:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 主はあなたをガリレアで待っている(オリジナル)

2013-01-28 21:48:44 | ★ シンフォニー《アメリカリポート》-1

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主はあなたをガリレアで待っている

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 神様は今年2度目のイスラエルへの旅を私に恵んで下さいました。

世界の新求道共同体の創始者のキコ氏が、6年前に次いで、2度目のアジアの司教達を招いての集いを

ガリレア湖のほとりの山上の垂訓の丘にあるドームスガリレアで開くので

日本からは唯一の参加司教である平山高明引退司教(88才)に同道するためでした。

 

 

好天に恵まれ、エーゲ海の島々の上をひとまたぎ

ローマから約3時間でテルアビブへ

 

  

 

中空には半月が静かに浮かび         空の回廊をローマに向かう僚機かすれ違う  

 

 

テルアビブ空港からは66号線のフリーウエーでティベリアス(ガリレア湖のほとりの古い町)へ向かう

 

 

ドームスガリレアに着くと

白い羊と黒い羊 (私のブログ「黒くなったり白くなったり」 《ガリレアの風・・・④》 (2012.04.27)参照)

 の混成チームの音楽と歌の歓迎が待っていた

 

 


彼らの頭上には 「主はあなた達をこの山の上で待っておられた」 という

教皇ヨハネパウロ2世の言葉が刻まれていた (これ今年の5月にはまだなかった)

教皇は2000年の聖年にこの場所を訪れ、この建物の落成を祝福されたのだった

 

 

ホールでギターを奏でながら歌うキコ氏のシルエット

 

 

キコ氏の招待に応えたアジアの司教達120人余り

インドからの枢機卿1人大司教6人司教60人は全体の過半数を超える圧倒的プレゼンス

紀元1世紀、キリストの12使徒のひとり聖トマスはインドのマドラスで殉教を遂げている

今回、キコの招きに応えて参加したインドの古い典礼の教会の司教達の正装は人目を引いた 

私は1964年(東京オリンピックの年)に日本を脱出し、その年のクリスマスには

インドの最南端コーチンの山の上の修道院でクリスマスの儀式に参加していた

遠くの村々から夜道を上ってきた信者たちが、屋外の焚火の周りを祈り歌い踊るのを

不思議な思いで見守ったことを今でもはっきり思い出す

 

 

キコにかかると、偉い司教さんたちもその指導のままに従う

120人余りの司教を含む300人ほどの司祭・信徒が先ず告白(懺悔)をする

キコの奏でるギターと歌声をBGMに、人々の面前で一人の司教がもう一人の司教に

自分の罪を告白して、跪いて赦しを受ける

50年前、まだシスターや神学生が毎週のように懺悔していたのはもう昔の語り草

多くのカトリック信者が懺悔をしなくなって久しい

ローマ法王はそれでも毎月のように告白する中で

司教や神父や修道女でさえ年に一度も懺悔しないものも出始めているご時世だ

キコに促されて久々の懺悔と言う司教がいても驚いてはいけない 

 

 

この光景をほほえましく見守るサリー姿のインドのご婦人

私にとって、インドのサリー、ベトナムのアオザイ、日本のきもの、が

世界で一番美しい女性の民族衣装だと思われる

 

 

懺悔で心を清められると、今度は祭壇を囲んでミサにあずかる

後ろの壁画はキコの作品

 

 

キコの設計によるドームスガリレアの夜景

中央上の遠くにティベリアデの街の明かりが、その下から左にかけてがガリレア湖

(つづく)

 

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★ 異邦人への宣教 = コップの外へ飛び出そう!《プロテスタント化するカトリック教会(その-5)》

2013-01-23 22:04:55 | ★ 神学的省察

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異邦人への宣教 = コップの外へ飛び出そう!

急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-5)

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身辺いささか忙しくなって ブログの更新が思うに任せません

一息ついて ホッとされた向きもあるでしょう


 

朝霧のポルト・サン・ジオルジオ風景


 いまカトリック教会が司祭の独身制を廃止したら、どれだけの司祭が、結婚に走るでしょうか?司祭の平均年齢が高く、結婚適齢期をとっくに過ぎている者がほとんどですから、多分意外に少ないのでは・・・・。

 では、司祭に結婚を認めたら、急に司祭のなり手が増えるでしょうか。それも大いに疑問です。なにせ、司祭の給料は生活保護並みか、それ以下ですから。

 ローマの司祭の基本給は―驚くなかれ―確か月に800ユーロ(約8万円)と聞きました。私が在籍する高松教区では、ローマに来る前の時点で11万円ではなかったでしょうか。他に才覚に応じてフリンジベネフィット(付帯的利得)があり得るとしても、これではとても結婚できないし、まして子供を大学までやるなんてとんでもありません。

 私はプロテスタントの牧師さんの平均的収入がどれぐらいか全く見当がつきませんが、結婚して子育てが成り立っているからには、カトリックよりはずっとましなはずでしょう。その向こうを張って、もしカトリック司祭の給料をプロテスタント並みに引き上げたら、世界中の司教区と、総本山バチカンの財政は、一気に破綻するかもしれません(笑)。


リド・ディ・フェルモ 冬だというのに 海辺に小春日和の太陽が


 プロテスタントの信者さんは、牧師一家を養う負担が重いと陰では愚痴をこぼしながらでも、それが信仰共同体存続に不可欠な条件だと初めから覚悟しているからいいですが、カトリックの信者は、独身司祭は教会制度が養うものと考えているので、司祭が結婚することになったから、奥さんと子供たちの生活費をあなた達で負担しなさいと突然言われたら、みんなびっくりして教会を離れるかもしれません。

 お寺さんでも、牧師さんでも、神父さんでも、いわゆる「聖職」を、食べていくための(ましてや家族を養い、財をなし、地位と名誉を手に入れるための)手段と考えるなら、世俗化した今の社会では、これほど展望のない割の合わない職業はまたとないでしょう。

 そもそも、聖職は世俗の職業と同じではありません。キリストの弟子たちは、キリストに呼ばれたから、全てを棄ててキリストのあとにつき従ったのでした。これは神に選ばれた者が従うべき「召命」(ヴォケーション)なのです。

 

浜辺に出た カモメがひと群れ 羽を休めていた


 「食欲」「性欲」は動物である人間に、「個体」「種」の生命の維持を保証する最も根源的な本能です。カトリック教会はこの人間にとって根源的で自然で健康な本能を抑制し、それを断念する生き方を、神様の召命に答えて教会の普遍的な「宣教の使命」に生きる条件として制度化したのです。だから、そんな不自然なことはとても無理ではないか、と考える人がいても不思議ではありません。しかし、神父になって18年、神学生時代を入れるとローマに住んで13-4年、世界のカトリック教会事情を内側からクールに見据えてきた私は、司祭の独身生活が心配したほど不自然ではなく、また思ったほど偽善的でもないという点に確信を持つようになりました。

 それは、神様がある特別な召命を与えた者に対しては、それを生きるために必要な特別なカリスマ恵みを一緒に与えて下さる、という事実を目の当たりにしているからです。

 人間の弱さ不完全さからくる葛藤や逸脱の問題は最後まで残りますが、召命の道を誠実に生きようと日々精進する司祭たちには、キリストの「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11章3節)と言う言葉にもあるように、外から見ると不自然で不可能のように思われることも、神の与えられる豊かな恵みと力に支えられて可能になるものだということを納得しました。

 もちろんこれは、ご自分の愛をもって宇宙万物を無から創造し、それを今も日々存在界の中に支え導いておられる「生ける神」が実在するという信仰を前提としての話です。神を信じない人にはいくら説明しても、どの道わからないことかもしれません。


 潮風が頬に優しい リド・ディ・フェルモ


 先日、成人式の日にこんなコメントが届きました。

       谷口神父様
       コップを飛び出すパワーを ・・・
       どうすればよいのですかね
       成人式 着物姿に 大雪 ままならぬもの
                            (T. Y.)

 今問われているのはまさにそのことです。

「世俗主義」とは、神聖なもの、超越的なもの、一言で言えば「神」の存在を否定し、「神無き社会」、「神に敵対的な世界」を築こうとする立場です。

 しかも、ここで言う「神」は神話の神々や迷信的神々ではなく、ユダヤ教・キリスト教の系譜が信じる宇宙万物を無から創造した唯一の「愛である生ける神」です。そして、それを否定し、この世の支配者である「お金」を神として拝む「拝金主義」の支配する社会を築こうとするのが「世俗主義」です。それは、私がリーマン時代に奴隷として仕え、今はそれから逃れた「マンモンの神」、愛の神から人間を引き離し滅ぼそうという強烈な意志を持ったもう一つの「生ける神」、が勝利する社会です。


潮の退いたあとには 砂の上に石ころや 貝殻が

 

 私のグレゴリアーナ大学の先生ロサト教授は、宣教する教会の姿を生きた細胞に例えました。

 仮に「世俗主義的社会」の只中に「教会共同体」という生きた「細胞」があるとしましょう。細胞は細胞膜を通して、外界(社会)から必要なものを摂取し、不要な老廃物を吐きだします。細胞膜の内側の細胞質は核を養い、核はDNAの生命情報を護って細胞の命を支えます。

 16世紀、中世から近世へ時代が大きく変わろうとしていた時、キリスト教の聖職者が聖俗のあらゆる分野で支配的な力を握ったいわゆる「クレリカリズム」(聖職者主義)の弊害に対する反動として、プロテスタンティズムは信徒である「細胞質」を重視するあまり、細胞から「核」である司祭を抜き取り廃棄してしまったというイメージは、歴史的現実をうまく言い当てているでしょうか。
プロテスタントが抜けたあとのヨーロッパの教会は、その後カトリックとして、宣教の使命をもっぱら聖職者に委ねて今日まで及んだのも、これまた歴史の現実でした。

 これら二つの現実は、その後4世紀余りにわたり平行して競い合って(コップの中の嵐を演じて)きたのですが、気が付いたらコップの外の世界では、特にこの半世紀ほどの間に、キリスト教的価値観に正面から敵対する「神無き」世俗主義が台頭し、その前に両者はいずれも全く歯が立たなくなって後退に次ぐ後退を重ねていました。

 

・ ・ ・ ・ ・ 小石と 貝殻と ・ ・ ・ ・ ・


 この危機の時代にカトリック教会内に新たに登場したのが、第二バチカン公会議の落とし子のような新しいカリスマたちです。
ロサト教授のわかりやすい例に戻れば、カトリックの特性とプロテスタントの特性のプラスの部分を合体させた強力な宣教の方法論がそれです。プロテスタント型の「万民司祭」、つまり全信徒が宣教の第一線に立つ細胞質の中に、カトリック型の「独身司祭」の司る秘跡が入って、内側から活力を与えるかたちです。

 具体的には、細胞質である家庭を営む信徒のグループに、「秘跡」を持って命と活力を与える「核」の役を果たす独身司祭を挿入してアメーバ―のように強靭な生きた細胞を形成するのです。

 これは、教皇ヨハネパウロ2世の時代に始まり、現教皇ベネディクト16世が継承している「異邦人への宣教」(ミッシオ・アド・ジェンテス=Missio ad Gentes)です。オランダや北欧、ドイツやフランスなど、元カトリックであったり、プロテスタントであった地域が、世俗化の津波に襲われて精神的廃墟となり、キリスト教が完全に消え失せてすっかり「異邦人」の世界と化したところに、子沢山の宣教家族数組と一人の独身司祭が一つのユニット、生命力のある自己完結型の有機的細胞としてパラシュートダウンしてその町に定着し、宣教に打って出る。この大人の背丈に達した信仰集団には、世俗主義の毒素に犯されない信仰的免疫力があって、世俗化した社会に福音の光を灯し、キリストの赦しと愛を宣べ伝えながら広まっていくエネルギーを備えています。

 そこで宣教活動のイニシャティブを取るのは信徒のチームであり、司祭は専ら秘跡と祭儀を受け持ちながら、信徒の指揮と指導の下に服し、専ら信徒の精神的一致と霊的向上に資するように努めます。

 世俗主義の攻勢をはね返して効果的に福音を宣べ伝えるためには、必要なら殉教も辞さない決意を持った、そのような強固な信徒集団の仕組みが必要なのではないでしょうか。

(おしまい)

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★ 急速にプロテスタント化するカトリック教会(その-4)

2013-01-17 12:45:44 | ★ 神学的省察

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急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-4)

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 このテーマ

 今回限りで何とかお茶を濁そうという気に 一度はなったのですが

(その-1) に次いで (その-3) のアクセス数が 予想外に伸びたこともあって

このままでは何だか無責任な気がしてきて また敢えて深みに嵌ろうとしています

先ず 経過を振り返ります

   

ねェ この写真賞味期限切れてません? つまり実物はもっと老けてませんか?

その通り 看板にに偽りありです!(影の声)


公園の鳥-1


 この一連のブログのテーマの(その-1)では、司祭不足から、カトリックの礼拝が司祭抜きの―したがって「秘跡」抜きの―「聖書中心」の礼拝に傾いたことを書きました。それはまさに文字通りカトリックのプロテスタント化の典型でした。

 (その-2)では、司祭が独身であることは、キリストとその弟子たちの時代にも、初代教会の中にも、その決定的な根拠はなく、東西のキリスト教の伝統の中では西側だけに芽生え発達したもので、それも11世紀ごろに人為的に導入され、特に厳格に行われるようになったのはプロテスタント教会の改革の反動として高々この400年余りのことに過ぎないことを書きました。

 しかし、カトリック教会は半世紀前に第2バチカン公会議の大改革を行った際に、司祭の独身制を廃してプロテスタント化することはなかったとも書いたため、私の論旨は歯切れが悪く混乱しているような印象を与えたかもしれません。

 (その-3)では、「義清さん」の思い出を書きました。

 私個人としては、若い学生の頃から司祭職に対する召命を感じ、一旦はイエズス会の修練院まで行ったこともありましたが、教会の歴史を知れば知るほどカトリック教会の絶対的な司祭独身制度に疑問を抱いたことがありました。しかし、神様の不思議な導きで司祭にして頂いて10数年が経過した今、自分自身の体験を通して司祭独身制の希少な価値を再発見しつつあります。

 そして、今日カトリックの自称進歩派(左派)の中に司祭の独身制の廃止論者が(高位聖職者を含めて)少なくない中で、教皇以下カトリック教会の本流が、今なお司祭の独身制を堅持しようとしていることに対して、共感と理解を持つのみならず、その妥当性に対して強い確信を抱くに至っています。


公園の鳥-2

 

 キリストが説き、弟子たちに種として残したものは、長い教会の歴史を通して芽生え、育ち、発展しながら、新しい実を結んでいくもののようです。たとえば、キリスト教の基本的教義でさえも、聖母マリアの教会の中における位置づけのように、初代教会からその芽はあったとは言え、聖母マリアへの「信心」を棄てたプロテスタント教会の改革に対抗して開かれたトリエントの公会議の時でさえも、教会はまだ明確な教義化をためらっていて、1854年になってようやく「聖母マリアの無原罪の御宿り」を教義として確定した例がありました。

 教義でさえそうであるならば、初代教会に包括的に種子として与えられた「宣教の使命」が歴史の展開の中で自然に育ち、分化し、開花し、ようやく今日になって実を結ぶことがあっても不思議ではありません。

 種子として蒔かれた「宣教の使命」は、洗礼を受けた全てのキリスト者の使命でありながら、時代の流れの中でその内容は分化し、成長し、次第に特化していくのは自然なことではないでしょうか。社会と文化の発展に添って、宣教の使命も信徒の間で分業と協力によってより豊かに効果的になることも考えられます。

 冷静に考えると、プロテスタント改革の頃から、西側の教会では、宣教の第一線で全面展開する信徒(プロテスタント化)と、それを独身司祭にこそ委ねようとする動き(カトリックの反動的反応)への分化が明確になっていったのではなかったでしょうか。

 グレゴリアーナ大学のロサト教授はそれを人間の細胞に例えた話は、だいぶ以前に書いたブログ「ロサト教授は誤りを教えたか」の中で詳しく展開しましたので参照していただきたいと思いますが、短く要約すると、細胞膜の中の細胞質は中心の核を包んで護り栄養を与え、その代わりに核は細胞質に生命を与え、こうして支え合って有機体として生き続け、宣教の使命を果たしていくことができるという考え方です。

 世俗化し教会に対して敵対的となった社会の中では、「万人司祭」を掲げて信徒だけで宣教の使命に取り組もうとしても、命の情報を保持する独身司祭を失っては、生き抜けない厳しい状況が生まれています。現代の世俗化した社会の中では、プロテスタントの教会もカトリック同様に守勢に立ち、後退している事実がそれを物語っています。

 他方では、核に例えられる独身司祭が裸で孤独に宣教に打って出ても、細胞質に例えられる信徒の家族に包まれ、守られなければ、枯渇して死滅するほかはありませんでした。今カトリック教会が緩やかな自然死に向って突き進んでいるのはそのためです。

 宣教の使命は核のものか、細胞質のものか、プロテスタントか、カトリックか、とコップの中の嵐のような議論をいつまで続けていても、コップの外に飛び出して世俗化した社会に福音を宣べ伝えるために打って出る活力は生まれてこないというものです。

 

 そのような反省に立ってキリスト教の置かれている状況を見直すとき、何が浮かび上がり、どういう展望が開けてくるのでしょうか。次回はその点を明らかにして、今度こそこのテーマを締めくくりたいと思います。

(つづく)

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★ 急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-3)

2013-01-14 09:18:03 | ★ 神学的省察

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急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-3)

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実はいま私はアドリア海に面したポルト・サン・ジオルジオという保養地に来ています

夏は海水浴客で賑わうのですが 今は死んだように人気がなく 怪しい雲行きに海も荒れています

 

公園の鳥ー3


 ところで、複雑で重層的な歴史的事象を、教科書的・網羅的で単調な―従って無味乾燥な―記述に終わらせないで、最後まで読者を惹きつけていくためには、何かそれなりの工夫が必要になります。

 そのために敢えてする私の語り口には、当然賛否両論があることはよく承知して居ます。それはスタイルについても、内容についても言えるかもしれませんね。

 しかし、自分では、カトリックの「中道」の視点から大きく離れないようにとの配慮だけは欠かさないように心掛けてきたつもりです。だから、それがもし或るローカルな通念とどこかでずれるところが有る場合には、もしかしてそちらの方でも一応従来の立場を吟味し直す必要がありはしないかと、逆に問題を提起したいところです。


公園の鳥ー4


 さて、いささか古い話になりますが、私にはかつてプロテスタントの牧師さんに尊敬する伊藤義清(よしきよ)という兄貴分がいました。私より5~6才年上で、もう故人です。同志社の神学部出身で東京の日本基督教団の大きな教会の牧師をよい評判で長く勤めた人でした。

 あれは、時あたかもベトナム戦争最盛期のことです。

 べ平連キ政連(「キリスト者政治連盟」と言うプロテスタントとカトリックの左派連合)が合同で、当時パリに亡命していた政治囚釈放運動の旗手のグエン・ディン・ティ神父と、その同志の仏教の尼僧を日本に招待し、当時南ベトナムに大勢いた政治囚の悲惨な現状を訴え、その釈放を求める国際キャンペーンの全国講演ツアーが企画されました。

 義清さんが北海道から東京まで、東京で引き継いだあとは、沖縄まで二人の講師のボディーガードをするのが私、という役割分担でした。

 たった4年間に800万の人口の内200万から300万の人々が空しく消されていったカンボジア虐殺事件も異常でしたが、同じ頃、南ベトナムではアメリカの傀儡政権の下で、不当に逮捕され、裁判もなく、地面に掘られた大穴に何人も押し込まれ、何か訴えれば上から石灰の粉をばら撒かれるという悲惨な状態に、実に大勢の人たちが放置されていました。

 安全で何不自由ない生活を楽しんでいた日本でも、多感な若者たちの中には、その状況に無関心でいられないものが当時はまだ大勢いたのです。


 ティ神父の一行を無事パリに送り返した後、ご苦労さんとばかり、屋台で安い酒を飲みながら、義清さんと交わした会話が懐かしく思い出されます。

 酔った勢いで彼が「いやー、カトリックの神父さんは羨ましいね。口うるさい嫁さんに悩まされることもなく、子供の教育費の心配もなく、ひたすら読書や牧会(信者さんのケアー)に専念できるんだから。」と言うと、当時、上智大学の研究室の助手の職を追われ銀行マンの修行中だった私は、「そうですかねェ?私に言わせれば、カトリックの神父は実生活の苦労がないだけ人間的にどこか未熟で、ひとの悩みに対する十分な理解に欠ける者が多いのではないかと思うのですがね」と返しました。

 その後55歳で神父になって、さらに20年近く時を経た今ふり返って、ああ、あの頃はお互いにて「隣の芝生」が青く見えていたのだな、と懐かしく思い出に耽っていると、

谷口くん

カソリックがプロテスタント化して

プロテスタントがカソリック化しても

ともにキリスト教

コップの中の嵐だ!


 と、いつもの辛口の J.K. 君から鋭い突っ込みが飛んできました。深い真実を衝かれた私は、「友よ、あっぱれ!」と、むしろ痛快な気分になりました。

 元々カトリックとプロテスタントがあったわけではありません。あったのはキリスト教でした。西ヨーロッパのキリスト教の一部(半分ぐらい)が16世紀に自分たちの主張を掲げてプロテスタント教会を作って出ていったから、残りの部分が受け身的にカトリックの名のもとに区別性を明確にしたまでのことではないですか。

 そう言えば、11世紀に東西にキリスト教が分裂した時も、相互破門だ、破門を解いたのと、どたばたした挙句の果てに、結局分裂は歴史のなかにそのまま残ったのでした。

 「あっち向いて、ホイ!」というやや乱暴な(しかし、心理的にはピッタリだな、と今もって自画自賛している)表現で象徴されるように、プロテスタント教会がいくつかの点で突出して「左」(と仮に言いましょうか)に動いた結果、カトリックがそれに反発して現状に固執し、むしろ反作用として以前よりもいっそう「右」に動いたと面が確かにあったと思われます。

 当時、プロテスタントの教会が提起した点の中に、本来カトリック教会が評価し取り入れるべきだったはずのものはなかったのか、また、反動でカトリックが固執した点にも、あらためて再評価すべきものがあるのではないか、と言うことがいま問われるべきではないでしょうか。

 そもそも、プロテスタントが言う「万人司祭」とか、カトリックがあらためて言う「信徒の王的司祭職」のもともとの意味は何だったのでしょうか。

 それは、キリスト・イエスが弟子たちに託した使命の総体、つまり「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」という使命ではなかったのでしょうか。

 この使命に目覚め、それを妻帯者信徒の手で積極的に展開したのは、確かにプロテスタント教会の大きな功績だったというべきでしょう。その反動で、カトリック教会はフランシスコ・ザビエル型の独身聖職者主導の宣教に特化していったのも、歴史的現実でした。
それが、第二バチカン公会議以降大きく方向転換し、「信徒使徒職」と言う言葉で、プロテスタント教会の功績を追認し、カトリック独自に方向性の模索を開始したのでした。

 プロテスタント教会が改革を急ぐあまり置き忘れた、或いは意図的に切り捨てた独身聖職者の存在価値を大切に護ったのは、カトリック側の大きな功績であり、それは今後も堅持されるべきものであるはずなのに、現代の世俗主義の蔓延の前に、司祭職への召命の激減で残念ながらその存在は危機に瀕しています。

 私が「カトリックの急速なプロテスタント化」として注目し、評価したいのは、この公会議後に花開いた「信徒使徒職」の一環としての「信徒の手による新しい福音化」であり、それは今や「世俗化」の波の前に同様に停滞を余儀なくされているプロテスタント教会の「宣教」の現状を大きく凌ぐエネルギーを秘めている点です。 

次回は、その具体的な現実を紹介して、このテーマを終えたいと思います。


 そう言ってそそくさと舞台の袖に引っ込んで、フーッと息を吐いて、額の冷や汗を拭いている自分がいます。止せばいいのにまた性懲りもなく面倒な問題に首を突っ込んだものだ、と言うのが正直なところです。

 これはまさにパンドラの箱です。一旦蓋を開いてしまったら、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が一斉に飛び出して収拾がつかなくなるところでした。宗教改革、反宗教改革の全体像は、そもそも浅学菲才の私の手に負えるテーマではありません。

 ですから、次回は最初から言いたかった一点だけを簡潔に展開してさっさと幕引きといたしましょう。


(つづく)

 

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★ 急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-2)

2013-01-09 13:09:20 | ★ 神学的省察

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急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-2)

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先日バチカンポストに郵便物を持って行こうとして、大聖堂の正面の道に入ってびっくりした

サンピエトロ寺院のクーポラ(まる屋根)がないのだ すっぽりと横に切り取ったように無い!

これは珍しい写真になるぞと ところが 駐車するスペースを探してモタモタしているうちに ぼんやりと見え始めた

畜生! まことに残念 シャッターチャンスを逃した ちょっと3分遅かったか!!

曇りの日 離陸した飛行機が突っ込むあの雲が 珍しく一瞬100メートル以下まで降りてきた感じ・・・

だったのに これではただの霧の中みたいではないか でも嘘ではない ほんとだったんですから!

しばらくは 両側の小さな丸屋根も見えなかったのだから・・・・



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ポストから帰ってきて部屋の窓の外に目をやると


わたしの部屋の窓の正面に去年まで高い糸杉の木があった

植木屋さんがバッサリ切る前は この幅でまだ上に5-6メートルは伸びていて

その先端はさらに先細りに天を刺していたのだが 切られて一旦は横一直線に平らになった

今はまた 左の一部が天に向かって伸び始め残りの部分もギザギザになってきた

それ以来 この空中の高台は スズメたちの格好の井戸端会議場になっている

その議論が伯仲すると チュンチュン シリシリ その喧しさは半端ではない

中には 好奇心強いのが 私の窓ガラスのところまでやってきて 

ノートパソコンの見えない画面を読み取ろうと しきりに首をかしげる

そして ぶるぶるっと羽音を残して会議場にもどり 報告して 曰く


今日のブログのテーマは 「プロテスタント改革と聖職者の廃止」 らしいぞ! 


 プロテスタント改革の特徴の一つは、独身主義聖職者の廃止と考えられます。その根拠はいわゆる「万人司祭」の考え方に基づくものですが、プロテスタントの教会は聖書的にもその立場が裏付けられると考えているようです。もともとカトリック教会にも、洗礼を受けたものは皆等しくキリストの王的司祭職の与るものとする考えがありました。洗礼を受けた信者は、自然にはほとんど皆結婚するでしょうから、司祭が独身でなければならないという話はそこからは出てきません。

 キリストが2000年前に自分の教えを広め始めたとき、先ずガリレアの漁師たちから始めて弟子たちを集め12使徒を形成したのですが、弟子の頭とされたペトロはイエスと年恰好は似たようなもの、もしかしたらイエスよりいくらか年上だったかもしれません。

 当時のユダヤ人社会の習慣によれば、男女の結婚適齢期は今よりはるかに低かったと思われます。ヨゼフの許嫁、イエスの母マリアが受胎告知を受けたのは12-3歳の頃ではなかったでしょうか。イエスが30歳でまだ独身だったことがむしろ例外で、弟子たちは、イエスに特別愛された若いヨハネを除いて、おそらくほとんど皆結婚して家庭があったに違いありません。

 彼らはイエスに弟子として召されたとき、漁師だったものは舟も網の親も捨てて、すぐにつき従ったとありますが、ペトロには姑がいたし―と言うことは妻もいたわけで―弟子たちもみな信者である妻を連れて歩いていたと考えられます(1コリント9章5節参照)。恐らく、イエスが弟子たちと伝道の旅をするあいだも、弟子たちの家族は、ぞろぞろ、ワイワイ、遠巻きについて歩いたのではないでしょうか。

 キリストの復活後の教会では、弟子たちに育てられた教会の指導者たちも、みな既婚者でした。聖書にも「だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。」(1テモテ3章2節)とか、「奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。」(1テモテ3章12節)とか、「長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって・・・・。」(テトスへの手紙1章6節)とあります。

 これら、初代教会で監督、奉仕者、長老と呼ばれている役職の者は、今のカトリック教会で言えば、おおむね司祭や司教に該当すると考えられるのですが、みな一人の妻の夫であること、つまり既婚者、妻帯者であることを当然の前提としています。このように、聖書を見る限り、司祭、司教が独身でなければならないという根拠はどこにもないようです。

 私は学生時代に興味を持って、東西教会の分裂(ローマを中心にした西ヨーロッパの教会とコンスタンチノープルを中心としたギリシャ正教会)の頃の司祭の独身性の問題を調べたことがありましたが、そのころの記憶をたどると、11世紀ごろまでの西側の教会では、もともと独身制の修道者や隠遁者は別として、世俗の司祭、司教の間では初代教会からの伝統に従っていて、普通に皆結婚していたようでした。ギリシャやロシアの東方の教会も伝統的に今日に至るまでそうです。


なんだか話が面白そうだと 集会に参加するスズメの数が増えてきた

ブログの記事の進み具合を偵察に来るやつもいる


 話はちょっと飛躍しますが、共産主義のソ連がまだ崩壊する前、日本とソ連との間には領土問題が未解決なため国家間の平和友好条約がなく、その欠陥を補うために、民間団体を装った日ソ円卓会議という交流機関があり、私は何故かソ連側から一本釣りで日本のカトリック教会の代表の指名を受け、正式メンバーとして参加していた時期があります。日本の宗教界は各宗教各派がそうそうたる代表を送り込んでいる中で、日本のカトリック教会によって選ばれたのではない私の存在はいささか異例ですが、それは日本のカトリック教会がソ連のロシア正教とではなく、アメリカに亡命中のロシア正教と繋がっていたねじれ現象の結果でした。

 毎年モスクワと東京で交互に開催される会議には、ソ連では必ず招待のオプション観光ツアーがついていて、お蔭で私はソ連中を観光することができたのですが、たまたまある年はその後原発事故で有名になるチェルノブイリに近いウクライナのキエフに招かれ、そこのロシア正教の大主教のオフィスに表敬の挨拶にそろって参りました。ロシア正教の黒の僧服に金の十字架を下げ、髭を蓄えた大主教様は大変威厳に満ちたお姿でした。そして、「今夜はオペラ座に皆さんを招待いたします。」と言われ、一旦は別れたのですが、オペラ座で大主教に再会した我々日本からの一行は度肝を抜かれました。

 彼は、シックな背広姿で、美人の奥様と、立派なご子息たちをずらりと伴って現れたからです。バチカンで枢機卿の執務室に表敬訪問した晩に、オペラ座で背広姿の枢機卿とその奥方と子供たちに会うなんてことは絶対にありえません。現代のカトリックは厳格な独身制の世界だからです。


もう少し静かにしてもらえませんか スズメさんたちよ

気が散って書けないじゃないですか もう!

 

 話をもとに戻します。西ヨーロッパが中世の封建社会に入ると、農奴や小作人を抱える封建領主に富と権力が集中するようになり、司教や大修道院長も宗教貴族として世俗の領主と同じ特権階級になっていくわけですが、その地位をめぐって権力争いや跡目騒動など、聖職者に相応しからぬ様々な弊害が現れるようになり、それを防ぐためにクリューニ-の改革などの修道者主導の教会改革の一環として、西側教会の世俗の司祭司教達に、かなりの抵抗を押し切って、強引に修道者並みの独身制を押し付けていった形跡があります。

 もともと、司祭に独身を強要するというのは人間の自然の本性に逆らう人為的な制度ですから、中世ヨーロッパ社会の歴史を通して、無理や矛盾を内包しながら、建前と本音を使いわけた緩やかな運用が黙認された面もあったでしょう。富と権力を掌中に収めた男が次に考えることは考えなくてもおよそ決まっているではありませんか。教皇や枢機卿などの高位聖職者が、御殿に住み、別荘を構え、お妾さんまがいの女性を半ば公然と囲う傾向が全くなかったとは言えません。

 有名な例としては、ルネッサンス期の教皇アレクサンデル6世の庶子チェザーレ・ボルジアの存在や、教皇パウルス3世の実の孫アレッサンドロ・ファルネーゼを14才で枢機卿にした例などがあります。このような例からもわかるように、建前上は独身主義を導入した後も、高位聖職者の縁故主義(ネポティズム)の弊害は後を絶たなかったようです。上がそうなら、身分の低い末端の平の司祭たちだって、清貧で潔癖な聖なる司祭ももちろん常にいたでしょうが、いい加減なのがたくさんいたとしても、どうか躓かないでください。中世日本の仏教界とくらべても50歩100歩ではなかったでしょうか。

 プロテスタントの改革による聖職者独身制度廃止の動きは、そのようなわけで11世紀ごろに人為的に導入したものを、本来の初代教会の姿に戻しただけのことと言えるのかもしれません。

 問題は、むしろプロテスタント教会が独身聖職者制度そのものを廃した後のカトリック教会の対応でした。

 トレントの反宗教改革を目指す公会議では、司祭の独身制はより一層厳格に行われるようになったようです。以来、今日の日本のカトリック教会に見られるようなタイプの独身司祭制度があるのです。長年のネポティズムの弊害も、1692年にイノケンティウス12世が教皇による親族への財産や土地贈与を禁じたことによって、ようやく取り除かれたと言います。


何かブログの話の筋が混乱しているようですね 神父さん?

それはお前達がうるさいからではないか 静かにしてくれ ほっといてくれ~!


 では、ブログの題に「急速にプロテスタント化するカトリック教会」と言うからには、現代のカトリック教会が、司祭職への召命の目立った減少に対応して、司祭の独身性の撤廃に急速に傾いているかと言うと、現実はどうも全く逆だったようです。

 子供の遊びに、「あっち向いて、ホイ!」と言うのがあるじゃありませんか。母親と幼い子供が、或いは下校時の通学電車の中で小学校低学年の女の子たちが、夢中になって笑い転げているのをいつもほほえましく眺めたものですが、私など真面目に一発で引きこまれるタイプで、相手の子供の指が左を指せば、私の顔は条件反射的に右を向き、その指がホイとばかりに下を指せば、馬鹿みたいに上を向く、の類です。間違って子供の指の方を向いてしまったら、負けたと言って悔しがり、相手の子供を大いに喜ばせてしまいます。

 私に言わせえれば、16世紀の宗教改革とそれに対抗したカトリックのトレントの公会議は、そのパターンに嵌った典型例ではないかと思うのです。

 プロテスタント改革者が、司祭の独身制廃止!司祭職そのものも廃止!全ては信徒の手に!と叫んで、あっち向いて、ホイ!とやったら、カトリック教会は、何も考える前にその一つひとつに反射的に、今こそ厳格な独身制を! 司祭職の強化を! 信徒は蚊帳の外のただの傍観者に! の方を向いてしまったのではないでしょうか。そこには冷静な歴史的考証、時代の空気に対する感性も、ほとんど機能しなかったのではないかと反省されます。

 この条件反射の自己暗示から、カトリック教会がハット我に返ったのが1965年に幕を閉じた第2バチカン公会議だったのではないでしょうか。

 あれ?私は一体何を書いているのでしょうか?

「急速にプロテスタント化するカトリック教会」

 について書くはずではなかったでしょうか?それなのにほんの短い導入のつもりが、脱線してすでに一回分のブログの目安の長さをはるかに越えてしまいました。しかたありませんね。一旦ここで区切らせてください。

 しかし、私はしつこく表題のテーマに立ち還り、「カトリックのプロテスタント化」を必ずしっかり書き切ります。ですから、どうか次回以降をお楽しみに。

(つづく)

 

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★ ローマでの老老介護

2013-01-04 20:58:43 | ★ 日記 ・ 小話

                                                                   

 ローマでの老老介護 

                                        

 

コンコン! とドアをノックして

「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」 院長平山司教様の部屋に入り

どっかと腰を下ろし エヘン と一つ咳払いをしてから おもむろに口を開いた

司教様 次のブログに 「ローマでの老老介護」 と言う題で司教様のことを書きたいと思うのですが

プライバシーと肖像権の問題もありますので アップする前に一応お目にかけますね

ダメならダメと遠慮なく仰って下さい ボツにしても一向構いませんから

と申し上げたら

アハハ どうせ八方破れだからね 今さらどうってことはないよ と おおらかなものだ


* * * * * * *

 

普段 出かけると疲れるからと バチカンのお役所などに用のあるほかは ほとんどお出かけにならない司教様が

 珍しくご自分から 「たまには街中を散歩したいな」 と言われてうれしくなりました

12月30日は幸い日曜日で 歴史的中心街の車乗り入れ規制が解除されている 暖かい晴天にも恵まれた

サンピエトロ広場の今年の馬小屋をぜひ見たいと言われたので 広場に至近距離の秘密の駐車スペースに車を駐めた

馬小屋まで150メートル だが馬小屋の前には案の定長い行列があった 

  

せっかちな私は今まで遠くから人の頭越しに眺めてお茶を濁していたが 司教様は 並ぶ! と言われ 覚悟を決めた

列に並ぶことしばし やはり柵のかぶり付きからの景色は格別だった 司教様はすっかりご満悦

 

 大きさ比較の対照になるものを画面に入れるのを忘れたが 巨大屋根付き箱庭の幅は 優に10数メートルはあろうか

 

端っこの 司教様の右側に見えるのがベトレヘムの馬小屋の場面だ

ブログに貼り付けるために画素数を大胆に落としているからここではそうでもないが

原版の拡大写真では人形の顔の表情までわかると お褒めを頂いた

 

まだお歩きになれますか? うん 今日はまだ行けそうだ と期待していた答えを引き出して

通行自由の市の中心へ車を乗り入れて ナボーナ広場に向かった

ローマの道はほとんどすべて路駐可能 しかし ほとんどすべての隙間が常に車でぎっしり埋まっている

あらかじめ見当をつけていた袋小路の脇道を覗き込むと

思った通り 車一台分のスペースを見つけた 考え得る広場に最も近い場所だった

 

広場に入って まず美人の魔法使いのおばあさんと サンタさんと トナカイの橇の前で パチリ

司教さま いつもながら 優しい いい笑顔をしている

 

すると すかさず 本物の魔女から アリャ偽物だ 魔女に美人は似合わないんだからね!と 突っ込みが入る

 

  

大道芸人のマル見えの舞台裏も一応カメラに収めておこう この分だと 芸が始まるのはだいぶ先のようだ

 

これをブレークダンスと言うのかな? くるくると目まぐるしく回る

 

  

ピタッと止まる                           片手で回る  

背中で回る 速い激しい動きが売りのダンス

残念! 私のカメラと腕には 動画を撮って貼り付けるスキルがないのだ 4枚の静止画でどこまで伝わるか

 

軽快な音楽とともに回る このメリーゴーラウンドも もうみなさんご存知ですね

 

この優しそうなおじさんと 無邪気そうな坊や 見つめ合って いったい何をして遊んでいる?

真ん中の看板には

「あなたの瞳の奥に書かれている詩を 私が読み取って進ぜましょう!」

とある こんなデリケートな こころ優しい大道芸 はたして日本で考えられるだろうか と ふと私は思った・・・

 

 

アンデスのインディオ達のテントは今日も笛と太鼓で大勢の客を集めていた

 

 ナボーナ広場をほぼ端まで行ったところで 坐ってコーヒーとアイスクリームを頼んで たっぷり小休止

車までの帰りの距離を目算すると これが司教様の散歩距離の限界だ

先ほどまで甘いメロディーを奏でていたヴァイオリン弾きが 頼んだら司教様の側でポーズをしてくれた

これもいい思い出になるかな 何しろ もう一度司教様をここにご案内する日がある事を願うが それも神様次第で・・・

司教さまはこの3月に89歳に 私は去年の12月に73歳になった

これがローマの老老介護の記録です

(この日の司教様の万歩計は約4000歩を指していた ここしばらくでは最高記録とのこと!)

 

(お終い)

 

 

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★ 急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-1)

2013-01-02 11:37:42 | ★ 神学的省察

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急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-1)

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 写真アルバム風のブログは、書く方も頭を使わずサラリと書ける分だけ、読むほうも軽く流せていい代わり、すぐ飽きも来るのでしょう。そのことは、続けるとたちまちアクセス数が伸びなくなるのでよくわかります。ミルクはこの辺にして、生えかけの乳歯に心地よい固さのビスケットは如何かなと思いまして、「ローマでの老老介護」のテーマは次回に先送りして、上のテーマといたしました。

 

3階にある私の居住空間には 同じサイズの窓が二つあります

一つは居間兼寝室の書き机の正面に もう一つはシャワー・トイレ・洗面台の小部屋にあります

窓の向こうの糸杉の木はまだあと5メートル以上も高かったのですが 植木屋さんが

私の目の高さでバッサリ切ってしまいました

お蔭で 晴れた日には 雪のアペニン山脈が途切れずに見渡せるようになりました

時たま手慰みに吹くフルートの聞き手は 私の同居人 ヒヤシンスと3個のミニカクくタスです


 

おしゃべりなスズメたちは 高いところがめっぽうお気に入りのようで

朝から 一日中 うるさいこと うるさいこと 糸杉を切った植木屋さんを恨んでいます

以前には5メートル上で チュンチュン シリシリ お喋りしていたのだろうのに


さてと、

 カトリック教会がプロテスタント化するという言い方は、お堅いカトリック信者さんの中には、ザラッと神経を逆なでされたような気分になる方もおられるかもしれませんが、そこはちょっと我慢して読んで下さい。

 ヨーロッパ中世末期16世紀(その頃も教会は時代の変化への適応が遅れて混迷していた)の宗教改革の結果、プロテスタント教会は独身司祭制度を撤廃し、ミサや告白(懺悔)などを中心に司祭が特権的に仕切ってきた諸々の儀式(秘跡)を廃して、聖書を専らの信仰のよりどころに、妻帯者牧師の説教を中心とした集会・礼拝と、個人的な祈りを通しての神との直接の交わりに信仰生活の重点を移しました。

 それから4‐5世紀、カトリック教会はプロテスタント教会への対抗上、独身司祭が執り行う7つの秘跡(儀式)に固執して教会を支えてきたのですが、近年この「儀式」をとり仕切る司祭不足の深刻化という現実に押されて、ミサや告白などのいわゆる「秘跡」を教会ごとに維持することが困難になってきました。

 それで、心ならずも教会の一部閉鎖を含む統廃合を進めるのですが、それでも司祭の絶対数の急速な減少に追いつかないとあって、司祭が来られない日曜日の「祭儀」を、既婚者の信徒の指導に委ねる聖書中心の礼拝にシフトし始めました。カトリック教会ではそれを新造語の「み言葉の祭儀」と呼びますが、その内容はプロテスタント教会の礼拝と変わるところがなく、むしろ説教に習熟し専門職化した牧師を持たない分だけ、より貧しい内容にとどまっているのが現状です。


二日前に花開き始めたヒヤシンス いま甘い香りを私の部屋に惜しみなく振りまいています


 また、プロテスタントの教会は1牧師1教会が原則なのに対して、カトリック教会の新しい「共同司牧方針」は、例えば、5-6か所の教会ごとにブロック化し、どの教会にも敢えて専住神父を置かず、2-3人の司祭のグループが共同で手分けして巡回し、ケアーする方針を導入しました。その結果、「共同責任体制」とは耳触りのいい言葉ですが、実質的には責任の所在が不明確な「無責任体制」に陥っています。これは、400年の経験から生まれたプロテスタント教会の安定した状態にはるかに劣る、混沌とした流動的で不安定な体制と言わざるを得ません。

 そう言えば、私が日本に帰国するときに住む信州・野尻湖の国際村(元来はプロテスタントの牧師村)の人口動態を見ていると、明治以来日本でいい活動をしてきたプロテスタント教会の中には、後継者不足と本国からの支援資金不足で、日本での宣教活動を断念して教団ごと撤退したプロテスタントの宗派もあるようです。背景理由はカトリックと同じ、世俗化と少子化でしょう。

 特に、カトリック教会では、社会の「世俗化」と、その波に呑み込まれたカトリック家庭の「少子化」の煽りを食って、第一世界では一家庭に男の子がいる可能性は平均で65パーセントにすぎないのが実情です。家督を継ぎ、親の老後を見る男の子がいる幸運な家庭の割合がここまで減ると、その貴重な子宝の男子を、終生独身の神父として神にささげようなどという奇特な考えが心に浮かぶほど信仰篤い親がほとんどいなくなるのも当たり前でしょう。また、子供にしても、家を棄て、親を棄てて、生涯を独身を守って自分を神に捧げようという発想法を持つ若者がめったにいなくなるのもこれまた自然の流れです。

 例えば、私が神戸のカトリックミッションスクール(男子校)を卒業したころ(つまり1950年代の終わりごろ)には、135人の同期卒業生の内、洗礼を受けたものは30人以上、神父への道を志したものは確か私を含めて4人(ひょっとして5人だったかな?)もいました。それが、その後僅か10年もしないうちに、キリスト教伝道の場としての「ミッションスクール」から、父兄の要望に押されて「一流大学受験予備校」へと路線を変更した結果、東大入学生の数が増えたのに反比例して、洗礼を受ける生徒数も、まして司祭職を志すものの数も、限りなくゼロに近づいたのは全く驚くに値しません。信仰の熱気に支えられていたミッションスクールが、「世俗化」の毒を食らって死んだ哀れな骸(むくろ)の姿です。

 その結果、司祭を養成する神学校にも閑古鳥が鳴き、新しい若い神父がほとんど育たなくなった中で、司祭たちの平均年齢は日々確実に上昇し、引退と死亡でその数も目に見えて減りつつあります。このままでは今の体制はあと10年と持たないでしょう。しかも、これは何も日本に限った現象ではなく、世界中同じで、ここローマも例外ではありません。教会のムードは沈滞し、宣教の熱意は冷め、親の無関心から子供たちに信仰は伝わらず、教会はこの2000年間かつて経験したことのない重大な危機に直面しています。

 かてて加えて、数の上でカトリック王国を誇っていたブラジルなどでは、極端な司祭不足と信仰教育の欠如のために、信者は程度の低い幼稚な信心がせいぜいで、その間隙をぬって、アメリカ発のプロテスタント系大衆伝道(いわゆるメガチャーチ)の波が襲いかかり、御利益を餌に、年間数百万人単位でカトリック信者を取り込んでいる始末です。これなども、ラディカルなカトリックのプロテスタント化に数えていいでしょう。

 全ては神聖なものに対する価値観を見失った社会の「世俗化」のなせるわざで、その世界的浸透と「グローバル化」は今なお止まるところを知りません。

 しかし、カトリック教会がプロテスタント化することは、単なる伝統とアイデンティティーの喪失以外の何ものでもなく、問題の本当の解決にはなりません。


    

鉢の直径5.5センチのミニカクタスは 私の部屋の大切な同居人たち


 幸い、教会は、いつの時代にも古い体制が新しい時代に適応できなくなって衰退に向かうとき、「聖霊」とカトリック教会が呼ぶ神の霊の働きによって、常に新しいカリスマが芽生え、時代の要請にこたえる形で教会を刷新してきました。12世紀のアシジのフランシスコによる刷新もそうでした。今の時代は、それ以上の規模の刷新が必要ではないでしょうか。

 今、教会には歴代の教皇様たちの熱い期待を担い、その手厚い保護のもとに、夫婦関係の有り方、家庭生活のあり方を根本から問い直し、時代の風潮に逆らって、信仰故に多くの困難と犠牲を受け入れながら子沢山の大家族を営み、司祭職を希望する多くの若者を輩出する革命的なカリスマが育ちつつあります。これこそ、明日の教会の希望の星ではないでしょうか。次回は、カトリック教会のプロテスタント化のもっと積極的な面に光を当てたいと思います。

(つづく)

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