:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 菩提樹 西のふるさと、東のふるさと 私はなぜマカオに行ったのか(そのー3)

2024-05-04 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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菩提樹

西のふるさと、東のふるさと 

私はなぜマカオに行ったのか(その-3)

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 まず、今までの続き具合を思いだすために、話を少し巻き戻そう。

 私がローマから帰国したとき、高松の神学校はまだ貸ビル住まいで、毎月家賃分ほどの赤字を垂れ流していた。それが司教や支援者たちのヘソクリで補填できる限界を超えて教区の財政を圧迫し始めるのは時間の問題だった。教区の会計主任になったばかりの私は、このままでは深堀司教が定年で引退すれば、その後に誰が司教になっても、赤字神学校の維持は無理と判断して、必ず閉鎖すると読んだ。日本中の司教たちも一様に、ドン・キホーテ司教の分不相応な「夢想」に始まったこの神学校は、放置しておいてもやがて自滅するのは必定で、全く相手にするに足りないと冷ややかに無視していたに違いなかった。

 神学校の存続を図り、さらに発展させるためには、自前の建物を建設し家賃の垂れ流しをストップする以外に手はない、と元銀行マンの私は考えた。そして、「神学校の建物を安いプレハブで一刻も早く作りましょう、お金は私が何とか工面しますから」と関係者に迫った。すると、新求道共同体の責任者や神学校の院長らは異口同音に、「ローマの第1号神学院に続く6つの姉妹校は、何れも神様のはからいで立派な建物に納まっている。なのに、7番目にはプレハブの安っぽい校舎を建てるなどという恥ずかしい案は、信仰のない元銀行マンの世俗的浅知恵に基づくバカげた話だ」と言って反対した。しかし、深堀司教は私の耳元に小声で、「私は谷口神父さんの考えに賛成だ。よろしくお願いします。」と囁かれた。

 大手ゼネコンで働く友人の協力を得て、プレハブながら高品質の立派な建物が設計された。私は祈った。「神様。教区にはお金がありません。この神学校の建設があなたのみ旨に叶ものであれば、必要な資金を用意するのもあなたのお仕事です。私はあなたに信頼します。」という私の祈りは聞き入れられた。手持ち資金ゼロで発注して、一年後の引き渡しの日には、神様にお願いした一億円の寄付が私の手元にあった。相手は世界一の大宗教カトリックさんだから取りっぱぐれはあるまいと、頭金も中間支払いも要求しなかったゼネコンは、まさか私が手持ち資金ゼロで一億の契約書にハンコを押したとは夢にも思わなかっただろう。知っていたら、友人も稟議書を上司に提出する勇気はなかったに違いない。世界一の大宗教カトリックの暖簾を笠に着た私の詐欺・ハッタリは、神様の目には罪と映るだろうか、と首をすくめるしかなかった。

 神学校の恒久的な建物が建ったという噂が広まると、司教会議の空気が激変した。ほっておいてもどうせ潰れるだろうと高をくくっていたが、ひょっとするとあの神学校はしぶとく生き延びて発展するかもしれないぞ、という心配がにわかに現実味を帯びてきた。東京と福岡の神学校を統合し東京一校体制にするという司教協議会のヴィジョンに逆らって、事もあろうに3番目の神学校を新設するとは何事か!協定違反ではないか?絶対に認めるわけにはいかない。力づくででも潰してしまえ!という高ぶった空気が司教協議会を支配した。

 司教協議会でこの件が初めて秘密裏に議論された時、少なくとも4-5人の長老格の司教たちが、高松の神学校の設立は関連教会法の第1項に叶っていて適法なのだから、他教区が一致団結して介入し潰しにかかるというのは如何なものか、という異論が出て、その回の協議は秘密会としその内容を部外秘とすることが決まったはずだった。しかし、不幸にしてその内容は意図的にリークされた。私はそれが誰の仕業であったかはおよそ見当がついているが言うまい。そのリークに端を発して「高松の司教は怪しからん、協定破りだから村八分にすべし」との陰湿な雰囲気が教会内に醸成されていった。

 しかし、深堀司教様には協定破りや抜け駆けをしたという良心の曇りは一点も無かった。司教団の申し合わせはあくまで申し合わせであって、個々の司教の自由を縛るはずのものではなかった。そもそも、各国の司教協議会なるものは、地方教会の相互関係を調整する連絡機関に過ぎず、司教協議会の会長を頂点に会員司教の行動を拘束する決議機関ではあってはならない。個々の司教はローマ教皇から直接に任命を受け、直接ローマ教皇に対してだけ従順を誓うものである。教皇と個々の司教とはその間に立つ司教協議会の会長を介して間接に結びつくものではなく、また教皇を差し置いて司教協議会の決定が拘束力を持って傘下の司教を縛るものでもない。もし、そのようなことになれば、「シスマ」(教会分裂)の危険な臭いが立つことになる。深堀司教は教皇の意向を確認し、教皇の望みに沿って神学校を適法に開設したに過ぎない。それを、司教協議会の決定違反とし叩くとすれば、各司教の独立した責任と自由を破壊することになると言わざるを得ない。それは日本独特の村意識、裏を返せば何事もみんなで渡れば・・・の無責任体制、そして、単独行動をとるものを村八分にして潰す因襲の支配する未成熟社会の正体を露呈したことになる。

 そんな空気に媚びて、高松教区の二名の信徒が深堀司教を裁判に訴えた。私は司教に代わって弁護士と共に公判に臨んだ。裁判長は「訴えの内容はもっぱら宗教内部の問題で、世俗の法廷に馴染まない」と言い、「カトリック教会には優れた『教会法』があるではないか。それに則って問題を処理し、是非和解するように」としきりに訴えの取り下げを勧めた。しかし、原告の信徒はあくまでも世俗の法廷での判決を求めて譲らなかった。裁判長は不本意にも判決文を書く羽目になった。

 その時、法廷外で意外な展開があった。裁判長は被告人司教の代理である私と弁護士を呼んで、異例の提案をした。曰く、「原告の身辺を調査した結果、原告が訴訟マニアであり、今までに多くの裁判沙汰を起こしていることが明らかになった。本件は本来なら原告全面敗訴とすべきところだが、それでは訴訟マニアの原告が意地になって最高裁まで上告を続ける恐れがある。それでは、カトリック教会の品位を損なう醜態を世に晒すことになり、望ましいことではない。もし可能なら、裁判費用の10分の1だけ司教様も負担することに同意してもらえないか。そうすれば、原告の全面敗訴に若干のニュアンスを添えることになり、上告への圧力のガス抜きが期待できる」。司教様に確認したら、その取引に反対されなかった。裁判所とは法律が支配する弾力性に乏しい冷たい世界だと思っていたが、意外と人間臭い面があることを私は知った。

 私はローマ総督ピラトによるイエスの裁判を想起した。ピラトはユダヤ人に訴えられたイエスが義人であり何の罪もない正しい人であることを見抜いて、何とかしてイエスを無罪にして釈放しようと腐心した。しかし、訴えるユダヤ人指導者に扇動された群衆の狂乱は収まらなかった。そこで、不本意にも罪のない聖者イエスを半死半生になるまで鞭打って、十字架刑に処する責任をユダヤ人に転嫁し、自分には関りのないことの印として、衆人環視のうちに水で手を洗う式をして見せた。この度の裁判長の法廷外の提案は、ピラトの選択に似ていると思った。

 プロの法律家の目には、裁判費用の90%の支払いを命じられた原告が「実質敗訴」した事は火を見るよりも明らかだった。しかし、負けた原告は卑しい三流宗教新聞に、全面勝訴の虚偽の談話を発表し、騒ぎ立てた。日本の教会の責任ある立場の人たちも、裁判長の真意を理解せず、虚偽のキャンペーンの前に深堀司教の「実質勝訴」の事実を擁護しなかった。私は、司教様に真実を明らかにして身の潔白を証明し、虚偽の宣伝を封じるように進言したが、彼は右手の親指と人差し指を閉じて口の前で横に引き、ご自分は事実無根の誹謗中傷を前に一切弁明しない強い意思を明らかにされた。その時私は、ピラトの前で「屠所に引かれる仔羊のように黙して口を開かれなかったイエス」の姿を見る思いがした。

 その後の展開はすでに皆さんのご存知の通りだ。深堀司教様は不名誉を背負ったまま高松を追われ熊本に蟄居し、そこで他界された。私は司教の棺を運ぶ業者の地味なワゴン車に一人添乗し、瀬戸大橋を渡るとき、棺を叩いて「司教様、やっと高松の地に戻りましたよ」と話しかけた。

 その後、深堀司教様の後任司教はバチカンに神学校の閉鎖を申し出た。福音宣教省の長官は、何とか神学校を救い高松に残そうと腐心されたが、日本の司教たちの固い結束に押し切られた。見かねた教皇ベネディクト16世は、嵐が去り、期が熟したらまた日本の地に戻そうと、一時ローマに避難させご自分の神学校として大切に庇護する決断をされた。私も、神学校のスタッフの一員としてローマに移り住んだ。ローマに仮寓する「日本のための神学校」の院長には、日本の教会との絆の象徴として、元大分の平山司教様が任命され、私はその秘書となった。

 神学校を強引に閉鎖した司教も他界し、年月が流れ、期が熟したと判断したバチカンは、同神学校を「教皇庁立アジアのための国際神学院」に格上げして、東京に設置する計画を立て、福音宣教省のフィローニ長官が二度にわたって訪日し、日本の司教団に計画を披露し根回しをした。そして二度とも反対の声が上がらなかったのを見極めて、機は熟したと判断して最終決定を下した。

「教皇庁立」の神学校の日本上陸の日程が固まり、私たちが密かに具体的設置場所の検討に入った矢先、そして、ローマ教皇訪日が既に決まった土壇場になって、司教団から突然拒否の意向がバチカンに届いた。象徴的に言えば、教皇と神学校を乗せた飛行機はすでにローマ空港を飛び立って、羽田に向かい、日本では新しい「教皇庁立神学院」の教皇による祝別も想定されていた矢先に、その飛行機は羽田の滑走路にタイヤの焦げる紫の煙を残してタッチ・アンド・ゴーで再び舞い上がり、アジアの空をしばし旋回し、やがてのことにマカオに着陸した。

 東京に振られてマカオに落ち着いた「教皇庁立アジアのための神学院」は、開設直後にコロナ禍に見舞われ、一時台湾に避難した。コロナ禍が収まってマカオに戻った神学校は、ようやく古いコロニアルスタイルの教会とその付属施設に収まった。文化遺産に指定されていて外観に手を加えることは禁じられた半ば廃墟のような建物ではあったが、内装を施し、近代化され、私が訪れる1週間前に工事が完了し立派な神学院に変身していた。

文化遺産の古い教会 その左の建物が神学校の校舎

神学校の食堂

神学校内の小さなチャペル

日が暮れた 時あたかも春節 教会の前の広場にも大きな飾りが

夜には教会のファサードをスクリーンに映像がプロジェクトされた

この映像の主催者はどうやら市当局のようだ

遠くカジノの方角から春節を祝う花火が上がった

 マカオと香港を含む中国駐在のバチカン大使にもお会いしたし、マカオの大司教の姿にも接することができた。分かったことは、高松に起源をもち、長年ローマで教皇の保護のもとにあった神学院は、東京に「教皇庁立」として着地するはずが、土壇場で日本の教会に拒絶され、緊急避難的にマカオに着地した。しかし、その後、「教皇庁立」のタイトルは外されて、直接マカオの大司教の傘下に入り、広くアジアの神学生を受け入れる神学校の形に落ち着いていた。高松の「日本のための神学院」の神学生たちのうち、司祭叙階を間近に控えた数名はそのままローマに残ってローマでの叙階に備え、まだ神学生歴の浅いものはマカオに移籍した。彼らがそれぞれの場所で司祭になり卒業すれば、高松に深堀司教が開設したレデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院の痕跡は最終的に消滅する。今回の私のマカオ行きは、その厳しい現実を確認する旅となった。

* * * * *

 高松の神学校は、聖教皇ヨハネパウロ2世がローマに開設した神学校「レデンプトーリス・マーテル」の名誉ある7番目の姉妹校だった。今や、同じ姉妹校の数は全世界に125校以上にまで増えている。そして、一連の経緯を経て主要国でその姉妹校を持っていないのは結果的に日本だけになった。いつか、必ず同じ姉妹校が再び日本に誘致されることになるだろう。それが歴史の必然だ。しかし、私はその開設をこの世で見ることはもう恐らくないだろう。

 私は、自分がその設立に微力を尽くした高松の神学校のなれの果てとしてマカオに開設されたこの神学校の実際の姿を、ぜひ自分の目で確かめ見届けたかったのだ。

 日本の将来の宣教のために絶対必要と考えて、深堀司教と共に信念と愛情を傾けて建てた神学校の建物は、庇(ひさし)を貸して母屋を乗っ取られ、今やダルク(薬物依存症の患者のサポート施設)に占拠されたまま放置されている。新生「大阪・高松大司教区」はその現実にどう対応するのだろうか。

* * * * *

 ローマ教区立の「レデンプトーリス・マーテル神学校」の7番目の姉妹校だった高松教区単立「レデンプトーリス・マーテル神学校」は、一時美しく花開いた。ピーク時には30人ほどの神学生を擁し、多いときは年に6人の司祭を輩出した。

 それは当時日本の11司教区の「諸教区立」東京大神学校に引けを取らない存在だった。いったん統合した東京と福岡の「諸教区立」神学校は両者の体質の違いから亀裂が入りすぐまた分裂した。最近改めてまた一つに統合されたようだが、もはやかつての高松教区立「レデンプトーリス・マーテル」神学院ほどの勢いは見られないのではないか。

 歴代の教皇たちに大切に保護され、素晴らしい可能性を秘めながらしぶとく生き延び、ローマで帰国の機をうかがっていた元高松の神学院が、マカオの地で最終的に完全消滅の運命をたどらざるを得なかったのは何故か。私は、その原因が私の不徳の致すところ、私の罪の結果ではないかと考えて、自責の念に堪えない。そのことは、世の終わり、最後の審判の時、神様と復活したすべての魂たちの面前で明らかになる。深い畏れのうちにマカオを後にした。

 現在ローマには二つの主要な神学校がある。一つは多くの司教や聖人を産んだ歴史のある「コレジオロマーノ」で、第二バチカン公会議前の司祭養成体制を象徴する。もう一つは聖教皇ヨハネパウロ2世が新たに設立した「レデンプトーリス・マーテル」神学校で、第二バチカン公会議後の教会の精神に基づく司祭養成体制を具現したものだ。今や世界ではどこでもこの二つのタイプの神学校が共存することが常識になった。日本も他国に先駆けてこの共存体制に入ろうとしたが、その後、日本の教会はローマの制止を振り切って、生まれたばかりの新しい第二の神学校を闇に葬った。日本には1965年に幕を閉じ新しい教会の歴史を開いた大教会改革である第二バチカン公会議がまだ届いていない状態に留まろうとしているのだろうか。

〔完〕

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★「菩提樹」西のふるさと、東のふるさと(そのー2)

2024-04-22 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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菩 提 樹

西のふるさと、東のふるさと 

(その-2)私はなぜマカオに行ったのか

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 私は、2月4日にマカオに着いていた。中国圏は春節(旧正月)の直前だったが、すでに人々の移動は始まっていた。

 

16世紀のアジアの宣教の拠点 教会の繁栄を偲ばせる遺跡

ファサード左側アーチの上にはイエズス会の紋章が

教会の壁には聖フランシスコ・ザビエルの足跡をたどるパネルが

 

しかし、民間信仰はやはり道教か?

 

  康大真君         福徳正神

万民是保 道法自然 

春節とあって公園にも張りぼてが

 

しかし、現代最強の神はなんといってもカジノのお金の神様

本物の三分の一のエッフェル塔がカジノの玄関に

昼間そのテッペンに登って見まわすと

カジノと黄金のホテル

 どこを向いてもカジノとホテルが林立している 日本もこんな景色を後追いするのか 向学のためにディーリングルームにも入ってみたが、写真は厳禁だった

大谷の通訳ではないから賭けるお金は持ち合わせなかった

 

広い河ほどの海面の目と鼻の先には大陸中国の巨大な建物が 中国上陸を志したフランシスコ・ザビエルの終焉の地ー上川島ーには行かなかったが、やはり中国本土とは至近距離にあったと思われる

 

ほうきの柄の先にゴミ袋を下げ、カジノの前の道路を清掃するおばあさん

 

 さて、私はなぜ今頃マカオに行ったのか? この問いに答えを出さないと、この一連のグログは終わらない。

 それは、私の司祭の召命の歴史に関係がある。もっと具体的に言えば、高校三年生のとき受験を目前に参加した黙想会の話にさかのぼる。大学受験に向けて精神面を強化するための合宿ぐらいの軽い乗りで参加した「黙想会」は、実は、真面目で純真なカトリック信者の生徒をターゲットにした「イエズス会への入会志願者獲得のために仕組まれたリクルート洗脳合宿」だった。イエズス会に入って生涯を神様に捧げることこそ、洗礼を受けた日本男児の最高の生き方だ、という想念を注入する集団催眠が目的だったと言ってもいいかもしれない。

 真面目な私は、コロッと洗脳されて、イエズス会入会への固い決意とともに家路についた。父親の期待を一身に背負い、自宅から通学できる関西の国立大学の理系の受験勉強の仕上げに入っていたはずの私が、帰宅するなり、開口一番「ぼくは東京の上智大学を受験してイエズス会に入ります。関西の大学の理系には進みません」と宣言したのだから、父親は仰天して腰を抜かした。息子に裏切られたと思ったに違いない。

 東大法科在学中に高等文官試験にパスし、飛ぶ鳥を落とす勢いの内務省に天皇から直接任命を受ける「勅任官」として入省。中でも、特にエリートが進む警察畑で幸先のいいスタートを切り、当時すでに大蔵次官であった兄貴の贔屓もあって、父は入省同期の間では頭一つ先んじてとんとん拍子に出世したことが仇になった。第二次世界大戦に敗北し、占領軍のマッカーサー元帥の指令で公職追放の憂き目に会い、若い愛妻には肺結核で先立たれ、踏んだり蹴ったりのダブルパンチを喰らい、戦後の大混乱の中、3人の幼い子供を抱えて無職・極貧のどん底の絶望を体験した父は、世間を学歴と肩書だけ渡ろうとする奢った生き方を、敗戦という社会の激動の前にあっけなく狂わされた苦い経験から、長男には社会の激変にも耐えて生き延びられる技量を身につけさせようと、理工系への進学を私に期待したが、父のその願いは見事に打ち砕かれた。・・・と、こんな調子で詳しく書き連ねるなら、とんでもない長い話になって、「なぜ今マカオへ?」の答えにたどり着くのに、何回ブログを書けばいいのが分からないことに気がついた。一回で終わらせるためには、話を極端に端折らなければならない。

 さて、翻意を促す父の声を無視して、上智大学でラテン語と一般教養を済ますと、広島の修練院へ進んだ。天国のような幸福な生活だったが、半年もすると疑いが生じた。洗脳の麻酔がそろそろ切れてきたか?このまままっしぐらに進んだら、世間知らずの独善的エリート神父になってしまうに違いないと思った。また、カトリックの神父は生涯独身のはずだが、尊敬する先輩が突然神父を辞めて結婚したという風の便りにも、自分の未来を見た気がした。修練院を飛び出して、東京に舞い戻ると、一般学生として中世哲学科を博士課程修了まで進み、研究室の助手をしながら論文を書こうとしていた矢先に、上智大学にも左翼学生運動の騒ぎが襲った。若い学生諸君の主張に共感を表明したら、大学当局から危険分子として睨まれ、助手を首になった。すると、戦前から日本にいたドイツ人神父たちが、失業した私をドイツの銀行に裏口から押し込んだ。国際金融業は刺激的で面白かった。ドイツのコメルツバンクに始まり、アメリカのリーマンブラザーズ、さらにイギリスの某マーチャントバンクを渡り歩いた。

 「人は、理由なしには嘘をつかない」という智恵に満ちたラテン語のことわざがあるが、仕事やプライベートで私はつまらない見栄や取り繕いのために度々嘘をついたし、少しは善いことをしたかもしれないが、悪いこともけっこう沢山しながら面白おかしくビジネスに没頭した。教会からは足が遠のいていた。ほんの2-3年の腰掛けのつもりが、アッと気が付いたらー浦島太郎ではないがー白髪が目立ちはじめた40代半ばに達していた。シマッタ!!本物の神父になりたくて、しばしの体験修業のつもりが、うつつを抜かし過ぎた。

 もう手遅れか?と、焦って教会の門を片端からたたいてみたが、いずれも固く閉ざされていた。後ろから悪魔が、「バーカ!今さら何の悪あがきか。お金の神様のもとに戻っておいで。お前に高給を払ういい銀行を紹介してやろう!」と誘ってくるが、その手に乗ったら私の魂は地獄行きだと思った。前に進めず後戻りもできなくて、左右を見たら、そこにバブルで活気にあふれた山谷や釜ヶ崎の日雇い労働者の世界があった。

 山谷での懺悔と浄化の時を経て、やっと巡り合ったのが高松の深堀司教様だった。しかし、事は思い通りにいかないものだ。今度は、東京の大神学校が私の受け入れを断ってきた。東京がだめなら、ローマしかなかった。ローマには聖教皇ヨハネパウロ2世の治世下にキコというスペイン人のカリスマ的存在=新求道共同体の創始者=の精神に基づいて新設されたばかりの「レデンプトーリス・マーテル神学校」があった。そこに住み、教皇庁立のグレゴリアーナ大学で神学を学び、世界の教会堂の母と言われるラテラノ大聖堂で助祭に叙階され、そのあと、高松の司教座聖堂で晴れて司祭に叙階された。すでに54歳になっていた。私はこの司教様とその後継司教に生涯の従順を誓った。

 司祭叙階後、神学教授資格を取るために再びローマにもどった。ちょうどそのとき、日本の全司教が5年に一度のアドリミナ(恒例の教皇表敬訪問)のためにローマで揃い踏みをした。その時、深堀司教様は新求道共同体の関係者から、私が学んだ「レデンプトーリス・マーテル神学校」の姉妹校の誘致を勧められた。司教様は気迷って、私に、「谷口君。こんな話があるがどう思うかね」と意見を求められた。「それはお受けするべきでしょう」と私は即答した。司教様は「なぜそう思うかね」と問い返された。「それは、高松司教区にはカトリック大学もなく、人材もなく、お金もない、無い無い尽くしの日本最弱小司教区だから、神様が働かれるのに最も相応しい場所だからです」と答えた。司教様はアドリミナの期間中に教皇様と個人面談され、「自分の教区にレデンプトーリス・マーテル神学院の姉妹校誘致の勧めを受けているが、教皇様はどうお考えですか」とお伺いを立てられた。そして教皇様は「それはいい話だ、ぜひ進めなさい」と、背中を押された。

 教皇様のお墨付きをもらった司教様にもう迷いはなかった。神学校設立に関する教会法第237条の第1項には、「各教区は可能かつ有効である限り大神学校を有しなければならない」とある。これが基本原則だ。ただし、第2項には「しからざる場合には、聖なる奉仕職を目指して準備する学生は他の神学校に委託されなければならない。又は、諸教区共立神学校が設立されなければならない。」とある。深堀司教は同条文の第1項に則り、ローマ教皇の励ましを受けて、正当かつ合法的に高松教区立として「レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」の設立を宣言された。

 しかし、日本の大方の司教たちの目には、その決定が時流に逆らった分不相応な計画と映り、皆一様に、早晩挫折するにちがいないと冷ややかに傍観を決めた。当時、日本のカトリック教会では、九州・沖縄の6教区が、教会法第2項に則って合同で「諸教区立大神学校」を福岡に持ち、北海道、本州、四国の10司教区のために、東京にもう一つの「諸教区立大神学校」があった。そして、今後の司祭召命の減少と教勢の衰えを見越して、両大神学校を統合した「東京大神学校」一校体制に移行する長期的展望に関する日本司教協議会の一般的了解があった。

 私が神学校教授の資格を取って高松に帰ってきたときは、高松の神学校はまだ貸しビルで運営されていて、毎月の家賃支払いでかなりの赤字を垂れ流していた。神学校の建設用地として広い土地が購入されてはいたが、教区の資金はそこでほとんど底をつき、建物建設の目途は全く立っていなかった。教区の会計主任になったばかりの私は、このままでは深堀司教が定年で引退された後に誰が司教になっても、赤字の神学校の維持は不可能と判断して、必ず閉鎖すると読んだ。日本中の司教様たちも一様に、深堀司教の分不相応な「夢想」に始まったこの神学校は、放置しておけばやがて消滅するのが必定で、全く相手にするに足りない、と冷ややかに無視していたに違いなかった。

 実は、このことと私の今回のマカオ行きが深く関係しているのだが、それをいま書き始めればまた長くなるので、その詳細は次回に割愛することにしよう。

 このテーマ、あと一回で終わることを誓います。

薔薇.jpg

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★ 「菩提樹」 西のふるさと、東のふるさと (その-1)

2024-03-16 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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菩 提 樹

西のふるさと、東のふるさと 

(その-1)

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 私は今年の2月中旬香港のお隣のマカオに行ってきました。1964年にフランスの貨客船に乗ってインドへ旅する途中、初めて寄港し上陸した「外国」が香港でした。その時に強烈な印象は、私のブログの「インドの旅から」シリーズでお読みいただけます。

 しかし、マカオは今回が初めてでした。そこで私は、思いがけず菩提樹という札を下げた巨木をたくさん見ました。日本では大きくそびえる楠(くすのき)を知っていますが、菩提樹はあまり見たことがなかったような気がします。

 

幹には「假菩提樹」のエチケット    同じエチケットを付けた街路樹

 菩提樹と言えば、すぐ心に浮かぶのはホイヴェルス神父様です。師はさまざまな機会に結構な美声で、シューベルトの菩提樹の歌を歌ってくださったからです。昭和の最後の雲水と呼ばれた曹洞宗の澤木興道老師にホイヴェルス師をお引き会わせしたときも、師は老師に菩提樹の歌を歌って聴かせ、二人はたちまち旧友のように親しくくつろがれたのを今も忘れることは出来ません。

 そのホイヴェルス師は、「菩提樹」という題の一文を残しておられます。短いものですので、味わってお読みください。

「菩提樹」

ホイヴェルス著「人生の秋に」から

 百科事典を見ますと、菩提樹を三つの点でほめています。第一に、その樹の勇ましい姿のために。菩提樹は、たまに25メートルから30メートルまでもそびえるのです。第二は、その花から取れるおいしい蜂蜜のために。第三は、そのやわらかい材質のために。木彫師は菩提樹の材質を好んで、聖母の御顔を掘るためには最もふさわしい材質だといいます。

 私の父親も菩提樹が好きでした。父親は青年時代に、家の東に一本、南に二本、西に一本、菩提樹を植えました。西に植えた樹は特に繁っていました。私はギムナジウムのとき、その樹と生家を水彩で描き、その絵を遠方のウルスラ会の寄宿舎にいた妹に送りました。それは妹のホームシックを癒すためだったのです。また学校では、菩提樹の歌も学びました。“Am Brunen vor dem Tore・・・” この歌は私の一生の道連れになり、日本にまでついてきました。はじめ私は、日本には菩提樹もその歌もないものと思っていました。しかし今からほとんど半世紀も前のこと、ある日、立川駅のプラットホームで、ハイキングに行く若い人たちがこの歌をうたっているのを聞きました。私はとても嬉しく思いました。

 昭和のはじめ頃、方々の大学で講演会がはやり、私たちも全国をめぐって唯物論の魅力とその矛盾について話をしました。ときどき話がうまくいかないと、結びにリンデンバウムの歌をうたいましょうかと、私は聴衆にききました。皆、急に嬉しそうな顔をして、どうぞよろしくお願いいたしますと言い、私がうたうと皆もいっしょにうたいました。このことは数年もつづいて私の習慣になりましたが、いつも同じ歌ですから、私はすこし恥ずかしく思いました。たまたま二、三年前、ベルリンのフィルハーモニーの団員三人が知人からのよろしくを伝えにやってきて、いろいろ話をしていました。その中の一人が、「人々はよく私たちにドイツの歌曲をうたってほしいと頼むが、そんなとき、一体何をうたったらよいだろうか」と言いました。いま一人が、「さあ “Am Brunen vor dem Tore …" はどうだろう」と答え、三人とも賛成しました。私はこれを聞いて、ちょっとびっくりしました。有名な音楽家でも、このような単純な歌をうたうなら、私がうたってもおかしくはないはずだと思いました。三人の音楽家はすぐに鞄をあけて、この歌の楽譜があるかないかを調べました。私はこれをみて、私なら楽譜がなくても困らないと思いました。ともかくこれから後は、安心してこの歌をうたうつもりになりました、声のつづくかぎり。

 しかしその声が問題になったのです。あるとき聖堂で、ミサの説教中に突然声がでなくなりました。私はルカ伝の、ザカリアの話を思いだして彼の真似をしました。手をあげて口をさし、声が出なくなったと合図し、説教壇をおりて低い声でミサを終わり、また唱えました。そして、これで “Am Brunen vor dem Tore・・・” も終わりになると思いました。しかし不思議なことに、それからしばらくして、ふつうの話は嗄れた声のままでしたが、 “Am Brunen vor dem Tore ・・・” は、たぶん一生涯で一番きれいなはっきりした声でうたえたのです。

 およそ二十年前のことです。桜町病院に勤めていたプンスマン神父は、樹木の専門家でしたので、菩提樹の種を播き、一年経った苗木を私に贈ってくれました。ちょうど秋の頃で、鉢に植えられた一本の苗木は春を待っているところでした。ところが、春になってもなかなか芽を吹きません。夏になってもそのままです。もうなかばあきらめていましたが、ようやく秋のはじめに芽を吹きました。ヨーロッパの種でしたから、日本の気候に慣れるのに時間が余計にかかったのでしょう。しかし、その後なかなか一本の幹も伸びてこず、小さな枝ばかり出していました。けれども、今年になってやっと一本の幹らしいものがのびてきました。大きさは一メートルにも及びませんが、盆栽のようなものです。満足な菩提樹になるまでには、あと二百年も三百年もかかるでしょう。その時には、私の西のふるさとドライエルワルデと、東のふるさと東京で、“Am Brunen vor dem Tore ・・・” が社会の中にこころよく響いたら幸いだと思っています。

薔薇.jpg

 この短編を読んで、シューベルトの歌曲「冬の旅」から、フィッシャーディスカウの憂いを秘めた「菩提樹」歌声聞こえてきませんか。ホイヴェルス師はこのドイツ民謡を、講演会で、学生を集めた勉強会で、素敵な声で何回も何回も歌われたものです

     Am Brunen vor dem Tore  泉に添いて

     Da steht ein Lindenbaum        茂る菩提樹

     Ich träumt in seinem Schatten    したいゆきては

     So manchen süßen Traum       うまし見つ

     Ichi schnitt in seine Rinde       幹には彫(え)りぬ

     So manches liebe Wort         ゆかし言葉

     Es zog in Freud’ und Leide       うれし悲しに

     Zu ihm mich immer fort        訪(と)いしその陰

 

 目を閉じると、ホイヴェルス神父様のなつかしい歌声が心に響きます。

 さて、私が師の「菩提樹」について書く気になったそもそものきっかけは、今回のマカオへの短い旅でたくさんの「假菩提樹」の樹を目にしたからでした。

 それにしても、なぜ私が急にマカオへ行く気になったのか、気になりませんか。それは、次回のブログ「菩提樹」(その-2)であらためてお話しすることにいたしましょう。

薔薇.jpg

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★ クリスマスの思い出

2022-12-20 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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クリスマスの思い出

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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 毎年クリスマスの頃になりますと、人が私にクリスマスの思い出の話をたのみます。毎度、大体次のようなことをのべます。 

 私の覚えている始めてのクリスマスは四歳のときでした。私たちの家には、広間から二階に通じる階段があって、そこは兄と私の一番好きな遊び場だったのです。この階段の上の方、煙突の後に物置きのような小さい暗い部屋があって、その戸はいつもしまっていました。

 ある日、母は階段を登ってこの部屋の戸をあけたのです。すると中から、とてもいい香りがして来ました。私も母のあとから、この部屋にはいってみました。母が大きな長持のふたを開けると、おいしそうな香りがたくさん出て来ました。でも暗い部屋だったので、何もみえません。私は長持のふちにつかまって、中を見ようと思いましたが、まだ体も手も小さくてできません。母は私をだき上げて、中の物を自由につかませてくれたのです。 

 そして小さい声で「ダウエル・エップフェルですよ」と母は言いました。(長い間もつリンゴで、ちょうどクリスマスの頃においしく食べられるのです)私は、「ダウエル・エップフェル」という言葉をくりかえして言いながら、大きくて丸いすべすべしたリンゴを両手でたくさんかかえました。すると母はまた「これはヴァイナハツ・エップフェルですよ。(クリスマスのリンゴ)」と言って教えてくれました。私はこのむずかしい言葉を一生けんめい言って見ようと思いました。 

 「もうすぐクリスマスが来ますよ。クリスマスが来たら、このリンゴも出してあげましょうね」と言いながら、母は私を床におろして、長持のふたをしめました。 

 私はとても大きな希望をもって、クリスマスの来るのを待っていました。クリスマスの意味は、ちっともわからなかったけれども、嬉しいよいことばかりを、もたらしてくれるものだということがわかったのです。なぜって、郵便屋さんがいろいろの包みを持って来ると、母はできるだけ早く、私たちに気づかれないようにかたづけてしまったからです。 

 それから幾日かたって、ある朝、父はもみの木を家の中に運びいれました。すると翌年の春から小学校にゆく私の兄は物知り顔に「これはヴァイナハツ・バウムだ。(クリスマス・ツリー)」と言ったのです。私はその木を見ましたが、リンゴは一つもついていないので、兄に聞いたのです。「でも、ヴァイナハツ・エップフェルはどこにあるの? ヴァイナハツ・エップフェルはついていないじゃないの」兄は笑って「それはクリスト・キント(幼きキリスト様)が木におつけになるのだよ」と言いました。 

 その日の夕方、母は私たちをいつもより早く寝かして「あしたはヴァイナハテンですよ、クリスト・キントもいらっしゃるから早く起きなければいけない。そうしていっしょに教会に行きましょうね」と言いました。けれども私たちは「どんなふうにしてクリスト・キントが贈り物を持っていらっしゃるのだろうか、いつリンゴを木におつけになるのだろうか」ということを知りたかったので、階段の所でわざとゆっくりゆっくりしていました。そして母と女中たちがローソクを木につけるのを見てしまったのです。母はいろんな色のピカピカ光る玉も、木の枝のあちらこちらにつけていました。 

 母が「早くおやすみなさい」と注意したので、私たちは仕方なく「グーテ・ナハト(おやすみなさい、またあした)」とあいさつをして、階段をのぼり、南向きの私たちの寝室にいきました。私はねないで、一生けんめい、下で皆が何か言うのを聞こうとしましたが、下では、ただ小さい声でささやくだけで、ときどき笑い声が聞えるばかりでした。そのうちにいつか私はねむりこんで、夢の中でクリスト・キントの木を見たのです。 

 あくる日の朝、兄と私は早く起きて、はれ着を着ると、できるだけ気をつけて下におりて行きました。まだその頃は電気のない時代でしたから広間は暗くてまだ何も見えなかったのです。私たちは胸をドキドキさせてテーブルの回りやヴァイナハツ・バウム(クリスマス・ツリー)のまわりを手さぐりで歩いて見ました。部屋はいい香りでいっぱいでした。兄は前の年のクリスマスを覚えていたので、クリスマスはどんなふうにお祝いしなければいけないのか、ということをよく知っていました。それで父母の部屋をたたいて、ドアを開けると、「フロェーリヒェ・ヴァーイナハテン(クリスマスおめでとう)」というあいさつをしました。父も母も同じあいさつをしたのです。でも私はどうしてもこんな荘重な言葉を言うことはできませんでした。母は兄に「ランプをつけて、クリスト・キントはどんな贈り物を下さったかごらんなさい」と言いましたので、私たちは大いそぎでランプをつけてみました。 

 クリスマス・ツリーの下には私たちへの贈り物がたくさんつみ重ねてあって、兄のためには、いろいろの学用品もあったのです。お皿にはそれぞれクルミの実やお菓子がよそってあって、それにあのヴァイナハツ・エップフェルもありました。私のいただいた贈り物のなかには、いろんな色のぬってあるきれいな車があったので、私はそれを両手でかかえて床の上にそっとおろしました。車には曳きづながついていて、私はそのつなを持ってひいて歩きました。とても嬉しくてたまりませんでした。驚いたことに、この車は音楽をやり始めたのです。大きないろいろの違った音(ノート)が(本当は三つの音だったのです)面白く聞えました。そしてその音楽が嬉しかったので、長い間楽しもうと思って、一生けんめい車をひいて歩き廻りました。クリスマス・ツリーやテーブルのまわりを……。兄はびっくりして、私の車をみつめていました。この頃もう兄は何でも機械が好きでしたから、きっとこの車も調べてみたいと思ったのでしょう。でも私はすぐ気がついたので、もっと早く、できるだけ早く車をひいて歩きました。音楽はますますはげしくなるので、私も夢中になってテーブルの回りをかけ廻りながら、車の音に合わせて歌を歌ったのです。それはそれは嬉しくていい気持でした。 

 母は広間にはいって来て、私を見ると嬉しそうにほおえみました。それで私は母に「お母様、僕はとても嬉しかった。クリスト・キントは僕にこの『トゥンカ、トゥンカ』を下さったの」と言うと、母は「まあトゥンカ、トゥンカを」と言って笑っていました。 

 それから母は兄と私にヴァイナハツ・エップフェルを下さって「これを、おあがりなさい。その間に、私たちは教会にいく支度をしてきますからね」と言いました。私たちはリンゴをいただくと階段のいちばん下の段に腰かけて食べながら、クリスマス・ツリーを眺めました。青い枝の間には、ルビーのようなつやつやしたリンゴがついていました。リンゴがどんなにおいしかったか、言葉で言いあらわすことはできません。食べてみなければとてもわからないからです。 

 支度ができると、みんないっしょに教会に行きました。私がおぼえているのでは、これが初めてです。兄は父といっしょにコーラスの方のパイプオルガンのそばにのぼっていきました。どんな機械でも好きな兄でしたから……。母は私の手をとって自分の席につれて行きました。席についてから、私は思わず上を見ると、とてもびっくりしたのです。クリスト・キントのお家の天井はなんと高いのでしょう。(それはゴチック式の丸天井だったのです)左官屋さんはどうして、あんなに高い丸い天井を作ったのでしょうか、どうしても私にはわかりませんでした。それにまた、急に私たちの頭の上に落ちてくるかも知れないという心配で、私の頭はいっぱいだったのです。とても心配だったので、まわりの人たちの顔を見廻しましたけど、誰も心配そうな顔をしていないので、私もやっと安心しました。まだ満三歳半ばかりで小さかった私は、何も見ることができなくて、ただ天井だけが見えるばかりでした。その頃は、女の人たちはとても大きな、つばの広い帽子をかぶっていました。それで、私は椅子の上に立ち上がって、帽子の間を通して遠くの方に、数えきれないほどたくさんのローソクがともって光り輝いている祭壇を見ることができたのです。まもなく白と赤の着物を着た男の子が香部屋から出て来ると、その後から神父様はめずらしい祭服をまとって出ていらっしゃって、ゆっくりと落ちついた足どりで祭壇にのぼりました。

 その瞬間、静かにしずまりかえっていた教会の中で、パイプオルガンが全力をあげて嵐のような音楽で教会を包んでしまいました。オルガンの低い強い音のために、教会全体がふるえたのです。クリスト・キントのお家の音楽は、私のいただいたトゥンカ、トゥンカの音とはずいぶん違っていました。教会は音楽のためにしばらくふるえていましたが、また急に静かになり、パイプオルガンのメロディーに合わせて皆が歌い始めたのです。私の母も歌いました。それは、「ハイリヒステ・ナハト」(聖き夜)というクリスマスの聖歌でした。 

    とうとき夜

    くらやみはさけ 

    愛らしき強き光りは 

    空から輝きぬ 

 ここまで、私はやっと言葉が少しわかっただけで、あとはただ光りとパイプオルガンの音と人びとの声でいっぱいにみたされている教会だけしか感じませんでした。どれもこれも高い丸天井の教会の中で、たいへんに美しくひびいていたのでした。

 その後また突然、あたりはまったく静まりかえって、この静けさの中では、もうだれも、せき一つする人もなかったのです。そのとき、祭壇の方に鈴の音が聞えました。母は私を少し抱き上げて、耳もとで「さあ、これからクリスト・キントがいらっしゃるのよ」とささやきました。もう一度小さい鈴の音がひびくと、人びとはみんな頭をさげました。母は小さな声で「さあ、あそこにおいでになりますよ」と言いましたので、よく見ると、神父様は何か白いものを両手で高くさし上げていらっしゃいました。しばらくして、またパイプオルガンが音楽をかなで、人びとが歌い始めたとき、母は「あれがクリスト・キントだったのですよ」と言いました。

 教会からの帰り道で、私は母に「あのクリスト・キントはどんなだったの?」と聞いてみますと、母は「まあ、それはもう少し大きくなったらよくわかるでしょう」と言いました。 

 その日どんなことをしたかおぼえていませんが、晩のことは、いまでもよく覚えています。夕食がすんでから、お隣の子供も、クリスマスのお祝いにやって来ました。母はローソクに火をつけランプの光りを消したので、クリスマス・ツリーは初めて本当にみごとなヴァイナハツ・バウムになって、リンゴもガラスの玉もとてもきれいに青い枝の間に輝いていました。私たちはみんな手をつないでクリスマス・ツリーのまわりに大きな輪を作りました。父は、「ハイリヒステ・ナハト」(聖き夜)という今朝教会で歌ったあの聖歌を歌い出し、みんないっしょに声をそろえて歌ったのです。私は、言葉がまだよくわからなかったので、みんなの声にいいあんばいにあわせて、一生けんめい歌いました。そのあとで、母はクルミの実とお菓子とリンゴをみんなにくばりました。私はいただいたリンゴを食べ、「トゥンカ、トゥンカ」をひきながら、クリスマス・ツリーのまわりを歩きました。右の手で車をひき、左手にはリンゴを持って……でも食べることも忘れて、やっと覚えたばかりの「ハイリヒステ・ナハト」をきれぎれに歌っていました。 

 そのうちに私は疲れて、階段のいちばん下の段に腰かけると、じっとしたままピカピカ光る玉を見ていましたが、見ているうちに明るい木はだんだん私の目から遠のいて行き、とうとうずっと遠くの方に行ってしまいました。私はいつの間にかそのまま寝こんでしまったのです。翌朝目がさめたとき、私はベットの中に寝ていました。

 

* * * * *

 

私のクリスマスの思い出も母の思い出と重なる。やはり4歳のころのことではなかったかと思います

 

 この写真は私の6歳のころの家族写真から切り取った母の面影だが、22歳で私を産んで、31歳で他界した彼女はこの時まだ27か28歳になったばかりでしょう。神戸の下山手に洋館2階建ての医院を経営していた裕福な医者の末娘で、神戸女学院でプロテスタントの信仰を得た敬虔なクリスチャンでした。

 私の最初のクリスマスの思い出は、時あたかも第二次世界大戦の真っ最中で、灯火管制の中、黒いフードを傘につけた電灯の下で、父が母に言われてどこから切ってきた1メートル余りの若い松の木を官舎の応接間に立て、母は大きな桐の箱を物置きから取り出して、中から赤や青や金色のガラスの玉や、小さな家、蝋燭や、赤い靴下やきらきら光る長いモール、雪に見立てた白い綿で緑の木を飾り立て、木の頂には大きな金色の星を飾り付けました。幼い私はただ目を見張って見ていたのでした。

 少し成長すると、日曜日には教会学校に通い、家でも讃美歌を歌い、冬にはクリスマスツリーを飾るなどは、東北の地方都市では珍しいことではなかったかと思います。

 戦時下だったから華美や贅沢は国賊もので、ホイヴェルス神父様の幼年期のようにクリスマスプレゼントはなかった。私のトゥンカ、トゥンカに代わるものは、母のピアノと讃美歌でした。母はしっかりと信仰の種を私に 蒔いてくれました。そして、後日それはカトリックの信仰に形を変えて実を結んだのでした。

 母は純粋な信仰を守り通し、隣人愛の実戦の代償として栄養失調と結核で若死にしました。無神論者の父は母のそのような生き方に同意しかねるところがあったようでした。しかし、父の家族愛は強く、当時すでに30代の半ばを過ぎていたが、兵役の赤紙を免れるために、指の1本や2本を切ってでも身体検査で落とされることを真剣に考えた、と後日ポロリと漏らしたことがありました。

 いま、ロシアでは徴兵を免れるために数十万の男たちが国外に逃れていますが、島国の日本では、逃げていくところがなかったのでした。終戦後、父は陸奥湾に進出したロシア艦隊との交渉を命じられ、ランチで横付けしたロシアの旗艦に縄梯子で登るとき、緊張と恐怖でガタガタ震えたといいました。そのあとすぐ新しい任務を帯びて、広島に進駐してきたオーストラリア軍を迎えました。また、全国各地を回られた天皇が広島を訪れられたときは、父は天皇の身辺警護を受け持ち、学者の天皇がお忍びで安芸の宮島で生物観察を希望されたときは、天皇のランチが岸を離れようとした瞬間に飛び乗ってき一人の新聞記者を無慈悲にも海に突き落としました。後で、商売道具のカメラがだめになって可哀そうなことをした、と私にこぼしました。そして、天皇のお召列車が岡山との県境を超えたとき、父は車中で公職追放の辞令を受け取ったのでした。そして、一家の転落の厳しい生活の中で母は死にました。

 戦争は人間の愚かさが生み出す悪です。ウクライナ戦争は仕掛けたロシアが生んだ最悪の見本みたいなものではないでしょうか。

 日本の平和憲法のおかげで、自分は一生戦争を見ないで済むだろうと思ったが、いま日本は憲法を空洞化して軍拡に舵を切りました。戦場で日本の若者の血が流れる日が近いような悪い予感がします。

 日本の誇る平和憲法は、明日の諸外国が模範とすべき、最も先進的な憲法であるのに・・・。

 

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★ 悲しき雀

2022-12-10 09:19:53 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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悲しき雀

ホイヴェルス師著 =時間の流れに=

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 友達の家の縁側には、鳥籠の中に一羽の小鳥がさえずっていました。鳥籠は朝風の中にゆりうごき、鳥の声は悲しそうでした。私が見にゆきますと、鳥は黙りこんでしまいました。私をおそれるあまりなのでしょう。何と珍しい鳥なのだ! お前の右足は白、左足は黒、尾羽根はひきむしられ、嘴は太く、たくましく、いつも桜桃の種を割っているかのようだ。しかしお前の目は賢く聰い。おとぎばなしの鳥のようだ。「お前は何という鳥だね、いってみたまえ。鶯(うぐいす)か鷽(うそ)かい」この対話を私の友達は聞いて「いやどっちでもない、名なしの鳥ですよ。あるいは雀の種類ではないかしら。小さい時に、こちらにとんできたので、鳥籠に入れてやったのです」私はこの雀といわれるものをこれ以上邪魔しないで出ていったので、雀は喜びの歌を歌いました。

 しばらくして、雀の鳥籠での生活は、とても退屈にちがいない、と同情しました。この雀のために遊び仲間を何とか工面してやりたいな、と思ったものの、もちろんできっこありません。庭でもう一羽の雀をつかまえることさえできないのです。でもある哲学者によれば、現象の世界と実在の世界との差別はありませんから、この雀はなおさら現像と実在を分けることなどできまい、と思いつきました。

 私は鳥籠を縁側から私の部屋のテーブルの上に運び、そこでうまく一つの鏡を鳥籠のそばに立てました。それで鏡の中にも鳥籠と一羽の雀が現れました。それから私は静かに部屋の隅に退きました。すると雀は、たまたまぐるりとむきなおって鏡の中の雀を見つけます。自分の種類とすっかり同じ鳥です。私は、雀がすぐこの新しくつくられた雀のところに遊びにくるだろうと思いました。けれども、わが雀は、哲学者でなく詩人で、物を所有することよりも、物に対する希望を大切にしますから、その胸をふくらませ、嘴を天にあげて翼をバタバタとうち、そして喜びにあふれて一心に歌いだしました。長く長く歌いました。鏡の中の雀も歌います。翼をバタバタとうつ、それで熱心はいよいよ増してくるのです。ようやく歌い終わってからお互いの挨拶のために、ぼつぼつ近づき、嘴でつつきあうのでした。それからまたさえずる。戻っては飛びまた近づきあいます。近くなってもいつもいつもただ嘴だけなのです。そのためにこの二羽の鳥は驚きあいました。疑い深くなったのです。またはなれて、少し遠くから、じっと互に睨みあい、またもういっぺん歌いましたが、もはやそんなに希望にみちた歌ではありませんでした。もう一度挨拶をしてみようととんでゆきました。しかしこの固いガラスは同情を知らないので、この二羽の友達は一しょになれませんでした。哀れな雀は現象の世界の悪戯に失望し、早くも詩人は疑い深い哲学者になってしまいました。そしてこの贋物の鳥から、なるべく遠くとびはなれて背中をむけ、時々ピーピーと嘆くのでしたが、でもたまにはそっとふりかえって、鏡の中の鳥をぬすみみていました。

 私も雀に同情しました。また現象の実在の相違をそんな早く見てとったことにいくらか感心しました。ある哲学者たちはこう早くは現象と実在の差別を悟らないのですから。

 私はこの雀のために遊び仲間をごまかしても作れませんが、しかし少なくとも少しくらいの自由は、すべての雀がもって生れた権利は、与えてやれますね。で部屋の窓を皆しめてから鳥籠の戸口をあけました。鳥は矢のように戸口をとびぬけるだろう、と思ったのですが、たちまち詩人になりました。自由に対する希望は、自由そのものよりも麗しいものですから。鳥は開いた戸口の方にとび、胸をふくらませ、翼をはばたいて、憧憬のあまり嘴を天に向け、自由に関して美しい歌を歌いました。それも長く長く歌ったのであります。歌い終わってから、甘い自由を味わうように、戸口の下に入り注意深くすべてをしらべました。なぜなら、新しい自由の門の彼方には悪の罠が往々かくれているものですから。何の危険もないので飛び上り、外へとんでゆきました。しかし決して注意もせずに世界宇宙の真只中に飛ぼうとせず、かえって深い思慮から鳥籠の上にとんで、そこにとまりました。それは何の意味でしょう。このいやな鳥籠というものを自分の安全に域にしたいと思うのか、あるいは長年の虜囚のあとで勝利の歌を歌ってみるのでしょうか。そうでした。鳥は胸を空気で一杯にし、翼をひろげてはばたき嘴をあげて、まず最も強い一番長い喜びの歌を歌ったのであります。この鳥の喜びをきくと、私はすべての圧迫から自由になった人びとのうれしさも感じました。

 歌い終わってから、かわいい小鳥は新しい世界を発見するためにあちこち飛びました。何と珍しい世界でしょう。しかしそのたびごとに鳥籠の上へとび戻って、発見したことをよく覚え、また新しい発見を企てました。結局この発見の時代も終わらねばなりませんでした。そして最大の発見はこの世界にも限りがあるということで、ちょうど人類が地球にも限りがあるということを発見したような気持だったのでしょう。

 世界の際限を発見した時に、雀はまたかなしくなり、詩人であることをやめ、哲学者になり、鳥籠の上にとまって、このいやな世界に対してしかめ顔になってしまいました。こうして私も仕方がないので、この鳥を鳥籠の中に入れ、戸口をしめ、縁側の方へ運ばねばなりませんでした。そこで雀はいつも通り、失敗した愛と、ごまかされた自由を思い出し、そして不機嫌な口笛や悲しげなさえずりをして、その日を過ごすのであります。

* * * * *

 この短編をゆっくり読み返すと、実に味わい深い。

 鳥かごの中に鳥をみながら、ひとりで閉じられた世界に生きる人間は孤独で哀れな存在だ、とホイヴェルス師は同情を込めて語られます。

 そして、師は小鳥に託して、ひと飛びに人間の認識のあり方についての哲学的考察に飛び込まれます。観念の鳥かごに閉じ込められた哀れな哲学者の中には「実在」(Sein)と「仮象」(Schein)の区別さえつかないものが大勢いる。それは、「実際にあるもの」と「ただあるように見えるだけのもの」との区別のことだと言ってもいいのだが・・・。

 賢い哲学者でもそうなら、脳みその小さな小鳥はらなおさらだろうと、小鳥の前に鏡を置いてみられました。そしたら、小鳥はたちまち、鏡に映った自分の姿は、「実在」ではなく、ただの「仮象または虚像」に過ぎないことを見破ったのです。

 師はユーモアと皮肉をこめて、あるタイプの哲学者の物わかりの悪さを指摘されたのでした。

 考察は空間的広がりと自由のテーマに移ります。地球の鳥かごから放たれた人類は、この雀のように注意深くためらいながらも、近い将来宇宙へ飛び立つに違いありません。もしかして、どこかの星で理性と自由意思を持ったお友達に出会えるかもしれないという希望に満ちて。

 しかし、やがて人は、宇宙のどこにも心を通わせあうことのできるお友達はいないことを知って、失望し、夢を抱く詩人であることをやめて、憂鬱な哲学者になって、地球に戻ってくるのでしょうか。

 宇宙を心で透視して、肉の目には見えない神様を見つけた時、人は初めて満たされた思いと心の落ち着きを得ることができるのでしょうか。

 これを書いている12月半ばから、あと数日でクリスマス。聖夜に生まれる幼子イエスが、目に見える姿をとった見えない神様であることを信じられる人は、深い慰めを見出すにちがいありません。

 

 

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★ デオ・グラチアス

2022-11-28 00:20:30 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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デオ・グラチアス

神に感謝したてまつる!

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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デオ・グラチアス

 武蔵野の秋の夕方、私は新しく耕されたばかりの麦畑の間を、向うにそびえる黒い森のほうへと歩いていました。満月が森の上にかかって、それは北ドイツの詩人マチアス・クラウディウスの歌ったような景色です。

           Der Mond ist aufgegangen,

           die goldnen Sternlein prangen

           am Himmel hell und klar.

     Der Wald steht schwarz und schweiget,

          und aus den Wiesen steiget

          der weisse Nebel wunderbar.

        「月のぼりたり、金の星きらびやかに輝く、空にさやかに清らかに。

          森くろぐろと黙して立ち、まきばより立ちのぼる白き霧は妙なるかな」

 私は黒い森に向かって、デオ・グラチアスというラテン語の言葉をいってみます。なぜなら、カルメル修道院からの帰り道ですし、このデオ・グラチアスはこの修道院で学んだのですから。それを今、私はけいこしているのです。カルメルで誦えるように。

 申すまでもなく、幼い頃からたびたびデオ・グラチアスを聞き、私もまたそれをときどき誦えることもありますが、カルメルでは、全く別のもののように響きます。そこでは、デオ・グラチアスを誦える人の姿を見ることはできません。格子と幕を通して、何かあの世から聞こえるように、このデオ・グラチアスは会話の終わりに誦えるのです。さようならというかわりに、デオ・グラチアスと……。それもまた一切の問題の解決として誦えます。嬉しいことも、悲しいことも、デオ・グラチアスを誦えて快く受けとるのです。

 カルメルでは世の中の騒ぎや心配から離れて静かに暮していますが、全く心配がないのでもありません。それも普通の人びとの心配とは違います。カルメルにはただ一つの心配しかありません。それは「必要なことはただ一つのみ」ということについて。すなわち神のみ心に適うということだけなのです。カルメルでは皆様は本当の神のために十分につくしたかどうかと不安をお感じになります。この不安は、人間の心に一番必要な最も美しい不安ですから、皆様はもう無理に心配なさらなくてもいい、と申し上げたとき、皆様の心からみごとなデオ・グラチアス、神に感謝したてまつるという言葉が、武蔵野の麦畑の上に立ちのぼる雲雀の歌のように快く聞こえました。

 世の中には、このような清らかなデオ・グラチアスが人間の心から天に昇るのですから、神は人類のあらゆるわがままも罪悪も、少しは忍び給うのでしょう。

 このような清らかな心を作るのに、カルメルの面会室のあの嫌な格子と、その二百以上もある鉄の刺が必要であるなら――よし、私はもう反対はしません。カルメルの塀が、灰色の監獄のそれのように高いとしても、私はもう気にせず黙っていましょう。

 そしてまた、壁と格子と幕で、祭壇にさえ隔てを作っていても、皆様のデオ・グラチアスを聞きましたから私は我慢しましょう。神はこのデオ・グラチアスでみ心を和らげられ、ゆるして下さるに違いないのですから。

 カルメルのデオ・グラチアスを聞かない人は、この報告を聞いても、それを感じ味わうことはできますまい。このデオ・グラチアスがどんなに美しく神秘に響くか、カルメルの皆様がお気づきにならないようにと望みます。もし、おわかりになったら、遠慮深く、反省的になってしまい、あの純粋な響きは失われてしまいましょう。それはいけません。デオ・グラチアスは、いつでも今のように清く響かなければならないのです。

 臨終の最後の瞬間まで……。一切の務めを果して、いよいよ神のみ前に出て、神へ最初のご挨拶としてデオ・グラチアスとおっしゃって下さい。デオ・グラチアス! 神が在すことは感謝すべきことです。皆様もこの世に生れ、この世界宇宙の果てしもなく大きな神のご計画の中に組み入れられたことは感謝すべきことであります。また、ようやく無事に神のみ心にまで達したことは誠に感謝すべきことです。そのときにこそ、皆様は最も優れてよいデオ・グラチアスをお誦えになるでしょう。

 カルメルのデオ・グラチアスを、人びとがあまり聞く機会のないのを大変残念に思います。でも、それはやむを得ないことでしょう。このデオ・グラチアスは使いにくい言葉です。私たち一般の人は神にすべてを感謝していても、なおまだ神に対して、自分の希望を通してみたいと思うのです。そして私たちは、神が私たちの希望をみたし給うたとき、初めて心からデオ・グラチアスと言います。しかしカルメルでは、神がご意志を通し給うときにでも、デオ・グラチアスを誦えます。苦しいことも、与えられるままに、冬の寒さも、夏の暑さも、こうして皆様には、もうたいした辛いことは残っていないようになってしまいました。すべては喜びに満たされていますから、落着いた喜び溢れる心の底から湧き上るこの「デオ・グラチアス!」はこの世の誰もまねることはできません。 

 カルメルの皆様、いつもこのデオ・グラチアスをお誦えなさい。これは、たまに人びとの前で会話の終わりにだけお誦えになるのではなく、毎日幾度もひそかに心の中でお誦えになることでしょう。天に在す御父のためのデオ・グラチアスですから。隠れた所を見給う御父、すべてのデオ・グラチアスに報い給う御父、皆様はお考えにもならないでしょうが、天に在す御父は皆様のデオ・グラチアスへの報いを考えられ、もう、どのような報いをもって驚かそうかと、お喜びになっていらっしゃいます。それは決して私たち人間の考えるような報いではありません。それは、花が根と茎と葉のあらゆる骨折りに対する報いであるように。そしてまた、雨や風の数々の努力と陽の光りの恵みに対する報いであるように。皆様の心は、神の喜びにおいて花となって咲きでるのです。お喜びなさい。天国での報いは、大変大きなものです――神に愛されること、神を愛し奉ること!

 そうです。そうなるに違いありません。この地球とその上に無数の人びとがいることはよいことです。そしてそこで知らずしらずのうちに、このデオ・グラチアスを学ばれたことは私たちのあらゆる希望にまさることです。 

 私も、デオ・グラチアスを口ずさみ、皆様をまねて試みながら、元気に、黒々と沈黙している森へ向かって歩いて行くのです。満月は静かに森の上から明るい光りを放っています。

 

付記

デオ・グラチアス 神に感謝し奉る なんと美しい言葉でしょう。ホイヴェルス師は、もちろんこのラテン語の神への感謝の言葉を、子供のころから何度も聞いて知っておられました。

しかし、師はそれがカルメル会のシスターたちの口を通して語られるのを聞いて、あらためてその言葉の深みを感じ取られたのでしょう。

キリスト教をよく知らない皆様のために、またカトリック信者の皆さんにも、カルメル会の修道院がどういうところかご説明いたしましょう。カトリック教会には古くから修道院というものがあります。神様への愛と人々への愛のために生涯独身で、祈りと労働の厳しい共同生活をします。貧しい人のために働いたり、医療や社会福祉活動や教育活動のために働く活動修道会もありますが、世間から身を隠し、生涯にわたって世間とのかかわりを断って、祈りと犠牲とささやかな自給自足の労働に生きる修道者たちもいます。後者のような生き方をする会を観想修道会と言います。女子のカルメル会もその一つです。

私が司祭職への召命に燃えて多感だった20歳代のころは、カルメル会の若い聖女「小さき花の聖テレジア」(「リジューの聖テレジア」とも呼ばれる)が有名で、その自叙伝などが盛んに読まれ、会は多くの若い志願者に恵まれれていたが、カトリック教会の信仰が世界的にある高揚感に浸った懐かしい時代を思い出させてくれます。

小さき花の聖テレジア

その修道院では、ホイヴェルス師のような老司祭がミサをささげるために訪れても、普段は鉄の格子と垂れ幕で隔てられ、声しか聞こえてきません。それほど外界と厳しく隔てられています。

私は日本で知り合ったスペイン人の若い娘が、故郷の観想修道会に入会して、修練期間を終えて初誓願を立てるとき、その誓願式に与るために彼女の修道院を訪れました。晴れの祝いの日だったので、垂れ幕はなかったものの、聖堂の一般信徒の席とシスターたちの席との間にやはり鉄の格子がありました。

式が進むにつれて、美しい声で歌い祈るシスターたちと世俗の世界にいる私たちとの関係が全く逆転してしまったかのように思えてきました。高い塀をめぐらし、鉄格子のなかに閉じ込められている彼女たちが、まるで天国の自由な広がりの中に生きていて、私たちがこの世のしがらみと生活の煩いの鉄格子で囲まれた窮屈な檻の中に閉じ込められているかのような錯覚に陥りました。

彼女たちは、清貧と従順と貞潔の誓いのもとに、厳しい修行をしているのに、その顔は自由と幸福感に明るく輝いているではありませんか。

キリストの花嫁として幸せに生き、世俗の汚れと悩みの中に動めいている私たちのために、日夜祈りと犠牲の生活に身をささげているのです。

ホイヴェルス師も彼女たちの デオ・グラチアス 神に感謝したてまつる の、歌うような声を後にして、四谷に帰る道々、武蔵野野ひばりの声に耳を傾けておられたのでしょう。

 

 

 

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★ つぼみ

2022-11-06 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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つ ぼ み

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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つ ぼ み

 花は蕾にひそんでいて、蕾を眺めただけでは、どういう花が咲くかわかりません。春の暖かい陽ざしを受けて蕾が開くと、花の美しい姿、輝かしい色、うるわしい香りが現われ、うてなの底には、おいしい一滴の蜜もたまります。これらはみな太陽のおかげです。太陽はその光線と土の能力の調和した働きをもって花を咲かせる計画を、蕾のかくれたところにたたみ込みました。そして、あるうるわしい春の朝に秘密を開いて、花の完全な姿を輝かしたのです。 

 大天使ガブリエルがナザレトの家に入る前は、マリアのみ心は蕾のようでした。どういう花が咲くかは人々がマリアを見てもわからず、またマリア自身もその心の豊かさを見ることはできませんでした。聖寵みちみてる者だということもご存知なかったのです。天使によって神の聖言が光線のように心の蕾にさしたとき、人類の春の朝は訪れて、人間の最も美しい花が開き、マリアのみ心はあらゆる美徳を表しました。天使との対話によって花のように開く心を眺めることは常に我らの慰めと楽しみであります。 

 天使の挨拶を受けてマリアは驚き、だまって案じました。そして天使のお告げの長い言葉を終わりまで聞きました。この天国からの報告はおわかりにならなかったのです。なぜならこの天使の申し込みは今まで蕾のような心のうちに感じていたことと合うでしょうか。マリアはその心を神にだけ献げたいのです。天使の言葉と今までの神の導きがどのように合うかわからなかったので天使にたずねました。マリアの質問に天使は非常に確信ある態度で説明を述べるのです。この「告げ」によって人類の真の喜びがもたらされる、という天使の確信をもった言葉は、今二千年の後にもその新鮮さを少しもなくさず、その喜び失いません。

 マリアは天使の言葉を聞き心の中で考え合わせました。真にこの瞬間には天と地は期待のあまり息を止め、おとめの返事の言葉を待ちました。これは本当にいつまでも讃美すべき瞬間です。この瞬間に最も美しい花は心に開きました。もはやマリアは恐れません。疑問は何も残らず、明らかに神の申し込みはご自分の前にあって決定を待っています。神秘的な神の恩寵は今こそ、おとめの心の中でできる限り働いています。こうして口を開き、マリアの心からの言葉の香りは立ちのぼりました。

「我は主のつかいめなり、仰せのごとく我になれかし」

 不必要な無益な躊躇と遠慮はなく、最も完全に神の申し込みに対する心の決定を発表なさいました。この心の決定は完全に開いた花の美しさ、あらゆる徳のうるわしい姿と香り、信仰の光り、信頼の深さ、すべての人間の愛にまさる唯一の深い愛、同時に驚きに満された謙遜を述べています。どうして神は全ての女の中から、この小さいものをお選び下さったのでしょうか。初めから偉大なご計画に基いて、この人類の春に無限の憐みをもって心の蕾をお開き下さったのでしょうか、この悟れない神のみ恵みに対して「仰せの如く」というただ一言をもって、人類の最上の幸福、永遠の御者の永遠の聖言の母になることを謙遜にお受けになりました。後になってどんなに重荷になるか、まだ知りません。まずこの幸福で十分です。

 私たちは世の嵐とちりの中で、神はマリアの心の蕾にどれほど多くの賜ものをかくし給い、大天使の言葉をもってどんなに美しく完全な花を咲かせ給うかを深く思い、この天使の言葉を誦えましょう。

「めでたし聖寵満みてる者よ!」

太陽は神 蕾は人間

 太陽は神 蕾はマリア様

  マリア様の蕾は神の恩寵の暖かい陽ざしを受けて花開き

   美しい姿、輝かしい色、うるわしい香り、うてなの底の一滴の蜜・・・

 神様が無から呼び出された創造の木は138億年かけて成長し、その先端に蕾をつけた。

 大理石のギリシャ彫刻のアスリート像のように均整の取れた肉体、システィーナ礼拝堂の天井の天地創造の一枚に描かれたアダムの若い美しいからだ。人類の母、アダムの配偶者、ビーナスよりも美しいエバ。2人は宇宙の神秘の木の若枝の先端にふくらんだ蕾が割れるようにして美しい花を開かせた。無原罪の人祖の誕生だった。

 神様は、こともあろうに、人間を愛するあまり、三位一体の神の命の究極の秘密=理性と自由意思=までも与えてしまわれた。こうして人間は小さな神の如きものとして誕生した。

 誕生の瞬間に悲劇が起こった。理性と自由意思の試運転で人間は失敗した。神に愛された人間に嫉妬した嘘の父「悪魔」が、蕾のうてなに一滴の毒を落とした。欺かれた人間は神のみ旨の上に自分の意志を置き、無謀にも神よりも偉いものになろうとした。危惧された可能性が現実のものとなってしまった。

 人は原罪を犯して楽園を追われ、天は閉ざされ、死が人類を支配し、こうして、神の創造の計画は無残にも失敗に終わった。

 しかし、神様はプランAが不調に終わる万一に備えて用意しておられたプランBをさっそく始動された。現代人の歴史感覚で言えば、恐らく数万年前に起こった失楽園の出来事の後、

 アダム→カインとアベル→ノアの洪水→バベルの塔→アブラハム→イザク→ヤコブ(イスラエル)→ヨゼフ→エジプト移住→モーゼ→出エジプト→シナイ山(十戒)→約束の地→バビロンの捕囚→メシア待望→マリア様(蕾)の誕生

まで、救いの歴史は順を追って展開し、最後に期待に満ちたもうひとつの「蕾」まで届いた。平凡な無名の処女(おとめ)は神の恩寵に満たされた。

「我は主のつかいめなり、仰せのごとく我になれかし」

 大天使ガブリエルのお告げに、マリアはそう応えた。神は、天使たちは、そして全宇宙は、このひとこと、彼女のいのち懸けの自由な承諾の言葉を、息をひそめ、固唾をのんで、待った。

 無原罪の乙女は身ごもって無原罪の男の子を産んだ。ナザレのイエス、三位一体の神の第二のペルソナ、永遠のみことば=「神の子」=は「人の子」として生まれ、見えない神は見える肉体を身にまとった。「おとめ(処女)は母」となり、造物のはした女は「造物主なる神の母」となった。神秘的な永遠のパラドックス。

 第二のエバ=マリア=と第二のアダム=イエスは、第一のカップルが失敗したテストに命を賭してパスし、十字架の上で死んだイエスは三日目に復活し、マリアは腐敗を免れて天に上げられた。閉ざされていた天は再び開かれ、人類に終わりの日の復活と、永遠の命が取り戻された。アレルヤ!!

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★ 愛着

2022-10-24 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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愛 着

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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愛 着

 ある日曜の晩でした。ひとりの婦人の信者が私を尋ねてきて次のように申しました。「わたくし山に戻りますまえに、ぜひ一度おたずねしたかったのです。今までずっと長いこと山奥に暮しておりました。一週間前にようやく雪がとけました。そこで私は東京に出て参ったのですが、何と申しますかこの二、三日で私のこころはすっかり浅くなったような気がするのです。どうして私がこんなに人里が恋しくなったのか、人々に愛着を感じるのか、そのわけを説明していただきたいのです」

「愛着ですって! それでどんな困ったことがあるのですか」

「山奥ではいわば神とだけの暮しでございます。ときどきは孤独な生活が堪えられないようにも感じますが、でも神ととてもなれてきて、それが楽しみでした。この春には死ぬかと思うほどの大病をして、そのときは神とたった二人きりだということをしみじみ感じました。ところが幸い生命は助かりましてまたすっかり元気になりました。で、私はまあ一度東京へ出て行ってこの孤独を少しふるい落してこようと考えたのです。しかしそのために私の心はすっかりかき乱されてしまいました。お友達にあってから私はどうしてもそのお友達のことばかり考えるようになりました。そして私の心は落ちつかず空虚になってしまいました。一体私たちは人間に愛着を感じてはいけないのでしょうか」

「本当に立派な友情であればこそ、その友達同士が、結局は完全に心の中の中心まで達しえないことを感ずるものです。互いの心の奥には何かまだ神聖な場所が隠されているのでなければなりません」

「最近ある小説を読みましたが、その中で著者は私たち信者を非難してこんなことを言うのです。信者は人間を正しく愛してはいない、とどのつまりは神だけを愛し、人間を真直にではなく廻り道をして愛し、中途半ぱな愛し方をしている、というのです。この小説の主人公である、ある良人は、妻の死後、神への愛について妻がひそかに書いた本をみつけ、自分は妻から本当には愛されていなかったのだと考えるようなことが書かれてあるのです」

「それについて区別していわなければなりますまい。一つは、信者・未信者の結婚の場合には、双方が無信仰である場合、または両方とも信者である場合よりもいっそう心の一致がむずかしいと思います。信仰をもっている片方はある種のさびしさを感じるでしょうし、信仰のない方はそれに気がついて自分は十分に愛されていないと思うでしょう。中には神に対して嫉妬心を起すものすらいるのです。もし両方が神への信仰も愛ももっていないなら、うまくいっている夫婦の場合には、良人は妻を百%自分の所有物にし、旧式な教育をうけた妻は良人をそれこそ肉体と精神とこころを具えた神としてまでみとめるものもあります。

 両方が神の愛子であるなら、未信者同士の夫婦の場合よりずっと幸福であることは疑いありません。しかしその場合互いに深く尊敬しあって、二人の間の愛を崇高な神への愛に用うるように高めるのです。マックス・シェーラが聖アウグスチヌスの言葉を借りて『神において、神も自分も愛すること』と申したようにです」

「では心の傾きとか愛情とかいうものは、なかなかむずかしいことがらですね」

「どんな秩序もそうであるようにむずかしことです。少しばかり多すぎても少なすぎても秩序がさまたけられますから、神のために人間をあまりにも少なく愛する者は、愛の秩序に反したことをします。人間のために神をあまりにも少なく愛する者もやはり正しく行なったとはいえません」

「それなら私たちは正しく人を愛するにはどういう態度をとったらよいのでしょう」

「アシジの聖フランシスコや、チューリンゲンの聖エリザベトがその模範を示しています。フランシスコは神をいきいきとこの上なく愛したのですから、それでまた神のものである人びとをも廻り道せずに真直に愛しました。その結果人びとはフランシスコの愛を自然のままの愛と感じ、それが崇高な源をもっていることを少しも気がつきませんでした。聖エリザベトは心からキリストを愛しキリストの苦難を愛したので、苦しんでいる人々を自分の兄弟のように愛したのです。エリザベトの場合にも人々は愛の迂路を感じませんでした。

 ですから、私たちにとって心がけることはただ一つです。つまり神を心から愛するということです。そうすれば私たちはまた神の子である人々をも心から愛するようになるでしょう」

「では、その場合に私たちはすべての人を同様に十分に愛することができて、人々はそれが心の底からでた愛であり、はりつけた神のための愛でないとわかってくれるようになりますね」

「それはまことに、一切の力で求めるべきではないでしょうか、どこまで成功するかは神のお恵みによります。実生活から次の例がそれを十分にわからせてくれるでしょう。ある娘が子供の一人あるやもめと結婚しました。結婚式の当日に彼女はこの子供を自分の子のように愛しようと決心しました。それからずっとその通りにふるまって、自分でもうまく行くと考えていました。翌年彼女に自分の子が生れましたが、しかしこの子を先妻の子以上には決して愛さないと新たに誓ったのです。

 そうするうちにやがて自分の子が病気になりました。彼女はその子の病床に付きっきりで日夜看護にあたっていました。子供は全快しました。すると今度は先妻の子が病気になりました。自分の本当の子のときと同じように母親は病める子のそばを少しも離れません。ところがある夜、看護づかれのためか、うとうとしてそのまま眠りつづけてしまいました。眠りからさめたとき、彼女はびっくり仰天しました。この子に対しては自分の本当の子に対するほどの愛情がなかったのかといいしれぬ悲しみに沈みました。――神は社会の中に人間に対する愛がふつうに足りるように世の中をととのえられました。何となれば特別なきずな、血縁の強いきずなによって人間は人間に結ばれ、そうやって栄えるのだからです」

「ではフランシスコとエリザベトはどういうことを意味しているのですか」

「それは神がご自分の大きな、いきいきとした愛をその通りにまねするように、ある人々を召しだされるのです。その人たちはこの愛を静けさの中に、長い間のうちに、神のもとに学んだのです」

「でも、この数日の間に東京で私の心があんなにはげしく人々の心に愛着を感じて、そのために神や私の心をなくしてしまうのは、いったいどういうことなのでしょう」

「それについては、この東京での体験をもってあなたがまた山奥へ帰って神と一しょに考えたらよいのではないでしょうか。しかし、神の世界を避けて、静かな山だけを望むのはまちがっているのです。二つのことが必要なのです。神によって静けさの中へ神との心の交りを学ぶように召された者は、またさわがしい世の中へときどき入ってこなければなりません、けれども世の波に呑まれてはならないのです。世のざわめきの中にあっても神の静けさを失ってはなりません」

「ありがとうございました。あした私は山へ戻ります。そしてまた新たに神にすがりましょう。私がイエズス・キリストの兄弟でもある神の子供たちをもっといっそう確実に愛するようになるまで……」

 数日してから一枚の絵はがきが私のところにとどきました。「あの仕合せだった十分間のお話を私は一生忘れません」とお礼のことばが書いてありました。実はあのときの談話のよい後味は私にもまだのこっていたのです。

 敗戦から3年後、私の母は肺結核の療養の末、帰天した。その時私は9歳だった。その2年後父は再婚した。二人目の母は戦前の奈良女子高等師範学校(今の奈良女子大)出身の才媛だった。東大法学部出身、元内務省勅任官の妻としては釣り合いの取れた申し分のない再婚相手だった。彼女も上のホイヴェルス師の短編の中の女性と同じように私たち3兄妹を自分の子のように愛そう」と決心したに違いない。

 私も父から、この人がお前たちの新しいお母さんだよ、と紹介された時、「わたしは生涯このご婦人と事を構えない」と心に誓った。小学生としてはずいぶんませたことを考えたものだと今は思うが、2009年の大晦日に彼女が帰天するまで、私はその誓いを守り、一度も逆らったり声を荒げたことはなかった。父とは心を病んだ妹の処遇を巡って怒鳴り合って何度も激しく戦った仲だから、私に父譲りの短気な性格がなかったわけではない。母は賢明な女性で、家庭でも完璧な妻であり母でもあって全く付け入る隙が無かった。だから、わたしにはそもそも母と事を構える理由もなかった。私の唯一の叶わぬ願いと不満といえば、もしこのお母さんが家事を適当にして、テレビの前で足をおっぴろげて駄菓子をつまみながら笑ってくつろいでくれていたら、どんなに近くに感じたことだろうと言うことだった。

 父が再婚して2年目に12も年が離れて弟が生まれた。母は父の3人の連れ子と自分の実子とを完全に平等に扱った。戦後のまだ貧しかったころ、4人の子供たちのおやつは1グラムの差もないほど完全に平等だった。

 母が阪大病院で最後の日々を過ごしていた頃、私はたまたま四国の高松の教会で主任司祭をしていた。度々鳴門大橋を渡って、淡路島を北上し、世界一のつり橋の明石大橋も渡って車で見舞いに行った。亡くなった年の大晦日、弟一家が見舞いを終えて、「また来年ネ」と言って病院を後にしたのと入れ違いに私は着いた。いつになく打ち解けていろいろな出来事の追憶に話の花が咲いた。私の破天荒な生きざまに対しても心からの理解を示してくれた。その夜、母は帰らぬ人となったが、彼女と最後に言葉を交わしたのはたまたま私だった。

 私と真反対の性格の年の離れた弟も、つい先日、沖縄の海で突然帰天してしまった。姉も妹ももう居ない。兄弟の中で一番の悪だったわたしだけが、一人残った。まだ、この世に「愛着」している。

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★ 北海道の森

2022-09-26 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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北海道の森

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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北海道の森

 この夏に北海道に行きました。これで三回目ですが、初めて苫小牧まで行きました。あの有名な製紙工場の組合に招待され、そこで労働、学問、信仰について講演をしました。その翌日工場を視察して、労働と科学との完全な一致をまのあたりにしました。

 若い技師が私たちを案内して、まず戸外で、北海道の山林からおろされた丸太の山を見せてくれました。丸太はそこから狭い運河に浮かべられ、運河の水の流れのままに運ばれて、おとなしく工場の前の一つのプールの中に着きます。この丸太を見て、何か深い同情を感ぜずにはいられませんでした。丸太はやさしい水の中から出ると人間の頭脳で考え出した無数のむごい機械に委ねられて全くその個性をなくし、つぶされ、やがて薄い紙になってしまうのです。デパートのエスカレーターみたいなものにのせられて丸太は工場の中へ送られ、まず二重の鋸で三つの部分に切断されます。何から何まで機械が仕事をして、全く考える者のように機械がこの丸太を受け、そして別の場所へ運んで行きます。 

 そこにはまたたくさんのめずらしい機械が並んでいます。くさびみたいなものが上から下へたえず動いていますと、そばの労働者が丸太をその下に立てます。するとくさびがそれを割ります。労働者は三つ四つの部分に割るようにします。よい材木を右側の走り道の上に乗せ、悪い材木を左側へ捨てます。すると今度はどこか違う場所で、このよい材木は機械に入れられ、熱と圧力に潰されて、何かパルプみたいなものになるのです。 

 そこまでは、この工場の機械の働きはわかったのですが、あとの工程(プロセス)は技師の熱心な説明を受けても機械の騒ぎのために半分しか聞こえず。聞こえてもたいしたことはわかりませんでした。機械と化学と薬品と圧力などが、かわるがわる働いて、もうこのパルプは十分よいものとなったと思われても、工場ではまだ満足しませんから、無数のプロセスを通すのであります。でも結局パルプは紙にならなければなりません。そのために工場の大きい(数百メートルもある)ホールには輪転機みたいなものがぐるぐる廻って、パルプは真中の部分を通るときに熱さを感じて、そこで半分ぐらい紙になったものが乾かされ、やがて終わりの方に完全な紙として出て来て、また丸太みたいなものになってしまいます。これもやはり新聞紙用として便利なように三つの部分に切ります。…… 

 すべてを見学したあとで、若い技師にたずねました。「この工場のすべての機械を徹底的に知っている人があるでしょうか」

「はい三、四人の技師はすべてがわかっています」

 驚くべき知識だと思いました。あらゆる哲学にまさる知識ではないでしょうか。なお人間の科学と工業の偉大な仕事のために、たいへんな力の誇りを感じることも不思議ではないと思いました。この騒音や秩序正しく働く機械を支配する人は、森の中に静かに働いてくださる神を忘れるようになることもめずらしくありません。しかしながら、いろいろな心配も心の中に浮かんできました。北海道の森にはいつまでも木の丸太がそんなにおとなしく運河の中を流れてくるのでしょうか。案内者に聞くと「当分の間は大丈夫ですが丸太はだんだん細くなる、政府もそれを心配する」と答えました。

 案内者は、また言いました。「実はこの点について困った問題が起こりました。日曜日までも機械を走らせて、ほとんど年中無休で紙を製造すればよいという注文があるのです。新聞の方でもっと紙がほしいというのです。もちろん、もうけることがその動機です。広告で生きているのですから。そして流行雑誌もずっと大きな一頁ぐらいの広告を出したいのです。」「なるほど、どこへ行っても、手近な利益を求める世の中ですね。やはり政府が熱心に全国民の幸福を深く考えませんと、北海道の森は『禍いなるかな』ですね。」 

 機械のそばに立っている労働者をみて、こちらからまたたずねてみました。「たとえば朝から晩まで、年がら年中、三分の一に切った丸太をくさびの下に立てる仕事、これは人間の心を満すでしょうか。」案内者は、「まあこの工場でも人びとの文化的な教養、娯楽などのために十分努めています。またそれだけではまだ足りないとしたならば、このように先生におねがいして労働・学問・信仰についての講演を頼んだわけであります」と笑いながら言いました。いっしょにそばに立っていた一人の技師は「昨晩の講演の終わりにお歌いになった『Die ganze Welt ist wie ein Buch――全世界は書物の如し』の歌詞を書いて下さいませんか」とたのみました。 

 喜んで書いて上げました。 

 まことに北海道においても世の中は神のお書きになった本のようです。この本を人びとがもっともっと熱心に読まなければなりません。この工場では山林の材料を切ったり、薬品に浸したり、幾度も機械の中を通したりして平気で使っていますが、どうかこの木材に適した本質をそなえ給うた神を忘れないで下さい。また、この工場で製造した紙を使う新聞・雑誌出版社の方で、せっかく人びとのために読物を提供するのですから、ときどきはその中にも昨晩の歌の終わりにあった『Lasst uns dem Herrn lobsingen――われわれはそろって神を讃えよう』のような文章も出たらよいと思います。同時に神のそなえた北海道の森をつつしんで使うように切にお願いいたします。

 まだテレビのモーニングショウやワイドショウがなかった時代、学生や市民や労働者を対象とした「講演会」なるもの全国で数多く催されていた。誰から伝え聞くでもなく、北海道の工場が従業員の教養を高めるためにホイベルス神父のような宗教家のところにまでお声がかかるのだった。

 工場見学をするホイベルス神父の観察眼は鋭い。原材料の木材の丸太が新聞紙に変わるまでの全工程を細大漏らさず追っていく。自然と科学の調和。チャーリー・チャップリンの「モダンタイムス」ではないが、巨大なシステムになった機械の要所要所で日永一日同じ単純作業を毎日繰り返す機械の奴隷のような労働者の問題にも正しく疑問を呈している。

 森の木材を見て新聞紙を創ることを思いつく人間の想像力とそれを実現する技術力を評価するかたわら、資源の有限性やエコロジーへの配慮もにじみ出ている。しかも広告収入で成り立つ新聞がそのためにより多くの紙面を要求する現実を見落とさない。何という高い俯瞰的視点の持ち主かと、わが師ながらつい賞賛したくなる。そして、最期はやはり神への賛美で締めくくられる。こんなに豊かな構想で私も物が書けるようになりたいものだと、しみじみ想う。

 

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★ 珍しい世の中

2022-09-19 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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めずらしい世の中

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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めずらしい世の中

 私は人はなんのためにこのめずらしい世の中に生れて来たのかという言葉を書きました。するとこれを読んだある人が注意してくれました。「どうか、めずらしい世の中と書かないで、ただ世の中とだけ書いて下さい。一般の人は何も世の中をめずらしいとは思わないのですから」 

 でも、どうして一般の人は世の中をめずらしいと思わないのでしょうか。私は今日一日だけでも世の中を不思議に思わずにいられないことが、二、三度ありました。 

 ある出版社から新刊書がとどきました。ヘルマン・ヴァイル著「シンメトリー」です。あちこち拾い読みして、新しい方面から世界宇宙がまたどんなにめずらしいものであることかとしみじみ思いました。東洋と西洋のシンメトリー(調和)の感じ方の相異、東洋では西洋のシンメトリーは固いもの、不思議なものと感じますが、西洋の学者は大自然の中の固いシンメトリーまでも発見します。そしてまた東洋の自然的なシンメトリーについて非常に適したドイツ語をみつけました。すなわち、アウスゲヴォーゲンハイト(Ausgewogenheit)という言葉です。ものの調和的なつり合いを意味をするこの言葉こそ東洋と西洋の両方のシンメトリーをうまく包括しています。旧約の預言者が歌ったように、神のすべてのものを寸法、数、重さによってアウスヴィーゲン(計量)されました。私たち人間としての使命は結局そのもののつり合いを見つけ、自分の心もこの幸福なアウスゲヴォーゲンハイトにすることにあるのである。 

 またイグナチオ教会の前を何も考えずにぶらぶら歩いていきますと、急に二人の異国人がそばに立っていて、この教会にスペイン語を話す人はいませんかとたずねました。「ほう、どこの国から」と聞きますと「エチオピアから」と答えました。エチオピアの人に会ったのは始めてです。父親とその娘でした。父の方は聖堂の中のちょうどクリスマスに飾ったベトレヘムを訪れるエチオピアの王様のようでした。ブロンズの顔に輝く目、娘はまっすぐな姿勢で父のそばを元気よく小股で歩きながら、真珠のような白い歯をブロンズの顔から光らせていました。まるで三千年前ソロモン王をおとずれたシェバの女王のようでした。二人とも私たちと同じ信仰の人で、ミサの間、その娘は日本婦人のヴェールとは違った白いかぶりものをつけていました。それは大昔ピラミッドの中で発見されたトゥートモーゼス王のそばに立っている女王様のかぶりものとそっくりのものでした。 

 それからまたやはり何も考えずに聖堂の前を通っていったとき、意外なさわぎが耳にさわりました。どこか近い所でブルルブルルとトラのようなうなり声。どこから来たのかと目をみはっていますと、すぐ足もとで、となりの坊ちゃんがオモチャの自動車を引っぱりながらこの音をたてていました。かわいい坊ちゃんで、私もこのいやな騒がしい音をすぐゆるしてやり、子供とオモチャの上に身をかがめて、「坊や、自動車の中にネコかトラがはいっているの」と聞きますと、坊ちゃんは無言のまま、もの知り顔して大得意になって自動車を引っぱりながら、この音が科学の力によって起るゆえんを実地に教えてくれました。 

 私は六十四年前始めて体験したクリスマスを思い出しました。同じように引っぱる車をもらいましたが、それはトラのうなり声でなく美しいメロディーをかなでたもので、私もそれに合せて歌をうたい、たいへん楽しかったのです。 

 どうも世の中はかわりました。自動車のなかった時代と今の自動車とはずいぶん違います。トラのようなうなり声をたてる自動車、もの知り顔の坊ちゃん、一般の人が世の中をめずらしく思わないのも当然かも知れません。

 ホイヴェルス神父の日本語は、これが成人してから日本語を学んだ外国人の言葉かと疑いたくなるような美しく、しかも平易なものが多い中で、この短編をよく味わうためには、多少の世界史の知識と初歩的なドイツ語の知識が助けになるかもしれない。そして、願わくば若干の哲学のセンスもあると大いに役立つでしょう。

 普段ボ~っと生きている私たちにとって、日常的出来事は何もかもあたりまえ、不思議でも珍しくも何ともありません。しかし、詩人であり哲学者であるホイヴェルス著にとっては、その当たり前の日常が、一つ一つ珍しいものに映るのでしょう。

 ホイヴェルス師はまだ自動車が珍しかった時代から、ジェット旅客機でヨーロッパに帰国できる時代まで生きられました。いま80歳を過ぎている私が見るのは、せいぜい月に人が住むところまででしょうが、今の小学生は人が火星に人が住むのを見るかもしれません。新しいこと、珍しいことはどんなに時代が進んでも尽きることはないのです。

 木の姿からは想像もつかない美しい花が咲き、生まれて間もない赤ん坊がほほ笑み、衛星軌道に浮かぶ望遠鏡が届けてくる宇宙の銀河の美しい姿に驚き、世界は、宇宙はなんと珍しいものとして神に創造されたかを見て神様を賛美することは、まことに人間に相応しいことです。

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