:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 森司教を悼む

2023-09-05 01:22:52 | 私的なブログ

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森司教を悼む

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今日2023年9月5日は我が畏友森一弘司教の葬儀が行われる。

 

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一つの時代が終わった感をしみじみとかみしめている。

 

 アルバムから懐かしい写真を引っ張り出して、ああ、こんな日もあったな、と感無量だ。

左から 私 工藤神学生 森神学生

 この写真を撮った場所を思い出さない。しかし、一緒にあった別の写真から、日本アルプスの槍が岳の麓だと思われる。この時、三人ともすでに全く別の未来を予感していた。当時私は19歳、工藤さんと森さんは20歳のはずだ。

 

槍が岳を背に 左から森さんと工藤さん 

3本目のピッケルは写真を撮っている私のもの

 

 私たち3人は上智大学のキャンパスの中にあった上智会館の学生寮に住んでいた。最初の一年は私と森さんはルームメイトだった。私たちは確かに同じ高嶺を目指していた。

 イエズス会の志願者として上智に入った森さんと私は、毎朝同じ目覚ましで目を覚まし、そろって聖イグナチオ教会のホイヴェルス神父様のミサ答えの奉仕をした。ミサはまだラテン語で、私たちは意味の分からない長い祈りを丸暗記して、ホイヴェルス神父様と掛け合いで階段祈祷を唱えたものだ。

 ミサが終わると、ホイちゃん ーと我々はホイヴェルス神父を愛情と尊敬を込めてそう呼んでいたー と三人で香部屋を出て聖堂の正面から入りなおし、最後列のベンチに並んで跪き、数分間黙って感謝の祈りをして外に出る。そこで3人は初めて声を出してしばし立ち話をして、ホイちゃんは聖堂の裏の3階建ての管区長館へ、我々は寮の食堂へ向かう。

 工藤さんは寮の中のチャペルで舎監の神父のミサに与っていた。ドミニコ会志願者の工藤神学生は、やがてカナダの修道院へ神学の勉強をしに旅立った。以来、彼とは今日まで音信が途絶えている。まだご存命か。どこで何をしておられるのだろうか・・・。

 ある嵐を呼ぶような雲行きの朝、ミサの後の感謝の祈りを終えて聖堂の外に立つと、ホイちゃんは森さんに告げた。「あなたの召命はイエズス会ではありません。自分の道を行きなさい」と引導を渡された。私は呆気にとられた。

 間もなく森さんはカルメル会に入会し、ローマに送られて司祭になり、日本に帰っては、上野毛のカルメル会の修道院に住まわれた。何があったかは知らないが、しばらくして、森神父さんはカルメル会を退会し、東京教区の司祭になり、白柳大司教に見出されて東京の補佐司教になった。白柳大司教が定年で退かれると、自分も補佐司教を辞め、真生会館の館長になられた。

 私はラテン語と一般教養を2年学んでから、広島の祇園の修練院に送られた。修練院の生活はまるで天国のように平和だった。しかし、その夏、私はホイちゃんに手紙を書いた。「私はイエズス会を辞めたい。辞めて社会に出て自分を試したい」という趣旨だった。(しかし、内心では、世間知らずのまま純粋培養されてイエズス会で偉くなったら、自分はきっ傲慢な偽善者神父になるだろうと先が見えていて、このまま進むわけにはいかないと思っていた。)

 ホイヴェルス神父様は驚いて、まだ新幹線のなかった時代にはるばる汽車で広島まで来て、夏の日差しの下、丘の上の墓地の中を二人で行ったり来たりしながら、「あなたは将来イエズス会にとって貴重な人材になる人です。決して辞めてはいけません。これは悪魔の誘惑です。私のことばに従順して会に留まりなさい。」と懇々と言われ、私は素直に「ハイ!」と答えた。

 しかし、神父様が東京に戻られるとすぐ同じ内心の声を聴いた。「僕は司祭になるのを辞めるのではない、本物の司祭になるためにしばらくだけ修行に出るのだ」、と自分に言い聞かせていた。

 広島に来てちょうど一年後、私は一人で決めて退会し、東京に舞い戻った。ホイちゃんは不従順な弟子を破門にすることもなく、昔の狭い都電通りを挟んでイグナチオ教会の向かいの消防署の裏の信者さんの家に、4畳半の部屋を借りて待っていて、「今日からここに住んで毎朝私のミサ答えをしなさい」と優しく言われた。

 ホイヴェルス神父さんの口利きかどうかはわからないが、上智では特待生として学費を免除され、奨学金と家庭教師のアルバイトで生計を立て、上智の大学院を博士課程修了まで進むことが出来た。

 そのホイヴェルス神父様は、いつも私をカバン持ちにしてどこへでも連れて歩かれた。1964年の第1回東京オリンピックの年には、私をインドのムンバイ(ボンベイ)で開かれた国際聖体大会にも連れて行ってくださった。

 上智の助手をしていた時、パリに発した怒れる学生たちの運動は日本にも及び、上智にも飛び火した。東大から移籍されたばかりの守屋学長の学問の自由と大学の自治を掲げる高貴な東大アカデミズムに感激したわたしは、左派暴力学生の全共闘諸兄と学長との粘り強い対話による学園紛争解決の努力に全身全霊を傾けて奉仕したが、私学の経営にしか興味のない若いアメリカ人やスペイン人の神父たちで構成された理事会からにらまれて、助手を首になった。

 そしたら、戦前、戦中を通して上智を守って苦労をされたホイヴェルス神父様と、イエズス会日本管区総会計で外為法違反で臭い飯を食ったビッター神父と、キリシタン研究の大御所のチースリック神父の三人の古参のドイツ人神父が共謀して、私にドイツの銀行に裏口入社の段取りをつけてくださった。

 ほんのしばらくのつもりが、国際金融業が面白くてドイツ、アメリカ、イギリスの銀行を渡り歩きウツツを抜かして、浦島太郎のようにはっと我に返った時は、もう50歳が目前だった。教会の門はどこもみなピタリと閉まっていた。主だった教区の司教様も、修道会の管区長様も、私の「どうか神学生として受け入れてください」の嘆願に対する答えは、異口同音に「No!」だった。

 一人、ベネディクト会の管区長様が受け入れる約束をしてくれたが、会の長老の司祭たちは管区長の決定に同意しなかった。

 気が付くのが遅すぎたかと、がっくり肩を落として、藁をもつかむ思いで森司教様に相談したら、フランシスコ会の本田管区長に推薦してくださった。上智では本田神学生は私の後輩で、かつて学生会の議長として目立っていた頃の私のことを覚えていた。

 時あたかも、ブルジョワ化していたフランシスコ会日本管区の清貧改革に取り組んでいた本田さんと私は、すぐ意気投合して、私は希望に満ちて3年間フランシスコ会の飯を食った。しかし、本田管区長の清貧改革路線についていけない保守派の司祭たちの反対で、私はフランシスコ会を去らなければならなかった。

 そこで、また森司教さんに泣きついた。彼は、今度は私を高松の深堀司教に推薦した。深堀司教様は私をローマのグレゴリアーナ大学に送り、4年間の短い神学の勉強の後、高松で私を司祭に叙階し、引き続きローマで神学の教授資格を取るまで勉強させられた。その間に、深堀司教様は高松に「レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」を開設し、若い司祭たちが排出し始めていた。

 このように森さんは私の人生の一番ピンチな時にいつも私を助け、支え、道を切り開いてくれた恩人となった。彼が砕氷船のように厚い氷をこじ開けてくれなければ、今の私の司祭職はなかったと言ってもいい。

 しかし、私と森さんが受けた教育の違い、もっと言えば、二人が生い立った環境の違いは、長い年月の間に二人を全く正反対の方向に導いていった。

 森さんの先輩には、やはりカルメル会を辞めて東京教区の司祭になった井上洋治神父がいる。井上神父は、後にキリスト教を日本の精神風土に土着化させるためのインカルチュレーションのイデオロギーに沿って仏教的精神を取り入れた「風の家」を主宰するようになるが、彼は遠藤周作と同じ船でパリに留学した仲で、その思想には遠藤の沈黙や深い河などの小説の世界と相通ずるものがある。

 またドミニコ会の司祭に押田成人師がいるが、八ヶ岳の麓に高森草庵を結び、そこで座禅と瞑想を中心に、やはりキリスト教の土着化を追求していた。

 イエズス会ではホイヴェルス神父と同じ故郷ウエストファーレンの出身で、8歳若いフーゴ・ラサール神父がいるが、広島での被爆体験を持ち、後に座禅に傾倒し、自ら広島市可部町に座禅道場「神瞑窟」を開き、自ら老師として曹洞禅の流れをくむ瞑想を指南した。後にラサール神父は日本に帰化して、愛宮真備(えのみやまきび)を名乗った。

 私が「昭和の最後の雲水」とあだ名された曹洞宗の高僧澤木興道老師に内弟子のように可愛がられるようになり、ホイヴェルス師を澤木老師にお引き合わせしたのも、元はと言えば森さんの手引きがあったからだった。

ホイちゃん 澤木老師 私

 ホイヴェルス師は同郷のイエズス会の後輩の愛宮真備老師のもとで座禅を体験されたが、あとで微笑みながらそっと私に「私はすぐに悟りを開いたよ」といたずらっぽく言われた。その悟りとは、「この道は私のための道ではない」とすぐわかったというものだった。

 ホイヴェルス師は、澤木老師に会うなり肝胆相照らしてくつろぎ、神父はウエストファーレンのドイツ民謡を老師に歌って聞かせ、それを聞く老子はとても喜ばれたのを昨日のように覚えている。

 森さんは、私にはあまりはっきりとは示さなかったが、どちらかと言えば遠藤周作や、井上洋治神父や、押田成人神父や、帰化して愛宮真備老師を名乗ったラサール神父らのように、日本の精神風土に優しいキリスト教の創出、インカルチュレーションのイデオロギーの側に立とうとしておられたのではないかと今にして思う。

 私は、澤木老師に可愛がられるほど曹洞禅の修行を真面目やったけれど、結局は伝統的なカトリックの王道に留まり、ホイヴェルス師の悟りを我が悟りとして、最後にはキコさんに出会ってネオカテクメナルウエイ(新求道期間の道)に落ちついたのだが、結果的には森さんと真反対の極に立つことになった。

 森さんは第2バチカン公会議前後にヨーロッパで花開いた様々なカリスマに対して、フォコラーレも許容できる、聖霊刷新運動もいいだろう、しかし「ネオ」(新求道共同体)だけは絶対に受け入れられない、と考えておられたのではないかと思う。

 日本の司教団が、私の命の恩人である高松の深堀司教様が心血を注いで誘致された「レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」を閉鎖に追い込むために一時的に完全に一枚岩になって団結したのも、その背後に強烈なイデオローグの森一弘名誉司教の存在があったのではないかと想像している。(確たる証拠はないが・・・)

 わたしと森さんはどこでどう違ったのだろうか。それは、凡庸な私が、母の代の前から ープロテスタントではあったがー 三代にわたるクリスチャンの血を引いていたのに対して、森さんは秀才でありながら高校の終わりごろに初めてキリスト教に出会って洗礼を受けたクリスチャン一世であったことではないかと思う。それは遠藤周作にもはっきり言えるし、多くのインカルチュレーショのイデオロギーの信奉者にも往々にして見られる傾向ではないだろうか。

 これは「血」の問題であって「知」の問題ではない。

 今こうして森さんの訃報に接し、懐かしい兄貴であり私の人生の一番厳しかった時に私の司祭職への道を切り開いてくれた恩人を思うとき、言い尽くせない感謝の念に浸るとともに、あなどり難い強烈な壁の崩壊を思はずにはいられない。

 一つの時代が確かに閉じられた、ということだろうか。

 

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