:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 集団的自衛権-① 現代版「風が吹けば桶屋がもうかる」

2014-08-22 00:05:01 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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集団的自衛権-①

現代版「風が吹けば桶屋がもうかる」

「集団的自衛権を容認すれば原発がメルトダウンする」

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日本には古来不思議な言葉がたくさんある。「風が吹けば・・・」もその一つ。

  1. で土ぼこりが立つ
  2. 土ぼこりが目に入って、盲人が増える
  3. 盲人は三味線を買う(当時の盲人が就ける職に由来)
  4. 三味線に使う猫が必要になり、ネコが殺される
  5. ネコが減ればネズミが増える
  6. ネズミは桶をかじる
  7. 桶の需要が増え桶屋が儲かる

現代版に焼直すと

集団的自衛権を容認すれば、死にたくない自衛隊員はやめる。

自衛隊員が減ると、徴兵制が導入される。

徴兵制が導入されると、軍備増強が容易になる。

強くなった自衛隊は、アメリカの連合軍として参戦する。

自衛隊が他国で戦争をすると、テロリストは日本を標的にする。

日本の原発は僻地の海辺にあるから全く無防備だ。

テロリストが全電源喪失を大都市圏に近い原発で演出すると、また爆発とメルトダウンが起きて放射能が撒き散らされる。

  そうなったら日本はもうおしまいだ!

 

私には、アメリカの重要人物の中にお友達がいる。彼は、「よく訓練されたテロリストが5人もいれば、首都圏や阪神の大都市圏に近い無防備な原発で、簡単に大惨事が引き起こすことができるだろう」と言った。彼に改めて真面目に指摘されて、私の背筋は凍った。

集団的自衛権の行使を認めた以上、原発の安全基準の見直しとしての、活断層や、耐震強度、二重、三重の電源確保、津波防止壁の嵩上げなどの議論は馬鹿げて見える。

完ぺきなテロ対策こそが安全性の最重要課題として浮上するからだ。自衛隊を各原子力発電所に駐屯させ、海からの潜入防止に万全を期し、ハリネズミのように防空ミサイルを配備しなければならなくなる日が必ず来る。火力発電所にそんなものは要らない。

原発は愚かな日本人が、どうか自分たちを滅ぼしてくださいとテロリストのために準備し提供した「原爆」だ。それも、全国に50基以上、広島・長崎の何百発分の潜在的「原爆」だ。しかもそれを島国日本のもっとも過疎な海沿いの場所に裸で置いている。まるで「テロリスト様どうぞお使いください」、と言わんばかりではないか。自分で勝手に作った「原爆」をテロリストの手に渡さないようにするためには、必死でそれを守らなければならない。まるで狂気の沙汰だ。原発の廃炉費用の上に、日々の原発防衛費を加算すれば、原発が生む電力は全く採算の合わない超高価なエネルギーと言わざるを得ない。小学生でもできる簡単な足し算引き算ができない政治家を選んだのは誰か。

「原爆」は大量破壊兵器だから製造も保有も認められないが、「原発」は平和利用だから促進し、輸出して大いに外貨を稼ごう、という日本の政府と企業家の頭は狂っている。

私は国際金融マンだったころ、コメルツバンクではドイツ人と、リーマンブラザーズではユダヤ人と仕事をした。

私が住んだ1970年代のドイツでは、すでに良心的兵役拒否の自由を大幅に認めた制度が確立されていた。このたび、ドイツ人は国民を挙げて「原発と原爆は同根の悪」と看破したから、脱原発に踏み切った。ドイツは先進国だが、日本は全くの未開国だ。

ユダヤ人がガザ地区でやっていることを見ると、半沢直樹の「倍返し」どころの騒ぎではない。身を守るためには平気で「百倍返し」をいとわない。日本人は、口先では「ノーモア広島」「ノーモア福島」と言いながら、広島、長崎をとっくに忘れ、早くも福島を忘れ去ろうとしているが、ユダヤ人なら、「原爆」製造のための必要から「原発」を持つ以上、テロに対しては100倍の安全対策を施して、国民を守ろうとするだろうに・・・。

私は「ポーランド巡礼記-9」2011.02.03)で、アウシュヴィッツの大量殺人工場で見つけたさりげないパネルを紹介した。

 

「歴史を記憶に刻まない者は、きっと また 同じ目に会うに違いない。」

(ジョージ・サンタヤーナ)

 

集団的自衛権を容認すれば、遠からずあちこちの原発がテロで次々に破壊され、福島に倍する放射能汚染で、日本列島は誰も住めなくなる日が来るだろう。下手をするとそのために地球全体の居住性が脅かされるかもしれない。これが21世紀の日本の姿だ。

 

 

私の友人がブログの中で長崎の被爆者永井隆博士の言葉を紹介している。

 

永井隆が誰か、今の若い世代は知らないだろう。彼は長崎の爆心地で被災者の救援に献身し、キリストの愛を実践しながら原爆症でロザリオを握りしめて死んでいったカトリック信者の医者だ。

カトリック教会は彼を聖人にするだろうか? 

永井博士は、著作『いとし子よ』の中で日本国憲法について触れ、自分の子供に戦争放棄の条項を守ってほしいと書き残しているのだ。


私たち日本国民は、憲法において戦争をしないことに決めた。(中略)日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ者が出ないともかぎらない。そしてその叫びが、いかにももっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。

そのときこそ、……誠一よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと「戦争絶対反対」を叫び続け、叫び通しておくれ!たとい卑怯者とさげすまされ、裏切者とたたかれても「戦争絶対反対」の叫びを守っておくれ!

(中略)愛するものは滅ぼされないのだよ。愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。いとし子よ。敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ」。

永井隆博士(Wikipedia)

 

永井博士の70年近く前の予言が今的中した。振り返って「20世紀は大戦争が相次ぐ世紀だった」と総括する人がいる。暗に「21世紀は平和な100年になるだろう」という、無責任な根拠のない楽観主義を臭わせる言葉だ。

どっこい、「集団的自衛権の容認」は21世紀が新たな深刻な戦争の世紀になることを告げる一つの確かな徴ではないのか?

20世紀、敗戦後の日本だけは平和憲法9条に守られて、70年間若者を戦場で死なせることなしに過ごし得た幸いな国となった。

しかし、このまま行けば、集団的自衛権容認のおかげで、日本の21世紀は若者が大量に戦場で死に、再び多くの母親が悲嘆にくれる世紀になるだろう。

ドイツはまだ「憲法9条」に相当する歯止めを持たないから、NATO軍の一翼を担って若者を戦場に送り出すだろう。しかし、ドイツが再び戦争に敗れるとき、自らの意思で「不戦」を高らかに謳った憲法を制定すると私は思う。

そのとき、日本は今度こそ「自主憲法」と称して「9条」省いた好戦的憲法を制定するのだろうか。歴史に学ぶことを知らない愚かな政治家を選んだのは誰か?

「歴史を記憶に刻まない者は、きっと また 同じ目にあうに違いない。」

とにかく、風が吹けば桶屋がもうかるのだ!

(つづく)

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★ 肉体の復活は本当にあるか(その-3)

2014-08-04 01:39:40 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

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 肉体の復活は本当にあるか(その-3)

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キリスト教は、4世紀ごろから伝統的にその信仰内容を短く「クレド」(「信条」、乃至は「信仰宣言」)の中に要約し、

それを信じる者を正統な信者、それと異なることを信じる者を異端者として来た。

現代のカトリック教会が採用している「クレド」には幾つかバージョンがあるが、

その一つは、日本語で以下のように翻訳されている。


 信仰宣言

天地の創造主、全能の神である父を信じます。父のひとり子、おとめマリアから生ま

れ、苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復活して、父の右におられる主イエス・キ

リストを信じます。聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、から

だの復活、永遠の命を信じます。アーメン


何だ、キリスト教の信仰って、煎じ詰めればたったこれだけのことか、とそのあまりの簡単さに驚かれませんか?

その中で、いま私が問題にしているのは、イエス・キリストが「死者のうちから復活したこと」

我々一人一人も、世の終わりの日に「からだが復活し、永遠の命を得る」と言う核心部分についてだ。

ラザロのように、

死後4日してすでに腐敗が始まった後に、再びこの世の世界に生きて帰ってくるのではなく、

(バラモン教、仏教ヒンズー教の輪廻はある意味で永久に」この段階にとどまる)

復活したキリストが今すでに彼岸の永遠の命に生きているように、

われわれも生前と同じDNAを持った同一の個体として、

「新しい天と地において永遠の命に生きる」

ことを信じるかどうか、の問題だ。

(日本のカトリック信者さん、あなたは命がけでこのことを確信していますか?)

ここで、またもや面倒な問題を引き起こすのが、新約聖書の実にややこしい、こんがらがった記述だ。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)と言う教えを身をもっ実践し、証ししたイエスが、

想像を絶する苦しみの後、十字架の上で死んで、葬られて、三日目に見に行って見たら墓は空っぽだった、まではいい。

ではどうして、彼の肉体はそのまま彼岸の世界に直行してそこで永遠に生きる、というコースを辿らず、

復活から昇天までの極めて短い間(現代の教会の典礼の暦では6週間とは言え、

この世をウロウロし、チョロチョロと弟子たちに現れるという、実に中途半端な道を選んだのか。

しかも、弟子たちの前に現れる時、どうして堂々と生前見慣れた容姿、同じDNAの個体の特徴をもって現れなかったのか、

実に歯切れが悪く、分かりにくい。

十字架の上で死んだキリストは、33歳ほどの若さで、

百何十何センチの体躯、印象的な顔立ち、特徴的な目の色、声、etc.

他の誰とも決して取り違えることの出来ない個性豊かな魅力的な一人の男性だっただろう。

それなのに、聖書の描く復活したキリストは、常に、全く似ても似つかぬ別人の姿に身をやつしているのは、

一体どうしたことか?

私としては、キリストは墓に葬られ、三日目の朝墓を訪ねたら、墓は空で、そこに遺体はなく、

その体は復活して、真っ直ぐにこの世とは次元を異にする彼岸の世界へ渡って、

永遠に至福の天の国で世の終わりまで我々を待っておられる、

と言うのが、一番スッキリして信じやすいのだが・・・

ところがどっこい、聖書によれば、

キリストが最初に現れたのは空の墓から引き返すラザロの妹のマリアに対してであった(ヨハネ20章)

(キリストも男性ならば、真っ先に最愛の女性に現れたというのは、まあいいとして)

おなじDNAを持つ個体としてのイエスとは似ても似つかぬ別人、「園丁」 の姿で現れたのは何故か。

また、エマオに降る弟子たちルカ24章)

イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩きはじめられた。

しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった・・・

一緒に食事の席に着いたとき、・・・パンを裂いてお渡しになった。

すると、2人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

さらに、ティベリアス湖畔での出現(ヨハネ21章)では、

見知らぬ人であったが、「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに 『主だ』 と言った。

シモン・ペトロは 『主だ』 と聞くと・・・湖に飛び込んだ。・・・

その人は、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』 と言われた。

弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』 と問いただそうとはしなかった。・・・

イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」

三度とも、弟子たちは心の目で復活したキリストに出会ったが、

肉の目では別人を見ていた。

 

ここで、先のブログ 「肉体の復活は本当にあるか(その-1)、(その-2)」 が生きてくる。

(その-1) で書いたように、私はラザロの墓の中で、「ジョン、出てきなさい!」 というカテキスタの声を

肉の耳で聴きながら、心の耳ではイエスの声を確かに聴いた。

それは、ペトロの首位権の教会で、シェーンボルン枢機卿の 「ジョン、私を愛するか?」 と言う声を

肉の耳で聴いたとき、心ではイエスの声を聴いたのと同じだった。

同じ事実から二つの体験(物理的と霊的)が生まれるたのは、長年親しんできた聖書の記述に対するある程度の知識と、

僅かばかりの信仰が私ににあったからだろう。

福音書をあらためて読んでみると、イエスが弟子たちに現れた話は決して多くはない。

上の三つの典型的な例の他にも幾つかの記述があるにはあるが、その多くは、弟子(たち)に現れたという証言と、

その場にいなかった他の弟子たちが頑なに信じようとしなかった事実とが、セットで語られていることが多い。

又、目の前に現れているのに、(別人の姿だったから)信じられなかったり、なお疑ったりしている。

生前のナザレのイエスのそのままの姿で(つまり、同じDNAを持った同一の個体の特徴を備えて)

現れていたら、そんな疑いや混乱が起こるはずがないではないか。


私はミサを司式する時、稀に自分の体を借りてミサを執り行っているイエスが私の内に現存し、

私の全存在を掌握するのを感じて心震え、畏怖の念に打たれることがある。

ああ、もしこのとき自分の罪にまみれた内面がありのままに暴露されたらどんなに恥ずかしいことか、と思い、

その薄汚れた私の惨めな存在が一方にありながら、

他方では、神の子キリストが私の全存在にみなぎって、そこに現存しておられることの凄さに圧倒されるのだ。

また、私に近づいて罪を告白する信徒の懺悔を聴きながら、

そして、その信徒よりも遥かに大きな罪人である自分を恥じながら、

私の中に現存し、私を用いて行われるイエスの憐れみの業に感動し、信徒も神父である私も一緒に涙する、

そんな二重性の体験も、上の事実と無関係ではない。

(その-2) で展開した中風の人を癒すイエスの奇蹟譚においても、

病人を瞬時に癒してベッドを担いで歩かせるという目を見張るような物理的奇蹟と、

罪を赦すという、目には見えないが、内容においてはなお遥かに偉大な霊的奇蹟とが対比されたように、

また、弟子たちの手の中でパンが物理的に増える手品のような奇跡と、

5000人もの人を、そろって利己心と我欲から解放し、隣人愛を実践させた精神的な高度の奇蹟が対比される。

(その大奇跡が今、世界規模で起こったら、地上から餓死する人は一人も居なくなる。)

それならば、復活したキリストが、まっすく彼岸の世界に直行しないで、

ほんの数週間と言えども、蘇生したラザロよろしくこの世にウロウロ滞留し、

チョロチョロと半端な姿で弟子たちに現れた後、

弟子たちの復活信仰が固まったのを見届けて、昇天 と称して出現するのをやめたという話より、

葬られて三日目の朝、空の墓というぶっきらぼうな現実だけ残して、

固有のDNAを備えた唯一の個体としての身体は、

実際には一気に彼岸の世界に場所を移して、世の終わりまで二度と再びこの世に姿を見せることはないが、

イエスの生前の予言、「私は三日目に復活する」 が弟子たちの心の中に生きていて、

信仰の目では出会う人々の中に復活したキリストを見ることが出来た、

と考えた方が、より真実に近いように私には思えてならなない。

では、聖書の中に記された復活のキリストが弟子たちに現れたという話は嘘か、作り話か。

私はそうは断定しない。現に、その気になれば聖書はそうも読めるし、教会もそうとも取れるような説明をしてきた。

しかし、私ごとき救い難い罪人でさえ、聖書の知識と僅かばかりの信仰があれば、心の耳でイエスの声を聴けたのであれば、

3年間ナザレのイエスから濃密な薫陶を受け、彼の復活の預言を何度も聴き、旧約聖書をイエスから説き聞かされ、

豊かに信仰の恵みを受けた弟子たちが、それ時々のPTOに合わせて、信仰の目と耳で、

イエスとはDNAを異にす見知らぬ別人の言動の中に

復活したイエスと霊的に出会ったとしても、何ら驚くに値しない。

イエスの受難と、壮絶な死と、葬りと、三日目の空の墓の現実を通して、

一方には弟子たちの肉の人としての根深い不信仰と疑いとがありながら、

イエスと寝食を共にして、その話を聴き、奇跡を目のあたりにして、魂の奥深くに刻み込まれた信仰によって、

ガリラヤ湖の岸部に立つ見知らぬ人の姿の中にイエスの現存が確信できて、主であると知っていたから、

「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』 と問いただそうとはしなかった。」

と聖書は記しているのではないか。

イエスの死と復活の強烈な体験の直後の短い特異な(わずか数週間の)時間の間に、

弟子たちの心の中では、イエスの復活、

それもラザロのようにこの世に戻ってくるのではなく、異次元の新しい天と地の彼岸の世界に真っ直ぐ行ったまま、

世の終わりまで戻ってこない形での空前絶後の 「復活」、の現実に対する確固たる信仰が成熟したのであろう。

聖書のいかにも中途半端な、イエスのウロウロ、チョロチョロの話は、弟子たちの確信に満ちた証言にも拘わらず、

肉体を伴って異次元の世界復活して行きっ放しになったイエスのことがなかなか信じられない信仰の弱い信者たちを、

何とか復活信仰に繋ぎ止めるために考え出された教育的説話と考えることは出来ないだろうか。

復活から昇天までの時間は、

イエスと起居を共にする濃密な時間が断ち切られた後、

霊的な信仰だけで自らを支え、その信仰を歴史を通して受け渡していく態勢が整うまで、

機会あるごとに、様々な人の中に復活したキリストを霊的な目で見ることのできる恵みが豊かに降り注いだ濃密な時間だったのだろう。

そして、キリストを取リ上げられても、イエスの生前の教えを信じ続けることが出来るほどに信仰がゆるぎないものになったとき、

その特異な時間は終わったのではないだろうか。

私たちが巡礼の終わりに回教徒が支配するオリーブ山(キリストの昇天の丘)に登り、

復活して弟子たちに現れたキリストの最後の足跡が残っていると言い伝えられた石に触れたとき、

私はイエスの復活後の出現の物語を上のように総括した。


イエスの復活とラザロの蘇生とが全く別物で、決して混同を許さないものであることをはっきりさせるために、

聖書の記述は注意深く、イエスが生前と同一の個体として、

つまり、おなじDNAを備え、同じ顔立ちと、声と、目の色と、体格を持った姿として現れたという誤解を招くような表現を、

注意深く避けていることは、注目に値する。

私は、この事を 「バンカー、そして神父」 の本の末尾に詳述した 「空の墓」 の史実の考察と重ね合わせて、

キリストの 「彼岸への行きっ放しの復活」 を深く確信するものである。

(おわり)

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