:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「お金=神」の時代 どう生きる? (その-3)

2017-12-29 01:18:32 | ★ 福音宣教

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「お金=神」の時代 どう生きる? (その-3)

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 私は《「お金=神」の時代をどう生きる? 》というテーマで(そのー1)を9月5日に、(そのー2)を9月19日に書いたあと、なかなか(そのー3)が書けなかった。それは、このテーマで書くべき原体験は第1回目は27年前、2回目は25年前という古いもので、しかも、すでに一度ブログで取り上げたことがあったからだ。(実は、本当はキコが今年の夏、実に20何年ぶりに、全世界規模で同じ宣教の試みを行いーもちろん日本国内でも行われてー本当はそのことをこそ書きたかったのだが、その体験はあまりにも生々しく、教会の内外に対する影響も大きいため、それについて書くことはわたしの嫌いな内部統制でまだ禁じられているから、やむなく古い話でお茶を濁している、という裏事情があることはあるのだが・・・。)  

だから、前に書いたものに一部手を加え、この数年の間にこのブログを知って読み始めた新しい読者には初めての話題として、また古いいおなじみさんには思い出しながらお付き合い願うことでお許しいただきたい。

さて、その古いはなしというのは、おおむね以下のようにして始まる: 

 

スイスアルプスの上は晴れていた

(書き出しを一部省略)最近、思いがけずベルリンを訪れる機会に恵まれた。テーゲル空港からバスで市内のツォー駅の前で降りた。その途端、懐かしい思い出がワーッとよみがえってきた。かれこれ25年ぶりのことだ。 気温0度。細かい砂粒のような雪がどんよりした冬空から微かに降ってくる。

当時、取り敢えずやくざな銀行稼業からは足を洗ったものの、50歳の誕生日を目前にして、教会のどの門を叩いても扉は固く閉ざされていた。齢を取りすぎて神父への道はもう完全に断たれたか、と一旦はすっかり観念したそのあとのことだった。やっと道が開け、私が神父を志してローマに来たのは1989年の10月だった。

まだ神学校には入れてもらえず、取り敢えず寡(やもめ)のアンジェラおばさんの家に下宿してグレゴリアーナ大学の神学部で勉強を始めたその数日後、目抜き通りで警官が整理するほどの大変な人だかりがしていた。見ると発泡スチロールの塊が山と積まれて道を塞いでいた。それを若い男たちが壊しにかかっていたのだ。それがベルリンの壁崩壊のニュースに呼応して行われた大がかりなストリートパーフォーマンスであったことが理解できるまでには、なおいささかの時間を要した。それほどイタリア語がまだよくわからなかったのだ。

 

1989年11月10日 ベルリンの壁崩壊の日 ブランデンブルク門の前の壁 上には東ベルリンの市民、下には西ベルリンの市民が

明けて1990年の9月末、アドリア海に面した漁村、ポルト・サンジオルジオの丘にある合宿所で開かれた神学生志願者たちの集いに私も招かれた。500人ほどの若者が世界中から集まっていた。一人ひとり皆の前で吟味され、世界中どこへ送られても、生涯そこで宣教に身を奉げる覚悟があるかを問われる。そして世界中の神学校にくじ引きで割り振られるのだが、その前に大事な試練が待っていた。聖書には、こうある。

「イエスは十二人を呼び集め、・・・神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。・・・。」十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。・・・(ルカ9章1-6節)

これをキコは500人の神学生志願者に文字通りやらせるというのだ。交通費などでこの企画ざっと2千万円はくだらないな、と元銀行マンは踏んだ。事故保険にも入らないこのプロジェクトは、まさに現代の狂気だ。足かけ9日間。正味7日間。イタリア、フランス、スペイン、ドイツ、オーストリア、それ以遠のイギリスや東欧も含めて、あらゆる都市に二人一組で一銭も持たせず送り出す。そして、「神の国は近づいた。改心して福音を信じなさい。」という決まり文句を、バカの一つ覚えのように告げて歩かせる。鉄道か飛行機の、往復切符とパスポートだけ持たされて、250組の若者たちが決められた町や村に送り出されるのだ。

組み合わせはくじ引きで決められた。ルールは、二人の間に意思疎通ができる共通言語があること。二人のうち少なくとも一人は送られた先の国の言葉が話せること。各人は皆自分の名前と所属、使える言葉を書いた紙きれをたたんで、言語別の籠に入れる。

老獪な私は考えた。自分の場合、英語かドイツ語か日本語だが、さて、英語だと相手が誰になるか皆目予想が立たない。ドイツ語なら、相方は若い優秀なドイツ人かオーストリア人の青年とだいたい相場が決まっている。その若者にくっついていけば楽ができる。そう読んで自分の紙きれをドイツ語の籠に入れた。

いよいよ組み合わせが始まった。キコは籠の一つを取って、大げさにガサガサと揺すって見せ、やおら一枚の紙を拾い上げた。マッテオ君。君はイタリア人で英語がわかのるだね?では相手は英語の籠から選ぼう。ランランラン、ホイ!フィリッピンのロピート君。君はマッテオとパレルモ(シチリア)に行きなさい。拍手がわいた。

次は、ランランラン、ホレ!ジュゼッペ。君はフランス語ができる?それではこの籠から、ランランラン、エイヤッ!オー、ギヨーム君。では、二人はマルセイユに行きたまえ。拍手。

イタリア語の籠がまず空になって、スペイン語の籠もほぼ空になって、いよいよドイツ語の籠になった。順調に組み合わせが進んで自分のカードが出た。誰であれ相手は流暢にドイツ語を話す優秀な若者と決まっているさ。楽勝、楽勝!とあさってのほうを向いて油断していたら、キコがどうも変なことを言っているらしいことにハッと気が付いた。ジョン!(私はここではそう呼ばれている)君は日本人だがドイツ語ができるのか?フム、フム!・・・ここに日本語しかできないのが一人いる。ちょうどいい、彼と一緒にベルリンに行きなさい。

しまった!英語にしておけばよかった、と思ったが後の祭り。この愛情飢餓症で服装もだらしなく、歯もちゃんと磨いてない光男お坊っちゃまと一週間も一文無しでベルリンの町をほっつき歩くなんてゾッとしない、と思ったが、こいつをクリアーしないと神学校に入れてもらえないとあっては観念するほかはなかった。(神様、あなたは今度もまた私の浅知恵の裏をかかれましたね!気に入らないな!と一発文句を垂れることは忘れなかった。)

一夜明けて、二人はベルリン往復の鉄道の切符と一人2000円相当ほどの現金を渡されて、車中の人となった。しかし、これから1週間、一文無しで生き延びる二人の運命を一人で背負わなければならない恐ろしい日々を思うと、気が滅入って車窓の景色も目に入らず、光男君と口をきく気にもならなかった。

夕方にミュンヘンに着いた。先に連絡が入っていたと見えて、共同体の兄弟たちに優しく迎えられ、一緒にミサにあずかり、温かい食事にもありついた。その夜おそく、まるで出征兵士のような歓呼の見送りを受け、夜行列車に乗り込み、いよいよベルリンへ。

オッ!と、その前に、一人の女性から一本の真新しいベルトが贈られたことを書き落としてはいけない。

ジーパンにしめていた私のベルトのバックルが目敏く見咎められたのだ。それはデュッセルドルフ時代にあるドイツ人の友人と別れる時に、彼が身に着けていたものをするすると抜いて形見に贈ってくれた思い出のベルトで、私の宝物だった。それは彼のおじさんが戦場で締めていたヒットラーのナチスドイツ士官のもので、バックルには大きなハーケンクロイツ(逆卍十字)に「ゴット・ミット・ウンス」(神我らと共にあり)と銘打ってあった。しかもその「ゴット」は「GOT」とスペルされ、キリスト教の神「GOTT」ではなくヒットラーが信奉する異教の神?だった。これからキリストの福音を告げに行く者が身に着ける小道具としては最悪、ドイツでは目立ちすぎる最低のギャグだったのだ。そんなことさえ気がつかない、神父志願の私の感性は当時まだその程度のものだったのだ。

予行列車は暗い森の中を進んでいた。同じコンパートメントに乗り合わせたイタリア人の紳士が我々に興味を持って話しかけてきた。ベルリンに事務所を持つ商人で、一週間ほど買い付けに行くという話だった。真面目なカトリック信者で、我々が聖書にあるとおり一銭も持たずに福音を告げて歩くのだと聞いて、いたく感心したらしい。ご親切にも1マルクと電話番号を書いた紙を、もし困ったことがあったらいつでも電話するようにと言って渡してくれて。私は深く考えもせず、有難くその紙で1マルクを包んで尻のポケットに入れた。

翌朝早く、同じツォー駅に降り立った。(その景色は今回もあまり変わっていなかった。)最初に持たされたお金でしっかり朝ごはんを食べた。残りのお金で詳しいベルリンの地図を一枚買った。それから、職業別電話帳のカトリック教会のページをコピーして、残った小銭は出発する前に指示された通り、最初に出会った乞食に一銭残らず施した。これで準備万端整った。

見まわして一番高い建物は、メルセデスベンツの巨大な輪を載せたビルだった。エレベーターで最上階までのぼり、そこからベルリンを見渡して、十字を切って厳かに街を祝福した。次に電話帳の住所と地図を頼りに司教座聖堂に向かい、司教様に面会を求め、宣教を始める許可と祝福を願った。

武者震いをして、いよいよ戦闘-いや宣教-開始。まず旧西ベルリンの中心の教会に向かった。イタリアを発つ前に、「目的地に着いたら、よそへは行かず教会を回りなさい。主任司祭を呼び出して福音を告げなさい」と指示されていた。

大きくて繁盛している教会と見受けられた。受付で申し入れると、やがて主任司祭が出てきた。

「汝(なんじ)と共に平和がありますように。」と聖書にある通り紋切り型の挨拶をした。すると、相手はキョトンとしてじろじろと私たち二人を見下した。私はジーパンにTシャツ姿だった。後ろでもじもじしている相棒も似たような恰好だった。ここで一発決めようと焦るのだが、どうしてもセリフがすらすらと口をついて出てこない。(ドイツ語が話せないわけではない。)「えーと、そのー、か、カ、神の国は近づいた。カ、か、回心して、ふー、福音を信じなさい。」とやっとの思いでいうと、神父はキッとなって、「お前たちは誰に向かってものを言っているのか分かっているのか?私は神父だぞ!それは私がお前たちに言うセリフだ。私は忙しいのだ。さあ、とっとと消え失せろ!」みたいな調子で追い立てられた。ケンモホロロ、とはこのことだ。短足のアジア人の我々は、多分「ムーン」(韓国統一教会)の一派かなにかと見間違えられたにちがいなかった。石ツブテで追われる野良犬のように、光男君と僕は街の人混みの中へ尻尾を巻いて逃げ込んだ。心臓はバクバク、膝は震えていた。

次の教会でも結果は同じだった。なんで言えない?言うべきドイツ語は分かっているのに。と落ち込んだ。光男君は、「この先大丈夫?おまえ本当にドイツ語できるの?」みたいな顔をするし・・・。

追い詰められてハタと気が付いた。そうか、まだお金を捨てきっていなかった。そのためかも知れない。駅前の乞食に持ってきた金の残りは言われた通り全部くれてやった。しかし、尻のポケットには万一の安全のために、あの商人の事務所の電話番号とコインがまだ残っていたのを思い出したのだ。

慌ててお乞食さんを探した。ベルリンの壁が崩れてまだ1年も経っていなかった。東から流れてきた貧しい失業者が、そこ此処で物乞いをしていた。最後の1マルクを帽子に投げ入れ、電話番号も破り捨てると、急に心が軽くなって勇気が湧くのを感じた。

次はやや中心を外れたそれほど流行っていないような教会だった。出てきた主任司祭に、「貴方に主の平和がありますように!」と切り出すと、「また貴方たちと共に!」ときれいに型通りの挨拶が返ってきた。「神父さん。私たちは今日あなたに良い知らせを持ってきました。神の国は近づいています。神様は貴方の隠された罪をすべてお見通しです。どうか改心して福音を信じてください!」実にまあすらすらと出てきたものだ。(これ全部ドイツ語のアドリブでやったんですよ!)まず光男君がびっくりして私の顔を見つめた。神父さんはもっとびっくりしたに違いない。韓国人か中国人かわからない中年のジーパン男の言葉が、グサッと神父の胸に刺さった確かな手ごたえを感じた。彼がそんな言葉を面と向かって吐く男に出会ったのは生まれて初めてのことだったろう。 

応接間に案内された。修行のため、イタリアから夜汽車で今朝ベルリンに着いたこと。聖書にある通り、一文無しで福音を告げるためにやってきたこと。神父志願の神学生の卵であることなどを話すと、主任司祭は真剣に耳を傾けた。時計を見ると昼をまわっていた。「お腹が空いているだろう。昼はどうするの?」と聞かれた。「神様任せです。」と答えると、女中さんに命じて三人で昼食ということになった。内心、「やったー!神様ありがとう!」と叫んだ。

無意識のうちにとは言え、たった1マルクであれ、お金を身につけて、それを最後のよりどころとしていた限り、神様は遠くの天の果てで手をこまねいて居られた。それが、最後の1マルクも捨てて、神様以外により頼むものが全くなくなるやいなや、神様は私のすぐそばまで降りてきて、跪いて給仕して下さることが身に染みてよくわかった。

(つづく)

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★ 〔速報〕 カトリック東京新大司教着座

2017-12-17 11:44:46 | ★ 日記 ・ 小話

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〔速報〕 新時代の到来

カトリック東京大司教着座

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スライドショーで・・・

2017年12月16日(土)東京カテドラルの空は快晴

定刻11時に式は始まった

実に大勢の司祭たちが共同司式に集まった。私の同僚たちもその中に居るが、私は写真を撮ることを優先して、敢えてこの列には加わらなかった。 

高松の神学校を出たラウル神父は、新潟教区の菊地司教のもとで司教座聖堂(カテドラル)の主任司祭を長く勤めている。教区内での新求道共同体の活動は菊地司教のもとでは自由だった。

川村神父様も東京教区の司祭でありながら、私たちの共同体の祭儀の司式を長年支えて下さった。

ミトラ(司教の帽子)の数を数えると、現役の日本の全司教が集まったこらしいとがわかる。

高松の諏訪司教様はこの写真を撮っているのが誰か分かったみたい。

駐日バチカン大使は今日大役を担って式に参加する

バクルス(司教の杖)を持っているのが今日までの岡田大司教。司教の列の最後が今日東京大司教として着座する菊地功司教

長い行列はいまカテドラルに吸い込まれていく

カテドラルの内部は通勤電車並みの超満員だった

バチカン大使が教皇フランシスコの勅書を日本語で読み上げ、それが祭壇脇のモニターに映し出される。

岡田大司教の退任と菊地司教の着座が告げられる。

菊地司教は新潟教区の司教の任を解かれ、東京の大司教に任じられる

教皇フランシスコの菊池司教への任務の委託が述べられ、

続いて教皇の任命書が読み上げられた。

読み終わると聖堂は割れるような拍手で満たされた。

岡田前大司教から牧者の権威の象徴である杖が菊地新大司教に渡される瞬間

杖は新しい牧者の手に入った。新しい時代の幕開けの瞬間だ。

菊地功大司教様、着座おめでとうございます!

 

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★ アナの結婚式の場合

2017-12-15 00:24:37 | ★ キコの壁画

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アナの結婚式の場合

=神様は忠実=

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 ちょうど2年前、2015年の12月の今ごろ、私は一人で慣れない仕事に忙殺され、疲労困憊していた。キコの率いる総勢200人のオーケストラ、コーラス、スタッフを迎えて、2016年5月初めに福島、郡山、東京はサントリーホールで彼のシンフォニー「罪の無い人々の苦しみ」のツアーを実現するための準備に追われていたのだった。会場の予約、集客、一行の宿泊、食事、バス会社との折衝、リハーサル会場の手配、etc. etc. 。信頼できる秘書が絶対に必要だった。その時、忽然と現れたのが、以後私の右腕となったアンナ(本当の発音はアナ)だった。

 

彼女は私の住まいの至近距離にあるアパートに移り住んで私を手伝い、キコの一行が日本に着くと、成田のリハーサル会場から、福島、郡山、東京と、ずっと行動を共にしてくれた。私の仕事はもはや彼女無しには回らなかった。

上の写真は二年前のアナ。その彼女のことは、2015年12月22日のブログ「神様の素敵なクリスマスプレゼント」=やっと秘書を見つけました=に詳しく書いたので、よろしかったらこの先を読む前に以下のURLで見て下さい。

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/666cf4e95bbc6b8eb7f3bf568f9753ca

 ところで、私は彼女の献身的な働きに報酬を払わなかった。11人兄弟の真ん中の彼女は、自立心旺盛で、自分の自由になるお金を確保するために様々なアルバイトをしていた。その彼女に他のアルバイトをさせずコンサートのためにタダ働きさせる私の方針を社会的不正義として非難する者も周りにいたが、キコのシンフォニーツアーを実現させる仕事は神様の仕事で、それには無償の奉仕が相応しいと考える私は意に介さなかった。これはこの世的にお金でかたをつけてチャラにすべき類の仕事ではない。神様自身が100倍にして報いて下さってはじめて絵になる、と私は考えたのだ。

事実、神様は私の期待を裏切らなかった。宣教家族の一員として両親と共に新潟で育った彼女には当時恋人がいなかった。それが、シンフォニーツアーの仕事を東京でしている半年の間に、東京の宣教家族の10人兄弟の2番目のマティアスと巡り合ったのだ。勿論、ここに来るまで、アナにはいろいろな歴史があっただろう。

あれからちょうど2年。二人は先日東京のカトリック調布教会でめでたく結婚式をあげた。神様は見事に100倍をもって彼女の無償奉仕に報われたではないか。神様は「忠実な方」であることが見事に証明された。

さて、結婚式の共同司式司祭として調布教会に行ってビックリ仰天。なんと、キコのオーケストラのコンサートマスターがニコニコして挨拶してくれたのだ。聞くと、新郎のマティアスの父のマウロが彼女をアナの証人としてわざわざスペインから招待したのだそうだ。マウロはシンフォニーツアーのロジスティック担当としてホテルとの折衝、部屋割りや食事のメニューの件などでアナと一緒に働き、その時にオーケストラの彼女と親しくなったらしい。そのマウロとアナが義理の親娘になったのも不思議なご縁だ。

キコのシンフォニーを客席で聴いた人は思い出すだろう。2年前の5月、彼女は指揮者の左脇で臨月の大きなお腹を堂々と突き出してファーストバイオリンを弾いていたことを。

この日のアナは輝いて見えた

結婚式とミサが終わると、参列者が祭壇の周りで輪になって踊るのは彼らの習慣だ。

私がズームレンズで追っているのも知らずに、子供に話しかけるアナ。

銀座のラ・ボエームの広間を借り切った披露宴で自分たちの席に落ち着いたアナとマティアス。彼らも、両方の両親の例に倣って、8人、10人、13人の子供を産み育てるカトリックの大家族を形成するだろうか。

このブログは単なる結婚式の報告ではない。私はそこにメッセージを籠めたつもりだ。それは、確かに神様はいる。そして、神様はご自分の言葉に対して忠実だ、というのがその一つ。

もう一つは、大家族には神様の祝福がある、と言う事だ。

中国は国策として一人っ子政策を導入し、今その矛盾と過ちのしっぺ返しに直面している。慌てて政策を転換し、二人目を産んでも法の制裁を受けることはなくなったが、もう手遅れだ。日本や他の先進国と同様に、出産と子育ての負担から解放され、その結果生まれた経済的余裕を夫婦のエゴと欲望の充足に当てる自由を一度味わってしまったあとでは、ピルや避妊と堕胎をやめて子沢山の家族を作るなんてことは、もはや絶対にあり得ない。敢えて大家族を営むためには、強い信仰と神の計らいに対する無条件の信頼と委託が不可欠なのだ。

聖教皇ヨハネパウロ2世がカトリック教会としてははじめて、プロテスタントの牧師家族のように、子沢山の家族を宣教家族として全世界に派遣するようになってからもう20年は経っただろうか。日本にも25家族前後が全国に散らばっている。

第1世代の子供たちは、日本で生まれたのもふくめて相次いで結婚適齢期だ。マティアス10人兄弟、アナ11人兄弟、からもわかる通り、多くは超子沢山の家庭に生まれた。ほとんどがスペイン人かイタリア人だ。そして、彼ら同志で次々と結婚していく。今婚約中のカップルは来年結婚ラッシュを演じるだろう。

この世代の間に20数家族の子供たちがほとんどすべて親戚になる。すると、その次の代の子供たちはほとんど血のつながった親戚になる。血が濃くなりすぎないためには、必然的に日本人と結婚することになるだろう。これも日本の社会に新しい時代をもたらすに違いない。

最近キコは中国を訪れた。北京の大司教に会ったそうだ。キコの第2作目のシンフォニーの完成は間近だという。大司教はキコを招いてペキンオリンピックのメインスタジアム「鳥の巣」(収容人数9万1000人)で披露してはどうかと提案したという。中国なら、スタジアムを人海戦術で満席にすることはたやすいのだそうだ。無神論的唯物論であるはずの共産主義中国が、その上から下までの汚職の対策と少子化による国の破綻を克服するために、あえてキコの運動のようなキリスト教の導入に踏み切る日があるかもしれないと思った。 

メリークリスマス!

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★ ヘンシェルカルテットのコンサート無事終了

2017-12-09 03:36:37 | ★ ヘンシェルカルテット

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ヘンシェルカルテットのコンサート無事終了

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10月23日から私のブログは止まったままだった。私が6週間以上もブログを更新しなかったのは今回が初めてではないだろうか。それほど準備に打ち込んだのだったが、11月14日、トッパンホールでのコンサートは無事終了した。しかし、後始末もそこそこに東京を離れたりで、やっと今その報告を書いている。

本番当日を振り返ると、6時半の開場とともに私はロビーの受付のあたりに待機して、来賓や知人の応対に追われていた。

開演のベルが鳴ってもホールに入りそびれ、一曲目のメンデルスゾーンは聞きそびれてしまった。仕方なく舞台の袖から小窓越しに会場を見ると、まずまずの大入りでホッと胸をなでおろした。

2曲目の後の休憩をはさんで、3曲目の有名なドヴォルザークの弦楽四重奏曲「アメリカ」も、予定外のアンコール「タランテラ」も会場を沸かせた。

トッパンホール本番の演奏風景 

しかし、何と言っても私にとって気になっていたのは、2曲目の「罪の無い人々の苦しみ」だった。 

前日に私は市ヶ谷のセルバンテス(スペイン文化会館)で行われたリハーサルを聴いていたから、その出来栄えに確信を持っていたが、思った通り、本番では聴衆が深い感動に包まれていくのを肌で感じることができた。ヘンシェルカルテットの演奏技術もさることながら、曲の醸し出す霊的な響きというか、作曲者キコの魂の叫びというか、不思議な力が聴衆を魅了したのでなかったろうか。

リハーサル風景。4人それぞれにリラックスした服装で曲の仕上がりを確認していた。

モニカの弟、第1バイオリンのクリスチャンは有名なシュトラデヴァリウスを弾いているが、姉のモニカのヴィオラも名前の付いた超高価な名器だ。リハーサル中に力が入ると時に厳しい表情を見せる彼女だが、楽器を置くとまた普段の優しい表情に戻るのだった。

上野は池之端のお店での打ち上げ リラックスしたモニカと澤学長

ヘンシェルカルテット、澤夫妻、お友達・・・

カルテットのリーダーのモニカとの付き合いも、かれこれ20年近くになるか。当時彼らは4人ともまだ独身だった。高松の神学校の資金集めのために関西と東京でチャリティーコンサートツアーを組んだのも一度ではなかった。直近の9年間、主にローマに住んでいる私は、モニカから招待状が来ると、ドイツの地方都市での演奏会にも出かけたし、ベネディクト16世教皇の霊名の祝い日には、バチカン宮殿での彼らの御前コンサートにも招かれたことはブログにも書いたが、 それは下のリンクを見れば出ている。 

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/e69be491c1e97e6b6b6f2e989e57c243

原曲のシンフォニーは、弦楽器、管楽器、パーカッション、ハープ、それにピアノも加わって90人ほど、十数種類の楽器に80人のコーラスが加わって、ステージいっぱいに、時にはフォルティッシモで展開されるが、それをヘンシェルカルテットはたった3種類の弦楽器、4人で演奏し切る。

その違いを私は、大カンバスに描かれた極彩色の油絵と一枚の小さな墨絵を比べるようなものだと思った。すべての虚飾を削ぎ落して、画想の精髄に直截に迫る高い精神性の描写をそこに感じ取ることが出来ると言ってもいいかもしれない。或いは、なんでも120パーセント表現する歌と踊りで展開するオペラと、極限まで動きを押さえた能の舞台の違いとも言えるだろうか。

ある人は、サントリーホールでのシンフォニーも良かったが、トッパンホールで聴いたカルテットの方がもっと深く心にしみわたるものがあった、と評してくれた。魂に呼びかける霊感のようなものを言うのだろうか。

当初、モニカは私の提案にやや懐疑的だった。世界の演奏家のトップレベルに昇り詰めた彼らが、評価の定着したクラシックの名曲のみに特化した演奏活動の中、東京という大事な舞台で、無名の作曲家のシンフォニーを無名の編曲者が直した曲を、プロの音楽評論家も聴きに来ているなかで初演するというのは、確かに彼らのキャリアーに関わるリスクの高い実験には違いなかった。

しかし、来日1か月前、ようやく仕上がったカルテット版の楽譜を受け取って初めて4人で合わせた後には、彼らの反応は明らかに変化していた。それは、モニカが「東京のトッパンホールでこの曲の世界初演をすることは、自分たちの名誉と喜びだ」というメールを返してきたことからわかった。

また、演奏後ドイツに帰国してからのメールには、「自分たちの演奏活動のキャリアーの中で、今回のトッパンホールでの演奏は、心に残る何か不思議な特別な体験だった」と書かれていた。

キコのシンフォニー「罪の無い人々の苦しみ」にユダヤ人が敏感に反応したことは既にどこかに書いた。前の大戦中に彼らが体験したナチスのホロコーストの苦しみに思いが直結したからだ。6年前の東日本大震災の被災者たちも、何故か思わず感動の涙を流した。音楽を通じて伝わってくるものの中に、首都圏の際限のないエネルギー消費の驕り高ぶりの罪の結果を、なぜ罪の無い福島の人々が被り、償わなければならないのか、という不条理に心を揺さぶられたからかもしれない。

キコの「罪の無い人々の苦しみ」というテーマは、人類の歴史と共に常に存在したこの「なぜ?」という実存的問いに私たちを向き合わせる力を持っている。

この曲のテーマは、全く罪も穢れもない神の子キリストが、天の父なる神のみ旨によって、人類の全ての罪と不法行為を償い、受難と苦しみと死を通して全人類を贖い(あがない)、救い、復活と永遠の命に導くという、救済のドラマを描き出すことだった。

それは、神が人類を「悪を選び罪に落ちる可能性」のもとに創造したことの責任を取り、その落とし前をつけるために、死ぬことの出来ない神が死すべき運命のもとにある人間に身をやつし、死んで自分の命の代償として死を打ち滅ぼして、復活の命を人類に与えるという神の無償の愛のドラマを、この全5楽章に込めたものだった。

受難を前にしてのキリストの懊悩(第1楽章ゲッセマネ)、捕縛、拷問、十字架上の極限の苦しみ(第2楽章嘆き)、イエスの祈り(第3楽章彼らをゆるしたまえ)、その足元に佇み同じ苦しみにの剣に心を刺し貫かれた聖母マリアの悲嘆(第4楽章つるぎ)、そして死の後に続く復活と栄光の喜びの爆発(第5楽章よみがえり)で曲は終わる。

私は預言者ではないが、この曲はモーツァルトの「レクイエム」のように、バッハの「マタイ受難曲」のように、後の時代まで演奏され続けるだろうと確信する。

モニカは、「機会があったらまた一緒にやろうね」と言ったが、あと一週間で78歳になる私に、そんな力がまだ残っているだろうか?とふと思った。 

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