:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 森鴎外=即興詩人

2013-06-24 06:47:30 | ★ 日記 ・ 小話

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森鴎外=即興詩人

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森鴎外 (ウイキペディアから)


亡き父の書斎には鴎外全集の初版本があった

森鴎外と言う名の文豪のことを今の50代以下の人々がどれぐらい知っているだろうか?

「舞姫」? 「うたかたの記」?? それってなーに ???

と言う時代になったのだろう

ちょっとわかった人でも、「即興詩人」が鴎外の作だと思い込んでいる人が結構いるらしい

現代のデンマークの若者にハンス・クリスチャン・アンデルセンと言う人を知っているかと聞いたら

殆どの人が、それは誰? と聞き返してくるという話を聞いたことがある

日本では有名な童話作家だが本国ではとっくに忘れ去られているのだろうか

そのアンデルセンが「即興詩人」と言う自伝的小説を残したことを、現代のデンマーク人は完全に忘れている

ならば、日本人が「即興詩人」を鴎外の作たど思い違いしても咎めるわけにはいかない

ではなぜ「即興詩人」が鴎外の作として日本では生き延びたのか

それは、その訳の日本語としての格調の高さの所為だという人もいる

その書き出しはlこうだ


 羅馬ロオマに往きしことある人はピアツツア・バルベリイニを知りたるべし。

こは貝殻持てるトリイトンの神の像に造り做したる、美しき噴井ある、大なる廣こうぢの名なり。

貝殻よりは水湧き出でてその高さ數尺に及べり。・・・


 私がリーマンブラザーズなどの国際金融業を辞めて、カトリックの司祭を志して、ローマで神学を学ぶことになった時、小豆島の主任司祭の岩永神父は私にこういった。

 ローマに行くのなら、鴎外の即興詩人を読んでから行きなさい。私も、初めてローマに留学した時、先輩からそう薦められたことがあった、と。

 アンデルセン原作の作品の主人公である即興詩人が、イタリアを旅するうちに嵐に遭って、「青の洞窟」に流れ着く場面がある。

 私はこの夏で6度目のカプリ島で、3度目の青の洞窟訪問が叶った。毎度試みたのだが、3度は天候に阻まれて、中に入ることが出来なかったのだ。何しろ、千鳥ヶ淵の貸ボートよりもやや幅の狭い小舟に乗り換え、船底にお尻を付けて身を低くし、波が下がって口が開いた瞬間を見計らって船頭が鎖を手繰ってスルリと滑り込む以外に中に入る手だてはない。少し波が高かったり、うねりがあったりすると、もう入れない、運よく入れても出られなくなる恐れがあるからだ。

 生涯に一度だけカプリを訪れ、夢に見た青の洞窟に振られ泣く泣く島を後にした経験のある人もきっといるはずだと思う。私は過去5回の内3回は泣きを見たのだった。

 それが今回はどうだ。元ベテランのガイドさんで、今はマル5つの最高評価の日本レストランで女将(おかみ)をしている千香子さんが島一周の約束でチャーターしたモーターボートの船長は彼女の顔見知りでその道50年のベテラン。雲一つない快晴の太陽を遮るものは無く、気温は30度には達していた。波にも恵まれ、無事スルリと青の洞窟の中に入れた。これで勝率は5割にアップした。

 それだけではない、勧められて船に乗る前に10ユーロで買って身に着けていた海水パンツは、アナカプリの海水浴場で泳ぐためだと思っていたのに、この青の洞窟で、小舟の船頭が、「本当は違法で警察に見つかれば罰金ものだが、俺が目をつぶるから、かまわないから入れ」としきりに勧める。

 怖いもの見たさと言うか、無鉄砲と言うか、売られた喧嘩は買わなきゃ男が廃ると思ったか、元々Tシャツとズボンを脱げば準備は出来ていた。海水パンツ一つになって足からスルリと一気に首まで海水に浸かった。洞窟の水温は低かった。強い日差しに晒されて開き切っていた全身の毛孔がギュッと収縮するのが感じられた。心臓にもバクッとひとつ衝撃が来た。アリャ、このままご昇天かと一瞬覚悟したが、幸い無事だった。あとはボートから手を離し、全身がコバルトブルーに染まり、透明になっていく感覚に身を委ねるだけだった。


洞窟の入り口は小舟一艘がすり抜けるのがぎりぎり


泳いでいるのは私


体の芯まで青色に染まっていくような錯覚に捕らわれる


染まるだけでなく溶けてしまうのではないかと思った


ブルブルッ! もう上がらせてェ ~


 満ち足りて再び小舟の人となると、船頭はいい声でカンツォーネを洞窟の天井にこだまさせながらゆっくり中を二周して、また眩しいい日差しの外海へ針の耳を通る糸の要領で海面が下がって洞門が開いた瞬間に鎖を手繰ってスルリと外に出た。みんな、身を平らにしてボートの船底にへばりついたのは言うまでもなかった。

 小舟の船頭が、法律を犯してまで泳がせてやったのだから、泳がなかったものもみんな一人あたま10ユーロ出せ、と言ってきた。これさえなかったら最高の気分だったのに、とややつや消しの結末だったが、5人分で15ユーロに値切って手を打った。

 では、そもそもなぜカプリ島に行くことになったのか、今日のブログでは全く姿を見せなかった同行者は一体誰だったのか、などの疑問には、次のブログでお答えすることになるだろう。

(つづく)

 

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★ ワーグナー生誕200年=ハンガリー文化会館

2013-06-11 21:38:43 | ★ ローマの日記

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ワーグナー生誕200年=ハンガリー文化会館

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りょう子さん (Ryoko Tajika Drei) から 神学校の副院長のアンヘル神父に音楽会の招待状が届いた

ところが アンヘル神父はその日ベルリンの神学校に集中講義に出かけてローマを留守にする

それで 私が代りに聴きに行くことになった

古い貴族のお屋敷風のハンガリー文化会館は テベレ川にほど近いヴィア・ジュリア1番地にあった

 

ピアニストのりょう子・タジカ・ドライ さん 名前から 国際結婚をしたローマ在住のご婦人とわかる

一旦弾きはじめる この躰のどこからこの力強さが湧いてくるのか と信じられない思いだった

 

    

   テノール                   ソプラノその-1

もしかしたらブログで取り上げるかもしれないと思って その夜のプログラムは取っておいたはずなのに

いざ探したら見つからない 年は取りたくないものですね 名前が分からなくなってしまった

 

ソプラノ そのー2

ワーグナーのタンホイザーや トリスタンとイゾルデなどの樂曲から

素晴らしいアリアやデュエットが 次々と披露されていく

歌われている歌詞はいずれもドイツ語なのだが コメルツバンク時代に使っていたドイツ語を思い出しながら

それがかなり強いイタリア語訛りであることが分かった

それでも どの一人をとっても 陶酔して聴くに堪える素晴らしい歌唱力だった

みんな花束を抱えての 繰り返されたカーテンコールの華やかな写真もあるが 敢えカットしよう

 

   

夜も更けて 満足して帰る時 階段の下の踊り場のローマ時代の彫刻と言い 庭の空気と言い

良質の 文化の香りを満喫した充実感があった

 

外に出ると ヴィア・ジュリアの切り取られた空に満月が輝いていた

 

テベレ川の川岸の道に路駐しておいた車に戻った 覗き込むと 古い型の宴会船が灯を消して浮かんでいた

ベートーベンは大好きだが 固さ 重さが時に気になるときがある

モーツアルトは 欠点を見つけるのに苦労する 天上の音楽 (まだ聞いたことがないが) を思わせる

ワーグナーは ちょっと危険な誘惑の臭いがする・・・

などと思いながら 深夜 わざと帰りを急がず 夜のローマの川岸をゆっくりと散歩した

 (おわり)

 

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★ 教皇の横顔

2013-06-08 06:21:44 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇の横顔

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6月2日(日)は「主の御聖体の祝日」と言って、カトリックではミサの時に使うパンとフドー酒が

主イエス・キリストの体(肉)と血であり、そこに復活したキリストは実体的に現存しておられる、

と信じ、教え(そこはプロテスタントの教会と大きく違うところ)、

この祝日に特別の信仰をこめて、ミサの時に司祭が聖別したパン

(実際は小麦粉で作って焼いた丸くて薄いウエハー状のもの)

を顕示して礼拝する習慣がある。

この日、聖ペトロ大聖堂では、その礼拝式が盛大に執り行われた。

私は、二週間前の聖霊降臨の祝日の聖ペトロ広場の群衆の余りの混雑に怖気づいて、

この日はテレビの中継で様子を見ることにした。


暗くした集会室のスクリーンに、式の様子が映し出されていた

試験期だが15~17人の神学生が見に来ていた、一人の神学生の隣の空いた席に坐った

 

 

聖体礼拝はどうやら聖ペトロ大聖堂の中で行われているらしい。

 

 

大聖堂内部の主祭壇の周りがアップされた。中央奥の白いローソクが6本立っている主祭壇の中央の

金色まぶしい顕示台の真ん中に、キリストのからだである薄いパンが収まっている。

主祭壇の真下、地下一階のところに12使徒の頭で最初の教皇の聖ペトロの墓がある。

よく見ると、画面最前列の席の左端、槍を持ったスイス衛兵の左手に白いガウンの人物が椅子に座っているが

その人が新教皇フランシスコのはずだ。

因みに右奥の白いケープを着た一団がバチカンの少年合唱団

 

 

祭壇中央、金の十字架の基台の前にあるのが、ご聖体の顕示台。

宝石に囲まれた中央の窓の中にキリストの体のパンが収まっている

この一点に向って、聖ペトロ大聖堂を埋め尽くした信徒が祈りと礼拝に耽るのが今日の儀式だ。

 

 

テレビの画面にこの顔がアップで写った時、私は隣の神学生に思わず

「この人誰?」

と大声で聞いてしまった。かれは、呆気にとられて、

「パパ フランシスコだよ!」 と、事も無げに答えた。 

エェ~ッ??? 頬の肉の垂れ下がった生気のない疲れた顔のこのお爺さんが???

まさか?! いや、やはり本物か?横から見た本物を初めて見た。

この席に、代理のおじいちゃんが座るはずもないか!

それにしても、前からの顔と全くイメージが違う! この横顔は別人かと思った。

 

 

遠くから見ると、豆粒だから顔の表情まではわからないものだ。

それに、就任後メディアに現れた写真はすべて群衆や人の目を意識した

まさにスターの表の顔の正面ばかりだった。

だが、こうしてテレビのズームカメラで引き寄せた

人目を意識していない教皇の横顔は全く違った

 

 

声変わり前の少年たちの天使のソプラノが雰囲気を盛り上げる

 

 

遠くから見守るまだ若いシスターも写っていた

 

 

これは、他の日の聴衆を意識した前からの顔。

目に力があり、口の周りに笑みがある。上の横顔とは全く違う。

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

この人、教皇になっても、教皇ヨハネパウロ2世がコンクラーベのために

枢機卿たちの宿舎として新築したアパートに居座って動かない。

どうやら、歴代の教皇が住みなれた教皇の宮殿には住まないつもりらしい。

このままだと、次の教皇もあの御殿に住むことは気がひけて出来なくなるだろう。

夏休みを取らず、ローマ郊外60キロの湖水のほとりの教皇の夏の別荘も使わないらしい。

徹底した清貧路線だ。これが、彼のわかりやすいバチカン改革の第一歩か。

ふり返って見ると、この3-4代の教皇で、多くのことが変わった。

教皇の地上の王権を象徴するかのような三重宝冠がまず消えた。

人に担がせて移動した教皇の椅子(輿)が消えた。

教皇ヨハネパウロ2世の時に一旦消えて、ベネディクト16世で復活した

教皇の赤い靴も、今の教皇でまた消えて、こんどこそ永久に消えるだろう。


ベネディクト16世がはいていた赤い靴 (フェラガモご謹製だったとか?) 

 

法王の宮殿を出たことも、夏の別荘を棄てたことも、

もはや後戻りのできない改革の一つとして歴史に残るだろう。

しかし、本当の教会の改革、バチカンの改革は単なる外見・習慣の手直しでは済まされない。

本格的な精神的改革が待たれる。新教皇の手腕が問われる。

アジアの教会に対して、日本の教会に対しても、

彼は何か新しい手を打ってくるだろうか、期待される。

 (おしまい)

 

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