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:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 肉体の復活は本当にあるか(その-2)

2014-07-25 17:08:00 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

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肉体の復活は本当にあるか(その-2)

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私に哲学する楽しさを教えて下さったのは、私の恩師であり、若き日の霊的指導者のヘルマン・ホイヴェルス神父だった。


 

 1964年に一緒にインドを旅した時のホイヴェルス神父(ペン画は筆者)

 

 世間には大学で哲学を講じ、哲学者を自任する人がいる。 

しかし、その多くは、実は過去の哲学者の教説を解釈する哲学史の専門家であって、

自ら哲学することを楽しむ人とは別の人種である場合がほとんどだ。

アリストテレスが、カントが、ベルグソンが、西田幾多郎が・・・哲学史の中にどう位置づけれられ、何を説いたかを、

誰よりもよく研究し、解説できる人を、世は哲学者と呼び、その人はそれで生活が成り立つ。

しかし、哲学を講じる事を生業とする人が、自ら「哲学をする人」であるとは限らない。

世界とは何か、人間とは何か、私は何故存在し、何のための存在するのか、etc.を命がけで探求する人。

その意味では、ホイヴェルス神父は哲学する楽しみを知るまことの哲学者だった。

その彼が、信仰無しに哲学するのは危ないから止した方がいい、と言った

また、信仰無しに真面目に哲学をすれば、いずれ発狂するか、自殺するのが落ちである、と警告された。



その典型的な例が、

1903年(明治36年)日光の華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」を書き残して自殺した藤村操だ。

厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。

藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名にのぼった(内既遂が40名)。

華厳滝がいまだに自殺の名所として知られるのは、操の死ゆえである。  

その藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通りだ。 

             悠々たる哉天壤、
             遼々たる哉古今、
             五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
             ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
             萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」
             我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
             既に巌頭に立つに及んで、
             胸中何等の不安あるなし。
             始めて知る、
             大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。

これは、日本に於いてホイヴェルス神父の警告が的中した典型的な例ではなかったろうか。

そう言えば、キコもその自伝的処女作「ケリグマ」の中で、サルトルの演劇の影響を受けて、神の存在無しには「人生は不条理」と悟った。青年時代の彼は、その「不条理」が必然的に行き着く先は自殺だと思い知ったと書いている。「人生は不可解」と悟って自殺を選んだ藤村と同じだ。

しかし、ホイヴェルス師は、神を信じる者にとって哲学は実に楽しい知的営みだともいった。彼はその楽しみを私に教えようとした。

神を信じないものが「神学をする」というのは結構笑える形容矛盾だが、哲学者が往々にしてただの哲学史の教師に過ぎなかったように、世に神学者を自称する者たちも、往々にして、過去の偉大な神学者の解説者、釈義学者である場合がほとんどで、直接神と対話し、観想し、神を味わう楽しみを知っているまことの神学者はむしろ稀なのではないだろうか。

何故こんな回りくどい前置きを書くのか。それは、「肉体の復活は本当にあるか?」という設問との関連で、キリストの復活ラザロの復活(蘇生)と本質的に異なり、甦ってこの世の生に戻ってくるのではなく、肉体ごと彼岸の世界へ、永遠の世界への旅立ちとしての復活だということを明らかのしたいからだ。

その際、一番厄介なのは、聖書の記述だ。聖書では、イエスが葬られて三日目の朝から、オリーブの丘から昇天するまで、体をもって弟子たちの前に度々現れたと書いている。キリストは、真っ直ぐ彼岸の永遠の世界へは行けばよかったのに、そうはしないで、しばらくの間、蘇生したラザロよろしく、この世をうろうろして、チョロチョロと弟子たちの前に見え隠れしたかのような印象を与える。いや、ただの印象ではなく、教会の伝統的な教えはまさにそのようなものとして説くのが今もって正当派のようでさえある。

はたして本当にそうか。私はラザロの墓の中にいたとき、確かに「ジョン、出てきなさい!」と言う声を聴いた。その時私は二つの声を聴いたように思う。一つは言うまでもなく巡礼のリーダー、カテキスタの一人の声だった。それを私は肉の耳で聞いた。そしてもう一つの声は、ナザレのイエスの声で、それを霊の耳で聞いたように思う。

同じことを、実はすでにペトロの首位権の教会で体験していた。「ジョン、私を愛しているか?」と言う声は、肉の耳にはウイーンのシェーンボルン枢機卿の声であったが、霊の耳に響いたのは、2000年の時間を超えて、紛れもなく主イエスの声だったではないか。




この、一つの出来事における2つの現実について、聖書は重要な示唆に富むエピソードを記している。 

中風の人をいやす(マルコ2章1-12節)

イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

イエスは人間の思いを見抜いて、この中風の人を即時に奇跡的に癒して、ご自分の力を示された。人間の目には、「あなたの罪は許される」と口先で言うのは簡単だが、中風を癒すのは容易ではない(いや、不可能だ)と映るだろう。だから、「あなたの罪は許される」と言うのは神を冒涜する言葉だと言って文句を言う者たちに、もっと難しい癒しの奇蹟を行って見せて、ギャフンと言わせてやったのだ。

しかも、本当は肉体の病、中風を癒すことより、魂の病、罪を赦すことの方が、比較にならないほど難しい高度な業であることに私たちは気付くはずではないだろうか。

長くなるが、もう一つだけ聖書の例を引こう。

五千人に食べ物を与える(ルカ9章12-17節)

日が傾きかけたので、十二弟子がイエスのもとにきて言った、「群衆を解散して、まわりの村々やへ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」。
しかしイエスは言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。彼らは言った、「わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」。
というのは、男が五千人ばかりもいたからである。しかしイエスは弟子たちに言われた、「人々をおおよそ五十人ずつの組にして、すわらせなさい」。
彼らはそのとおりにして、みんなをすわらせた。
イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。
みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。

教会の神父さんが聖書のこの箇所についてお説教する時、このパンを増やす奇跡のメカニズムをどう説明するか興味深い。普通は、何も解釈しないですり抜けるのが無難なのだが、こだわると墓穴を掘る羽目になる。五つのパンで五千人を満腹させて、なお12のかごに余るためには、どうしてもパンが増えなければならない。5つのパンを裂いて12使徒が群衆に向かう。その間に手の中でパンがポコンと増える。弟子たちが手の中のパンを裂いて分けると、裂く度に手の中でポコン、ポコンとパンが増える。分けて与える弟子たちもさぞ面白かったことだろう。人は奇蹟譚だというけれど、それではまるで手品の世界ではないか。そんなの有り得ない。いや、有り得ないはずのことが起こったから奇蹟なのか?

もう一つの説明は、イエスは男だけで5千人の群衆を、50人ぐらいずつ組にして坐らせたことと関係がある。大集団の中では個は埋没するが、50人ほどの少人数になると、お互いの顔が見えてくる。イエスが利己心を棄てて、顔のある身近な人の必要に心を配るよう隣人愛を説いて、それによって群衆の一人一人の心が柔らかくなり、自分のためだけに食料を隠し持っていたものが、持たない人たちに平等に分けることで、みんな満腹し、有り余った、というのはどうだろう。

なんだ、パンは増えたのではなくて、もとからあったんじゃない。そんなの、奇跡でもなんでもない。ちぎっちゃあ増え、ちぎっちゃあ増えして、物理的には絶対に有り得ないことが起こったからこそ、奇跡じゃないの。

どっこい、そうでもないぞ。死を恐れる人間の自己防衛本能、自己愛、エゴイズムがどれほど根深く強烈なものかを考えると、せっかく自分のために持ってきたものを、そんなに簡単に気前よく他人と分かち合えるだろうか。それも、一人や二人ならともかく、5千人がそろいもそろってみんな回心するなんて、そんなことこそ絶対に有り得ない。もしそれが可能なら、この世の中に飢死にする人何か一人もいないはずではないか。人類は歴史を通じて、過去に絶え間なく無数の餓死者を出してきたし、現在も十分に栄養の取れない飢餓人口は9億6300万人おり、その数は毎年増加傾向にある。毎年約1500万人、4秒に1人の割合で飢餓が原因で死亡している。食べものを富めるものが浪費してしまうという富の格差が、飢餓の根本的な原因なのだ。世界の食料生産総量は、世界中の人々を養うに十分な量があるというのに。

50人の小グループの中で、互いの顔が見えてきて、その必要が理解できて、他人が他人でなくなって、互いに愛し合うようになって、その愛がエゴイズムに打ち勝って、隠し持っていたものを分かち合えるようになるなんて、それも、100組もそれ以上ものグループが同時に一斉にそうなるなんて、イエスがその説教と弟子たちの模範を通してそれを成し遂げたなんて、何と言う奇蹟だろう。不可能を可能にした世紀の大奇蹟ではなかっただろうか。それを集団催眠と言うか。だが、人間の独占本能、排他的所有欲の根深さを思えば、そんな催眠が起きること、それこそが高度な奇蹟なのではないか。

キコと言う人は、神を信じない人とかわらない様な価値観で生きている名前だけのキリスト信者を捕まえて、それを35人~50人の小グループに分けて、20年も30年もかけて薫陶し、何とか上の大奇跡に似た状況を体現出来るほどの小集団に育て上げようとしている。その数は、5千人などではなく、今や世界中でその数100万人ほどに増えているのではないかと私は試算する。

パンを手品のように手の中で増やすのを奇跡と言うならば、5千人の心が柔らかくなって、持たない人に持っているものが寛大に惜しみなくパンを、富を、分かち合うようにさせる方が、どれほど大きな奇蹟だろう。

 

だけど、それがどうした?それが「人間の肉体の復活」、それも「彼岸への復活」とどんな関係があるのか?それが、大ありなんですね。そのことは次回のブログで説明するとしましょう。乞う、ご期待! 

(つづく)

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★ 肉体の復活は本当にあるか イスラエル巡礼=ラザロの墓で体験したこと

2014-07-19 20:21:34 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

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肉体の復活は本当にあるか

イスラエル巡礼=ラザロの墓で体験したこと

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私が40日以上もブログの更新を怠ったことは珍しい。

その間に10日余りイスラエルに行っていたが、帰ってからも心配なことがあったり国内の移動などで、なかなか他の事が手に着かなかったのです。

* * * * *


私が初めて聖地を訪れたのは、1972年5月30日に岡本公三ら3人の日本赤軍兵士らが、テル・アビブのロッド空港で26人を殺害し73人に重軽傷を負わせた 乱射事件 のすぐ後で、対日感情が極端に悪い頃だった。当時、私はドイツのデュッセルドルフに住むコメルツバンクの社員だったが、テルアビブ空港に着くと、若い日本人の単独旅行と言うだけで、直ちに隔離され、尋問される羽目になった。アルメニア教会の安い巡礼宿を当てにしていて、日本人が泊まりそうなそこそこのホテルのどこにも予約を入れていなかったことも疑惑を持たれる要因になったのだろう。忘れ難い第一印象となった。まだ30代初めのことだった。

以来、私は聖地イスラエルを度々訪れている。55才で神父になってからも、いろいろな機会に恵まれたが、自分自身のために一人で真剣に歩いたこともがあった。(その間の消息は私の本 「バンカー、そして神父」http://t.co/pALhrPLにも詳しく書いた。)

だが、そんな私にとっても、今回の巡礼は特別だった。それは、新求道共同体の一連の段階の歩みを締めくくる卒業旅行に相当するものだったからだ。11日間の旅の前半はガリレア湖のほとりの 「ドームス・ガリレア」 を拠点に、後半はエルサレムの4つ星のホテルに泊まり、ナザレのイエス誕生から洗礼、受難、復活、昇天 までの足跡を忠実に辿ることになる。

ある日は、エルサレムのすぐ近くのベタニアと言う町に行った。そこはエルサレムの街に隣接していながら、パレスチナ人の支配する区域の中にあるため、遠くを迂回して兵士達に固められた検問所から観光バスで入らなければならなかった。そこには、高さ4メートル余りのコンクリートの塀があって、パレスチナ人が自由にユダヤ人地区と行き来させないように分断している。冷戦時代、共産主義陣営に属する東ドイツの中にポツンと島のようにあった西ベルリンを、東ベルリンから分かった悪名高き 《ベルリンの壁》 のように。


   


ベタニアにはイエスの友人 ラザロ とその姉妹たち マルタ マリア の家があった。マリアはイエスがこの地上でもっとも深く愛した女、イエスをどの男性の弟子たちよりも深く理解した女性ではなかったかと思う。最後の晩餐の席では、イエスの足に高価なナルドの香油を注ぎ、自分の黒髪でそれをぬぐって弟子たちのこころを波立たせた。また、復活したイエスに最初に出会ったのも他ならぬこのマリアだった。

ある日、マリアの兄のラザロが病気だという知らせがイエスに届いた。しかし、何故かエスはすぐには動かなかった。

ラザロが死ぬのを待ってイエスはベタニアに入った。マルタはイエスが兄の死に目に間に合わなかったことをなじった。

その前後のことは、不思議なことに ヨハネの福音書11章以下 だけが語っていて、他の3つの福音書は沈黙している。興味のある方は、このブログの末尾に全文引用したから味わって読んでいただきたい。

さて、イエスがベタニアにラザロの家を訪れたとき、ラザロは死んですでに4日経っていた。あの地方の気候では、墓に葬られた骸は、4日目にはすでに腐敗が進み、墓の中の空洞は死臭に満ちているはずだった。

「もう臭いますから」と言う姉のマルタの制止を振り切って、イエスは命じて墓の入り口を塞いでいる石を取り除かせた。そして、中の部屋に入り、地下の墓室の闇に横たえられたラザロの腐乱死体に向って、

「ラザロ、出て来なさい」 と大声で叫んだ。

すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出てきた、とヨハネの福音書は記している。

わたし達一行は、そのラザロの墓と言い伝えられている穴に実際に入った。その墓は現在アラブ人の所有に属するが、キリスト教徒の巡礼者は金を払えば中に入ることが許されるのだ。


   

現在の墓の入り口はイエスの時代のものではない。この入口の前の道は左方向に急な坂になっていて、隣りは旧式なスピーカーを四方に向けた塔とモスクに連なる。このモスクの建設に伴ってラザロの墓の本来の入り口は塞がれてしまったが、イエスの時代にはその入り口は写真では左下の位置にあったと考えられる。


   

現在の墓の入り口にモザイクで描かれた稚拙な図がある。3次元の立体構造を平面に映そうとした実に解りにくいものだが、添えられた説明と照らし合わせると現在の入り口 ① は今の地面の高さで、そこから下に延びる茶色に蛇行する部分は4メートルほど地下へ新しく掘られた人一人が体をすぼめてやっと下りていけるような階段のトンネルだ。そのトンネルは折れ曲がって下の6畳ほどの狭い石室  ② へと通じる。そして石室②のほぼ真ん中に、さらに狭いトンネルの階段が今降りてきたのとは反対方向に下りる穴を通ってもう一段深いところにある墓室 ③ へと通じてそこで行き止まりになる。

説明によれば、イエスの時代には、現在の入り口の左、急な坂の下に建てられたモスクのあたりにあった本来の入り口から水平に、今は塞がれている ④ の通路を経て ② の前室に入り、その部屋の床の真ん中から右下にある地下の墓室 ③ へ降りていくようになっていたと考えられる。

ラザロの骸は、この地下の3畳ほどの狭い墓室に布に巻かれ横たえられ、4日目にはマルタが言うように腐臭が部屋に満ちていたのだろう。

イエスは親友の死の悲しみに心打ち震え、涙を流し、マルタの制止を振り切って、命じて墓の入り口の石を取り除かせ、中の前室 ② に入り、そこから地下の墓室に置かれた腐乱死体にむかって、

「ラザロ、出て来なさい」

と大声で叫んだのだった。すると、ラザロは甦り、布に巻かれたまま、墓から出てきたという。

私たちは、キリストのように ④ の本来の入り口からではなく(それはモスクが建てられた時塞がれた)、


1890年代にはすでに存在していた新しい入り口から入り、長いトンネルを下に降って、② の部屋にたどり着いた。

中は非常に狭いので2-3人ずつ入った。


写真は ② の部屋からさらに下の ③ の墓室に通じる石段の通路を行く仲間。後ろ向きでないと降りられないほど狭い。

私も後から墓室に降りた。3畳ほどの穴倉だった。そこに横たわっていたラザロを思ってしばらく黙想していると、

「ジョン、出てきなさい!」

と言う重々しい声が、穴を通して上の石室から響いてきた。ちょっとショックだった。仲間内では 「ジョン」 と呼ばれている私は、思いがけずイエスに出てきなさい」命じられたラザロの屍が受けたのとおなじ衝撃に打たれたのだった。

ラザロの墓に居たわたしは、その時、自分のプライド、情念、金銭への執着、怠惰や虚飾などの罪で腐乱し、死臭を放っていたに違いない。声の主は現実にはこの巡礼団のリーダーであったのだが、その声を聴いた私は、2000年前この同じ場所で、イエスから 「出てきなさい!」 と命じられたラザロの死体と同じ心境だった。私はそれらの罪にまみれて、霊的には死んだも同然の状態にあった。キリストは、私が自分の死の原因であるこれらの罪を、その腐臭と共に、この穴倉の中に残し、回心した新しい人間となって、外の新鮮な空気と眩しい光の中に甦らなければならないのだと悟った。ああ、そんな奇蹟が簡単に起きたらどんなに幸いな事だろう。

イエスが死んだラザロの体を甦らせ、再びこの世の生に呼び戻したことは、それ自体、偉大な奇蹟ではある。しかし、この世の生を生きる者はいずれ死なねばならない宿命のもとにある。聖書は沈黙しているが、キリストによって甦らされたラザロといえども、またいずれ老いて病を得てこの世の生に別れを告げて死の眠りについたはずだ。

しかし、イエスの復活はラザロのとは全く違う。キリスト教の真髄はイエスの死に対する勝利と、復活と、永遠の生命への信仰だ。人祖アダムとエヴァは 原罪 を犯して人類の上に宿命的な を招き寄せた。イエス・キリストは、十字架の上の苦しみに満ちた死を通して死に勝利し、自ら永遠の生命に復活した。それはこの世の次元を超えた彼岸の生命への復活だ。そして、全ての人類に、つまり、アダムとエヴァに始まって、その後に地上に生きて死んでいったすべての人間と、今この世に生きていてやがて死に呑み込まれる全ての人間と、そして、これから生まれ、生き、命を次の世代に渡して死んでいくであろう全ての人間に、同じ復活の可能性を開いた。

この事を心から納得し、自分も永遠の生命に復活すると確信し、人にそれを良い知らせとして告げる事が出来なければ、また、その信仰を命に賭けて守れなければ、洗礼を形通り受けていたとしても、まだ本当のキリスト者とは言えない。

その夜、エルサレムの街中で、ユダヤ人の青年たちと、アラブ人の青年たちとの間で投石合戦があった。ただの憂さ晴らしではない。一発頭に受ければ死ぬかもしれないほどの激しい応酬だ。夕食後、街に散歩に出た巡礼の仲間たちは、その騒ぎに巻き込まれそうになって、遠く迂回して深夜遅くホテルに帰ってきた。同じ唯一の神を信じるユダヤ人とアラブ人のこの根深い対立と憎悪は、世の終わりまで続くのだろうか。ユダヤ教徒とキリスト教徒が対話と和解に向けて歩み出しているというのに。

私は、帰国後有楽町で 「ノア」 と言う映画を見た。旧約聖書になじみのない日本人には分かりにくいだろうと思った。一触即発のガザ地区の応酬の根は 「ノア」 の世界にまで遡る。

(つづく)

ラザロの死(ヨハネ11章1-57節)

ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
イエスは復活と命
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
イエス、涙を流す
マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
イエスは涙を流された。
ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエス、ラザロを生き返らせる
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
イエスを殺す計画
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

 

ベタニアで香油を注がれる(ヨハネ12章1-10節)

過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」


ラザロに対する陰謀

イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。
祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。
多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

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