:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「2発の銃声」 (教皇暗殺事件-3)

2011-02-26 22:56:17 | ★ 教皇暗殺事件

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 教皇暗殺事件-3

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わたしは前回このテーマで書いた時、次のように結びました。

ではこれで一件落着でしょうか?

 ① 仮に、わたしの好奇心をいたく刺激したこの写真が、偽物、贋作であるとしても、ではあの写真の不思議な(ある意味で怪しい)魅力は一体どこから来るのでしょうか。まずこの点に対して答えを出さなければなりません。

② 次に、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの狙撃事件を機に封印が解かれ、発表に踏み切られた「ファティマの第三の予言」が、既に成就し、本当に過去のものとなってしまったのかどうかにつても、答えなければなりません。

わたしは ① と ② の二つの疑問に挑戦する前に、まずあの日、つまり1981年5月13日に本当は何が起こったのか、どう展開したのかを、伝聞でもなく、断片的報道を総合した推察でもなく、ぜひとも事件の第一資料から検証したいと思いました。そこで、バチカンの傍の一番大きい本屋さんに行って、資料を探し始めた。書店に備え付けの端末にかじりついて、色んな角度から検索しましたが、教皇狙撃事件それ自体を直接取り扱った独立した資料にはついに辿りつくことができませんでした。ちょっと不思議な気がしたし、また腑に落ちませんでした。そこで、いろいろ観点を変えて、探りを入れて行く中で、「あっ!これだ!」と思わず叫んでしまうような材料に辿りつきました。冷静に考えれば、それは当然あるべき場所にあったと言えるでしょう。

「カルロと共に生きた生涯」(スタニスラオ・ジヴィツ著) 19章 「あの2発の弾丸」(P.117~122)

スタニスラオ・ジヴィツと言えば、教皇と同じポーランド人で、教皇の秘書として、教皇の在位中最も密接に彼に寄り添ってきた人です。狙撃事件の時ももちろん同じジープに乗っていたし、手術にもその後の回復期にも誰よりも近く長く彼とともに居ました。あの忘れようとしても忘れ得ぬ出来事について何も書き遺していないはずはなかったのです。

初め、私はこの教皇暗殺のテーマをこの回でまとめ上げようと考えていました。しかし、その準備として問題の記事を読み進むうち、気が変わりました。1億2700万の日本人の中で、私がようやく探し当てたこの本に出くわす人は皆無に等しいでしょう。仮にたまたま出くわしたとしても、それを読みこなせる人はさらに少ないことでしょう。そうならば、この事件に関する貴重な第一資料を、まず皆さんに生で接して頂いて、それから結論に向かっても、決して無益な試みではないと思うに至ったのです。

それで、原文で6ページの章を2回に分けて、原文に沿ってご紹介いたしましょう。

 

スタニスラオ枢機卿の著書 「カルロとの生涯」

 

 

《2発の銃声》

 

 あの日の事を思い起こすたびに、私は何時も同じ思いに浸る。一瞬一瞬が、最初から生々しくよみがえる。今だに、どうしてあのようなことが起こり得たのか信じることができない。教皇を殺そうとなどと、それもあの教皇、ヨハネ・パウロ2世を、あのキリスト教の中心的な場所において・・・

 あの日、ジープは聖ペトロ広場の二周目を終わろうとしていた。青銅の門に終わる右側の柱列のところだった。教皇は彼に向って差し出された金髪の赤ん坊に向かって車から身を乗り出していた。その子の名前はサラと言った。やっと二歳になったばかりだった。彼女は色風船の糸をしっかりと握っていた。彼はその子を両腕に抱き取り、みんなに見せるかのように空中に持ち上げ、その子にキスをして、微笑みながら両親に返そうとしていた。 

 あとから再確認したところによれば、それは1719分、素晴らしい天気に恵まれた水曜日の午後、屋外の一般謁見のあいだの出来事だった。そして、日付は1981513日だった。 

 私は母親と父親の手が、このバラ色のぽっちゃりした子を受け取ろうと差し伸べられている光景に魅了されていた。 

 一発目の銃声が聞こえた。それと同時に、数百羽のハトが突然舞い上がり、驚いたように飛び去っていった。 

 そして、すぐその後で二発目の銃声が響いた。その時、教皇が私に向かって横向きにへなへなと倒れこんでくるのを感じた。 

 私はと言えば、-それは後で写真やテレビの映像で見て知ったことだが-本能的に銃弾が発射された場所に目をやっていた。そこには大混乱があった。色の浅黒い青年が身をくねらせていた。後で分かったところによれば、それがトルコ人の犯人、メハメット・アリ・アグサだった。

 今にして思えば、あの場所からあの大混乱に目をやったのは、起こった恐ろしい出来事に対する、見たくない、受け止めたくないという私の思いの産物だったのではないだろうか。しかし、私の両腕はその現実をしっかりと「感じて」いた。

 私は彼を、教皇を支えようと努めた。しかし、彼はまるでなるがままに任せようとしているようだった。優しく。彼は痛みに顔をゆがめていた。にもかかわらず安らかだった。私は尋ねた「どのあたり?」「腹をやられた」と彼は答えた。「痛みますか?」「痛む」と答えた。一発目の弾はかれの腹部を台無しにした。結腸に穴を開け、小腸の複数個所をずたずたに引き裂き、貫通してジープの床に転がった。二発目の弾丸は、右肘を傷つけ、左手の人差し指を骨折させ、二人のアメリカ人観光客を傷つけた。

 誰かが「救急車に向かえ」と叫んだ。しかし、救急車は広場の反対側にあった。ジープは全速力で鐘楼の門を通り、フォンダメンタ通りを通って、大聖堂の内陣の外側を迂回して、バチカンの救急隊の待機する場所に向かった。そこには連絡を受けた教皇の侍医のレナート・ブッッオネッティ博士がすでに待機していた。

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★ 「二発の銃声」(教皇暗殺事件ー3)

2011-02-26 17:52:53 | ★ ウクライナ戦争

★ 「2発の銃声」 (教皇暗殺事件-3)

2011-02-25 22:56:17 | ★ 教皇暗殺事件

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 教皇暗殺事件-3

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わたしは前回このテーマで書いた時、次のように結びました。

ではこれで一件落着でしょうか?

 ① 仮に、わたしの好奇心をいたく刺激したこの写真が、偽物、贋作であるとしても、ではあの写真の不思議な(ある意味で怪しい)魅力は一体どこから来るのでしょうか。まずこの点に対して答えを出さなければなりません。

② 次に、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの狙撃事件を機に封印が解かれ、発表に踏み切られた「ファティマの第三の予言」が、既に成就し、本当に過去のものとなってしまったのかどうかにつても、答えなければなりません。

わたしは ① と ② の二つの疑問に挑戦する前に、まずあの日、つまり1981年5月13日に本当は何が起こったのか、どう展開したのかを、伝聞でもなく、断片的報道を総合した推察でもなく、ぜひとも事件の第一資料から検証したいと思いました。そこで、バチカンの傍の一番大きい本屋さんに行って、資料を探し始めた。書店に備え付けの端末にかじりついて、色んな角度から検索しましたが、教皇狙撃事件それ自体を直接取り扱った独立した資料にはついに辿りつくことができませんでした。ちょっと不思議な気がしたし、また腑に落ちませんでした。そこで、いろいろ観点を変えて、探りを入れて行く中で、「あっ!これだ!」と思わず叫んでしまうような材料に辿りつきました。冷静に考えれば、それは当然あるべき場所にあったと言えるでしょう。

「カルロと共に生きた生涯」(スタニスラオ・ジヴィツ著) 19章 「あの2発の弾丸」(P.117~122)

スタニスラオ・ジヴィツと言えば、教皇と同じポーランド人で、教皇の秘書として、教皇の在位中最も密接に彼に寄り添ってきた人です。狙撃事件の時ももちろん同じジープに乗っていたし、手術にもその後の回復期にも誰よりも近く長く彼とともに居ました。あの忘れようとしても忘れ得ぬ出来事について何も書き遺していないはずはなかったのです。

初め、私はこの教皇暗殺のテーマをこの回でまとめ上げようと考えていました。しかし、その準備として問題の記事を読み進むうち、気が変わりました。1億2700万の日本人の中で、私がようやく探し当てたこの本に出くわす人は皆無に等しいでしょう。仮にたまたま出くわしたとしても、それを読みこなせる人はさらに少ないことでしょう。そうならば、この事件に関する貴重な第一資料を、まず皆さんに生で接して頂いて、それから結論に向かっても、決して無益な試みではないと思うに至ったのです。

それで、原文で6ページの章を2回に分けて、原文に沿ってご紹介いたしましょう。

 

スタニスラオ枢機卿の著書 「カルロとの生涯」

 

 

《2発の銃声》

 

 あの日の事を思い起こすたびに、私は何時も同じ思いに浸る。一瞬一瞬が、最初から生々しくよみがえる。今だに、どうしてあのようなことが起こり得たのか信じることができない。教皇を殺そうとなどと、それもあの教皇、ヨハネ・パウロ2世を、あのキリスト教の中心的な場所において・・・

 あの日、ジープは聖ペトロ広場の二周目を終わろうとしていた。青銅の門に終わる右側の柱列のところだった。教皇は彼に向って差し出された金髪の赤ん坊に向かって車から身を乗り出していた。その子の名前はサラと言った。やっと二歳になったばかりだった。彼女は色風船の糸をしっかりと握っていた。彼はその子を両腕に抱き取り、みんなに見せるかのように空中に持ち上げ、その子にキスをして、微笑みながら両親に返そうとしていた。 

 あとから再確認したところによれば、それは17時19分、素晴らしい天気に恵まれた水曜日の午後、屋外の一般謁見のあいだの出来事だった。そして、日付は1981年5月13日だった。 

 私は母親と父親の手が、このバラ色のぽっちゃりした子を受け取ろうと差し伸べられている光景に魅了されていた。 

 一発目の銃声が聞こえた。それと同時に、数百羽のハトが突然舞い上がり、驚いたように飛び去っていった。 

 そして、すぐその後で二発目の銃声が響いた。その時、教皇が私に向かって横向きにへなへなと倒れこんでくるのを感じた。 

 私はと言えば、-それは後で写真やテレビの映像で見て知ったことだが-本能的に銃弾が発射された場所に目をやっていた。そこには大混乱があった。色の浅黒い青年が身をくねらせていた。後で分かったところによれば、それがトルコ人の犯人、メハメット・アリ・アグサだった。

 今にして思えば、あの場所からあの大混乱に目をやったのは、起こった恐ろしい出来事に対する、見たくない、受け止めたくないという私の思いの産物だったのではないだろうか。しかし、私の両腕はその現実をしっかりと「感じて」いた。

 私は彼を、教皇を支えようと努めた。しかし、彼はまるでなるがままに任せようとしているようだった。優しく。彼は痛みに顔をゆがめていた。にもかかわらず安らかだった。私は尋ねた「どのあたり?」「腹をやられた」と彼は答えた。「痛みますか?」「痛む」と答えた。一発目の弾はかれの腹部を台無しにした。結腸に穴を開け、小腸の複数個所をずたずたに引き裂き、貫通してジープの床に転がった。二発目の弾丸は、右肘を傷つけ、左手の人差し指を骨折させ、二人のアメリカ人観光客を傷つけた。

 誰かが「救急車に向かえ」と叫んだ。しかし、救急車は広場の反対側にあった。ジープは全速力で鐘楼の門を通り、フォンダメンタ通りを通って、大聖堂の内陣の外側を迂回して、バチカンの救急隊の待機する場所に向かった。そこには連絡を受けた教皇の侍医のレナート・ブッッオネッティ博士がすでに待機していた。

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まことの信仰を求めて。たまに気楽な記事も書きます。

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★ 春の訪れ、生命の季節

2011-02-25 04:39:01 | ★ 自然・いのち

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春の訪れ、生命の季節

 私が、世の神父族の中ではいささか規格はずれであることは敢えて否定するものではないが、
結婚式の司式はこの神父でなければ厭だと言って、若い共稼ぎの給料からローマ往復の旅費を
わざわざ送って寄こしたカップルも、只者ではない。

(以下は、実はちょうど一年前、実に悲しい事情で私のブログが 「炎上」 し公にリリーズ出来なくなっていた頃に、ひっそりと書いたものです。マル一年遅れて、いま制限なしにアップ出来ることを神様に感謝しつつ、時を超えてまるで今日このごろの出来事のようにお目にかけることができる幸せをかみしめています。)



 (ローマの「日本のための神学校」を訪ねてきた二人。現院長平山司教様とスワレス元院長と)

 去年の11月1日、(実は2009
のこと)私に祝福されて挙式した彼らが、二人とも仕事を辞めて新婚旅行に旅立ってから、そろそろ4カ月近くになるか。東南アジア、インド、ネパール、近東を回り、先日ようやくローマに辿りついた。

 180円~400円で食べ500円で泊るような、そんなバックパッカーの旅を重ね、今はスペインの巡礼地、
サンチャゴ・デ・コンポステーラに向けて、ブルゴスから526キロの道を、彼らなら徒歩で歩き通すかもしれないぞ、
と思った。(コルコタではマザーテレサの「死を待つ人の家」でボランティアーをしたりの真面目な珍道中の全ては、
彼らのブログに詳しく書かれているから、興味のある人は「新米☆夫婦求道の旅」という題の
http://blog.goo.ne.jp/jimyung6v6118 を見てやっていただきたい)

 さて、そんな彼らに、この旅で初めてで、もしかしたら最後かもしれないまともな日本食屋に連れて行って
たらふく御馳走をしたら、美味しい~!と大喜び。
 せっかくローマまで来たのだからと、初代教会のキリスト教徒の地下墓所、カタコンベに彼らを連れて行った。
すると、カタコンベの上の緑の台地は新しい生命で満ち溢れていた。

 新しい命、遠くに点のようにみえるのがそれ。



 遠くに白い子羊が群れを離れてとぼとぼ歩いていた。まさに、聖書の「迷える子羊」、それは私のようでもあって、
愛おしかった。
 300ミリのズームで引き寄せて、やっとこの大きさに撮れた。しきりに「メ~~~ェッ!」と高く細い声で鳴いている。

 悪戯のつもりで、母ヒツジの真似をして、低音で「ベ~~~エッ!」とやったら、向きを変えてトコトコやってきた。



 「エーッ!?」まだ来ちゃうの?ズームを広角側に回す手が間に合わない! 全く恐れる気配がないうぶな子羊。本当に僕を母親と思ったか?



 ワーッ! ほんとうに来ちゃったよ~! 僕の掌とくらべるとその大きさ(小ささ)がよく分かるでしょう?



 よく見ると、まだお腹の下には黒く変色した臍の緒が・・・・生まれてやっと数日しか経っていないことの印だ。



 目を転じると、同じような子羊がそこにも、ここにも・・・・もう、うじゃ、うじゃ!



 元気な子は、もう飛んだり、・・・

    

 跳ねたり!・・・・              突っかかったり!・・・・

     

 そうかと思うと、じっと座って動かないのも・・・その顔は平和そのもの!



  手を差し伸べても、フン!と知らぬ顔。



 なんだよう、と撫で回したら・・・・

 うるさいな~!せっかく昼寝してたのに~!と、のっそり立上がって群れの方に歩いて行った。
振り返る顔が「臍の緒くん」のより小さく見えるのは、何週間かお姉さんだからだろうか?



 アバッキオというイタリアの羊の骨付き焼き肉料理は実に美味しい。
旧約のイスラエルの民は、モーゼに引き連れられて急いでエジプトを発つとき、アバッキオを食べた。
それには1歳までの子羊が一番! 

 今は亡き高松の深堀司教様の大好物で、こいつらを見ていると、よく二人で食べに行った日々のことが懐かしく想い出される。

(「教皇暗殺事件」の落ちを書かなければと焦っていますが、ここ2週間、日本からの来客が相次いでいて、-明日も新たに3人が東京からやってくるので忙しく-思うに任せません。そんな訳で、未発表の古いものを取り出してつなぎとしています。ご了承を!)

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★ 天国の門

2011-02-13 07:44:41 | ★ 日記 ・ 小話

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天 国 の 門

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同じ老神父はまた別の冗談を言いました。

あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(マタイ16:18-19)

これは、新約聖書に記されたイエスのペトロに対する言葉です。

イエスの弟子たちのかしらであるペトロも逆さ十字架の刑で殉教を遂げ、無事天国にたどり着くと、イエスから天国の門番を仰せつかります。そして、この世の生活を終えて門前に立つ者たちをみて、「よーし、おまえは合格!入ってよーし!」「ダメダメ、入れてやるわけにはいかないね!」とキリストに言われた基準で交通整理をいたします。

天国の門番の仕事にも休憩時間があると見えて、そんな時、彼は天国をぶらぶら散歩します。すると、時々見慣れない顔に出会うではありませんか。

「はてな?こんな奴、天国の門を通してやったわけはないのだが?へんだなあ???」と首をかしげることしきりです。そして、思い余って先生のキリストのところへ行っていいました。

「先生、わたしは忠実にあなたの言うとおり、変な奴は入れないようによく気を付けているつもりななんですが、最近、天国に時々見慣れない顔をしたのがうろうろしているのに気が付きまして・・・・。わたしゃあんなのを入れた覚えが無いんですがねェ?!一体どういうことでしょう?」

「おやそうかい?では、天国の城壁に破れが無いか見回っておいで」

そこで、ペトロはぐるりと一周調べてあるくことにした。そして、彼が番をしている天国の門のちょうど反対のあたりに、壁に寄り沿って一軒の家があり、その裏窓が壁の外に向かって開いていた。近寄ってよく見ると、その開いた窓から太い鎖のロザリオが垂れ下がっていて、ペトロが今朝門前払いをしたばかりの男がそれを伝ってよじ登ろうとしていた。ぺトロは、これは一大事!とばかりに、走ってイエスのところへ戻って来て、

「先生、先生、大変です!反対側の城壁にもたれて立っている家の窓から、外の地面にロザリオが垂れていて、それを伝って入ってはいけない奴らが天国に潜り込んでいますよ。何とかして下さい、ねェ先生!」

すると、イエスはいわれた。「おやそうかい?まあ、あれは母さんが勝手にやっていることだから、そのままにしておきなさい。」

カトリックの信者さんなら、素直に「なるほど」と得心されるだろうか。聖母マリア様によりすがれば、だめな人間も母の愛と憐れみで、何とか救いあげられる、ということのようでした。

(おしまい)

 


 

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★ 雪の野尻湖( 国際村)

2011-02-10 22:45:06 | ★ 野尻湖・国際村

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本格的な冬到来

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わたしの野尻湖のキャビンを我が家のように思ってくれている人がいる。嬉しいこと。有り難いこと!

しかし、その冬は厳しいです。これは今年の写真ではありませんが、今年も同じ景色が繰り返されているに違いありません。

国際村113の別荘の窓から望む野尻湖はしろ一色の中に沈んでいます。風もなく、音もなく、人の気配はさらになく・・・・ 

 

同じ窓から目を右に振ると、枝一杯に重そうに雪をつけた山桜の古木(推定樹齢100年以上)が。もっと雪が付くと、重さで枝が折れることがある。


 

蟷螂(カマキリ)が高いところに卵を産む年は雪が多いと土地の古老は言いますが、あんな小さな虫の何処にそんな予知能力が潜んでいるのでしょう?長期お天気予報のスーパーコンピューターより大きい演算機能があの体内に?一匹ずつみんなに? 嘘でしょう???

 

 

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★ 教皇暗殺未遂事件-2

2011-02-09 07:03:18 | ★ 教皇暗殺事件

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教皇暗殺未遂事件-2

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まずこの二つの写真を見比べて頂きたい。左は問題の不思議な写真。右は、それからインスピレーションを得て創られたステンドグラスの写真。何か共通の特徴に気付かれませんでしたでしょうか?

そうです。よく目ざとく気付かれましたね。他の方も、聖母の向かって左側の頬の下の方をよく見て下さい。左の写真では教皇の首筋に殆ど隠れていて分かりにくいのですがステンドグラスでははっきりと斜めに濃い二本の線が見えませんか。これは明らかに、ポーランドの巡礼地、チェスとコーヴァの、いわゆるブラックマドンナの絵の顔にある傷を指しています。下の、私が苦労して遠くから隠し撮りした)本物のマドンナの絵の写真の部分を拡大したものと比べて見れば一目瞭然です。


 

 

これは、回教徒が東から侵略してきた時、この聖堂にまでなだれ込んだ兵士ひとりが、槍で二度マリア様の顔を突いた時の傷だと言われています。そして、回教徒のポーランドへの侵略は、マリア様のお陰でこの場所で止まった史実があります。教皇ヨハネ・パウロ2世は、この聖母の絵に深い信心をもち、教皇に選ばれた後、まずここに巡礼されたと聞いています。本物はご覧の通り金銀宝石の装飾で飾られていて絵がよく見えないほどですが、飾りの下は上の写真のように頭から青いヴェールを被っているはずです。つまり、あのふしぎな写真で教皇を抱いている婦人は、チェストコーバのブラックマドンナとして描かれた人物、つまり聖母マリアを指していると見て間違いありません。 


 

暗殺未遂事件とは直接関係がありませんが、ちょっと下の写真を見て下さい。教皇がクラカウの街をパレードしている時のものです。色とりどりの生花で作られたフラワーラインの上をオープンカーが進んでいくところです。ケネディー暗殺の時と同様、銃弾に対しては全く無防備であることが分かるでしょう?

 

では、暗殺未遂事件の時はどうだったのでしょうか。その時も同じようにジープ型のオープンカーでした。下のは犯行直後の写真です。この位置から写真を撮れるのは明らかにセキュリティーの人間だけです。つまり、群衆の一人ではありえないということです。手前の後ろ向きの男性はシークレットサービスの一人でしょうか。この写真の1~2秒前には教皇はこの男性の腕の中だったかもしれなません。だから、反対側からカメラを構えれば、問題の怪しげな写真の構図と同じような形も考えられなくもないのです。教皇の頭の後ろに顔が半分隠れていて教皇の肩のところに手が見えるのが、同じポーランド人で教皇の秘書、現在のクラカウのスタニスラウス枢機卿ではないかと思います?

 

 

ローマの病院ポリクリニック「ジェメッリ」で回復を待つ教皇ヨハネ・パウロ2世。

 

今日は、二つの点についてだけ述べて、このブログを終わろうと思います。そして、同じテーマの次のブログで、わたしの神学的考察をもって結論といたします。

第一の点: 問題の写真は、素材としては、教皇を写した写真と、チェストコーバのマドンナの絵にヒントを得て描かれた画像の合成物だということは見た通り一目瞭然で、疑う余地はありません。それがどうして一枚の画像になったかが問題ですが、それはとにかくとして、技術的には二つの元の画像さえあれば、素人でも持っている画像編集ソフト、例えばアドビーのフォトショップなど、で画像処理すれば、割合に簡単に作れそうな合成写真です。それを、信仰深い個人がやったか、あるいは天使がやったか、マリア様がやったか、それは大した問題ではありません。それを、オカルト信仰の人がよくやるように、背後霊や祖先の霊が写っていたという類の合成写真と一緒にして、不思議な写真、「奇跡」的な写真ともてはやすのは、場合によっては大変危険なことであるとは思いませんか。

第二の点: あの写真に添えられた言葉に信ぴょう性があるかどうかです。私のツイッターにはこのようなコメントが入りました: 《  tatakaigokko @  世間に流布されている諸々の噂話の真偽を確かめる以下のサイトでは引用のホアキン・ナヴァロ・ヴァルス氏に直接コンタクトし問題の写真が撮られた事もヴァチカンから公表された事もないとの証言を得たとの事。 

これは決定的だと思いませんか。目的がどうであれ、人を欺く嘘はいけません。このサイトの内容の信ぴょう性自体も、実は疑問視することもできますが、そうしていてはきりがありません。わたしは、このような裏付けを頂く前から、あの文章は眉唾ものだと直感していました。もう十分でしょう。

ではこれで一件落着でしょうか。 仮に、わたしの好奇心をいたく刺激したこの写真が、偽物、贋作であるとしても、ではあの写真の不思議な(ある意味で怪しい)魅力は一体どこから来るのでしょうか。まずこの点に対して答えを出さなければなりません。

また、次に、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの狙撃事件を機に封印を破り、発表に踏み切った「ファティマの第三の予言」が既に成就し、本当に過去のものとなってしまったのかどうかにつても、答えなければなりません。

この最後に残された二つの疑問についての答えは次回に譲り、今日はひとまずここで締めくくりたいと思います。




 



 

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★ フリージアは母の思い出

2011-02-05 10:23:02 | ★ 野尻湖・国際村

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フリージアは母の思い出

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野尻湖国際村 No.113 のキャビンはすっぽりと雪の中。車を置いた道までの
ラッセルも楽ではない。ひどく春が待たれる日々が続く。(2008年2月現在)

 


昨夜のうちに50センチは積もった。一人立てこもったNLA(国際村)113番のキャビンは一階部分が半分以上雪に埋もれている。
重いテーマの合間に、一休みしようと、軽い気持ちで写真を並べるだけのブログを書いたら、フリージアの花が好評でした。
それで、気を良くして、どんどん花開く窓辺のフリージアの写真をまた貼り付けます。

 



フリージアの花、それは私の場合、少年時代から「母の花」でした。そのことについて、私は自分の本の中で次のような一文を書いています。

* * * *


( 第1章 「神から遠ざかる」-少年時代-P.50 より )

私は、1939年12月15日に大阪府の警察病院で生まれた。
カラーの静止画像のようにはっきりと覚えている最初の記憶は、ブルーの細首ガラスの花瓶に黄色いフリージアの花が無造作に生けてあって、その前の床にあぐらをかいて座った母が、水彩画でそれを描いていた。その母のあぐらの中にわたしがスポンと納まってなにやらクレヨンで描こうとしている、そういう情景であった。自分のお尻が母の内股に触れている暖かい皮膚感覚の記憶と言ってもいい。3歳ぐらいの時の記憶ではなかったかと思う。その日以来、今日に至るまで、黄色いフリージアの甘い香りは、母の香りである・・・。 ( 「バンカー、そして神父」 -ウオールストリートからバチカンへ- 谷口幸紀著 《亜紀書房》 2200円+税 ) (まだ読んでいらっしゃらない方は、是非ご一読下さい。アマゾンか楽天を通して簡単に手にはいります。)

 

「バンカー、そして神父」(亜紀書房)→ http://books.rakuten.co.jp/rb/4122150/

 

 


 

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★ ちょっと爽やかなお話 

2011-02-04 09:51:41 | ★ 日記 ・ 小話

 

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ちょっと爽やかなお話し!

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いまローマのグレゴリアーナ大学は前期の試験中。

神学生達は勉強で頭がパンパンになっているが、養成者の神父たちは気楽なもんだ。

朝食のテーブルに残った年寄りの神父と二人でおしゃべりをした。

彼は小話を一つしてくれた。


何年か前、ユダヤ教の最高指導者のラビが教皇ヨハネ・パウロ2世をバチカンに公式訪問した。

2000年ぶりの歴史的な出来事だった。

ラビは教皇に会って言った。


第二次世界大戦中のことです。

ポーランドではナチスによるユダヤ人狩りが激しさを増していました。

逃げ場を失った若い夫婦が、男の赤ちゃんを抱いて、カトリック信者の家の戸口を叩きました。

出てきた主婦に子供を押しつけて言いました。この子はユダヤ人の子です。

このままいたら、一緒に殺されます。どうかお願いですからこの子を預かって下さい。

そして、物心が付いたら、どうかこの子をユダヤ人社会に返して、ユダヤ教徒として育てて下さい。

そのすぐ後、二人は捕らえられ、アウシュヴィッツのガス室に送られて死んだ。

子供は無事成長して10歳になった。

預かった夫婦は悩んだ。情愛が移って手放したくない。

洗礼を授け、カトリック信者として、わが子として育てたい。

でも、本当の親との約束がある。どうしたものか。

思い悩んで、近くの教会の神父さんに相談した。

すると、その神父はきっぱりと言った。

その子をイスラエルに送りなさい。

そして、ユダヤ教徒として育てられるように計らいなさい。


ラビは続けて言った。


その時の男の子は私です。

そして、あの時の神父、それは貴方でした。


クラカウの教会のうしろのうすぐらいベンチ。神父だった頃のヨハネ・パウロ2世

が何時も跪いてい祈っていた場所に真鍮のプレートが。

誰置くか、そこには薔薇の生花が絶えないという。

今、ユダヤ教とカトリックの関係は、かつてないほど友好的だ!


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