオンとともに、教皇に対する感謝の意を表わすとともに、「ペトロの聖務」に対する祈りを約束しながら、彼の教皇への愛情と親近感を表明することを望んだ。.


新求道共同期間の道の50周年を記念してトール・ヴェルガータで開かれた集い
最近のフランシスコ教皇とキコ・アルグエヨの出会いは昨年5月5日だった。その日、新求道共同期間の道はトール・ヴェルガータの平原でローマに最初の共同体が生まれた50周年の記念を祝った。この機会に教皇は新求道共同期間の道における福音の告知の力について話しながら、その話の中で、それは「説得力のある論証によってではなく魅力的な生き様、押し付ける能力によってではなく奉仕する勇気」によるものである。そして、あなたたちはあなた達がいただいた『賜物』の中に聖家族の模範に倣った家庭生活を営みながら、謙遜と単純さと賛美によって宣教する召命を持っている。この家族的な雰囲気を見捨てられ愛を奪われた沢山の場所にもたらしなさい」と言われた。

 

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★ 大切なコメントがあります、是非見て下さい!

2017-10-13 09:28:30 | ★ 教皇フランシスコ

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大切なコメントがあります、ぜひ見てください

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2日前のブログ「教皇の親書」に対して共感と注意を含んだ大切なコメントの投稿がありました。

皆さん、ブログの最後に「コメント欄」と言うのがあるのをご存知でしたか?ブログを書いている私にとっては大切なアンテナですが、一般の読者の注意を引くほど目立つものではありません。

それで、今回は戴いたコメントをブログの本体に引用して、皆様の注目を喚起したいと思います。いろんな意見があっていいと思います。テーマによってはコメント欄にコメントが殺到したケースが過去にもありましたが、最近はずっと静かでした。では、最近のコメントとそれに対する私の反応をお目に掛けましょう。

コメント数 2

コメント日が  古い順  |   新しい順
 
Unknown (KIO)
2017-10-10 05:52:22
 
この時を待ってました。何時、谷口神父さんが評論されるのかを。確かにフランシスコ教皇の親書は、驚きであると同時に遅きに失した感も致します。「新求道共同体」という臭いものに蓋をした、日本の司教団に対して回心を求める命令です。小生もこの親書を一読した時に、本当に驚きました。だれかの作文であるのかとさえ疑いました。これを契機にして、日本の司教たちがそれぞれの教区で、新福音宣教の見直しを真剣に実行されることを願っております。しかし、「新求道共同体」にも反省点はあります。典礼を特に復活祭の典礼を、別の場所で行う暴挙は、許せません。現実に故郷の松山では、帰天された溝部司教さんが心配の余り、禁止の通達を出されたのをよく覚えております。また、かつての派遣先のカンボジア王国のシェム リアップでも、ポーランドから巡礼で訪れた「新求道共同体」の信徒20名が、聖ヨハネ教会(通称シェ ムリアップ教会)でポーランド語のミサを挙行されたことがあります。司祭と修道士は、ポーランド人の方でした。事前の連絡も不十分で、急遽呼び出されて、近所のショファイユ修道会の修道女と二人で、ミサの準備をしたことがありました。フィリピン人の主任司祭のイエスズ会士は、苦虫を潰した顔をしておりました。特に混乱もなく終わりました。どんなに宣教熱があろうとも、地元に溶け込むためには、身勝手なミサ典礼は改めるべきです。十分な連絡と緩やかな連携を模索することから再出発するべきだと思います。とにかく、この親書は、日本の司教団にとって、ダイナマイトです。一早く、新潟司教区では、教区長が声明をブログに載せてましたが、言い訳のような内容でした。日本人の信徒も目を覚まして、自身の福音宣教に責任を持つ時が来たと自覚すべきです。

 
Unknown (谷口幸紀)
2017-10-12 23:17:29
 
KIOさん
コメントありがとうございました。
新求道共同体を地元の司教様が文書で禁止を告知されている教区は高松教区以外では一つか二つでしょう。16教区中では圧倒的少数派です。にもかかわらず、全司教区を縛る重苦しい空気が日本全体を覆ってきました。教皇様はそれをこの度明快に否定されました。
復活の徹夜祭は信仰の原点です。それを教会で祝うことを禁止されていたから、緊急避難としてやむなく他に場所を求めて祝ったのだろうと思います。
何人かの司教様は、報告したり許可を求めてきたりしたら、周りの空気に配慮して不本意にも禁止しなければならないが、あなた達のやっていることは悪いことではないのだから、黙ってやっているこについては黙認しよう、という反応だったと聞いています。外国での個別の事象については事情がよく分からないのコメントできません。
 

このやりとりは、各ブログの一番最後の右下にある《コメント》と言う黒い小さな目立たない文字をクリックすると見られます。投稿するのも自由ですが、自動的には反映されず一旦は管理者である私の目に先に触れます。よほど非常識な偏向したもの以外は半自動的に公開されます。

今回のテーマは、教皇フランシスコが日本のカトリック教会に当てた親書と言う意味で重要です。教皇がある国の教会を対象に「親書」を書くと言うのは極めて異例のことであり、重要な必要性が無い限り普通には考えられない事態でしょう。ローマ教皇の目から見れば、日本のローカル教会はそれほど深刻な状況下にあったと言う事ではないでしょうか。

この問題については私が多く書くよりも、このコメント欄を自由な意見表明の場として開放することを通して掘り下げていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

 谷口幸紀拝 
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★ 《一部加筆》 教皇フランシスコ、日本の教会へ親書

2017-10-11 18:43:36 | ★ 教皇フランシスコ

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《一部加筆》 教皇フランシスコ、日本の教会へ親書

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=福音宣教省長官、フィローニ枢機卿来日に際して=

 ちょっとカトリック教会の内情に偏したローカルなテーマですが、敢えて!

 教皇フランシスコは去る9月14日付けで日本の司教たちに対して親書を送りました。その内容は非常に婉曲な言い回しを多用したものであるため、その本題と本質を正確に見極めるのは必ずしも容易ではありません。

それで、親書の随所にちりばめられたキーワードを抽出して綴り合せ、込められたメッセージの真意を読み解きたいと思います。

最初の鍵は日本の教会がもつ福音宣教の使命についての言葉です。

「教会はその起源から普遍(カトリック)であり、『出かけて行き』宣教する存在です」(2014年9月17日、教皇の一般謁見より)。事実、「キリストの愛」は福音のためにいのちを捧げるよう、私たちを後押しします(二コリント5・14参照)。このダイナミックな傾向は宣教熱のないところでは死んでしまいます。ですから、命は与えることで強められ、孤立と安逸によって衰えます。」(使徒的勧告『福音の喜び』10項)。

この言葉は暗に、日本の教会にはこのダイナミズムを失い宣教熱をなくし、世界の教会の趨勢に背を向けて、孤立と安逸の中に閉じ籠り、衰えて今にも死にかけていると厳しく指摘しているかのようです。

さらに、イエスの「山上の説教」を引用し、日本の教会に向かって「あなた方は地の塩、世の光である」(マタイ5:13-14)と述べ、教会は「地の塩」として社会を腐敗から守り、「世の光」として社会の暗闇を打ち破るべきものであることを強調し、「まさしくこのシンボルは日本における教会の現状をよく表しています」と続きます。つまり、日本の教会は「味を失った塩」「人々の前に輝いていない灯火」のようではないか?と暗に問いかけていると言えます。

そして、日本の教会は小さく、聖職者、修道者は目に見えて減少し、信徒は十分に参加していないのは事実だとしても、その現状はイエスがこの小さな日本の教会に託した大きな霊的倫理的な使命を十分に果たしていないことの言い訳にならない、と厳しく指摘しています。そして、「働き手の少なさは、かえってますます宣教熱を高揚させ、働き手を絶えず求める好機とさえなるのです。まるで福音に出てくるぶどう園の主人が、一日中、何時になっても新しい労働者を自分のぶどう園のために探しに行くようなものです(マタイ20:1-7参照)」と、聖書を引用して、働き手を求めて広場に出向き、そこに働き場を求めて待機している働き手を迎え入れるようにと促します広場には、教皇の庇護のもとに育てられ、日本で雇ってくれる主人を待つ働き手が、大勢たむろしているのです。

そして、「最後に、聖座(バチカン)が承認している教会の幾つかの運動体について話したいと思います。彼らの福音宣教熱とそのあかしは、司牧活動や人々への宣教においても助けとなりえます。これらの運動体にかかわりを持つ司祭や修道者も少なくありません。彼らもまた、神がそれぞれの宣教使命を十全に生きるよう招いている神の民の一員です。これらの運動体は福音宣教活動に寄与します。私たちは司教としてこれらの運動体のカリスマを知り、同伴し、全体的な司牧活動の中での私たちの働きへ参与するよう導くように招かれています。」と結論付け、「主が日本の教会に多くの働き手を送り、その慰めで皆さんを支えて下さいますように」と結んでいます。

教皇はここで何を言いたいのでしょうか。この親書を受け取った各人は、教会的な言語に対する多少の感性を持ち合わせているとしたら、教皇のメッセージを読み違えることは全く不可能です。

「聖座が承認している教会の幾つかの運動体」の中の最大のものが、日本の司教団が一体となって排除し、無視してきた「新求道共同体」を指していることは、どの司教の目にも明らかです。教皇は、その排除の論理を認めず、彼らを受け入れ、彼らの活力を生かすことを強く求め、緊急の課題として勧めているのです。いや、勧め超えて、ほとんど哀願とも言うべき響きが感じられないでしょうか。

福音宣教省長官フィローニ枢機卿は去る9月18日から1週間、この教皇の親書の趣旨を現実化するために勢力的に働きました。彼は日本を発つ前日の24日午後、東京のカテドラルで司教、司祭、信徒と共にミサを捧げたが、そのミサに先立って信徒との直接対話集会を開きました。

私もそれに参加しましたが、枢機卿は誤解や解釈の余地の全くない明快な語調で、「排除の論理ではなく包括の論理に立たなければ、日本の教会に明日はない」と言う意味のことをはっきりと述べられたのは印象的でした。それは、教皇の親書と全く軌を一にするものでした。

ローマへの帰途に就く日の朝、同枢機卿は日本の司教たちと最期の会議を持ち、上の点を再確認するとともに、日本の教会に働き手を確保する具体的な道として、教皇ベネディクト16世の計らいでローマに一時的に移植されている「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」を何らかの形で近い将来日本に戻す何らかの方途が話し合われたのではないかという専らの推測の声が漏れ聞こえてきますが、その真偽のほどはきっと近い将来に明らかになるだろうと思われます。期待を込めて祈りたいものだと思います。

コメント (2)
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★ 軽い気晴らしに、借りてきた小話はいかがでしょう? 「ビジネススクールのケーススタディー」

2014-05-05 18:48:09 | ★ 教皇フランシスコ

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軽い気晴らしに、借りてきた小話はいかが?

「ビジネススクールのケーススタディー」

「RCグローバル社」の場合

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 「ターンアラウンドCEO」たち、つまり「死に体」になった巨大組織に、新しい生命の息吹を吹き込んで蘇生させる、カリスマ経営者とでも言いましょうか。IBMのルー・ゲルストナー、フィアットのセルジオ・マルキオンネ、そしてアップルのスティーブ・ジョブズなどがその典型です。彼らの成功の秘訣を分析し、それに学ぶゼミは、一流ビジネススクールに欠かせない必須教科です。

 ここへ来て、ハーバードのビジネススクールは、「RCグローバル社」をたった1年で見違えるように立て直した新しい最高経営責任者ホルヘ・ベルゴリオ(CEO)をゼミの新たなケース・スタディーのテーマに加えなければならなくなりました。

 エッ?IBMやフィアットやアップルなら知っているが、「RCグローバル社」なんて聞いたことがない、ですって?あなたは最も暖簾が古く、世界最大を誇るこの企業のことをご存知なくて、それでよくもまあビジネスマンが勤まりますね!深刻な経営危機に見舞われていたこの業界最古の巨大企業を知らないようでは、完全にモグリですよ。

 などと言って、人をからかうのはこの辺にしておきましょうか。

 

 

 

 「RCグローバル社」とは、世界宗教「ローマン・カトリック教会」のことで、その総本山のローマのCEO(最高経営責任者)ホルヘ・ベルゴリオとは、1年前に生前引退したベネディクト16世の後を受けて選ばれた、教皇フランシスコの本名のことです。

 アメリカ資本のプロテスタントのライバル企業ペンテコステ社は、新興国でのRCグ社のマーケットシェアーをものすごい勢いで食い荒らしています。かつてラテンアメリカで、アルゼンチン支社を経営していたベルゴリオ社長のお膝元でも、それは例外ではありませんでした。スキャンダルは顧客(信者)離れを招き、営業部門(神父たち)の士気は低下し、今の厳しい経済環境の中では珍しい終身雇用制を保証しているにも関わらず、新入社員(司祭希望者)のリクルートは一向にはかどりません。

 会社の財政状況も滅茶苦茶です。漏洩機密文書からは、バチカン銀行が腐敗と無能さのるつぼであることが発覚しました。その経営陣は分裂し弱体化していました。教皇フランシスコの前任者のベネディクト16世は、システィーナ重役会議室の壁を飾る年老いた髭面の創業者兼会長(天地万物の創造主なる神のことだろうか?)の介入で黒い噂のさ中に解任されました。

 

預言者的経営者の誕生

 たった1年で事業は大幅に信頼を回復しました。この新しい最高経営責任者は大変な人気です。非常に辛口の観客であるアメリカのカトリック信者の85%が彼を支持しました。RCグローバル社の小売部門の業績は回復基調です。営業マン(神父)たちは今や「フランシスコ効果」の話でもちきりです。70代半ばのアルゼンチン出のお爺さんが、いったいどうやってこの世界で最も野暮ったい豊満企業を生き返らせることに成功したのでしょうか。

 第一は、古典的な資質の初心に帰ることでした。フランシスコは彼の組織を再び一つの使命に集中させました。それは貧しい人たちを助けるという視点です。彼の最初の決定は、教皇の宮殿を棄てて、他の50人ほどの神父たちや日曜日の訪問者たちと共同で利用する宿舎を自分の住居として選ぶことでした。彼は自分の教皇名として、貧しさと動物たちの友であることで有名な聖人の名前を選びまし。彼は少年刑務所に収容されている12人の若者の足を洗いそれにキスしました。彼はルネッサンス時代から教皇が身に着ける習慣になっていた「毛皮で縁取りした贅沢なビロードの肩マント」を廃止し、ベネディクト16世ご愛用の教皇用の「赤い靴」を普通の黒い短靴に替えました。そして、「フル装備の高級メルセデス・ベンツ」を無視して、使い古したフォードに乗ることにしました。

 この新しい焦点は、会社が教義上の議論や、華美な儀式を演出するなどの、「付帯的な業務」に支出する資金を節約することを可能にしました。「貧しさ優先の戦略」は潜在的成長力が最も大きく、また競争が最も苛烈な新しいマーケットに正確に照準を合わせています。

 この新しい戦略的焦点に沿って、教皇は二つの効果的な経営手法を採用しました。一つはブランドの再編です。彼は明らかに堕胎ゲイの結婚については伝統的な教えを支持しますが、前任者よりは口うるさくないやり方を取ります(たとえば、「人を裁く私は一体何者か?」と同性愛について自問します)。もう一つは構造改革です。彼は教会の機構・組織を見直すために、教会の管理部門を点検し、バチカン銀行を分解修理するために、いわゆる「ザC8」と呼ばれる枢機卿8人衆の改革グループを任命し、世界4大会計事務所の一角を占めるKPMG(「神のコンサルタント」と呼ばれる)を雇い入れました。

 はたしてうまく機能するでしょうか?権威ある批評家で名うての企業乗っ取り屋ルー・シッファーは、それらは全部お線香の煙と虚像に過ぎない、と言いました。他の人たちは、女性のより大きな役割分担を含むさらに大幅な変化が必要だと主張します。会長(神様)の態度は解りません。或るアナリストは、酷い災厄に見舞われていないということは、受け入れられている印ではないかと言います。他の人たちは、奇跡を行う彼の動きは謎めいている、と言いました。


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 この文章はもちろん私のオリジナルではありません。知人がメールで送ってくれた英文の記事を、興味本位でざっと訳したものです。誤訳を指摘されても弁解しません。必ずしも原文に忠実でないことも認めますが、この英文の原稿を送ってくれた友人のメールによれば、そのソースは “The Economist on iPad” となっていました。写真もその記事から取ったものです。

 英語版の「エコノミスト」の手にかかると、教皇フランシスコとカトリック教会はこういうことになるのでしょう。なるほど・・・、と感心させられました。私は、その書き方が気に入っているわけではありません。ここまで漫画化するのは如何なものか、とむしろ批判的です。

 しかし、教会の外で成功しているキリスト教信仰を生きていない大人たちにかかれば、こんな見方をする事も出来るのだ、ということ知る上では参考になると思って、敢えてブログで取り上げました。

 軽い気晴らしぐらいのつもりで読み飛ばしてください。これを契機に生真面目な議論をされると、私はドギマギ戸惑うことになりますので、それだけはどうかご勘弁のほどを。

(おしまい)

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★ 〔完全版〕 教皇のインタビュー (最終回)

2014-04-17 17:00:00 | ★ 教皇フランシスコ

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〔完全版〕 教皇のインタビュー (最終回)

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長くなったインタビュー連載も今回の短いブログで完結します。

最後の質問が教皇フランシスコの「祈り」についてであることは意味深いと思います。日頃私たちは、心の最も奥まった場所に退き、生きている神と真摯に向き合い、祈り、対話できているでしょうか。祈るために意図的に時間を割いているでしょうか。

私には、深く反省させられるものがありました。


 

祈ること

 

 最後の質問として、教皇に自分の好きな祈り方について訊ねた。

 「毎朝聖務日課を唱える。詩編を用いて祈るのが好きだ。それから続いてミサを捧げる。ロザリオを唱える。本当により好きなのは夕べの礼拝だ。気が散ったり、他の事を考えたり、祈りながら居眠りをしてさえも。だから、夕方の7時と8時の間は一時間御聖体の前で礼拝しながら過ごす。また、歯医者で待っているときとか、一日の他の瞬間にも念祷をする。」

 「そして、私にとって祈りは、自分の歴史の記憶や、主が教会に対してなさったことについて、また或る具体的な小教区で起きたことなど、いつも思い出の詰まった《追憶的》な祈りだ。それは私にとって、聖イグナチオが霊操の第一週の中で十字架に架けられたキリストとの憐れみ深い出会いの中で語っている追憶の事である。そして《私はキリストのために何をしたか?キリストのために何をしているか?キリストのために何をしなければならないか?》を自分に対して問いかける。それはまた、イグナチオがContemplatio ad amorem(愛への黙想)の中で語っている、受けた恵みを記憶の中に呼び覚ますことを求めての追憶である。しかし、それは特に、主が私のことを覚えていてくださっていることを知っているということでもある。私は彼の事を忘れることが出来たとしても、彼は決して、決して、私の事を忘れることはないと私は知っている。記憶はイエズス会員の心を決定的に基礎づけるものである。恵みの記憶、申命記に語られた記憶、神とその民の間の契約の根底にある神のみ業の記憶。この記憶こそ私を子とし、また父でもあらしめるものなのだ。」

 

* * *

 

 この対話をもっと長く続けることも考えてはみたが、教皇があるとき言ったように、《限度をわきまえること》は考えるまでもないことだと心得た。8月19日、23日、29日の3回の約束を通して、6時間以上にわたって実に密度高く対話した。 私はここで継続の可能性を失うことのないために終了の印を残すことなしに一区切りつけることを好んだ。わたしたちの対話は実際には単なるインタビュー以上のものだった。質問はあらかじめ決められた窮屈な基準に縛られることなく、心の深みからなされた。言葉の面でも流暢にイタリア語とスペイン語の間を、その都度の切り替わりに気付かないほどに滑らかに行き来した。機械的なことは一切なかった。答えは対話の中から、私としては出来る限り要約的に行おうという思考の内面から生まれたものだった。(イエズス会員アントニオ・スパダロ)

 

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 わたしは、ぶっきらぼうなほど原文に忠実な簡潔な訳で統一しました。訳者が分かった風をして言葉を増やし説明的に敷衍すれば、読んだ人には滑らかに届いたかもしれません。また、接続詞や関係代名詞を多用して長く複雑にもつれた文章を、幾つかに切って分けて訳せば、確かに読みやすくはなったでしょう。しかし、それも極力避けました。

 例えば、教皇の最後の行、「この記憶こそ私を子とし、また父でもあらしめるものなのだ」なども、原文のイタリア語は何も説明を加えていません。教皇も恐らくその通りに話したのでしょう。その結果「私を子とし、また父でもあらしめる」とは一体どういう意味かと言う疑問が訳しながら残りました。しかし、原文にある単語はこれだけなのです。そして、これしかないという解釈のヒントは、前にも後にも存在しなかったので、そのままにしました。この一連のインタビュー記事が、現教皇を理解するうえで、少しでもお役に立てたならば、やった甲斐があったというものです。(訳責:谷口幸紀)


 

 

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