:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ クリスマスの思い出

2022-12-20 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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クリスマスの思い出

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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 毎年クリスマスの頃になりますと、人が私にクリスマスの思い出の話をたのみます。毎度、大体次のようなことをのべます。 

 私の覚えている始めてのクリスマスは四歳のときでした。私たちの家には、広間から二階に通じる階段があって、そこは兄と私の一番好きな遊び場だったのです。この階段の上の方、煙突の後に物置きのような小さい暗い部屋があって、その戸はいつもしまっていました。

 ある日、母は階段を登ってこの部屋の戸をあけたのです。すると中から、とてもいい香りがして来ました。私も母のあとから、この部屋にはいってみました。母が大きな長持のふたを開けると、おいしそうな香りがたくさん出て来ました。でも暗い部屋だったので、何もみえません。私は長持のふちにつかまって、中を見ようと思いましたが、まだ体も手も小さくてできません。母は私をだき上げて、中の物を自由につかませてくれたのです。 

 そして小さい声で「ダウエル・エップフェルですよ」と母は言いました。(長い間もつリンゴで、ちょうどクリスマスの頃においしく食べられるのです)私は、「ダウエル・エップフェル」という言葉をくりかえして言いながら、大きくて丸いすべすべしたリンゴを両手でたくさんかかえました。すると母はまた「これはヴァイナハツ・エップフェルですよ。(クリスマスのリンゴ)」と言って教えてくれました。私はこのむずかしい言葉を一生けんめい言って見ようと思いました。 

 「もうすぐクリスマスが来ますよ。クリスマスが来たら、このリンゴも出してあげましょうね」と言いながら、母は私を床におろして、長持のふたをしめました。 

 私はとても大きな希望をもって、クリスマスの来るのを待っていました。クリスマスの意味は、ちっともわからなかったけれども、嬉しいよいことばかりを、もたらしてくれるものだということがわかったのです。なぜって、郵便屋さんがいろいろの包みを持って来ると、母はできるだけ早く、私たちに気づかれないようにかたづけてしまったからです。 

 それから幾日かたって、ある朝、父はもみの木を家の中に運びいれました。すると翌年の春から小学校にゆく私の兄は物知り顔に「これはヴァイナハツ・バウムだ。(クリスマス・ツリー)」と言ったのです。私はその木を見ましたが、リンゴは一つもついていないので、兄に聞いたのです。「でも、ヴァイナハツ・エップフェルはどこにあるの? ヴァイナハツ・エップフェルはついていないじゃないの」兄は笑って「それはクリスト・キント(幼きキリスト様)が木におつけになるのだよ」と言いました。 

 その日の夕方、母は私たちをいつもより早く寝かして「あしたはヴァイナハテンですよ、クリスト・キントもいらっしゃるから早く起きなければいけない。そうしていっしょに教会に行きましょうね」と言いました。けれども私たちは「どんなふうにしてクリスト・キントが贈り物を持っていらっしゃるのだろうか、いつリンゴを木におつけになるのだろうか」ということを知りたかったので、階段の所でわざとゆっくりゆっくりしていました。そして母と女中たちがローソクを木につけるのを見てしまったのです。母はいろんな色のピカピカ光る玉も、木の枝のあちらこちらにつけていました。 

 母が「早くおやすみなさい」と注意したので、私たちは仕方なく「グーテ・ナハト(おやすみなさい、またあした)」とあいさつをして、階段をのぼり、南向きの私たちの寝室にいきました。私はねないで、一生けんめい、下で皆が何か言うのを聞こうとしましたが、下では、ただ小さい声でささやくだけで、ときどき笑い声が聞えるばかりでした。そのうちにいつか私はねむりこんで、夢の中でクリスト・キントの木を見たのです。 

 あくる日の朝、兄と私は早く起きて、はれ着を着ると、できるだけ気をつけて下におりて行きました。まだその頃は電気のない時代でしたから広間は暗くてまだ何も見えなかったのです。私たちは胸をドキドキさせてテーブルの回りやヴァイナハツ・バウム(クリスマス・ツリー)のまわりを手さぐりで歩いて見ました。部屋はいい香りでいっぱいでした。兄は前の年のクリスマスを覚えていたので、クリスマスはどんなふうにお祝いしなければいけないのか、ということをよく知っていました。それで父母の部屋をたたいて、ドアを開けると、「フロェーリヒェ・ヴァーイナハテン(クリスマスおめでとう)」というあいさつをしました。父も母も同じあいさつをしたのです。でも私はどうしてもこんな荘重な言葉を言うことはできませんでした。母は兄に「ランプをつけて、クリスト・キントはどんな贈り物を下さったかごらんなさい」と言いましたので、私たちは大いそぎでランプをつけてみました。 

 クリスマス・ツリーの下には私たちへの贈り物がたくさんつみ重ねてあって、兄のためには、いろいろの学用品もあったのです。お皿にはそれぞれクルミの実やお菓子がよそってあって、それにあのヴァイナハツ・エップフェルもありました。私のいただいた贈り物のなかには、いろんな色のぬってあるきれいな車があったので、私はそれを両手でかかえて床の上にそっとおろしました。車には曳きづながついていて、私はそのつなを持ってひいて歩きました。とても嬉しくてたまりませんでした。驚いたことに、この車は音楽をやり始めたのです。大きないろいろの違った音(ノート)が(本当は三つの音だったのです)面白く聞えました。そしてその音楽が嬉しかったので、長い間楽しもうと思って、一生けんめい車をひいて歩き廻りました。クリスマス・ツリーやテーブルのまわりを……。兄はびっくりして、私の車をみつめていました。この頃もう兄は何でも機械が好きでしたから、きっとこの車も調べてみたいと思ったのでしょう。でも私はすぐ気がついたので、もっと早く、できるだけ早く車をひいて歩きました。音楽はますますはげしくなるので、私も夢中になってテーブルの回りをかけ廻りながら、車の音に合わせて歌を歌ったのです。それはそれは嬉しくていい気持でした。 

 母は広間にはいって来て、私を見ると嬉しそうにほおえみました。それで私は母に「お母様、僕はとても嬉しかった。クリスト・キントは僕にこの『トゥンカ、トゥンカ』を下さったの」と言うと、母は「まあトゥンカ、トゥンカを」と言って笑っていました。 

 それから母は兄と私にヴァイナハツ・エップフェルを下さって「これを、おあがりなさい。その間に、私たちは教会にいく支度をしてきますからね」と言いました。私たちはリンゴをいただくと階段のいちばん下の段に腰かけて食べながら、クリスマス・ツリーを眺めました。青い枝の間には、ルビーのようなつやつやしたリンゴがついていました。リンゴがどんなにおいしかったか、言葉で言いあらわすことはできません。食べてみなければとてもわからないからです。 

 支度ができると、みんないっしょに教会に行きました。私がおぼえているのでは、これが初めてです。兄は父といっしょにコーラスの方のパイプオルガンのそばにのぼっていきました。どんな機械でも好きな兄でしたから……。母は私の手をとって自分の席につれて行きました。席についてから、私は思わず上を見ると、とてもびっくりしたのです。クリスト・キントのお家の天井はなんと高いのでしょう。(それはゴチック式の丸天井だったのです)左官屋さんはどうして、あんなに高い丸い天井を作ったのでしょうか、どうしても私にはわかりませんでした。それにまた、急に私たちの頭の上に落ちてくるかも知れないという心配で、私の頭はいっぱいだったのです。とても心配だったので、まわりの人たちの顔を見廻しましたけど、誰も心配そうな顔をしていないので、私もやっと安心しました。まだ満三歳半ばかりで小さかった私は、何も見ることができなくて、ただ天井だけが見えるばかりでした。その頃は、女の人たちはとても大きな、つばの広い帽子をかぶっていました。それで、私は椅子の上に立ち上がって、帽子の間を通して遠くの方に、数えきれないほどたくさんのローソクがともって光り輝いている祭壇を見ることができたのです。まもなく白と赤の着物を着た男の子が香部屋から出て来ると、その後から神父様はめずらしい祭服をまとって出ていらっしゃって、ゆっくりと落ちついた足どりで祭壇にのぼりました。

 その瞬間、静かにしずまりかえっていた教会の中で、パイプオルガンが全力をあげて嵐のような音楽で教会を包んでしまいました。オルガンの低い強い音のために、教会全体がふるえたのです。クリスト・キントのお家の音楽は、私のいただいたトゥンカ、トゥンカの音とはずいぶん違っていました。教会は音楽のためにしばらくふるえていましたが、また急に静かになり、パイプオルガンのメロディーに合わせて皆が歌い始めたのです。私の母も歌いました。それは、「ハイリヒステ・ナハト」(聖き夜)というクリスマスの聖歌でした。 

    とうとき夜

    くらやみはさけ 

    愛らしき強き光りは 

    空から輝きぬ 

 ここまで、私はやっと言葉が少しわかっただけで、あとはただ光りとパイプオルガンの音と人びとの声でいっぱいにみたされている教会だけしか感じませんでした。どれもこれも高い丸天井の教会の中で、たいへんに美しくひびいていたのでした。

 その後また突然、あたりはまったく静まりかえって、この静けさの中では、もうだれも、せき一つする人もなかったのです。そのとき、祭壇の方に鈴の音が聞えました。母は私を少し抱き上げて、耳もとで「さあ、これからクリスト・キントがいらっしゃるのよ」とささやきました。もう一度小さい鈴の音がひびくと、人びとはみんな頭をさげました。母は小さな声で「さあ、あそこにおいでになりますよ」と言いましたので、よく見ると、神父様は何か白いものを両手で高くさし上げていらっしゃいました。しばらくして、またパイプオルガンが音楽をかなで、人びとが歌い始めたとき、母は「あれがクリスト・キントだったのですよ」と言いました。

 教会からの帰り道で、私は母に「あのクリスト・キントはどんなだったの?」と聞いてみますと、母は「まあ、それはもう少し大きくなったらよくわかるでしょう」と言いました。 

 その日どんなことをしたかおぼえていませんが、晩のことは、いまでもよく覚えています。夕食がすんでから、お隣の子供も、クリスマスのお祝いにやって来ました。母はローソクに火をつけランプの光りを消したので、クリスマス・ツリーは初めて本当にみごとなヴァイナハツ・バウムになって、リンゴもガラスの玉もとてもきれいに青い枝の間に輝いていました。私たちはみんな手をつないでクリスマス・ツリーのまわりに大きな輪を作りました。父は、「ハイリヒステ・ナハト」(聖き夜)という今朝教会で歌ったあの聖歌を歌い出し、みんないっしょに声をそろえて歌ったのです。私は、言葉がまだよくわからなかったので、みんなの声にいいあんばいにあわせて、一生けんめい歌いました。そのあとで、母はクルミの実とお菓子とリンゴをみんなにくばりました。私はいただいたリンゴを食べ、「トゥンカ、トゥンカ」をひきながら、クリスマス・ツリーのまわりを歩きました。右の手で車をひき、左手にはリンゴを持って……でも食べることも忘れて、やっと覚えたばかりの「ハイリヒステ・ナハト」をきれぎれに歌っていました。 

 そのうちに私は疲れて、階段のいちばん下の段に腰かけると、じっとしたままピカピカ光る玉を見ていましたが、見ているうちに明るい木はだんだん私の目から遠のいて行き、とうとうずっと遠くの方に行ってしまいました。私はいつの間にかそのまま寝こんでしまったのです。翌朝目がさめたとき、私はベットの中に寝ていました。

 

* * * * *

 

私のクリスマスの思い出も母の思い出と重なる。やはり4歳のころのことではなかったかと思います

 

 この写真は私の6歳のころの家族写真から切り取った母の面影だが、22歳で私を産んで、31歳で他界した彼女はこの時まだ27か28歳になったばかりでしょう。神戸の下山手に洋館2階建ての医院を経営していた裕福な医者の末娘で、神戸女学院でプロテスタントの信仰を得た敬虔なクリスチャンでした。

 私の最初のクリスマスの思い出は、時あたかも第二次世界大戦の真っ最中で、灯火管制の中、黒いフードを傘につけた電灯の下で、父が母に言われてどこから切ってきた1メートル余りの若い松の木を官舎の応接間に立て、母は大きな桐の箱を物置きから取り出して、中から赤や青や金色のガラスの玉や、小さな家、蝋燭や、赤い靴下やきらきら光る長いモール、雪に見立てた白い綿で緑の木を飾り立て、木の頂には大きな金色の星を飾り付けました。幼い私はただ目を見張って見ていたのでした。

 少し成長すると、日曜日には教会学校に通い、家でも讃美歌を歌い、冬にはクリスマスツリーを飾るなどは、東北の地方都市では珍しいことではなかったかと思います。

 戦時下だったから華美や贅沢は国賊もので、ホイヴェルス神父様の幼年期のようにクリスマスプレゼントはなかった。私のトゥンカ、トゥンカに代わるものは、母のピアノと讃美歌でした。母はしっかりと信仰の種を私に 蒔いてくれました。そして、後日それはカトリックの信仰に形を変えて実を結んだのでした。

 母は純粋な信仰を守り通し、隣人愛の実戦の代償として栄養失調と結核で若死にしました。無神論者の父は母のそのような生き方に同意しかねるところがあったようでした。しかし、父の家族愛は強く、当時すでに30代の半ばを過ぎていたが、兵役の赤紙を免れるために、指の1本や2本を切ってでも身体検査で落とされることを真剣に考えた、と後日ポロリと漏らしたことがありました。

 いま、ロシアでは徴兵を免れるために数十万の男たちが国外に逃れていますが、島国の日本では、逃げていくところがなかったのでした。終戦後、父は陸奥湾に進出したロシア艦隊との交渉を命じられ、ランチで横付けしたロシアの旗艦に縄梯子で登るとき、緊張と恐怖でガタガタ震えたといいました。そのあとすぐ新しい任務を帯びて、広島に進駐してきたオーストラリア軍を迎えました。また、全国各地を回られた天皇が広島を訪れられたときは、父は天皇の身辺警護を受け持ち、学者の天皇がお忍びで安芸の宮島で生物観察を希望されたときは、天皇のランチが岸を離れようとした瞬間に飛び乗ってき一人の新聞記者を無慈悲にも海に突き落としました。後で、商売道具のカメラがだめになって可哀そうなことをした、と私にこぼしました。そして、天皇のお召列車が岡山との県境を超えたとき、父は車中で公職追放の辞令を受け取ったのでした。そして、一家の転落の厳しい生活の中で母は死にました。

 戦争は人間の愚かさが生み出す悪です。ウクライナ戦争は仕掛けたロシアが生んだ最悪の見本みたいなものではないでしょうか。

 日本の平和憲法のおかげで、自分は一生戦争を見ないで済むだろうと思ったが、いま日本は憲法を空洞化して軍拡に舵を切りました。戦場で日本の若者の血が流れる日が近いような悪い予感がします。

 日本の誇る平和憲法は、明日の諸外国が模範とすべき、最も先進的な憲法であるのに・・・。

 

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★ 悲しき雀

2022-12-10 09:19:53 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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悲しき雀

ホイヴェルス師著 =時間の流れに=

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 友達の家の縁側には、鳥籠の中に一羽の小鳥がさえずっていました。鳥籠は朝風の中にゆりうごき、鳥の声は悲しそうでした。私が見にゆきますと、鳥は黙りこんでしまいました。私をおそれるあまりなのでしょう。何と珍しい鳥なのだ! お前の右足は白、左足は黒、尾羽根はひきむしられ、嘴は太く、たくましく、いつも桜桃の種を割っているかのようだ。しかしお前の目は賢く聰い。おとぎばなしの鳥のようだ。「お前は何という鳥だね、いってみたまえ。鶯(うぐいす)か鷽(うそ)かい」この対話を私の友達は聞いて「いやどっちでもない、名なしの鳥ですよ。あるいは雀の種類ではないかしら。小さい時に、こちらにとんできたので、鳥籠に入れてやったのです」私はこの雀といわれるものをこれ以上邪魔しないで出ていったので、雀は喜びの歌を歌いました。

 しばらくして、雀の鳥籠での生活は、とても退屈にちがいない、と同情しました。この雀のために遊び仲間を何とか工面してやりたいな、と思ったものの、もちろんできっこありません。庭でもう一羽の雀をつかまえることさえできないのです。でもある哲学者によれば、現象の世界と実在の世界との差別はありませんから、この雀はなおさら現像と実在を分けることなどできまい、と思いつきました。

 私は鳥籠を縁側から私の部屋のテーブルの上に運び、そこでうまく一つの鏡を鳥籠のそばに立てました。それで鏡の中にも鳥籠と一羽の雀が現れました。それから私は静かに部屋の隅に退きました。すると雀は、たまたまぐるりとむきなおって鏡の中の雀を見つけます。自分の種類とすっかり同じ鳥です。私は、雀がすぐこの新しくつくられた雀のところに遊びにくるだろうと思いました。けれども、わが雀は、哲学者でなく詩人で、物を所有することよりも、物に対する希望を大切にしますから、その胸をふくらませ、嘴を天にあげて翼をバタバタとうち、そして喜びにあふれて一心に歌いだしました。長く長く歌いました。鏡の中の雀も歌います。翼をバタバタとうつ、それで熱心はいよいよ増してくるのです。ようやく歌い終わってからお互いの挨拶のために、ぼつぼつ近づき、嘴でつつきあうのでした。それからまたさえずる。戻っては飛びまた近づきあいます。近くなってもいつもいつもただ嘴だけなのです。そのためにこの二羽の鳥は驚きあいました。疑い深くなったのです。またはなれて、少し遠くから、じっと互に睨みあい、またもういっぺん歌いましたが、もはやそんなに希望にみちた歌ではありませんでした。もう一度挨拶をしてみようととんでゆきました。しかしこの固いガラスは同情を知らないので、この二羽の友達は一しょになれませんでした。哀れな雀は現象の世界の悪戯に失望し、早くも詩人は疑い深い哲学者になってしまいました。そしてこの贋物の鳥から、なるべく遠くとびはなれて背中をむけ、時々ピーピーと嘆くのでしたが、でもたまにはそっとふりかえって、鏡の中の鳥をぬすみみていました。

 私も雀に同情しました。また現象の実在の相違をそんな早く見てとったことにいくらか感心しました。ある哲学者たちはこう早くは現象と実在の差別を悟らないのですから。

 私はこの雀のために遊び仲間をごまかしても作れませんが、しかし少なくとも少しくらいの自由は、すべての雀がもって生れた権利は、与えてやれますね。で部屋の窓を皆しめてから鳥籠の戸口をあけました。鳥は矢のように戸口をとびぬけるだろう、と思ったのですが、たちまち詩人になりました。自由に対する希望は、自由そのものよりも麗しいものですから。鳥は開いた戸口の方にとび、胸をふくらませ、翼をはばたいて、憧憬のあまり嘴を天に向け、自由に関して美しい歌を歌いました。それも長く長く歌ったのであります。歌い終わってから、甘い自由を味わうように、戸口の下に入り注意深くすべてをしらべました。なぜなら、新しい自由の門の彼方には悪の罠が往々かくれているものですから。何の危険もないので飛び上り、外へとんでゆきました。しかし決して注意もせずに世界宇宙の真只中に飛ぼうとせず、かえって深い思慮から鳥籠の上にとんで、そこにとまりました。それは何の意味でしょう。このいやな鳥籠というものを自分の安全に域にしたいと思うのか、あるいは長年の虜囚のあとで勝利の歌を歌ってみるのでしょうか。そうでした。鳥は胸を空気で一杯にし、翼をひろげてはばたき嘴をあげて、まず最も強い一番長い喜びの歌を歌ったのであります。この鳥の喜びをきくと、私はすべての圧迫から自由になった人びとのうれしさも感じました。

 歌い終わってから、かわいい小鳥は新しい世界を発見するためにあちこち飛びました。何と珍しい世界でしょう。しかしそのたびごとに鳥籠の上へとび戻って、発見したことをよく覚え、また新しい発見を企てました。結局この発見の時代も終わらねばなりませんでした。そして最大の発見はこの世界にも限りがあるということで、ちょうど人類が地球にも限りがあるということを発見したような気持だったのでしょう。

 世界の際限を発見した時に、雀はまたかなしくなり、詩人であることをやめ、哲学者になり、鳥籠の上にとまって、このいやな世界に対してしかめ顔になってしまいました。こうして私も仕方がないので、この鳥を鳥籠の中に入れ、戸口をしめ、縁側の方へ運ばねばなりませんでした。そこで雀はいつも通り、失敗した愛と、ごまかされた自由を思い出し、そして不機嫌な口笛や悲しげなさえずりをして、その日を過ごすのであります。

* * * * *

 この短編をゆっくり読み返すと、実に味わい深い。

 鳥かごの中に鳥をみながら、ひとりで閉じられた世界に生きる人間は孤独で哀れな存在だ、とホイヴェルス師は同情を込めて語られます。

 そして、師は小鳥に託して、ひと飛びに人間の認識のあり方についての哲学的考察に飛び込まれます。観念の鳥かごに閉じ込められた哀れな哲学者の中には「実在」(Sein)と「仮象」(Schein)の区別さえつかないものが大勢いる。それは、「実際にあるもの」と「ただあるように見えるだけのもの」との区別のことだと言ってもいいのだが・・・。

 賢い哲学者でもそうなら、脳みその小さな小鳥はらなおさらだろうと、小鳥の前に鏡を置いてみられました。そしたら、小鳥はたちまち、鏡に映った自分の姿は、「実在」ではなく、ただの「仮象または虚像」に過ぎないことを見破ったのです。

 師はユーモアと皮肉をこめて、あるタイプの哲学者の物わかりの悪さを指摘されたのでした。

 考察は空間的広がりと自由のテーマに移ります。地球の鳥かごから放たれた人類は、この雀のように注意深くためらいながらも、近い将来宇宙へ飛び立つに違いありません。もしかして、どこかの星で理性と自由意思を持ったお友達に出会えるかもしれないという希望に満ちて。

 しかし、やがて人は、宇宙のどこにも心を通わせあうことのできるお友達はいないことを知って、失望し、夢を抱く詩人であることをやめて、憂鬱な哲学者になって、地球に戻ってくるのでしょうか。

 宇宙を心で透視して、肉の目には見えない神様を見つけた時、人は初めて満たされた思いと心の落ち着きを得ることができるのでしょうか。

 これを書いている12月半ばから、あと数日でクリスマス。聖夜に生まれる幼子イエスが、目に見える姿をとった見えない神様であることを信じられる人は、深い慰めを見出すにちがいありません。

 

 

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★ 第45回ヘルマン・ホイヴェルス神父追悼ミサに参加して (山下征子)

2022-12-03 00:30:13 | ★ ホイヴェルス師

カトリック東松山教会報「マラナタ」2022年11月号に、以下のような記事があることを知りました。

ホイヴェルス師の追悼ミサの主催者として興味があったので、筆者の山下征子さんの承諾を得て、このブログに転載いたします。

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第45回ヘルマン・ホイヴェルス神父追悼ミサに参加して

山下征子

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 去る6月、参加者50名を超える方々が四谷の主婦会館に集い、師の追悼ミサが捧げられた。

 帰天後45年間一度も途切れることなく「偲ぶ会」が続いていることに感動し初めて参加した。

 ミサ後の懇親会では、生前の師を記憶する世代、師を知らない若い世代の方々が師への思い出を語られた。共通する思い出は、師はこよなく日本を愛されたこと。

『日本文化が持っている深い精神性はキリストの伝える愛と深く結びついている。日本人の心を表わす「いただく」「捧げる」「落ち着く」の3つの言葉が人の人生の歩みを表している。人はまずいただく仕事をしなければならない。赤ちゃんはまず親からいただきます。そして、学生たちは学校で知識をいただいて心を養います。その後家庭や社会で自分を捧げなければならない。そうして人間の心は満足し落ち着いて神のみこころに至る』

と師は語られていたとか。

 師は決して過去の人ではない。今の時代にもその魂は引き継がれるべき人だと思った。そして、しおりの最後の頁に「最上のわざ」が記されているのを見つけて、あっ!と。13年まえに帰天した夫は余命を告知されてからの数カ月、この「最上のわざ」のカードを枕元に置き、常に合掌していた。このカードは今、家庭祭壇の夫の写真の傍らに置かれ、私の信仰の在り方のヒントとなっている。「最上のわざ」を唱えると‟加齢も死も怖くない”。と、思えてくる。

 

【最上のわざ】

この世の最上のわざは何か?

楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であることを。老いの重荷は神の賜物。

古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。

おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらいしごと。

こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。

手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。

愛するすべての人のうえに。神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

  H・ホイヴェルス神父の言葉より

 * * * * *

プロフィール:ホイヴェルス神父はドイツで生を受け。イエズス会宣教師として1923年33歳で対日。上智大学で教鞭を執り、聖イグナチオ教会の初代主任司祭として司牧に献身、32年にわたり戦況と司牧に従事し、1977年87歳で天国に旅立たれた。師から洗礼を授けられた人は3千名を超え、日本を愛した宣教師の心は、今も上智大学や聖イグナチオ教会をはじめ、各地で息づいている。

 

 

 

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