:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 世の終わりは近いのか(その-5) -あなたの死から復活までの時間は?-

2012-12-20 12:54:39 | ★ 世の終わりは本当に近いのか?

  

朝早くバスから子供たちがぞろぞろ降りてきました。イタリア半島の南の端から

夜通しバスに揺られてやってきたようです。手にはみんなプレゼントを持って

 

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世の終わりは近いのか(その-5)

-あなたの死から復活までの時間は?-

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補足として明確にしておきたい点がまだ2-3あります。

 

(1)世の終わりは近いのか?

 神は人類に「産めよ、殖えよ、地に満てよ!」と命じられた。と言うことは、宇宙にそこそこ人の子の種が拡散するまでは、世の終わりは来ないということだろう。

 ところで、今の宇宙は見える範囲だけで140億光年の広がりがあるそうだ。

 その1割だって14億光年だ。と言うことは、宇宙船が光の速さで旅をしても14億年かかってやっと宇宙の1割にしか届かないことになる。

 光の速さは1秒間に30万キロメートルだから、時速に直すと時速10.8億キロメートルと言う恐ろしいスピートだ。そんな速さに人間の生身の体が堪えられるとは到底思われないから、まあ、その1パーセントほどの速さで旅行しても、宇宙をほんのチョコッと旅するだけで、すぐ何億年、何十億年とかかるわけだから推して知るべしだろう。

 天地万物を無から創造し、存在界に呼び出された神様は、お好きな時に「ハイ、其処まで!」と言って世の終わり、終末を宣告する自由を留保しておられるとは言え、世の終わりはそう簡単には来るとは思えない。世の終わりは、遠い、遠い、気の遠くなるような未来のことになると私は思う。


 

賑やかなクリスマスソングで子供たちを迎える神学生たち


(2)では、あなたの死から復活までの時間は?

 それは、この世界の時間の流れで言えば、上の気の遠くなるような長い時間に相違ないのだが、問題は、死ねば私の体は失われ、片われの私の魂は体を失って「深い、深い眠りに入る」と言う点だ。もしも復活がなかったとすれば、そのまま永遠に眠り続け、「眠っている」という表現さえも無意味なほどなんにも感じない、何にも意識しない無の中に在ることさえ分からない、要するに死滅し消滅したも同然の状態の中に消え失せたはずだった。

 最初に言った通り、復活は世の終わりに起こることだから、この世の観測者の視点に立てば、あなたの死から復活までの時間は、上の宇宙の終わる時までの時間と同じ長い時間であるわけだが、死んだ途端にその時間は消えてしまうと考えた方がいいということは、つまり、人間が復活に遭遇する時は、死の瞬間に隣接する次の瞬間として意識される、と言う結論になる。

 これは、ひょっとするとドえらいことかもしれないぞ、と私は思う。

 死んだとき、これも寿命かと諦めて、あとは冥土で復活の日に神様の裁きの前に立つときに備えてのんびり心の準備でもしようか、なんて悠長なことを考えて油断をしていたら、ひどい目に遇うかもしれないぞ。そういえば、聖書には随所にそのことを暗示する話がばらまかれていたではないか。

 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子(キリスト)も知らない。ただ、父(創造主)だけがご存じである。」(マタイ24章36節)「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。」(マタイ24章44a節)

 この類の言葉は新約聖書だけでも両手に余るほど出てくる。

 普通人は、これを「自分はいつ死ぬかわからない」と言う意味だぐらいにさらりと聞き流してきた。

 公園を散歩していたら、突然空から砂粒ほどの隕石の燃え残りが猛スピードで飛んできて自分の頭を貫通し、その場にばったり倒れて息絶える。本人は「あ痛っ!」と思う間もなく息絶えて、死の暗黒の中に消えていく。通行人は一体何事が起こったのか理解できずただ怯えて立ちつくす・・・・。とか、炬燵にあたりながら美味しそうにお雑煮を食べていたら、突然お餅が喉に詰まって、一、二度目を白黒させたかと思ったら、呆気なくご臨終、と言うような場面が目に浮かんでくる。なるほど、人はいつどんな風に死ぬかわからないものだと、すんなり納得する。

 ところが、今までしつこく検討してきた話をこれに重ねて考えると、事は意外と深刻であるらしいことが見えてくる。

 突然死ぬのはいい、まあ仕方がない。一応心の準備だけはしておいた方がいいと、思慮深い人なら普通そこまでは考えるかもしれない。

 しかし、死んだと思ったら、次の瞬間にはもうすぐ世の終わり、世界の終末と復活に直面し、神様の前で直ちに人生の総決算を求められ、その場で審判が下って、あれよ、あれよという間もなく自分の永遠の命の有りようが決まってしまうと言うところまで考え及んでいる人が、一体どれだけいるだろうか。

 これは、一度落ち着いてじっくりと考えてみる値打ちのある重大事ではないだろうか。

 死んでから復活するまでの間に、ゆっくり考えて準備する時間の猶予なんて全くないのだとしたら、足元の明るいうちに奥さんと仲直りして、借金は返して、罪人は回心して、それからベッドに潜り込んだほうがどうも無難なように思う。

 突然不意を突かれ、慌てて取り乱して醜態を曝さないで済むために・・・

 一回目の死は、深い眠り、実質上永遠に無になるはずだった(復活がなければ)。二回目の肉体は不死身だから、自然死はない、自殺も叶わない。地獄を自由に選んだ人は、永遠にその状態にとどまることになる。これはえらいことですよ!

 

プレゼントを持ってやってきた子供たち


(3)死んで復活したら、みんな天国に行くべきもの

   ―神様はあらかじめ地獄を準備してはいない―

 神様はご自分の愛を唯一の素材として人類を無から創造されたのだから、世の終わりの日、たった一つの魂も滅んで地獄に行くことは望まれないだろう。だから、あらかじめ地獄を用意して、人をそこへ陥れようと待ち構えてはおられることは絶対にないと私は信じる。

 では、みな救われて誰も滅びないのだろうか?まことに残念ながら、どうもそうでもないらしい。半々か、四分六か、ほんの一部か、意外と大勢か、その割合は全くわからないが、地獄を選んで自らその中へ飛び込んでいく愚かな魂が結構大勢いるらしいことは、なんとなく察しが付く。

 えっ?神様がお望みにならないのに、いったいどういうメカニズムでそういうことが起こり得るのかって?その答えは、聖書のルカ15章11-32節の「放蕩息子」のたとえ話に出ているので、じっくりお読みください。

 エッ?!読んだけどさっぱりわからなかったですって?それは弱りましたね。その点にいま踏み込んだら、このテーマのブログをまだ何回も続けなければならない羽目になりますが、私はもういい加減疲れました。

そういう方は、仕方ないから「アマゾン」か「楽天」で検索して、亜紀書房刊の「バンカー、そして神父」と言う題の本を取り寄せて、第4章「放蕩息子の帰還」をじっくりお読みください。その問題については著者(実は私)がすでに懇切丁寧に解説していますから。《以上、「コマーシャル」終わり》

 

神学生たちがつくったイエスの降誕の馬小屋


(4)復活するのはキリスト教信者だけか?

 これは意外と重要なポイントです。答えを先取りすれば、もちろんNO! です。世の終わりは待ったなしで全人類を同時に襲ってきます。そして、キリスト=メシアは栄光をおびて、輝かしい復活体を身に纏って再臨します。そして、難民キャンプで被災者に毛布を配るように、全ての死せる魂一人一人に、生きていた時と同じDNAの新品の肉体を渡して着せてくれます。

 キリスト教なんて知らなかった、信じてなんかいない、洗礼?とんでもない、もちろん受けていない、と言う人にも無差別にです。

 いやだ、俺はキリスト教が嫌いだ、そんな教義は否定する、と言う人にも、生前俺は確信的無神論者だった、今さらなんでそんなこと・・・と言う人も、私は回教徒原理主義者だった、キリスト教は戦ってでも滅ぼすべき宗教だ、今さら仲良くなんてとんでもない、ごめんだね、と言う人にも、私の教団の教祖様は〇×尊師だ、お伺いを立ててからでなければ、そんな服いただいていいものやら、私には何とも判断しかねます、と御託(ごたく)を並べるじれったい御仁にも、「いいから、つべこべ言ってないで、黙って受け取りなさい!」と叱咤してキリストは一人一人に着せていく。何しろ最後の審判の広場は、億の億倍、兆の兆乗のおびただしい数の魂がごった返すわけだから、柔和なキリストも切れる寸前かも知れません。そんなわけだから、「死んだときに渡しておいた肉体喪失証明書とよくDNAの照合するように!後で面倒が起きないようにちゃんと確認しなさいよ!」という天使たちの注意が飛んでくるかもしれません(笑)。

仏教には「一切衆生」と言う素敵な言葉があるが、その「一切衆生」つまり、はじめて理性と自由意思が十全に開花した最初の類人猿から、何十億年の人類の進化と文明の進歩の後に終末を迎えた最新鋭のサイボーグ人間まで、気の遠くなるような数の魂が肉体を纏って、この宇宙の彼方に新たに始まる天と地の中へ一斉に歩を進めます。なんという感動的な場面でしょう!

キリスト教の教えは、全ての人類を包む。宗教、信条の違いを無差別に超越し、あらゆる進化の段階の人間を包括する。大乗仏教には非常に近いものがあるようだが、この復活信仰の普遍的包括性はキリスト教以外の他宗教にはあまり見いだせない特徴といえるかもしれない。

友のために命を捨てるほど大きな愛はない。敵をも愛しなさい。右の頬を打たれたら左の頬も出しなさい。七の七十倍赦しなさい。悪に逆らってはいけない・・・・。と教えるキリスト教だけは、(それが本当に実践されればの話ではあるが)理論上は紛争の種を蒔かない唯一の宗教でもあるはずなのだが・・・・。


このあと 神学校の聖堂で子供たちとミサがあった

 

平和の王子様、幼子イエスのお誕生日おめでとう!

*** メリークリスマス! ***

 

まだ書き足りない気がするけれど、切りがありませんのでこの辺で「世の終わり」シリーズは「一巻の終わり」といたします。

 

 

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★ 世の終わりは近いのか(その-4) -あなたの死から復活までの時間は?-

2012-12-18 17:53:26 | ★ 世の終わりは本当に近いのか?

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世の終わりは近いのか(その-4)

-あなたの死から復活までの時間は?-

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先のブログのアクセス状況はそれほど悪くなかったようです。予想外にコメントが相次ぎました。これは一部の人には興味を持って読まれた印でしょうか。その中の二つをここに採録します。最初のコメントは:

     じっくり、じっくり、読ませていただきました。
     躓きかけています(涙)
     はやく続きを投稿してくださいね!

次のコメントは:

     こんにちは

     興味を持って文面を追っています。
     生死観については、少なからず興味をいだいて、
     色々な本を読んだ時期がありました。
     私のイメージは、
     見守っている家族が医師より死の宣告を受けいよいよとなった、
     臨終の際は、自分の魂が部屋の天井に浮き、
     横たわっている自分の肉体と、悲しんでいる家族を
     第3者の立場から見られ、
     自分がここにいるのに声を出しても、誰にも届かず、
     やっと自分が死んだと気づく。
     目の前にきれいなお花畑があり、
     過去に逝った身近な人が迎えてくれたり、
     死の瞬間、自分の一生の生い立ちが、フラシュバックして蘇ってくる。
     仏教、キリスト教も、生前の善悪で地獄に行くか、天国に行かれるか、
     はたまたエジプトの絵にも描かれているように・・・。
     然し最近思う事は、
     一旦は死刑の判決が出て、最高裁で無実になった人もいれば、
     無実なのに死刑にあった人も、世界にはきっと沢山あった事でしょう。
     真実は神のみぞ知るですが、結局は、
     死んでからの神のお裁きに委ねるほかないということでしょうか・・・。

     続きを早くね、  
     文中に子持ちの綺麗な女性が登場、どきどきですよ。
     神父は体調がよくなかったんですか?
                               (T. A.)

 1番目のは、全くの匿名ですが、きっと真剣に神を求めるまじめなカトリック信者のご婦人でしょう。これまでの信仰の土台を揺さぶられて、悲痛な叫びを上げられたのではないかと察します。責任を感じます。でも、このあとの本文をお読みにならば、きっと少しは落ち着かれるだろうと思います。

2番目のは、私にメールで届いたものを、ご本人の了承のもとにブログのコメント欄に貼り付けたものです。
T. A. さんとは、グループ旅行でローマに来られた時に知り合いました。教養のあるご婦人で、クリスチャンではありませんが、私とは話がよく合います。

 では、さっそく今回の本文に入りますが、今回も長文になることをお許しください。前回、一番目のコメントのご婦人を、泣き出さんばかりに躓かせてしまった責任もあって、取り敢えず結論に届くまで筆を止めることができなかったのです。疲れたら途中の薔薇の花のところで小休止。続きは次の日にでも読み進んで下さい。

さて、ここでひとまず前回の結論を復唱しましょう。

 もしも死と言うものが、全身麻酔で五感が完全に封じられた時に人が経験するように、意識が完全に消滅し、自分の存在も時間の経過も全く知覚しないブラックアウト状態に陥ったのと同じだとすれば、しかも麻酔が一時的なものであるのに対して、肉体の崩壊に伴ってその状態から覚醒する可能性が永久に失われることであるとすれば、それは私が死によって実質的に無に帰ったのと同じで、それ自体、恐ろしくも苦しくもなんともない、実にアッケラカンとしたものだ、と言うことです。

 そこには、ぶっきらぼうなむき出しの「無」あるのみで、死んだ私はその「無」さえも意識しない、私はこの世に生まれる前に全く存在していなかったように、死と共に生まれる前と同じ全く存在しない状態に戻るということでしょう。

 私の友人がいう、言い知れぬ「淋しさ」、「寂寥」はその虚無的な期待しか持てないことから来ます。オギャーと生まれてから、愛し、憎み、悩み、苦しみ、喜び、笑い、不安におののき、良心の呵責に耐えた日々も、こだわり、執着していた全てのことと共に空しく消え去るということです。

 旧約聖書の「ダビデの子、コヘレトの言葉」に曰く。

     何と言う空しさ
     何と言う空しさ
     全ては空しい。

     私の心が熱心に求めて知ったことは、
     結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだった。
     私はこうつぶやいた。

     「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」
     見よ、それすらも空しかった。

     人が労苦してみたところで何になろう。
     神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物に過ぎないということを見極めさせるためだ、と。

       これも死に、あれも 死ぬ。

     人間は動物に何らまさるところはない。
     全ては空しく、全ては塵からなった。すべては塵に返る。
     死後どうなるかを、誰が見せてくれよう。

 お通夜のときのような沈鬱な顔で「コヘレトの言葉」を抜粋引用しているうちに、不謹慎にも思わずクスッと笑ったところがあったので、息抜きに紹介しましょう。

     一つ一つ調べて見いだした結論。
     私の魂はなお尋ね求めて見いださなかった。
     千人に一人という男はいたが
     千人に一人として、よい女は見出さなかった。(コヘレトの言葉7章27-28節)

 (ここで私は、ハハン、コヘレトお前も男だな、とつぶやきました。)

 そのあとも、まだまだ悲観的な言葉が延々と続きますが、この辺でやめておきましょう。これがキリスト教の聖典の言葉かと目を疑いたくなるような、実に痛快なまでのペシミズムの極致でした。


 私は20歳台の学生の頃、京都は鷹が峰の安泰寺と言う破れ寺に、座禅をしに通ったことがあります。澤木興道と言う師匠についていました。その老師がいかに偉い高僧であったかは、年をとってから知りました。カトリックの若者と知った上で可愛がっていただいたことを有り難く、懐かしく想い出します。

 あの頃初めて習った般若心経の中の「色即是空」と言う言葉の「空」の字の教学的意味をどれだけ理解しているか、全く自信は有りませんが、私が死と共に思う、数学的ゼロのような、物理的暗黒のような、全く取りつく島もない無機質な「無」の空虚さに比べれば、はるかにニュアンスと救いのある暖かい概念のように思われてなりません。

 しかし、あらゆる宗教が説く現世の御利益も、来世の救いも、私の理解した「死」「死後の世界」の前には全くの幻想、まやかしにすぎません。そこで支配するものは、絶対的「無」「虚無」「空」しかないはずなのです。

 お布施をすればご利益が得られると言われて信じてお金を出したのに、なんの御利益もなかったと不平を言えば、まだお布施が足りないからだと言われて、それならと出しても、出しても、まだまだと言われ、気が付いたら丸裸になっていて、それでも結局元のままという話は、聖書のイエスについての話の中にも、形を変えて「悪徳医者の例」として短く巧みに描かれています。まして、来世の幸せを約束する空手形で金を巻き上げるなんて、それこそ最悪の詐欺もいいところ、人の弱みに付け込んだ卑劣な犯罪行為でなくてなんでしょうか。

 死んだら、体が煙と灰になって失われ、憐れな魂は肉体から引き離され、5感が封じられた途端に自我も世界も時間も空間も知覚できない「無」の中に放り出されるのが人間の永遠の定めなら、宗教ほどひどい嘘はどこを探しても見つからないというものです。


 私はイタリア人の真面目なカトリック信者と会話していて、「臨死体験」に話が及んだことがありました。すると、彼らは俄かに活気づいて、あの本、このジャーナリストを引き合いに出しながら、盛んにその多彩なレポートの内容を展開してくれました。

 冒頭で引用したT. A. さんのコメントではありませんが、内容はおおむね世界共通のようです。日本でも司馬遼太郎賞に輝く立花隆氏の著書「臨死体験」(上)やNHKスペシャルなどを第一に思い出しますが、人々が、イタリア人のクリスチャンも含めて、そのような話題に夢中になるのは、そこに死後の世界の報告が見付かるのではないかと言う、期待と好奇心をくすぐる何らかの錯覚が潜んでいるからだと私は思います。

 しかし、臨死体験なるものは、英語のNDE (Near Death Experience) に明らかなとおり、死に限りなく近づいた「生の側の体験」であって、死の境の向こう側に行って戻ってきた人たちの「死後の世界」の体験報告では断固あり得ません。

 我々の周りに死後の世界に踏み込んだのち、再び生者の世界に生還した人は一人もいません。誰一人としていない。死んだ人は、心肺が停止し、脳波が平坦になり、瞳孔が開き、体温が低下し始め、医者が時計をチラリとみて臨終を告げたその前後のいずれかの時点で、すでに永久に二度と戻れない無の世界に呑み込まれてしまったのです。だから、死後の世界はこうだったああだったと言わんばかりの紛らわしい作り話は、興味本位であれ、金儲けのためであれ、厳に慎んでいただきたいものだと思います。


 聖書に私の説の最後の保証を求めましょう。

 死者の運命について一番詳しく書かれているのは、聖パウロのコリントの信徒への手紙ではないかと思います。私の考えをはっきり伝えるために、意味を変えないように注意しながら、言葉を一部置き換えて書きました。

 死者の肉体が崩壊するとともに、意識の中に蘇生するチャンスが永久に失われるのだとすれば、「わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。」(コリント15章14節)また、「そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めなものです。」(コリント15章18節)もしそうだとすれば「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」と言うことになります。(コリント15章32節参照)

 聖書さえそうはっきり言っているのならば、なぜ谷口神父は宗教家のなりをして、人に宣教し、信仰を勧め、好き放題の放縦を戒め、人に見られていなくても損をしてでも心正しく生きるように説いているのでしょうか。それこそ偽善ではないですか、いかさまではないでしょうか。

 人は魂と肉体の二つの側面を持つ一つの人格と理解されますが、それぞれに自立した二つの部分が便宜的に合体したものではありません。それらは不可分に融合していて、肉体が死んでも魂は悠々と生き続けるというようなものではありません。人間が死ぬのであって、肉体が滅びれば魂も死ぬ(聖書的表現によれば「眠りにつく」)のです。しかもその眠りは深く、全身麻酔にかかった人の消えた意識のように、完全に無に還元されたのと全く変わりのない状態でしょう。もしそれが死後永久に続くのであれば、実質上その人は死と共に滅んだ、亡くなった、死滅したのも同然で、もう命ある者として生きてはいないということす。どの宗教にとってもこの現実は変わりません。


 ようやく結論に近づきました。

 では、宗教は何の役に立つ?キリスト教を含めて、宗教団体の本音は、本当の狙いは何?やっぱり人をたぶらかして金を集めること?行い澄ました、有徳の士を装って有り難い説法をする宗教家は、一皮剥いたらその正体はお金の亡者なのでしょうか?私もその片割れなのでしょうか?

 どっこい、そうではありません。たとえ大概の宗教がみなそうであっても、キリスト教だけは例外だと言わせてください。
 2000年余り前のクリスマスの夜、粗末な馬小屋で処女マリアから産まれた幼子イエスは、長じて十字架の苦しみの中で非業の死を遂げましたが、3日目に死者の中から復活したと聖書にあります。

 数万年前からこの美しい宇宙船地球号に生まれ死んでいった無数の人間の中で初めて―後にも先にもただ彼一人だけ―死者の中から甦ったという話です。

 本当だろうか?

 彼は私が2時間後に麻酔から醒めたように、足掛け3日目に(実質的には死後30時間余り後に)死者の中から復活しました。それも、臨死体験者のように死に限りなく近づいた生の側をうろうろした後にこちら側の世界で覚醒したのではなく、人類で最初でただ一人、生と死を分かつ境界線を越えて死後の世界に踏み入り、一旦本当に死んだ後、復活体と言う新しい肉体を身にまとって、この世の彼方にあるもう一つの世界へ、彼岸の世界に復活したのです。

 マリアの子、人間キリストは、創造主なる神の権能と威光を身にまとって、人類を支配していた死の呪いを打ち砕いて、まず自分自身が死者の中から復活し、全ての人類を死の軛から解放して、神が定めた世の終わりの日に、一人一人の眠れる魂に復活の肉体を新たに創造して纏わせ、蘇らせるというのが、キリスト教の教えです。

 これは、人類古今東西のあらゆる宗教の中で唯一キリスト教だけが説く特徴的な教えで、その素晴らしいニュースを伝えるのがキリスト教の使命です。

 すべての宗教を信じて死んだ人が、私の言う無の中に滅んで、そこに永遠にとどまる運命にある時に、キリスト教だけは、専売特許のように復活の喜びを高らかに宣言するのです。

 キリスト教によれば、イエスは無の中に消え失せて何も残らなくなるはずの死の滅びの運命に力づくで介入し、人が長い眠りに入っても、世の終わりの復活の日には必ず肉体を取り戻して復活し、もはや死ぬことのない新しい命を勝ち取ることに成功しました。

 たとえ世の終わりまでの時間が何億年、何十億年であっても、その間、目を見張るような人類の進化の過程をフォローすることもなく深い眠りに入っていたとしても、本人にとっては、死の瞬間と重なる同じ瞬間に復活の体をもって甦ることになるのです。

 ある瞬間、唐突に優しい看護婦さんに「谷口さん、気が付きましたか?」と呼び掛けられるときのように、優しさと威厳を備えたイエス・キリストに、「さあ、起きなさい、目覚めなさい!」と声をかけられて、この世の生を終えたと思った次の瞬間に肉体を返してもらってあの世で復活のいのちの中に蘇るのだとすれば、そして、それを教えるのがキリスト教の使命だとすれば、そしてそれが事実であり真実であるならば、私は決して詐欺師でも、いかさま野郎でもありません。私の名誉は回復されて、真っ当で実直な宗教者として、臆せず人前に立つことが許されるのではないでしょうか。

 神様は、時空の中で気の遠くなるような長い進化の過程を経て歴史を刻む宇宙に人間を置いて、しかも、そのすべての人間を全く同じ条件で平等に扱うことのできる絶妙な仕組みを考え出されました。すべての人は、オギャーと生まれてから、長短様々な個人の歴史を歩み終えた後は、死の瞬間の次の瞬間に復活の命の中に抱き上げられるように計画されたのです。たとえ、一点に重なって見える死と復活の二つの瞬間の間に、ある人は30億年、ある人には100万年、ある人には1000年時が経過していようとも、またある人はたまたまこの世の生を享受している最中に、突然世の終わりの日に遭遇し、文字通り死んで眠りにつくとすぐに復活の命に移行するとしても、すべての人にとって、生まれて、この世の生を生きて、死んですぐ復活するというパターンとメカニズムは全く同じで、平等であるわけです。

 一人一人、この進化する宇宙の中に登場する場面は違っても、一人分の人生を全うした後は、死と共に「長い無の眠り」の中に待機して、世の終わりの日に全員一斉に同時に喜びの歓呼の声を上げて復活するわけです。

 めでたし、めでたし!

 何か狐につままれたような気分になりましたか?ごもっともです。

 まだ説明を要する無数の付帯的疑問が渦巻いていませんか?無理もありません。

 そのために、次回の付録のブログが用意されています。あらかじめ言っておきますが、私はカトリック教会が伝統的に維持してきた信仰の根幹にかかわる教え、例えば、神の審判、天国、地獄、死者のための祈りの価値、etc. を何一つ否定したり変更したりするものではありません。ただ、教会の中でしか通用しない古いおとぎ話的で幼稚な解釈や理解に対して、現代人の知性の批判に耐えられるより実際に適った表現を模索するにすぎません。

 あと数日で、十字架によって復活の命に道を開かれた宇宙の王さま、幼子イエスの誕生日、クリスマスの祝い日が来ます。共に祝いましょう。

メリークリスマス!

なんだかコメントがたて続いているようですね!         

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★ 世の終わりは近いのか(その-3) -あなたの死から復活までの時間は?-

2012-12-15 17:40:24 | ★ 世の終わりは本当に近いのか?

これは実験です。実に危険なギャンブルです。目を楽しませるほどの写真はなく、べた文字の本文は今までで一番長いからです。読まれるか、読まれないかは、24時間経過して、「編集画面」の「アクセス解析」を開けば一目瞭然、読者の審判の結果がそこに出ているでしょう。失敗だったら、もうこのやり方は使えません。失敗でなかったら、時々こんなブログの書き方も使えるということでしょうか?

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世の終わりは近いのか(その-3)

-あなたの死から復活までの時間は?-

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 このブログを書いているわたしは、人の子の種が拡散すべき宇宙の広大さと、宇宙空間を旅することのできる速さの限界から考えて、世の終わりは何億年も、それ以上も経たなければ来ないだろうと考えています。

 とにかく、人類の歴史が数万年、長くても25万年ぐらいしか遡れず、文明らしいものが花開いてからでは4-5千年がせいぜいであることを思えは、世の終わりは途方もなく遠い未来のことのように思われます。

 しかし、世界はそうであっても、私の寿命の残りがそう長くはないのは疑い得ない現実です。長くてもあと5年か10年。明日知れぬ命です。

 心を入れ換えて最後だけはまじめな日々を、と頭では思っても、それも物憂く先送りしている間に、突然死神に追いつかれ、心ならずも浮世に「あばよ」を告げるのがせいぜいのような気がしてきました。

 ままよ、その時はその時。死んでから冥土でゆっくりと世の終わりの日に神の前でする釈明、命乞い、の準備をすればいい。どうせ、死んでから世の終わりが来るまでには、気の遠くなるような時間があるのだから・・・・、と言うところで前回は終わりました。

 ところがどっこい、そうは問屋が卸さないらしいぞ、と言うことに最近ハッと気が付いたのです。どういうことでしょうか。

 この夏に私は日本で手術を受けました。手術室に入る前に、看護婦さんが、点滴や場合によっては輸血やらのために右腕の静脈に太い針を刺してくれたはずでした。手術室に入ると、手術台の上の大きな照明が印象的でした。麻酔薬はマスクからではなく例の針から静脈に入るらしく、執刀医と麻酔のドクターとの会話が聞こえてきました。

     「麻酔が効いてきませんね?!」

     「アッ、腕がパンパンに腫れてきた。針がちゃんと入っていないんじゃない?」

     (静脈に入るべき麻酔液が組織に溢れているな、と思いました。)

     「急いで左に差し替えましょうか?」(やや動揺した麻酔医の声でした。)

     「いや、今やったら痛むから、麻酔が効いてきてからのほうがいい。」

     (そして、その次に聞こえた言葉が)

     「谷口さん、気が付かれましたか?」

 と言う看護婦さんの声でし。見ると点滴の針はいつの間にか左腕に差し替えられていて、そこは手術室に行く前の元の病室でした。
聞いたら、約2時間が経過していました。しかし、私は麻酔が効いてから覚めるまで、時間の経過を全く意識していませんでした。

 あらためてあの時の会話を正確に思い返してみると、

    ① 「急いで左に差し替えましょうか?」

    ② 「いや、今やったら痛むから、麻酔が効いてきてからのほうがいい。」

    ③ 「谷口さん、気が付かれましたか?」

 この3つのセリフは、全く中断のない一つながりで、①→②→③へとよどみなく推移し、②と③との間に2時間の時間の経過があり、手術がおこなわれていたことを示す何の痕跡も介在していません。

 全身麻酔によって一時的に5感が機能を停止すると、その間、人は完全な眠りに入り、夢も見ないし痛みも感じない。時間の経過を全く経験しない。そして、麻酔から醒めると、意識を取り戻し、感覚を取り戻し、再び時間の中に生きはじめる。

 今回、麻酔から醒めるまでの時間はわずか2時間でしたが、これが大手術で7、8時間かかっていたとしても、結果は全く同じだったに違いありません。5感が封じられると、人間は時間の経過を知覚しません。麻酔が効いた瞬間と醒めた瞬間は一つに重なる同じ瞬間で、そこには飛躍も不連続もありません。SF未来冒険小説の主人公のように、人間が冷凍されたまま何万年も宇宙旅行をして、目的の星に近づいてから解凍されて意識が戻る時も、全く同じ体験をするでしょう。麻酔された肉体は覚醒を待って生きたまま待機しているが、心肺停止の冷凍冬眠状態でも肉体が保存されている点では似たようなものです。

 他方、人間が死ぬと、肉体は機能を停止し、その後焼かれて煙と灰になるわけですが、死の瞬間からあとは、全身麻酔が効き始めたときと同じように、外界を知覚せず時間を全く経験しないでしょう。意識は消滅し何も経験しない。自我そのものも消滅したと言ってもいい。全くのブラックアウトです。これが、死の冷酷な現実なのではないでしょうか。そして、肉体が滅びてしまったら、その状態から醒める手だてもはや永久に失われてしまいました。

 人間の意識は脳のうちに働き、外界や時間の認識は五感に全面的に依存しています。人間には不滅の霊魂があるなどと宗教は(キリスト教も)教えるが、霊魂が機能するのは肉体あってのことでしょう。肉体がなんとか無事でも、たかが麻酔一つで私の自我は、意識は、世界は、時間は完全にブラックアウトしたではありませんか。なんと儚いことでしょう。そのとき、主観的には私は完全に消滅し、無に帰したのではなかったでしょうか。死は肉体の単なる一時的機能停止などと言う生易しいものではありません。それは肉体の崩壊、肉体の喪失、魂と肉体の永遠の別れです。しかも、魂の自我も意識も一方的・全面的に肉体に依存しているので、肉体の機能停止と崩壊に伴って完全に無力化され、つまり、無に帰してしまうのです。魂だけがあったとしても無きに等しく、事実上無と化してしまったも同然です。その意味で、死んだら魂など当てにならないと言ったほうがよさそうです。

 唯物論者、無神論者、科学的経験主義者の生死観はその意味で全く正しいのです。死ねば終わり、何にもなくなってしまって、ハイ、それまで。オ・シ・マ・イ!一巻の終わりです。

 心中(しんじゅう)ものの田舎芝居ではないが、主人公が「ドボン!」とばかりに大川に身を投げる時のあの滑稽なセリフ「死んでも命がありますように。ナンマイダブ、ナマイダブ、ナマイダブ・・・・」は、生者の楽観的な期待を反映してはいるが、現実はそんな甘いものではありません。死んだら、黄泉に下ってのんびり、なんて悠長な話どころではないでしょう。黄泉なんて空想の産物。実在すると証明されたわけではありません。


 リーマンなどの華やかな銀行業を去って、神父修行の道をうろうろ模索していた不安定な時代に、離婚して幼い息子を二人抱えた、若く美しいS・ゆり子さんと言う女性と知り合いました。才色兼備にパトロンがついて、中央線の沿線に画廊を任されて成功していました。しかし、早くに癌を発症し、長い入院生活を強いられました。私は彼女を洗礼まで導いたのですが、彼女は死を恐れ、特に肉体的苦痛を極端に恐れました。しかも、彼女の癌の末期には、その恐ろしい痛みが避けがたいものと予測されたのです。

 幸い、小金井にある桜町病院のターミナルケアーホスピスに入ることができて、医師と本人の合意のもと、寿命を極端に縮めることのないぎりぎりの量までモルヒネを増やし、彼女は痛みをほとんど感じない朦朧とした意識の中で最後の日々を過ごすことになりました。

 病院のチャペルでミサをして、聖別した小さい丸いパンを持参して、枕元で「ゆり子さ~ん!」と呼びかけると、閉じた瞼の裏で眼球が動いて、「は~い」と言う可愛らしい返事が、遠くの森の奥から響いてくるような細い声で返ってきました。全身麻酔と弱い意識状態との境界線上を彷徨っているかのような印象でした。そして、ある日、彼女のかすかな意識も死と共に無の世界へと消えていきました。


 私の友人に理科系の頭脳の持ち主の自称無神論者がいます。彼は、身体機能が緩慢に死に向かって低下していく難病を抱え、それと上品に仲良く付き合いながら、「死は全く怖くない」と言います。私の全身麻酔が効いた瞬間から始まったあの状態が終りなく続くことを指して「死」と定義すると仮定すれば、今の私はその考えに完全に同意できます。むしろあんな楽なことはありません。

 仮に、麻酔で眠っている状態の終わりのない延長と死とが同質のものだとすれば、そんなもの恐ろしくも苦しくもなんともありません。

 「なんともない」、と言うのさえも正しくありません。なんとも「ない」、とか「ある」とか言う主体そのものもないからです。もうそこには何も存在しない、その状態を敢えて言葉にすれば、無、虚無、空と言うべきでしょうか。私もない、他者もない、世界もない、明るくもない、暗くもない。

 しかし、彼は言います。死は全く怖くはないが、死を思うとき言い知れぬ「寂寥」を感じる、と。私もその彼に共感します。それはそうでしょう。死と共に私が無に帰するのなら、今まで生きてきた意味はどうなるのか。私の歴史は、私が存在したという証しは、その痕跡は全く無意味なものだったのか。私が愛していたもの、執着していたもの、心配したことも、煙のように消え去って何も残らないとしたら・・・・。今生きていること自体、なんと空しいことではないでしょうか。

 もし私が死んで肉体が滅びるということが、麻酔によって五感が封じられるということ以上ではないとすれば、死は即ち私にとってすべての終わりで、その後は「無」のみがあると言わざるを得ないのでしょうか。そうです。「死」のあとには、全くぶっきらぼうに「無」があるのみです。

 これが神父=谷口幸紀がたまたま手術の機会に経験した全身麻酔の体験から導き出した「死」の全理解とその最終結論でした。
建前上、「友のために命を捨てるほど大きな愛はない」と説き、「隣人愛と赦し」を説き、「永遠のいのちの約束」を説いてきたカトリック神父の本音です。

 八方から、この嘘つきめ、ペテン師、詐欺師、いかさま野郎、・・・・と言う罵声が飛んできそうですが、ここは、こそこそと舞台の袖に逃げ込みを決めるしかないようです。では、ごめんなすって!

 そういえば、東京にM・七郎氏という友人がいます。彼は、私を彼の知人・友人に紹介するとき、大真面目な顔をして、彼独特のユーモアと照れを交えて、あたりかまわず「気を付けて下さいよ。こいつは似非神父、詐欺師、大ペテン師ですからね!」と、一言添える癖があるのです。私は、この場面では全くお手上げで、ただ苦笑いをかみ殺してその場をしのぐしかないのですが、いまこうして自分の本音を吐いてしまってみて、「はてな?彼はもしかして真実を語っていたのではなかったか?」とふと思い当たる次第です。

 しかし、どうかお願いだからここで躓かないで頂きたい。話はまだ終わったわけではないのですから。是非とも次回をお楽しみに。見事な舞台のドンデン返しを見極めるまで、どうか最終評価をお控え願いたいのです。

(つづく)

コメントいろいろ出てきました。もっと増えるかもしれません。↓          

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★ 世の終わりは近いのか(その-2) -あなたの死から復活までの時間は?-

2012-12-09 23:10:35 | ★ 世の終わりは本当に近いのか?


日本も寒いようだが、ローマも結構寒い。最近は、夜に0度を割ることがあるらしい

緯度は青森と札幌の間ほどだから、朝も遅い

雨が多いが、晴れた日の朝焼けは実にきれいだ


~~~~~~~~~~~~~~

世の終わりは近いのか(その-2)

-あなたの死から復活までの時間は?-

~~~~~~~~~~~~~~

  

寒いはずだ。部屋の窓から遠望できるアペニン山脈の峰は白く雪に覆われている。


さて、「世の終わり」 の話に戻ろう。

とは言っても、前回のブログに 「文字ばっかりで長い」 という意見があったので、

これからは短く少しずつ書くことにした。

  

 兆とか京とか、さらにその10の何乗とかいう、日常の生活感覚からかけ離れた宇宙の星の数のことを思えば、今地上に住む人口の70億という数字など、コンマ以下の端数、ゴミみたいに思えてくるから不思議なものだ。そんなことで人間どもは、やれ人口爆発だ、食糧・エネルギー不足だ、と大騒ぎしているのが滑稽に見える。神様は愛する人の子が食べて残るほどの食料を常に用意してこられたではないか。それは未来永劫変わることがない。それなのに人が飢えるのは、金持ちの抱え込みと無駄に捨てる行為のせいに過ぎないのだ。

 近くの銀河の3つ4つの惑星に数十億ずつの人類の子孫が住みつくまでだって、3000年や5000年の時間では足りないかもしれない。 如何に文明の進化が加速的に早まると仮定しても、今見える宇宙には140億光年の広がりがあるというのだから、人の子の種が宇宙にそこそこ拡散するまでには、今後数億年以上の時間を要するのではないかと思われる。

 そんな遠い未来のある日、神様はようやく「時が満ちた」と判断して、突然この世界の終末を告げられるのだろうか。だとすれば、私が-そしてあなたが-死んでから復活するまでに、この世はまだ長い長い進化の道を辿ることになるだろう。

 しかし、世界はそうであったとしても、私の寿命の残りがそう長くないのは疑いのない現実だ。私はこの15日に73歳の誕生日を迎える。この先長く生きるとしても、あと5年か10年がせいぜいの、明日知れぬ命と覚悟している。

 今まで実に気ままに人生を歩いてきた。良いこともちょっとはしたかもしれないが、大半は如何わしい、怠惰な、罪深い日々だった。回心をして、心を入れ換えて、最後だけはまじめな清らかな日々を送らねばと頭では思うが、それも物憂く先送りしている間に、突然死神に追いつかれ、心ならずも浮世に「あばよ」を告げるのがせいぜいのような気がしてきた。

 ままよ、その時はその時。死んでから冥土でゆっくりと復活の日に備えて反省し、神の前でする弁明、釈明、言い訳、お詫び、命乞い、の準備をすればいいではないか。どうせ、死んでから世の終わりが来るまでには、気の遠くなるような時間があるのだから。それに、この世の時間は結構気の紛れる忙しいものだったが、冥土の時間はきっと長く退屈なものに違いない・・・・。

 それでも、この世に残してきた友人・知人が生きている間は、死に遠く隔てられて対話は叶わなくとも、少しは生者の世界のことが気になるかも知れないが、それもそのうち縁が薄くなり、やがて無関心になるに違いない。その後はただうたた寝をしながら世の終わり、復活の日を待つだけなのだろうか?

 ところがどっこい、そうは問屋が卸さないらしいぞ!

と言うことに最近ハッと気が付いた。

 どういうことか・・・。

それは次回のお楽しみ。

~~~~~~~~~~~~~

 ツイッターに、「最近急にブログ更新のピッチが速くなったね」、と言うコメントが届いた。

そうです、その通り。クリスマスまで翻訳業の他は、原稿の整理とか、会議・旅行とかの忙しい予定が今のところないのです。

 二冊目の本の出版も近づいてきました。やや難産だったけど、最終「念校」の校正を終えて、先日バチカンポストのDHL国際宅急便で東京の出版社に送り返したばかりです。それが私の手を離れたのが、時間の余裕の生まれた最大の理由かもしれません。

 はたして、同じ柳の下に泥鰌(どぜう)が二匹いるかどうか? 興味津津です。

(つづく)

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★ 世の終わりは本当に近いのか? ―あなたの死から復活までの時間は?―

2012-12-08 09:45:52 | ★ 世の終わりは本当に近いのか?

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世の終わりは本当に近いのか?

―あなたの死から復活までの時間は?―

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写真は大銀河系 M101 (ウイキペディアから借用)


ヨハネの福音書には妙な話が出てくる。

「イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。・・・・』それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間で広まった。」(ヨハネ21章22-23節)

これは一体どういうことか?

「彼」とは明らかにこの福音書を書いた、イエスに最も愛された年若い使徒ヨハネその人なのだが・・・・。

イエスがヨハネを12人の弟子たちの中でも特別に愛していたことは、聖書に度々出てくる。イエスはそのヨハネが死を見ることに耐えられぬほど彼を溺愛し、彼が生きている間に急いで再臨する(つまりこの世に再び帰ってくる)ことを望んだということだろうか?

そう言えば、イエスは十字架の上の末期の息の下で、自分の亡き後の愛する母マリアをヨハネに託しもしたのだったが。(・・・・だが実際には、そのヨハネも自然の摂理のままに年老いて死んでいる。)

 ユダヤ人もキリスト教徒も、そして、回教徒も、建前としてはみな復活を信じていることになっている。これは輪廻の思想と根本的に対立する全く別な歴史観だ。(というより、輪廻の世界には、はじめから本当の意味での歴史はあり得ない。)

この世界は神の無からの創造によって始まり、終末をもって終わり、終末にはキリストが再臨し、全ての死者は復活し、新しい天と地が始まり、その世界には終わりがないとキリスト教は教える。

 「新しい天と地」の世界がどんなに素晴らしい世界かは、今の人間の想像をはるかに超えるものがあるが、一つだけはっきり分かっていることは、その世界もまた物質によって構成される物理的世界だということだろう。何故か?

それは「体の復活」の信仰からわかる。「体」とは他ならぬこの生身の人間の「肉体」のことであり、それは物質によって構成されたものだから、体が甦るということは、物質があると言わざるを得ないということだ。

キリストの復活体 ―したがってそれに与る私たちが復活の日に身にまとうであろう肉体― がどんなに輝かしく高められた素晴らしいものであるとしても、物質的「からだ」であることだけは絶対に変わりがない。そして、人間の体との関連性において物質的世界としての宇宙も高められ霊化されつつも存続するに違いない。

さて、先に引用した聖書の言葉、「私が来る時」とは、世の終わり、つまり終末の時を指す。死んで復活してこの世から一旦姿を消したキリストは、世の終わりに「復活体」を身に帯びた生身の人間として再臨すると弟子たちは ―従って、キリストの弟子であることを自認するすべてのキリスト者も― 信じているからだ。

上の福音書の記述から、ナザレのイエス自身が、自分の受難と死を前にして、世の終わりがごくま近に差し迫っていると「錯覚」していたとまでは敢えて言わないが、弟子たちの中にはそのような考えがあったらしいことが推察される。

 若い学生の頃、聖アウグスチヌスの古典的名著「告白」や「神の国」を読んだとき、彼が司教をしていた北アフリカのヒッポの街がゲルマンの蛮族に滅ぼされようとしたのを見て、彼も「世の終り」が到来した思ったらしいことを読んだような記憶がある。

 中世以後のカトリックの聖人たちの多くも、戦乱や、ペストや、飢饉や、道徳の退廃を見て、「世の終わり」は近いと思った例は多いようだ。聖書にそれらが世の終わりの印だと書いてあるのを知っていたからだろうか。そして、それは末法思想として世界に共通の現象と言える。

 現代でも、プロテスタント教会の末端に連なるセクトの中には、「何年何月何日に終末(世の終わり)が来るから急いで悔い改めて回心せよ!」、の類の警鐘を鳴らす例がある一方で、キリスト教とは関係ないが、ノストロ・アダムスのようないわゆる「予言者」の言葉として、同じようなことを吹聴する例が後を絶たない。

 しかし、キリストの弟子たちにはじまって、多くの聖人たちも、巷の偽預言者たちも、今までのところ全員が思い違いをし、預言は外れ、この世界は今日も悠々と未来に向かって時を刻み続けているのはどういうことか。

 私は聖人でも預言者でもないただの罪深き「リアリスト」だから、聖人たちや霊感の持ち主たちがどうして歴史から学ぶことをしないで、相も変わらず同じ錯誤を繰り返して、性懲りもなく「世の終わり」はま近に迫っているという誤った想念に囚われるのか、不思議でならない。私は、「世の終わり」―したがって、キリストの再臨―は、気の遠くなるほど悠久の未来までは決して来ないと確信している。その根拠は何か。

 天地万物の創造主なる神は、旧約聖書の冒頭、創世記の第13章16節で、ユダヤ人の太祖アブラハムに「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。」と言い、15章5節では、神はアブラハムを外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」と。

 地球の人口は今日現在71億人に迫ろうとしている。人間は浅はかにも、このまま人口爆発が続けば、地球は狭くなって住めなくなり、食糧不足で死滅する。だから赤ん坊(胎児)を殺してでも人口抑制しなければ、と危機感をあおっている。愚かな近視眼だ。

 神が言うのなら、試しに星の数を数えてみよう。人間の科学の目は今のところ140億光年の彼方までしか見えないが、その範囲だけでも100兆(10の14乗)個の星を持つ大きな銀河系が3500億個、数十億(10の9乗)個の星を持つ矮小銀河が7兆個あるそうだ。そして、その各星が太陽のように数個ずつの惑星を持つとすれば、事実上無限個の惑星があるということになる。

 ノーベル賞級の頭脳をもってしても永久に極めつくせない秩序を秘めた宇宙の星々は、単に詩人が夜空を眺めてロマンチックになるためだけにあるのではないだろう。

 旧約聖書の創造主なる神は、人間に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。・・・すべてを支配せよ。」(創世記1章28節)と命じたとき、その「地」はこのちっぽけな地球だけを指したのではないことは子供にもわかるだろう。「すべてを支配せよ」の「すべて」の中には、上の実質上無限個の星々、無限個に近い惑星をも指しているに違いない。

 近い将来、人類が愚かにも地球規模の全面核戦争を始めて、この美しい青い星が放射能汚染で住めなくなったとしても、それが世の終わりではあるまい。今から43年も前にアポロ11号が月面に着陸して初めて人が月の大地に降り立って以来、10回も人を月に送り込み、月面ドライブまでやった人類のことだから、必ず大金持ちと科学者のチームが地球を脱出してひとまず月に避難するだろう。

そんなことにならなくても、人類は必ず近い将来、経済的採算のめどが立ち次第、宇宙に拡散するに違いない。その時、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。・・・すべてを支配せよ。」と言う神のことばは現実味を帯びてくる。そして、人の子の種はあらゆる困難を克服して、必ずや宇宙に拡散していくだろう。

しかし、人類は光の速さより遅い速度でしか旅することができないとすれば、しかも宇宙は今後も膨張し続けるとすれば、140億年以上の時間をかけても宇宙の果ての星にまでは到達できまい。

では、「世の終わり」は永久に来ないだろうか。いや、そうでもあるまい。世の終わりは、結局、神が「もうそろそろいいだろう」と判断されたときに突然やってくるのではないだろうか。しかし、それは50年とか100年とか先の近未来ではなく、何億年、何十億年先のことと考えた方が理にかなっている。

と言うことは、あなたが、そして私が、死んでから、世の終わりに、つまり、キリストの再臨と新しい天と地の始まりの時に、復活するまでには、同じように何億年、何十億年の時の流れを待たなければならないのだろうか。

私は実はそうは思っていない。だが、それは次回に詳しく解明するとしよう。

(つづく)

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