:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 10 / 7 (みぞべ)

2011-09-28 00:06:55 | ★ 聖書のたとえ話

10月7日受信

久し振りに15会のHPに投稿します。

リーマンブラザーズなどの外資系投資銀行で野良犬のような生活をしていた私の首に首輪をつけ、
カトリックの司祭に叙階してくださった恩人の深堀聡元高松司教様が
去る9月24日(木)午後3時27分、熊本のホスピスで、腎臓癌のため眠るように逝かれました。
85歳の誕生日直前でした。

亡くなる一週間前に一度危篤になられ、それで東京から急遽熊本へ飛んだのですが、
私が着いた日に持ち直され、意識も回復して、
それから1週間、親しく毎日お側に看護し、最後の交わりの時を持つことが許されました。恵みの時でした。

深堀司教様は、未だキリスト教の信仰に出会っていない1億2700万人の日本人の魂に福音を宣べ伝えるために、
1990年に高松に「レデンプトーリス・マーテル」国際宣教 神学院 を設立し、若い宣教師達を養成してきました。
私は彼の右腕として、その建設と発展のために一心に働きました。
その結果、香川県東かがわ市に 神学院 の建物が完成し、30人の若い宣教師司祭たちが誕生し、
いま福音宣教に邁進しています。

彼は、5年前に引退した後は、高松教区に留まり、牧した信徒や彼が叙階した司祭たちに囲まれて、幸せな老後を送れるはずでした。

しかし、彼は引退したあと四国を追われ、福岡、熊本を転々とし、ぼろ雑巾のように働き、
病を得てからは淋しく病院に、ホスピスに横たわることになりました。
信徒から世俗の裁判所に告訴され、不名誉と汚名を着せられても一切口を開かず、弁明せず、全てを神様にささげました。

死後になってやっと自分の教区四国に帰ることが赦されました。
私は熊本から8時間の道のりを、その遺体に付き添って霊柩車で高松入りしました。
長いドライブの終わりごろ、瀬戸大橋をわたり終えたところで、棺の蓋をたたいて、「深堀司教様、四国に入りましたよ」と告げました。感無量でした。謙遜にロバに乗ってエルサレムの城門をくぐられたイエスのように、
ダークブルーノ何の変哲もないワゴン車に積まれて無言で帰還しました。

無事葬儀を終え、火葬に付し、全てを見届けて、私は野尻湖の山荘に退きました。
葬儀ミサはカテドラルと呼ぶにはいささか小さい桜町教会に溢れる参列者の見守る中で執り行われた。
参列者の半分以上が、新求道共同体にゆかりの人たちでした。
教皇大使のほか、県外は勿論、遠くグアムやローマからもわざわざこの日のためにやってきた司祭たちもいました。

間もなく、私も四国を追われ、そして日本を追われて、再びローマにおける避難・亡命の生活に戻ります。

谷口幸紀拝




ここに一枚のちょっと不思議な写真を紹介します。
これは合成写真でも、いわゆる心霊写真の類でもありません。
ほんの短い時間でしたが、何人かの人が実際にこの光景に気付いていました。
まるで、深堀司教の聖なる魂が手前左の棺から光に包まれて真直ぐ天に上っていくように見えませんか。
そこから放たれる虹色の光、その光に中にかすかに見える彼の担った十字架。
棺の中には、預言者のように日本の福音宣教のために必要と考えて国際宣教 神学院 を開いた人の骸が、

そしてその向こうに佇んで首をうな垂れているのは、
そんな物は不必要として、 神学院 を閉鎖・廃校に追い込むために精力的に働き、
関係者とそこを出た宣教司祭たちを排除した、その人。


 故深堀敏下高松司教の死が意味することについて、別途 その-(2)を書きたいと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 中秋の名月

2011-09-27 22:45:50 | ★ 日記 ・ 小話

 

~~~~~

中秋の名月

~~~~~

 

 今年の中秋の名月は9月13日でした。月見について何か書こうと思ったのですが、残念なことにあの満月を信州で見る機会を失してしまいました。

 しかし、別の年には月見をすることができて、その時のことをしっかりと書き留めていました。それで、この機会にお届けしようと思います。

~~~~~~

 

  今日は満月。十五夜は一昨日でしたが、月が本当にまん丸になるのは実は今夜なのです。野尻湖から長野の少し南まで車を飛ばし、「田毎の月」で有名な姨捨まで月見に出かけました。よく耕された棚田は、すでに刈り入れが終わり、稲架の下には稲の切り株が整然と並んでいます。

陽が沈み、月の出を待つ間、真ん中の木の赤い柘榴の実で戯れました。

             中央の木は熟れた実をたわわにつけた柘榴の木

ようやく夕闇か濃くなってきました。あっ!月が出た!!しかし、これがバカチョン(失礼、これは差別用語だそうで・・・)デジカメの限界でした。




朧の満月に照らされたススキの穂のつもりなんだけど、ちょっと暗すぎますよね。
しかし、涙が出そうになるほど寂しい写真、とコメントしてくれた人がいました。




姨捨伝説の老婆像は、岩の上でじっと黙って満月を見つめていました。



信州の魅力は尽きません。

私の住む野尻湖畔は静寂に包まれています・・・・。

                                     (終わり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 新春の喜び

2011-09-24 00:27:48 | ★ 聖書のたとえ話

 

 


      
ちょっと出遅れて
初春のお喜びを申し上げます。

神様のお望みか、運命の悪戯か、気が付いたら70年の人生のうち通算10年近くをローマで過ごしていました。
今年の冬は、普段の年より雨が多いような気がします。
何も肩に力の入らないローマの年の暮のスケッチをお届けしようと思います。

 

12月27日はイエスとマリアとヨゼフの聖家族の祝い日で、たまたま日曜日でした。バチカンの聖ペトロ大聖堂の足を運び、10時半のミサに与かりました。主たる部分はグレゴリアン聖歌で歌われるラテン語中心のミサでした。


11時半過ぎに聖ペトロ広場に出ると、大勢の人が教皇ベネディクト16世のアンジェルス(日曜の正午に教皇の居室の窓から広場の群衆に祈りと挨拶と祝福を送る)を待っていました。今年は、新求道共同体の創始者キコ氏の呼びかけで、この日スペインのマドリッドで「家族」の集いがあって、このアンジェルスがその集いとリンクされるという話でした。後で聞いた話では、キコ氏の呼びかけに答えて、ヨーロッパを中心に100万人がマドリッドの街を埋め尽くしたとのことでした。

窓から挨拶を送る教皇も、その集いを意識して話していたようでした。

 

         
昼下がりのナボーナ広場に足を向けると、そこは子供連れなどでいっぱいでした。

さっき聖ペトロ広場で別れたばかりの共同体の家族とまたばったり会って笑ってしまいました。

 

 ナボーナ広場にはいろいろなイベントがいっぱい。大道芸人が居る。似顔絵かきがいる。それを見つめる子供たちが・・・・

   

 パリのモンマルトルの丘のように、この広場にも似顔絵かきがいっぱい~。

 

  
町を歩いていると、今まで何度も通ったあたりに小さなアートミュージアムがあるのに初めて気がついた。運よく開いていた。中には誰もいなかった。いろんな顔の古代彫刻が沢山並んでいた。

 

              
子供たちと言えば、サーカス。サーカスには何か独特の哀愁が漂っている。ルオーもピエロを描いているが、その笑っている顔に涙の筋が読み取れるようなきがする。このサーカスでも貧しい中国の少年たちと思われる集団演技が光を放っていた。 

 

      
12月31日サンシルベストロの祝い日は大晦日の代名詞。レンズ豆にソーセージを煮込んだスープは、これを食べると来年はレンズ豆のように沢山お金が儲かるとの迷信。カトリック信者もおおらかにそれを食べて喜んでいる。民間信仰とはそんなものかと思った。

その夜、私は郊外に借りたホールで、自分の共同体のために夜9時過ぎからミサをした。ミサは元旦の「神の母聖マリア」のミサ。ミサ後あらかじめ用意して持ち込んだ料理でパーティーとなる。お金と行き場のある兄弟たちはここにはいない。若くて子沢山でお金のないのが、ここで一緒に年越しをする。40人ほどのうち半分が子供たち。
キリストは第二のアダム。マリア様は第二のエヴァ。第一のアダムとエヴァは神様に背いて楽園を追い出され、死ぬ運命を人類に招き寄せた。第二のアダムとエヴァであるキリストとマリアは、十字架の死に至るまで神のみ旨に背かなかったので、死は力を失い復活の命が人類に再び与えられた・・・・。

子供たちは僕のお説教など聞いてはいない。ミサの後の御馳走と、花火と爆竹と、午前0時のカウントダウンと、シャンペンの乾杯と、抱擁とキスの嵐を待っている。外は冷たい雨だったが、遠く、近く打ち上げ花火と爆竹の轟音で市街戦のような騒ぎになった。

 

前後の見境もなく、支離滅裂な写真の羅列を、どうぞお許しあれ。

 

   クリスマス休暇に入る前日、神学校では台所や掃除のスタッフに感謝する小さな集まりがあった。馬小屋の前で神学生たちが何曲も陽気に歌った。

そのあと、平山司教様のお部屋ではグラッパとリキュールと差し入れのドルチェで、しばらくホームステーに散る「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」の神学生たちが水入らずで歓談をした。(右端が平山司教、左の白い髭はスワレス元院長)。

ローマに亡命中でも、「元高松」の神学校は意気軒昂だというところを、どうしてもちょっと加えたかったのです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ ブログ

2011-09-21 00:37:09 | ★ 聖書のたとえ話

谷口神父です

皆さま、大変ご無沙汰いたしました。
音無しの構えでしたが、まだ生きています。ご安心ください。

11月の頭から、またローマの「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」の仕事をしています。
ここしばらくは、大事な動きが続き、忙しくしていました。しかし、それもどうやら目処が立ちそうです。

さて、今まで私の母校「六甲学院」15期のHPに間借りして、細々と発信していましたが、
そろそろまたブログを始めようとしてます。既に3-4編アップしました。

http://blog.goo.ne.jp/john-1939 〔続〕ウサギの日記で入れます。 お気に入りに加えてください。

と言っても、当面、大部分は過去に一度公表したものか、上記HPに既に限られた範囲に公開したもので、
皆さんには新味がないかもしれません。
しかし、今後その中に全く新しいものもチョロチョロと混じるはずです。その時は、またこのような形でお報せしましょう。
他方では、「ツイッター」と言うものを組み合わせてブログ更新の案内に利用できないか検討中です。

まずはお知らせまで。
寒さに向かいます。皆様どうかご自愛ください。
なお、クリスマス休暇には日本に帰れることになりました。
お目にかかれれば幸いです。

ローマにて、
谷口幸紀拝

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 神父の願い

2011-09-18 00:22:31 | ★ 聖書のたとえ話

 

毎日新聞 09/12/11

 


毎日新聞 09/12/11

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 教皇への手紙

2011-09-15 00:30:39 | ★ 聖書のたとえ話

谷口神父メール 10/01/26


ローマ教皇に届いた手紙


日本語で「突然このような文書でお願いを差し上げる非礼をお許しください・・・・」という書き出しで始まる1ページ半の請願書が、203人の賛同者の署名とともに発送されたのは、昨年のクリスマス前夜あたりのことだったと推測されます。宛先は、

バチカン市国
ローマ教皇
ベネディクト16世聖下

となっていました。

 差出人は、東かがわ市の元市長と有志達で、閉鎖になった高松の国際宣教神学院「レデンプトーリスマーテル」の土地と建物が第三者に売却されるらしいという噂に対して立ち上がったものでした。

 ローマにいる私たちのもとにその事実が原文の写しとともに知らされたのは、クリスマス休暇明けの今年1月6日過ぎでした。それには、神学院設立当時から地元の人たちに良く知られていた当時の福音宣教省長官のトムコ枢機卿と、信徒省の副長官だったコルデス枢機卿(当時は大司教)に写しを届けてほしいという依頼が添えられていました。

 トムコ枢機卿は、神学校の建物の定礎式のためにわざわざローマから四国まで来られた、いわば神学院の生みの親のような方でしたが、それを受け取った時、近々教皇に会うと明言されました。

 そして今日(25日)、同枢機卿から電話があり、先週の土曜日(1月23日)教皇に会って親しく日本の神学校のことについて話し合った。目下いろいろ検討中で詳しいことは言えないが・・・・、という極めて含みのある話でした。

 アメリカの大統領に宛てて小学生が書いた手紙に大統領から返事が届いた、というような美談がありますが、それは、その種の手紙にきめ細かく対応するためにあるスタッフ集団が書いたもので、いちいち大統領が読んでいるはずはありません。世界にざっと10億と言われるカトリック信徒から、教皇に宛てられて届く手紙の数も半端ではないかもしれませんが、それらはほとんど教皇の知らないところで処理されているだろうと思われます。現に、後で東かがわ市から聞いたところでは、バチカン大使館を経由して送った請願文は確かにローマまで届いたとしても、それは恐らく秘書局止まりで、教皇自身にまで届いたとは思われません。まさに地元の人々の熱意が生んだ奇跡のようなものでしょう。


 



 ここに、その請願書の全文を披露いたしましょう。

~~~~~~~~~~

バチカン市国
ローマ教皇
ベネデイクト16世聖下
                          2009年12月25日

 突然のこのような文書でのお願いを差し上げる非礼をお許し下さい。

下に署名した私どもは日本の東かがわ市と香川県の住民であり、同市の国際宣教神学院「レデンプトーリス・マーテル」の創設と発展に大きな期待を寄せ、その発足以前から過去20年以上に亘り、いささかの貢献をなしてきた有志一同であります。

 私たちは神学院関係者の熱意とその最大の理解者であり協力者であった故長町光男氏らの絶大な努力に共鳴し、この神学院がローマと結ばれた東西文明の架け橋となり、国境を越えた若者たちの交流や人的な絆の深まりが遠い将来に向けての相互の精神文化に大いなる実りをもたらすものと信じ、その永続的な発展に夢を託したものであります。

 ところが、昨年10月には神学生が静かに姿を消し、今年11月には残っていた少数のスタッフも建物から退去しいなくなりました。噂によれば、近い将来その土地と建物は第三者に売り渡されるのではないかと言われています。私たちに対して何の正式な説明もないままこのような事態が進行しつつあることに、私たちは大きな失望と憂慮を禁じ得ず、緊急に直接お手紙を差し上げる次第です。

 私たちが永年に亘りこの神学校の成立と発展に期待し物心両面で協力を惜しまなかったのは、この地方の長い歴史に育まれ根付いている仏教とカトリック教会に代表されるキリスト教という世界の二つの偉大な宗教が、この神学院を介して出会い、その対話を通して世界の平和と精神文化の発展に貢献することを期待したからであります。

 にもかかわらず、私たちに対して何の説明も無いまま一方的に閉鎖され、第三者に売却処分されるようなことになれば、それは地元の私たちに対する重大な背信行為であり、カトリック教会の日本社会におけるイメージを大きく傷つけ、日本における教会の将来に対して修復し難い損失をもたらすことになるのではと危惧するものであります。

 私たちはこの土地と建物が、大勢の善意の人たちの浄財と努力によって出来上がったものであることを知っています。そのような貴重な施設が僅かな価格で、一私企業の利益に奉仕するために払下げられることに私たちは到底同意することはできません。

 とらまる公園から遠望される神学校の佇まいは、既に地元の一つのシンボルとなっています。神学校の入り口には、故長町光男氏の石像が教皇ヨハネ・パウロ二世の賞状と共に佇んでいます。神学院の玄関脇には、1994年に当時の福音宣教省長官のトムコ枢機卿が来日して自ら定礎式を司式した記念の石標が据えられています。神学校の奥庭にはイタリア大理石の聖母像が佇んでいて、早朝地元の敬虔な老婦人たちが崇敬に訪れています。海に向かって聳える大十字架は、夜間照明され高速道路を走る車の道標ともなっています。

地元有志がローマのレデンプトーリス・マーテル神学院を訪れた際にその庭に落ちていた地中海松の実を密かに持ち帰ったその実は芽を出し、今では3メートル余りに育って神学院を守っています。2004年には私たちの有志が、日本の桜の苗木30本を携えてローマを訪れてバチカン庭園に植樹し、時の教皇ヨハネ・パウロ二世に寄贈いたしました。

これらのささやかなひとつひとつが、神学院関係者や地元の人たちの熱い思いと交流、歩みの具体的な形になったものであり貴重な財産でもあります。この土地と建物そして国際宣教神学院「レデンプトーリス・マーテル」が、私たちの期待通りに末永く地元の文化的資産として残り、所期の目的に沿った役割を果たしていくことを強く期待しています。

聖下がこの小さな問題に目を留められ、直接関与することによって将来に禍根を残すことの無いように善処されますよう切にお願い申し上げます。

(署名者)

    藤井秀城    東かがわ市長
    上村 求    東かがわ市副市長
    黒田俊英    前東かがわ市国際交流協会会長、東かがわ市商工会長
    田中勝弘    東かがわ市国際交流協会会長、東かがわ市教育委員長
    矢野昭男    東かがわ市議会議長
    中條弘矩    前東かがわ市長
    長町廣幸    故長町光男氏長男、東かがわ市生涯学習課長 

(この後に賛同者の署名、計203名分が続く)

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ ローマより

2011-09-12 00:24:56 | ★ 聖書のたとえ話


谷口神父 メール  09/12/24


今年もあとわずかになりましたが、お変わりありませんか?
ローマから谷口神父です。元気にしています。

このメールに 聖ペトロ大聖堂前の広場の大きな馬小屋の写真を入れようと 
昨日の夕方でかけましたが、まだ最後の仕上げ中で囲いがしてありました。
さすがはいい加減なイタリア!と半ばあきらめ顔で、賑やかなナボナ広場のあたりを散歩して、
路地のバーの写真を撮って帰りました。
ローマならどこにでもありそうな景色です。

 


 ローマに一時避難している高松の神学校もクリスマス休暇です。

外国人の神学生たちは 各地のイタリア人神学生の家庭に引き取られていきました。
院長の平山司教様は ローマの北100キロほどの海辺の町の教会に身を寄せられました。
私は共同体が用意してくれた ローマ市内のアパートに居ます。

 今年は私にとって一生忘れ難い動乱の年になりました。日本を離れ、亡命者のようにローマの神学校に身を寄せています。
高松の神学校は11月30日をもって、最終的に私たちの手を離れました。土地・建物は近く売却処分になるとのもっぱらの噂です。
20年間情熱を傾けて築いた偶像(?)が 音を立てて崩れていくのを体験しました。(ハッと我に帰る思いがしました。)

 昨年の岡山の全国の集まりには、まだお元気だった元高松の深堀司教様(写真中央)、
今ローマで神学校の院長をしておられる 元大分の平山司教様(写真左)が そろってミサの司式をして下さいました。
その深堀司教様も、この9月24日帰天されました。 最後の1週間を親しくお側で過ごせたのは神様の恵みでした。
このスリーショットは今では貴重な思い出です。

 

 今こうして一人静かに暮れ行く年と70年の人生を振り返ると、思い出されるのは自分の罪、奢り、至らなさばかりです。
人に説く前に、自らが回心してその実を証ししなければと思うことしきりです。

 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と説いて、
十字架の上で全人類の罪を一身に背負い、その贖いのために33歳の若さで
十字架刑の壮絶な苦しみの末に命を捨てて見せた
ナザレのイエスの後を辿るということの重みをあらためて黙想するこの頃です。

 世俗社会は過去1世紀を費やして、クリスマスがキリストの降誕を祝う日であることを忘れさせるために、あらゆる装置を開発しました。
サンタクロースとトナカイ。ジングルベルとクリスマス商戦。バーやクラブにいたるまで、お金の神様に踊らされてのお祭り騒ぎですが、
そんな時代だからこそ、大失敗と絶望の内に十字架の上で 処刑されて果てる運命を辿るナザレノイエスが 密かに誕生した日であることを、神父としては あらためて真面目に告げなければと思う次第です。 (一時豊かに花開いたかに思われた高松の神学校の運命と重なるものがあります。)

しかし、その彼、キリストは復活してこの世の彼岸で永遠に生きています。
私も貴方もこの十字架によって罪を赦され、彼とともに何時か復活して永遠の喜びに生きる!
という確信を述べ伝えなければと思います。

 高松の神学校は必ず復活する、と言うのも私の固い確信です。

 2010年が皆様にとってよい年でありますように。

 これからもよろしくお願いいたします。 谷口幸紀拝

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ コメント

2011-09-09 00:18:28 | ★ 聖書のたとえ話

谷口メール 09/05/09

見過ごせないな内容のコメント をいただきました。

ご本人の了解のもと、皆さんのお目にふれられるようにしました。


谷口神父様

いつも心洗われる、美しいお写真を拝見出来て本当に幸せです。そちらでの神父様のご様子が、
手に取るようにうかがえます。
平山司教様の、なんと慈しみに溢れたお顔!平安ですね。   
日本は大変です。新インフルエンザの件で、聖水が2日の土曜日からなくなりました。
東京か大阪の大司教様の命令との事です。


I教会のI神父様の件ですが、先日大司教様がI教会に行かれてI神父様のことをぼろくそに仰ったので、
信徒の一人が、I神父様はそのような方ではありません。と、言われましたら、
「大司教の私の言う事が、聞けないのなら出て行きなさい」と、言われたそうです。
霊性の高い立派な司祭は、司牧から外されつつあるものを感じます。
私の知ってるM神父様、A神父様、I神父様、M神父様と4人いらっしゃいます。
そして、金曜日のごミサも無くなりつつあります。福音宣教の為に、Ά をさせて下さいと、お願いしても断られます。教区は狂ってますね。早く何とかして下さい!

みくにがきますように、と祈る以外ないのでしょうか? 
よろしくお願いいたします。
悪いインフルエンザにかかりませんように!
いつも谷口神父様のことをお祈りしています。(M.M.)



谷口神父のコメント: 実は、私も高松の溝部司教様から教区外追放の刑にあってっています。
今や、日本のカトリック教会の中で自分の意見を持ち、現状に対して疑問を抱き、声を上げるものは、
容赦なく排除され、消されていきつつあります。
私のように、排除されても、ローマに庇護され、そこで羽を伸ばし、めげずに生活を楽しんでいるのが、
これまたあの人たちにとっては癪の種なのでしょうね。

しかし、私のように亡命先を持たず、司祭の人権を踏みにじられたまま、逼塞を余儀なくされている
真面目な神父様たちの殉教を思うと、胸が張り裂けます。

ローマ教皇とのコムニオン(交わり)に背を向け、「日本主義の教会」の殻に閉じこもり、
海外からのカトリックの宣教者に対しては鎖国し、ひたすら孤立の道を突き進んでいる
日本の教会(日本カトリック司教協議会の独裁のもとに窒息している)は、
このままでは衰退の一途を辿るほか無いと確信します。

葡萄の幹(教皇)から自らを切り離した枝(地方教会)は、必ず枯れる運命にあります。
70年代以降の統計を見れば一目瞭然です。
(これは、もはや「カトリック」の名に値しない分離教会ではないかとさえ思います。)

人間の驕りの冬が去って、神の聖霊の春が早く訪れますよう、皆さんとともに祈りたいと思います。アーメン!

==========

谷口神父様

全く谷口神父様のお考えどおりに、今の教会は、動いているものを感じます。

司祭不足を理由に教会の閉鎖、3月31日付けで、カトリック幼稚園は廃園、
4月1日付けで教会管区部落差別人権活動センターに、名称変更です。
神様の福音宣教はそっちのけで・・・。

怒りが込み上げます。コメントはどうぞご自由にお遣い下さいませ。(M.M.)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 転送

2011-09-05 00:14:43 | ★ 聖書のたとえ話

谷口メール 09/05/15

Re: ローマからありがとうございます。

谷口神父さま

いつもメールをいただきありがとうございます。
お元気そうなご様子で何よりです。

今回いただいたある信徒からのメールと、それに対する谷口神父様のコメントは
藤が丘教会で様々事を体験しましたので、決して人事に思えません。
何人かの信徒に転送させていただきました。

----------------------------------------------------------------------------------------

藤が丘教会はいまだに閉塞されています。(横浜教区長命です。)

ブラジルコミュニティがあることもあり、閉塞していない大和教会に転籍しました。
大和教会には本当に多くの国籍の方がこられています。
各国の人々が一同に集まり、主を賛美するごミサにあたると本当に神様は誰をも招待されていることを体験します。


大和教会も藤が丘と同じ横浜教区です。
今週から梅村司教さまのご意向ということで、急にご聖体のみとなり、御血をいただけなくなりました。
これは教皇さまのご意向なのでしょうか?
お教えいただければ幸いです。


それから横浜教区平塚教会にも外国籍の方が多くおられるのですが、
信徒の話す言葉で告解を聞いてくださる司祭がいない為、
長きにわたってご聖体をいただけない信徒がいる事を聞きました。
すごく切ない事です。

日本の製造業を支えてきた40万人もの日系人や外国籍の方たちがいまや雇用弁として解雇され、
大変な状況にあります。

大和教会では主任司祭が一生懸命支援しています。
信徒たちのごミサにいらして祈る姿にも裕福な日本人が多くしめる教会とは全く異なります。

ごミサが終わっても、なおご聖体の前に跪き、祈りを捧げる人、
マリアさまにご灯明をし、祈り続ける方が大勢おられます・・・。
信仰的に彼ら、彼女らから学ばさせていただいています。


5月はマリアさまの月。

谷口神父様が日本での布教を再開できますよう、
そして日本のカトリック教会にマリア様を通して恵みが溢れます事を祈っております。 

(Y.S.)



------------------------------------------------------------------------------------------

谷口神父のコメント: まず、ご質問からお答えします。

第二バチカン公会議以来、カトリック教会は両形色(パンとぶどう酒=御からだと御血)の聖体拝領を許し、
勧めてきましたが、その方針に今も変化はありません。
最近それが教皇様によって変更された事実もありません。現にローマでは今も盛んに行われています。
教会の現状にそぐわない梅村司教様の独自の判断なのでしょう。
歴史の流れに逆らって公会議以前の教会に戻ろうとする、残念な傾向です。

このような傾向、雰囲気の中で司教団が一致して凝り固まっていくのは極めて危険な現象です。

遠藤周作や河合隼雄のような人物の書いたものが、
司教たちの考え方や発言の土台をなしているようではお話になりません。
教会の伝統の本流にある教父たち、そして何よりも聖書の深い読み込みを土台にしなければ、
信仰は生まれませんし、保てません。

流行を追いかけ、それに迎合し、小説家や心理学者の意見を鵜呑みにし、
それに流されるようでは情けないかぎりです。

ダビンチコードやハリーポッターのような荒唐無稽の小説と、歴史的真実や信仰の原点が区別できなくなって
闇に迷うようなことでは、教会は保たれるはずがありません。
内容はまだ見ていませんが、最近また、「天使と悪魔」とか言う映画や小説がはやっているそうですが、
地球規模の悪魔的破壊、攻撃に教会が無防備に晒されているのを感じます。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

 質問に明確なお答えを下さりありがとうございます。
ローマでは盛んに行われていると伺い、ほっとしたと同時に
何故、御血をいただけないか梅村司教様から明確な答えをお聞きしたい気持ちになります。

私のメールを皆さんにお送りいただいても構いません。すべてそのままです。
闇は明るみに照らされるべきだと思います。


 藤が丘教会が閉塞状況と申します理由を附則説明します。今年、

3年ぶりの総会がありましたが、それは形式だけでした。
その総会では、長きにわたって信徒が所属してきた壮年会・婦人会(会員は300人近く)を閉鎖するという事が
述べられました。理由は梅村司教様の意向という事だけでした。
3年間も定例会やあらゆる福祉的な集まりさえ禁止された挙句に消滅させられました。

理由は、谷口神父様のメールで書いてあったように、意見を言うものは消滅させられるという事が
教区では、当たり前のようになっているという事です。

なぜなら、婦人会も壮年会も不正を犯し続ける前主任司祭を黙認してこなかった・・・。
そして、司祭の不正を隠蔽したかっただろう梅村司教様によって、会=わたし達は抑圧の上、消滅させられたのです。
事実はこのようなものですから、藤が丘教会はいまだ閉塞しているといわざるをえません。

(Y.S.)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 第3刷

2011-09-03 00:12:13 | ★ 聖書のたとえ話

谷口メール 09/06/16


「第3刷が出ました」

本格的な梅雨の頃となりましたが、お変わりありませんか。
ちょっとご無沙汰しました。日本をあちこちしていました。

私にとっては想定外の進展でしたが、今はローマに生活の拠点を移し、
あちらで「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の院長秘書という名目で仕事をすることになりました。
19年前に四国の高松の郊外に設立された『レデンプトーリス・マーテル』神学院は、
バチカンの励ましと国内5-6名の司教様たちの支持を得て発展し、その間30名ほどの若い宣教師を世に送り出しました。
しかし、その後、高松の司教の交代を期に、日本の司教団の一致した声に押されて、この神学院が閉鎖に追い込まれるという、
全く異常な事態となりました。

それを遺憾とした現教皇ベネディクト16世は、それをご自分のものとして引き取られ、神学生とスタッフを全員ローマに移し植えられ、
上のような名称を与え、将来日本に再上陸することを視野に、保護されました。
そして、新しい院長に平山元大分教区司教(85歳)を任命し、私がその秘書になったわけです。

消滅は免れたとは言え、一旦こうなると、この神学院を再び日本に戻すのは大変な仕事です。
しかし、希望を失わず、頑張って行きたいと思っています。よろしくご支援下さい。




さて、第2刷が品薄になり、紀伊国屋などの大きな店からも姿を消し、楽天やアマゾンのネット書籍販売のサイトにも、
専ら古書として目立つようになっていた私の本でしたが、最近ようやく第3刷が印刷されて出回ることになりました。

まだお読みになっておられない方は、この機会に是非手にとってみて下さい。

http://item.rakuten.co.jp/book/4122150/ ← Ctrlキーを押しながらここをクリック。

私は、あさってからまたちょっとローマに行きますが、6月23日には関空に舞い戻ります。
そうしたら、多分10月下旬までは日本でしょう。多くの時間を野尻で過ごすと思います。お会いできれば幸いです。



谷口幸紀拝

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする