:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 教皇フランシスコ 今年も 日本のために新司祭叙階

2018-04-26 00:24:11 | ★ 神学校の日記

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教皇フランシスコ 今年も 日本ために新司祭叙階

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5月22日 今年も教皇フランシスコは聖ペトロ大聖堂で司祭の叙階式を執り行った。ローマの大神学校から4人、レデンプトーリス・マーテル神学院から6人ーそのうち2人が日本のためー、6人がその他の教区や修道会のための、計16人だった。過去10年間、歴代の教皇が意識的に特定の国のための宣教師を意図して自らの手で司祭に叙階するのは日本に対してだけだ。一体日本のどこが特別なのだろうか?それは、10年前に高松で閉鎖された神学校を、前教皇ベネディクト16世が救って、ローマに移植されたからだ。そして、フランシスコ教皇はそれを日本に返すことを決定された。

初夏を思わせる暑い日曜日、聖ペトロ大聖堂前の広場は人であふれていた。

裏口から早めに聖堂の中に入ると、まだ一般の参列者は外で待たされていて、がらんとして冷気が漂っていた。

私を含む一群の共同司式司祭たちには、長い廊下が着替え室として用意されていた。

以下、写真アルバム風に時の流れを追ってみよう。

私も皆と同じ祭服を着せられる

盛装のスイス衛兵が持ち場に散っていく

中央の大ドームの真下に、教皇フランシスコが司式する祭壇がある。

教皇は中央の天蓋の真下に着座する。

ウイーン少年合唱団は日本でも有名だが、バチカンにも同じような少年合唱団がある。声変わり前の少年のソプラノはさながら天使の声のよう。

報道カメラマンの一団。よーく見ると、中央の女性カメラマンが明らかに私を狙っている。カメラ同士のガチンコだ。 

長い行列の全容は私の定位置からほとんど見えなかった。最後に入ってきた教皇フランシスコ。

叙階式の入祭の祈り。

叙階を受ける日本ためのレデンプトーリス・マーテル神学院のファビオ神学生。

教皇から手に聖香油を塗られた日本のためのユライ神学生

按手を受けるファビオ神学生

祈りを捧げる教皇フランシスコ

諸聖人の名を連祷する長い祈りの間、床にひれ伏す16人の神学生たち

世俗の生活に死に、聖職者の生活に生まれるための荘厳な儀式

ユライの祖国クロアチアからだろうか。きれいな民族衣装の男女。

叙階式もクライマックス。ミサの中心、パンと葡萄酒が聖別されるとき、スイス衛兵たちは膝を折って敬礼した。私は長くローマに居たが、彼らのこの姿を近くで見たのは初めてだった。

16人の新司祭が生まれて無事叙階式は終わった。日本のためにまた新たに二人が教皇の手で叙階された。

彼らは、衰退の一途をたどる日本のカトリック教会の明日の再生を教皇から託された精鋭となるだろう。

日曜日とあって聖ペトロ大聖堂の広場は人であふれた。12時にアンジェルスの祈りがあって、教皇は宮殿の窓から信者に挨拶と祝福を贈ることになっている。私は祝賀昼食会の会場に急ぎ、12時前にバチカンを去った。

バチカン宮殿の最上階。右から二番目の窓が教皇の挨拶のために開かれている。しかし、長い慣例を破って、フランシスコ教皇はこの宮殿には住んでいない。彼は一般の職員と同じアパートホテルの二部屋に慎ましく清貧に生活している。宮殿には儀式の時だけ出かけるのだ。

これはちょっと巷で拝借してきた写真

車で30分。郊外のレストランに着いた。ここでユライとファビオの叙階記念パーティーが開かれる。

2人の関係者が一緒に入れる広間がない。私はユライの席に参加した。まずはワインで乾杯!

日本から駆け付けた共同体の兄弟姉妹も、一か所に固まって席に着いた。

クロアチアからやってきたユライのお姉さん。彼は6人兄弟の真ん中で、姉と妹に挟まれて、その結果神父への道を選んだと本人は言うが、意味やや不明。

ファビオの親友か?兄弟にしては似ていないから。コロンビアから遠路はるばる家族・友人大勢が叙階式に参列した。

祝宴も終わりに近づいた。ユライのお姉さんがテーブルの端で歌っている。ギターの伴奏でクロアチアの民族音楽の合唱が延々と続く。日本の民謡・唱歌ではこれほどの時間途切れなく歌うことはできないだろう。

今回は、難しい話は抜きで、ひたすら雰囲気を追いました。

ファビオ君、ユライ君、おめでとう!

(終わり)

 

 

 

 

 

 

 

 

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★ 【映画】 ペンタゴン・ペーパーズ —最高機密文書―

2018-04-19 00:27:22 | ★ 映画評

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【映画】ペンタゴン・ペーパーズ

—最高機密文書―

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(鑑賞後に手にしたプログラムから自由に要約引用しながら感想を展開しよう)

【監督】

スティーヴン・スピルバーグ

【主演】

メリル・ストリープ

トム・ハンクス

 

アメリカ合衆国憲法修正第1条は、

「連邦議会は、国教の樹立、あるいは宗教上の自由な活動を禁じる法律、言論、または報道の自由を制限する法律、並びに人々が平穏に集会する権利、および苦痛の救済のために政府に請願する権利を制限する法律を制定してはならない。」と規定している。

ニクソン政権は、ベトナム戦争に関する最高機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」の掲載差し止め求めて、ニューヨーク・タイムズを訴えたが、判決は以下の通りだった。

 ニューヨーク・タイムズ対アメリカ合衆国の裁判403 U.S. 713

ヒューゴ・ブラック判事による判決の抜粋

合衆国建国の父は、憲法修正第1条をもって民主主義に必要不可欠である報道の自由を守った。報道機関は国民につかえるものである、政権や政治家に仕えるものではない。報道機関に対する政府の検閲は撤廃されており、それゆえ報道機関が政府を批判する権利は永久に存続するものである。報道の自由が守られているため、政府の機密事項を保有し国民に公開することは可能である。制限を受けない自由な報道のみが、政府の偽りを効果的に暴くことができる。そして、報道の自由の義務を負う者は、政府の国民に対する欺きによって多くの若者もが遠い外国へと派遣され、病気や戦闘で命を落とすと言う悲劇を避けるためには責務を全うすべきである。私の考えでは、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、そしてその他の新聞社が行った勇気ある報道は決して有罪判決に値するものではなく、むしろ建国の父が明確に掲げた目的に報いる行為として称賛されるべきである。この国をベトナム戦争参戦へと導いた政府の行為を明るみにすることで、前述の新聞社は建国者たちがこの国に望んだことを立派に実行したのである。

 

ニューヨーク・タイムズによって暴露され、その存在が世界中の知るところとなった政府の最高の機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」。

その機密文書の報道は、政府が負け戦だと理解していたベトナム戦争に身を投じた大勢の兵士を含む、アメリカ国民の未来がかかっていた。危機的状況の中、ワシントン・ポストの発行人キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)は、これまで家族で築いてきた財産と、ジャーナリストとしての精神とを秤にかけることになる。一方、ワシントン・ポストの編集主幹、ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は、国家に対する反逆罪に問われる危険性を理解した上で、真実の追及を社のメンバーに課していた。そうして2人は勝ち目がないと思われた政府との戦いの中で、民主主義国家として報道の自由を掲げる憲法を守るために団結していく。

 

1966年、ベトナム視察からアメリカへ戻る国防長官ロバート・マクナマラは、メディアから勝利への展望を聞かれると、状況は「飛躍的に進展している」と答える。

それを見て、自らマクナマラに泥沼化するベトナム戦争の現実を報告した男(ダニエル・エルズバーグ)は自らアナリストを務めるランド研究所から機密文書をコピーしてニューヨーク・タイムズ社にリークする。その中には歴代4人の大統領がベトナム軍事行動について何度も国民に虚偽の報告をし、暗殺、ジュネーブ協定違反、連邦議会に対する嘘と言った闇の歴史の証拠が記されていた。ベトナム介入から撤退まで、58,220人のアメリカ青年が戦死し、100万人以上の人命が犠牲となる直接の原因を作った。ペンタゴン・ペーパーズによってその原因となった政府の嘘が暴かれたのだ。

ニクソン政権は国家の安全保障を脅かすとして、ニューヨーク・タイムズに対して記事の掲載の差し止め命令を連邦裁判所に要求した。同紙が差し止め命令を受けた中、今度はワシントン・ポストがペンタゴン・ペーパーズを掲載した。今度は、連符裁判所はニクソン政権の恒久差し止めの訴えを却下した。判決は最初に紹介した通りだが、ワシントン・ポストの女性社主キャサリン・グラハムが起訴され、受ける恐れのあった有罪判決は合計115年の刑期だった。しかし、政府による深刻な不正行為があったとして、エルズバーグの裁判は審理無効となった。エルズバーグが密かに手にしたのは7000ページに及ぶ合衆国の最高機密だった。

ニクソン相手の裁判でキャサリンが有罪になる可能性は現実にあった。夫が自殺するまでただの主婦だったキャサリンが、ワシントン・ポスト社に経営者になって直面したこの重大な局面で、編集主幹のベン・ブラッドリーとの緊密な連携を通して、たくましく成長していく。ワシントン・ポスト社内の慎重論を抑えて掲載に踏み切った彼女の信念は「報道の自由を守るのは報道しかない。」であった。

幸いにも裁判は6対3票で報道の良心の側に組した。キャサリンは投獄と、破産と、ワシントン・ポストの消滅との危機を回避しただけではなく、それを2流の地方紙の座から、全米有力紙の地位に押し上ることになった。 

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有名なスチーブン・スピルバーグ監督が通常では考えられないスピードでこの作品の制作を進めた背景には、トランプ政権下の合衆国で、ニクソン時代を思わせる「嘘」がまかり通っている現実に対する危機感があったと思われる。私が一刻も早くこのブログを完成したいと思ったのは、森友・加計問題、15,000ページのイラク日報問題、アメリカのシリア攻撃など、内外の情勢が急迫していることによる。

日本の政治がこれほどまでに嘘にまみれている事実を、もはや国民は座視できない。日本の新聞は、テレビは何と鈍感で生ぬるいことか。一強独裁者を恐れ、報復に怯え、率先して忖度(そんたく)を重ねているとしか思えない。まごまごしているうちに、政権は都合の悪い放送法を改悪しようとさえしているではないか。アメリカは、こと言論の自由に関しては、日本よりはるかに進んでいる。 

今朝の福田淳一財務相事務次官のセクハラ辞任の件も、自社の女性記者の問題を自社の責任で報道できなかったあたりに、日本の報道機関の信念の無さが露呈している。ワシントンポストの女性社主の裁判に負ければ投獄されるリスクを取ってでも政府と戦うという、社運をかけた賭けに出る報道人魂がテレビ朝日にはなかった。

最初に紹介したアメリカの合衆国憲法修正第1条と対比できる日本の平和憲法の最も価値ある条項は国際紛争の解決手段としての「戦争放棄」の一文だと言っても過言ではない。これは、第3次世界大戦の未曽有の悲惨のあと、世界の国々が進んで採用することになる未来の憲法の常識を予言的に先取りしたものだ。アメリカの押し付けでも何でもない。日本人が広島・長崎の教訓として納得して選び取ったものではなかったのか。トランプのような狂人と、日本の政府のような嘘にまみれた指導者のもとでは、中近東であれ、朝鮮半島であれ、明日にも世界規模の戦争の危険が差し迫っていることに対する危機感を研ぎ澄まさなければならない。そして、日本の主権者である市民が底辺から声を上げなければならない。それも、急いで!

 

私は、1970年ごろ、ベトナムの前線で壊れた戦車が相模原の工廠で修理され、再び戦場に送られるのを阻止するため、横須賀に向かう戦車の前に上半身裸になって熱いアスファルトの上に寝転がったことがあった。パリに亡命していたベトナム人のグエン・ディン・ティ神父と仏教の尼僧をパリから招いて、裁判もなく不当に長期拘留されていた大勢の政治囚の釈放を訴えての全国講演旅行に、ボディーガードと通訳を兼ねて同伴したことがあった。反戦の活動に身を投じたベトナム人留学生たちの支援をして、彼らと熱い友情を結んだりもした。今はすべて懐かしい青春の思い出となっている。

その後、私が現役だったリーマンブラザーズの当時の会長ピーター・ピーターソン博士は、ニクソン政権の商務長官、後のソニーの社外重役だ。リーマンのシニア―パートナー、重役のジェイムス・シュレッシンジャーはペンタゴン(国防総省)の国防長官だった。私は、彼らをピート、ジム、とそれぞれ呼び捨てにして、親しく言葉を交わす機会を持った。ホワイトハウスペンタゴンウオールストリートは、地上の世俗社会における最強、最悪の三位一体だと言っても過言ではない。

しかし、真の三位一体は、キリスト教の神にのみ当てはまる神聖な属性であることを忘れてはならない。

(終わり)

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★ 【映画】 修道士は沈黙する ー世界経済を操る「先進国首脳会議」G8ー

2018-04-14 07:12:21 | ★ 映画評

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【映画】修道士は沈黙する

ー世界経済を操る「先進国首脳会議」G8 ー

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先日、渋谷の文化村に表題の映画を見に行ってきた。

買い求めたパンフレットによれば、ロベルト・アンド―監督が新作の題材に選んだのは、《物質主義 vs 精神主義》を核に据えた知的な異色ミステリー、というテーマだった。

主人公は清貧に生きるイタリア人修道士ロベルト・サルス。舞台はバルト海沿岸のリゾート地、ドイツのハイリゲンダムの高級リゾートホテルで開かれたG8ー先進国首脳会議(サミット)。日本も含む8ヵ国の蔵相、中央銀行総裁など、世界の金融・経済の最高のエコノミストたちが集まった。

議題は世界の貧富の較差の拡大にさらに拍車をかける決議を下すこと。

参加者の一人、国際通貨基金(IMF)の専務理事のダニエル・ロシェに呼び出されたサルス修道士は、彼の罪の告白を聴いた。しかし、サルスが部屋に戻った翌朝、ロシェがビニール袋をかぶって死んでいるのが発見された。

自殺か他殺か?ロシェが最後に何を告白したかを知りたがるエコノミストたちに対して、サルスは神聖な告白の秘密を盾に沈黙を通すが、それが彼への嫌疑を深める結果となる。疑心暗鬼のG8メンバーの結束は、この事件がきっかけで緩み、世界経済を新たな危機に陥れる可能性のあった決議は見送られる。

サルスが最後の葬儀ミサで行う説教は、非人間的な合理主義や拝金主義に犯された現代社会への痛切なメッセージとして厳粛に響く。

映画のストーリーの中では、修道士サルスは最後まで自分の口からロシェの告白の内容を語ることはないのだが、アンド―監督は間接に、巧みに、ロシェの告白の内容が、世界の貧富の格差のさらなる拡大という巨大な犯罪行為の計画であり、決議に先立って修道士に告白することで神からその罪の赦しを得ようとするものであったらしいこと、そして、サルスは、たとえ言葉で罪を認めて告白しても、その犯罪行為を遂行する意思が変わらず、あくまで決行する確信犯であるならば、神は決して罪の赦しを与えない、と言って突き放したらしいこと。ロシェの死は神父による他殺ではなく、絶望したロシェが自らの命を絶つことで自分の矛盾に決着をつけたらしいことが示唆されていく。

女性プレーヤーも加わっての、ミステリーとサスペンスに満ちたスリリングな展開は見る人を退屈させないが、国際経済の裏側の仕組みに十分な予備知識を持たない鑑賞者には、かなり難解な内容ではなかったかと思う。 

私は50歳で神学校に入るまでは、フランクフルトで、ロンドンで、ニューヨークで、国際投資銀行業務のはしくれに携わっていた。ニューヨークで、また東京で、リーマンブラザーズの一員として働いていた頃には、この映画の舞台になった世界をしばしば垣間見ることがあった。G8に限らず、世界銀行の総会や、アジア開発銀行とか、アフリカ開発銀行とか、IMFなどの総会がある度に、私自身は末席に連なることすらなかったが、私の直属のボスあたりはソワソワしながら随行員として参加の日に備えていたものだった。

 世界銀行、アジア開発銀行、アフリカ開発銀行、などと聞けば、素人は先進国が発展途上国を支援する人道的な国際機関だと思うだろうか。しかし、その世界の裏側を垣間見た私に言わせれば、実態は、いかに途上国の発展を抑え、先進国がそれらの国々を極限まで搾取し、格差を拡大し、富める少数者がさらに富むことができるかを、あくなき迄に追求するエゲツナイ、オゾマシイ、システムであることが透けて見えてくる。G8やG7などは、経済的、政治的に世界支配を目論んだ非公式な疑似世界政府だと言う考えさえある。

話は飛躍するが、私がリーマン時代のことだったか、今は倒産して存在しない山一證券に、四国出身の総理大臣の若い御曹司がいた。元宰相の御子息とあって、山一の役員たちは腫れ物に触れるような気遣いでピリピリしていたが、私は仕事で彼と付き合うことがあった。そして、年賀状だったか、暑中見舞いだったか、一枚の葉書を彼から受け取った。そこには、「私の仕事哲学」と題して次のような言葉があったのを今でも鮮明に覚えている。曰く:

貧乏人は情け容赦なく、すぐ丸裸にする。

小金持ちは、しばらく太らせてから全部戴く。

大金持ちには、跪いてお仕え申し上げる!

何と正直な告白だろう。これ以上わかりやすい話はない、と感心したものだった。「お金の神様」を拝む「奴隷」たちの心情躍如たるものがあった。G8における国際的なトップの経済人たちの談合の目的は、世界中の大多数の貧しい人々を、いかにして貧しさの中に押し込めておくか。いかにして彼らの資源を安く収奪するか。そして、少数の金持ちがいかにしてより金持ちになるか、を英知を結集して談合する場に他ならない。餓死者が出すぎて問題が表面化するギリギリまで収奪し、資源の利権を争って絶えず戦争を続け、破壊を続ける資本主義の中に「神」はいない。「本当の神」を殺し、「お金の神様」を偶像として拝む「自由主義、民主主義」陣営の隠された本性がそこにある。

そのアンチテーゼとして導入された「無神論的共産主義」の壮大な実験は、ソ連の崩壊で幸いにも失敗に終わった。しかし、だからと言って「自由主義、民主主義」がそれよりましだと言えるわけでは決してない。「自由主義的資本主義」が無神論的である限りにおいてー所詮「拝金主義」である点においてー共産主義にも劣る非人間的で野蛮な社会体制であることは経験から明らかではないか。いずれの場合も「マンモン=お金の神様が君臨している世界である点で、甲乙つけがたい。

聖書には、初代教会のキリスト者の生活について次のような記述がある。

(キリストの教えを)信じた人々の群れは心も思いも一つにして、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、全てを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。(使徒言行録4章32節-37節)

国際金融マンだった頃の私は、上の話を読むたびに、嘘だろう、そんな話はあり得ない、と思ったものだった。しかし、いま一神父として信仰の原点を思いめぐらすうちに、それは決してあり得ないことではない、と思い始めている。

キリストが受難の後、十字架の上で非業の最後を遂げ、墓に葬られ、三日目に空の墓が発見され、弟子たちが「キリストは復活した」と騒ぎだして、それを信じる者が増え、はじめはユダヤ人の間で、しかし、やがてユダヤ人でないローマ帝国の住民たちの間でも信者が増え続け、皇帝の側からの厳しい迫害にも関わらず、貧しい人々の間でますます広がっていった最初の300年ほどの間の「初代教会」では、そのようなことが普通に行われ、21世紀の今日でも、それに近い生き方を理想とする信者が現れ始めたのを見るにつけ、それはただの絵空事のユートピアではなく、現実にあり得る話だと思えてきた。

これが「キリスト教的原始共産主義」の姿だ。「自由主義的・民主主義的資本主義」の世界が矛盾と巨悪に満ちた世界であったのに対して、そのアンチテーゼの「共産主義社会」の実験も同様に矛盾に満ちた悪しき社会になり終わった。

両者に共通だったのは、二つともが無神論的、つまり、「神無しの体制」であった点ではないか。両方ともが「マンモンお金の神様」を神と仰ぐ拝金主義の「疑似宗教」に魂を抜かれた社会であったために、平和で平等で幸せな社会を構築することに失敗した。

「自由で平等で平和で幸せな共産主義社会」が、「神を信じる共産主義」「神の国」という「シンテーゼ」として、弁証法的に、発展的に、形成されることの可能性を、私は信じるようになった。それが「新しい福音宣教」というものだ。

G8のプレーヤーのひとり、ドイツ経済相が飼う獰猛なロットワイラー犬は、クライマックスのサミット会場の円卓の周りを、まるで悪魔が乗り移ったかのように、襲うべきターゲットを求めて牙を剥き、唸り声をあげて速足で動き回り、全員が恐怖で凍り付いた時、ピタッとサルス修道士の前に止まった。誰もがサルスは襲われる!と思った瞬間、猛犬は猫のようにおとなしくなって彼にすり寄った。荒れ野でライオンを手なずけた聖ヒエロニムスを連想させる場面だった。ロシェの葬儀を終えて修道院に帰るサルスのあとをついて行く猛犬の姿には微笑ましいものがあった。

(おわり) 

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★ 10年ぶりに 日本で 復活の徹夜祭

2018-04-08 00:53:46 | ★ 復活祭の聖週間

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10年ぶりに 日本で 復活の徹夜祭

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この10年間、復活祭の頃はいつもローマにいて、日本で復活祭を祝うことがなかったが、今年は久しぶりに東京・横浜の共同体の合同復活徹夜祭に参加した。首都圏の某教会を使わせてもらって、3月31日(土)の夜11時半に祭儀は始まった。

最初は光の祭儀。聖堂の入り口で、小さなかがり火を焚いて、その火から復活したキリストを象徴する大ローソクに火をともす。暗くて見にくいが、かがり火の上に縦に光っているのがそのローソク。中央斜めの光の線は懐中電灯に照らされた典礼の本。

 

 子供たちは復活徹夜祭の主役の一翼を担う

復活のキリストのローソクから近くの人に火が渡されていくと、ぼんやり回りが見え始める。停電などめったにない日本で、蛍光灯やLEDの光しか知らない子供たちにとって、復活の徹夜祭の光の祭儀はとても神秘的な体験だ。

復活の大ローソクを先頭に暗くした聖堂の入る

子供たちも

おとなたちも

聖堂の灯かりが点されると祭壇もその前の洗礼盤にもいっぱい花が飾られている

これから長い聖書の朗読がある。旧約の創世紀に始まり、出エジプト記、・・・

7つある各朗読の前にその意味を解説する信徒の導入の言葉があって、朗読があって、それに答えて賛歌が歌われる。実に、1時間以上延々長蛇のみ言葉の祭儀だが、さらにそのみ言葉に基づく信徒の分かち合いが入るから、いやでも長い典礼となる。

復活の徹夜祭の中では、子供たちだけで歌を歌う場面がある。そして親たちに向かって様々な質問をする。今年、ある子はお母さんに向かって、「今夜私たちは何を待っているのですか?」とた訊ねたのが心に残った。母親は立って、イスラエルの民がモーゼに引き連れられて、紅海を渡り、約束の地の入ったように、イエス・キリストが十字架の苦しみと死を越えて、復活の命に入ったこと、そして、今夜その復活したキリストに出会うことを私たちは待っている、というような意味のことを子供にわかる言葉で説明する。会衆はその親子の対話を見守ると言う場面だ。

左の男の子がソロの部分を歌った。

パウロの書簡が読まれ、マルコの福音の復活の朝の情景をメロディーをつけて歌う役は私が受け持った。司式司祭の説教のあと、洗礼の式が行われた。

復活の大ローソクを漬けて洗礼の水を祝福する

子供たちは、赤ちゃんの洗礼の様子を見ようと、洗礼盤のまわりに集まってきた

 

裸の赤ちゃんが「父と、子と、聖霊のみ名によって・・・」と、水の中に頭のてっぺんまで3度沈められる

ビックリして泣く子もいる 

おや、珍しくアイフォンを手にした私が写っている

今年は男女3人の赤ちゃんの洗礼があった

洗礼式の後は、ミサが執り行われた。プロテスタントの教会では聖餐式と呼ばれるとか。

ユダヤ教の過ぎ越しの祭りにどこか見ている。9本のローソク。イーストで膨らませていない種なしパン。このおおきさのパン3つを100ほどに割くと、一人ちょうど一口の量になる。

ぶどう酒は16角形の縁の銀の大杯3つと金の杯ひとつ。なみなみと注がれたのを皆で回し飲む

聖体拝領が終わり、短い祈りのあと、司祭は会衆を祝福して、祭儀の無事終了を告げる。

司祭たちが退堂すると、ギター、バイオリン、リコーダー、タンバリン、カスタネット、ボンギなどに合わせて賛歌を奏でる、一同が歌う

5音階のオリエンタルなメロディー

会衆の一部がそれに合わせて自由に祭壇の周りを踊りだす。大人も子供も。他の者はそれを見守る。

踏むステップもリズムも、ユダヤ教の過ぎ越しの祭りと似た伝統の踊りだ。

この踊りが復活の徹夜祭の最後を飾る

全てが終わったのは午前4時38分。なんと5時間の長丁場だった。夜中に起きて100人の人間が徹夜する。普通の人間の生活にはあり得ない狂気の沙汰と言うべきか。しかし、これがお祭り、まさに非日常的な「お祭り騒ぎ」なのだ。

十字架上の最悪の拷問死のあと三日目にイエス・キリストは復活した。死すべき運命を共有する我々も、死後キリストの復活にあずかって神の生命の懐で永遠に生きる。全ての被造物、壮大な宇宙もその復活にあずかって永遠に存続する。

世の終わりの復活の思想はユダヤ教にも陰のごとくにあった。しかし、その十全な理解はユダヤ教徒のキリストを待って初めて開花した。肉体を持った人間の復活、物理的時空の永遠の持続に対する確固として明快な信仰は、キリスト教以外の宗教には見出せない。

あらゆる宗教行事を巧みに金儲けの機会にする商業主義は、キリスト教のクリスマスを取り込んだ。デパートのクリスマスセールや、銀座のクラブのクリスマスパーティー、etc. バレンタインデーもチョコレート販売促進に巧みに利用した。しかし、如何なる拝金主義も、まだキリストの復活祭を商機として有効利用することに成功していないと思われる。せいぜいがイタリアの子供向けの大きなチョコレートの玉子ぐらいなものだ。

キリスト教の復活信仰とお金の神様は、お互いに天敵か?とにかく、よほど相性がわるいらしい。キリストの復活、我々の復活、永遠の生命、の信仰はキリスト教の根幹をなしている。お金の神様と共存・両立は原理的に不可能なのだ。

どうでもいいけど、私もうだめ眠たい耐えられない!!(午前4時30分)

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