:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 教皇のお話

2008-09-27 14:31:54 | ★ 新求道共同体

《 教皇の言葉 》

福音を告げることは全キリスト者の務め

=「新求道期間の道」の謁見で=

 

(バチカン広報誌 “L’OSSERVATORE ROMANO” 1月17-18日号より)

 

 

 

福音を告げ知らせることは、「洗礼を受けたこと自体から生ずる全キリスト者の責務である」ことを、教皇は去る117日(月)の朝、パウロ6世謁見場で行われた「新求道期間の道」のメンバーに対する謁見の際、出席者たちに想起するよう促した。

親愛なる友の皆さん!

あなたたちを迎え、心からの挨拶を送ることは私の大きな喜びであります。私に対する挨拶の言葉を述べ、この会場の出席者を紹介してくれた「新求道期間の道」の創始者キコ・アルゲリオ氏とカルメン・エルナンデス女史に、そしてマリオ・ぺッツィ神父に対しても、特別な挨拶を送りたいと思います。また、ここに集う司祭、神学生、宣教家族、そして「道」のメンバーたちにも深い愛情をこめて挨拶を送ります。

今日の出会いを与えて下さった主に感謝します。あなたたちは、復活したキリストが弟子たちに与えた「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16章15節)という命令を真摯に受け止めて、ここでペトロの後継者との絆を新たにしています。

40年以上前から、「新求道期間の道」は、司教区において、また小教区において、主が私たちのただ中に来られ、私たちの一人として生まれ、御自分の受肉を通してもたらされた神の命、天上の命を深く味わうことを助け、洗礼の豊かさを段階的かつ徹底的に再発見することを通して、キリスト教入信を活性化し強化することに貢献しました。教会に与えられたこの神の賜物は「キリスト教入信と信仰の継続養成の一つの方式として司教に提供される」ものです(規約第1条第2項)。私の前任者、神の僕パウロ6世が、1974年にあなたたちと初めて出会った時あなたたちに想起させたように、このような奉仕は「初代教会において洗礼の準備期間中に実現された信仰の成熟と深まりを、今日のキリスト教共同体において再現することができる」のです。(パウロ6世の教え xii [1974], 406)

新求道期間の道の規約の起草は、数年間を費やして順調に進められ、適切な《試行》期間を経て、2008年6月に最終的に承認されました。さらに、もう一つの重要な一歩として、《新求道期間の道の要理教授指導要綱》が聖座の関係各省の検討を経て、このたび正式に承認されました。主は、教会のこれらの認証によって、「道」の貴重さを今日新たに確認し、あらためてそれをあなた方に託します。あなた方は、聖座と教会の牧者たちに対する子供のような従順のうちに、新たな熱情と躍動心をもって、洗礼の恵の根本的な喜ばしい再発見と、新しい福音化のために貢献するでしょう。教会は「新求道期間の道」の中に聖霊によって引き起こされた特別な恵みを認めました。そこには教会の体の中に大きな調和のうちに自然に溶け込む傾きが認められます。あなた方が、このような光のもとに、牧者たちや、あなたたちがそこで働くように召された多種多様な地方教会とその要素との間に、常に深い交わりを持つように努めることを勧めます。事実、イエスの弟子たちの兄弟的交わりは、イエスキリストの名の第一の、そして最大の証しでした。

5つの大陸で既に働いている約600の宣教家族と一体となって、大いなる寛大さをもって協力を申し出て宣教に旅立っていく200組以上の新しい家族を、全世界の様々な場所に今日派遣することができることを、ことのほか嬉しく思います。親愛なる家族の皆さん、あなたたちが恵として頂いた信仰が、人々に天国への道を示す燭台の上に置かれたあの光のようになりますように。同じ気持ちで、13の《ミッシオネ・アド・ジェンテス》(異教徒への宣教団)を様々な国の著しく世俗化された地域や、キリストのメッセージがまだ届いていない場所へ、新しい教会的現存をうち立てるために派遣します。あなたたちは、自分たちの傍に復活したキリストの生き生きとした現存と教皇の祈りを感じ、また多くの兄弟たちが常にともに居ることを感じることができるでしょう。

愛情をこめて、ヨーロッパ各地の《レデンプトーリスマーテル》神学院からやってきた司祭達と、ここに集う2000人以上の神学生達に挨拶を送ります。親愛なる皆さん、あなたたちは、自分の洗礼の恵の再発見から生まれる善い実りの特別に雄弁な印です。私たちはあなたたちを特別な希望の眼差しで見守っています。あなたたちは、主に出会い彼に奉仕することの喜びをこの世に伝えることのできる、キリストとその教会に恋した司祭達です。

また、旅人のカテキスタたち、並びにローマとラツィオ地方の新求道共同体のカテキスタたち、そして特別な愛をこめて《COMMUNITATES IN MISSIONEM》(宣教する共同体)に挨拶を送ります。あなたたちは、敢えて遠く不便なところへ(共同体ごと)移住して、困難のうちにあるその地の小教区を助け、迷える子羊を探し、それをキリストの囲いへ連れ戻す為に、出身母体の共同体の安定を捨てました。あなたたちが苦しみと無味乾燥さを味わう時は、十字架のキリストの受難と、信仰と真理から遠ざかっている多くの兄弟たちのところに行き彼らを父の家に連れ戻したいというキリストの願いとに結ばれていることを思い出して下さい。

私が 神のみ言葉Verbum Dominiという使徒的勧告の中で書いたように、《教会の宣教活動は、教会生活の中におけるなにか任意で付随的な事柄だと考えることは出来ません。それは、私たちの生活全体にみ言葉が浸透するような形でキリストと一致するために、聖霊に身を委ねることであります。》(No.93)神の民全体は《派遣された》民であり、福音を宣べ伝えることは洗礼の結果としてすべてのキリスト者に課された責務であります。(同94参照)使徒的勧告 神のみ言葉 にとどまって、特にその文書の第3部の《教会の使命、それは世界に神のみ言葉を告げること》(No.90-98)について述べられているところを黙想してください。親愛なる友の皆さん、主イエスの救いの切望と、彼が全教会に託した使命に参加する心を持ちましょう。あなたたちに「道」のインスピレーションを与え、ナザレの聖家族をあなたたちの共同体のモデルとして与えられた祝せられた処女マリアが、あなたたちのために謙遜と素朴さと賛美のうちに信仰を生きることができるように執り成し、あなたたちの宣教に常に伴って下さいますように。ここに集うあなたたち皆と、世界に広がる「新求道期間の道」の全てのメンバーの上に与える私の心からの祝福も、あなたたちの支えとなりますように。

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★ 教皇、3組の宣教家族を日本に派遣

2008-09-23 14:30:34 | ★ 新求道共同体

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教皇、3組の宣教家族を日本に派遣

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去る1月17日(月)、教皇ベネディクト16世は、1万人収容のバチカンの「サラ・ネルビ」(パウロ6世謁見場)を一杯にした新求道共同体のメンバーを謁見した。それは、230組の宣教家族を自らの手で全世界に派遣する式典を主催するためだった。今回は日本に3組の宣教家族が派遣された。

 

定刻に壇上に姿を現した教皇。後ろの絵は新求道期間の「道」の創始者キコの描いたマドンナ。

 

ギターをかき鳴らしながら歌うキコとそれに聞き入る教皇。

 

式典に花を添えるため演奏された、キコの処女作のシンフォニーに耳を傾ける教皇。

 

キリストの受難の時、聖母の胸を貫いた剣をモチーフにしたシンフォニーを奏でるオーケストラ。

 

開場を埋め尽くした800あまりの宣教家族。2000人の神学生。数百人の司祭。78人のレデンプトーリスマーテル神学院の院長たち。残りは数千人の新求道期間の道のメンバーたち。

 

ホールの前3分の1は宣教家族たち。

 

教皇の手から渡される銀の十字架。「この十字架を担って日々宣教の業に励むように」という意味を込めて、各宣教家族に一つずつ渡される。

この日の教皇の説教、信徒省のリルコ枢機卿の重大な発表はいま翻訳中。出来次第全文を載せましょう。

《つづく》

 

 

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★ インカルチュレーション =宗教の文化への受肉=

2008-09-19 14:29:12 | ★ アーミッシュ

 

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★ インカルチュレーション

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先の ★ いま明かす、アーミッシュに拘った本当の訳(その-2) の中で、私はインカルチュレーション」 

宗教の文化への受肉)=という「流行語」が、教会の権威を代表する責任ある人々の間で、慎重に正しく定義されることもないまま、自説を正当化し権威づけるために、我田引水、恣意的に

用いられ、混乱を招いているという感想を述べました。

 

そして、

不遜にも

「それなら私が正しく定義してあげようではないか」と大言壮語し、実際に着手しましたが、拙速に走ってはかえって問題を複雑にするおそれがある一方で、ここで長考一番、慎重に時間をかけて考えていてはブログか停滞して先に進めない、というジレンマに陥りました。

 

そんなところへ、聖座(バチカン)が近い将来「インカルチュレーション」に関連する「回勅」乃至は「教書」の類を発表する準備を進めているらしい、と言う情報 

 

(裏を取って確認したわけではまだないのですが) 

が入りました。恐らく聖座も今の混乱を放置することを望まれなかったのだろうと思います。

 

渡りに船、とはまさにこのような場合のための言葉でしょう。さっそく前言を撤回し、無謀な試みを引っ込めることといたします。

 

 

 ローマが定義するらしいという噂さだけでも抑止力が働き、勝手な用語の乱用、独り歩きが少しでも控えられればもうそれで十分ではありませんか。

 

 

"Roma locutus, causa finita

 est

." 聖座がもの申せば、論争は終焉する)と諺にもある通り、ローマの裁定を待てばよいわけですから、私が拙速に走って怪我をする必要もないわけです。

その代わりに、と言っては何ですが、定義自体は聖座に譲るとして、一足飛びに地方教会の権威者の発言のなかで「おや?」、「それはちょっとおかしくない???」、と平素私が疑問に思ってきた幾つかの点について、自由に、順不同にのべて見たいと思います。まず手始めに:

 

★ インカルチュレーションと「二段階宣教論」

劇的なキリスト教離れと、急速な回教圏化への道を突き進んでいる「元キリスト教圏ヨーロッパ」は、もともと2000年のキリスト教的文化の土台がある世界のことだから、再宣教の手段として有効であることが既に検証されている新しいカリスマ-たとえば「新求道共同体」-が、いきなりキリスト教の本質、ギリシャ語で「ケリグマ」と呼ばれるもの、をぶつけたとしても大きな違和感はない(一段階宣教論)

また、16世紀植民地主義時代に発見された南北アメリカ、アフリカなどの新大陸は、もともと未開な世界だったから(それは思い上がりだろうが)、いきなり「ケリグマ」をぶつけることに違和感はなかった(一段階宣教論)

しかし、キリスト教の宣教活動の主舞台として「第3千年紀はアジアの時代」と言われる時、そのアジアの多くの部分はキリスト教にとっては処女地であり、しかもそこには歴史と伝統を誇る偉大な文化と宗教が先に存在する世界である。

インドのバラモン教ヒンズー教は言うに及ばず、チベットや東南アジアの小乗仏教、中国や韓国の儒教や道教、日本の神道や大乗仏教など、偉大な文化に受肉した固有の伝統宗教が既に先に存在する。それらの先輩達に敬意を表し、彼らが産んだ偉大な文化に自ら進んで受肉しながら、時間をかけて次第にその世界に受容されていくのが大切。諸宗教対話を進め、第一段階として、よき隣人となり、世界平和や、社会正義や、人権や、環境問題や、エコロジー、etc. 、同じ土俵に立って手を取り合える分野で共棲して、溶け込む。自らがまずその土地の文化にインカルチュレートして、十分それが定着したその上で、「第2段階として」キリスト教固有の教理、信仰の真髄、を徐々に前面に出して理解を求める二段階宣教論」(間接宣教)

一見、極めて謙虚で、常識的で、賢明で、したたかな、誰でも受け入れられやすいよい戦略のようではないか。

いつのころからか、おおざっぱに言って、インドから東のカトリックの地方教会指導者の多くが、上のような宣教論イデオロギーに染まっていったように私には思える。

「新求道共同体」のように、また「アーミッシュ」のように、「西暦紀元の最初の3-4世紀の初代キリスト教会」のように、つまり、ナザレのイエスが自身と、キリストの使徒たちと、その直接の後継者たちがやったように、ひたすら直接に福音の真髄をぶつける、「ケリグマ」を説く、宣教の「一段階宣教論」(直接宣教)は、どうやらアジアの地方教会の指導者達の多くが採用してるイデオロギーには非常にシャープなアレルギー反応を起こすもののようである。

《 つづく 》

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★ 「インカルチュレーション」 (その-1)

2008-09-15 14:28:24 | ★ インカルチュレーション



イスラエルで見つけた野生の孔雀

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★ 「インカルチュレーション」 (その-1)

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問題提起!

「キリスト教が、ナザレのイエスの平和の教えを裏切って、戦争の一方の当事者の後ろ盾としての宗教に変質してしまったのは、コンスタンチン大帝がキリスト教をローマ帝国の国教扱いにした時期と明らかに符合する。
キリスト教は、その時を境にして、ローマ帝国の中で不協和音を奏でる異分子、気持ちよく共生できない嫌な存在、であることをやめて、ローマ帝国の文化(カルチャー)に滑らかに融合・土着化した。つまり、現代的なカトリック用語で言えば、『インカルチュレート』したのであった。」
と、こう書けば、「たまには奴もまともなことを言うではないか!」と褒めていただけるであろうか?
ところが・・・、である。
まことに残念ながら、私は、上のいわば定説とも言うべきものの捉えかたに、異議を差し挟むのである。
この定説は誤っている。そう私は断言できる。何故か?
それは、追い追い説明するとして、今はただ、上のような「インカルチュレーション」の言葉の誤った恣意的な使い方を、もしここで許してしまったら、第三千年紀におけるキリスト教のアジアへの、そして日本へのインカルチュレーションを論じるとき、再び、人々を同じとんでもない重大な過ちに導き入れる危険性が予想される、とだけ言いたいのである。

キリスト教のローマ帝国による国教化は、どのようにして進められたのか?

キリスト教徒ヘレナを母とするコンスタンティヌスは、一時期ミトラ教に傾倒したが、それ以前に信じていた宗教から身の破滅を予言され、無神論者になりかけていたと言われる。
コンスタンティヌスは、イタリア・北アフリカを制圧していた簒奪皇帝マクセンティウスを312年にミルウィウス橋の戦いで破り、ローマへ入城、ローマ皇帝(西の正帝)となった。
通俗的に流布している歴史によれば、この戦いの前にコンスタンティヌスは光り輝く十字架(キリストを意味する Ρ と Χ の組み文字という説もある)と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見たため、十字架を旗印とし、兵士の盾にその印を描かせて戦い、そして勝利した。
十字架がキリスト教の世界で広く重視されるようになったのはこの出来事以降のことであるらしい。ネロ皇帝による禁止以来、迫害され続けてきたキリスト教徒の間では、キリストの処刑の道具を信仰のシンボルとして用いることはそれまでなかった。
コンスタンティヌスは帝国の統一を維持するため、宗教面では寛容な政策を採り、313年ミラノ勅令によってキリスト教を公認し、後に国教にまでしたことは、後年キリスト教がローマ帝国領であったヨーロッパに浸透する決定的なきっかけとなった。しかし、それはまた、キリスト教の教義決定に異教徒の皇帝の介入を許す事態にもつながっていく。
コンスタンティヌス自身は、337年に小アジアのニコメディアで死去する直前まで、改宗して洗礼を受けることはなかったのである。
彼本人は、キリスト教とは異なり、「太陽神」を「御父」とした。
321年、キリスト教徒が主イエスの復活を祝う「週の初めの日」を「太陽を敬うべき日」と定めた。サンデー、つまり日曜日の起源である。さらに、太陽神の誕生日(12月25日)をキリストの誕生祝日に置き換えた。(実際のイエスの誕生日は5月頃であるという説もある。)
クリスマスの起原は太陽神崇拝にあるのであって、12月25日を祝う習慣は聖書の教えにはない。コンスタンティヌスはキリストの誕生日を「征服されざる太陽の誕生日」を祝うローマの異教の祭りの日と同じ日付にすることによって、異教徒を名目上の(つまり、回心の内実を伴わない)大量改宗に導くことに道を開いた。また、12月24日までの1週間は、ローマの農耕の神をたたえるサトゥルナリア祭で、そこからプレセントや食事の習慣がキリスト教に紛れ込んだ。このように、クリスマスが異教に起源を持っている事は広く認められていたので、17世紀ごろのイングランドやアメリカの植民地ではクリスマスを祝う事が禁じられていたという記録もある。
324年、コンスタンティヌスは東方の正帝リキニウスを破り、全ローマ帝国の単独皇帝となる。翌325年、キリスト教徒間の教義論争を解決するために初の公会議である第1ニケア公会議を開催、アリウス派を異端と決定し、こうして、皇帝がキリスト教の教義決定に介入する先例を作った。十字架が象徴として認知されたのも、「新約聖書」が現在の形で成立したのもこの頃である。このように、異教徒の皇帝が教義決定というようなキリスト教の重要な内部問題に介入すると言う事態が、ローマ帝国によるキリスト教受容の背景にあった。

「インカルチュレーション?」 (土着化、受肉)

問題は、それをもってキリスト教のローマ帝国文化へのインカルチュレーションと短絡的に言ってしまっていいものかどうかである?
もちろん、答えは断じて「ノー!」でなければならない。
先ずもって、コンスタンティヌスが「光り輝く十字架」と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見た、と言う話を、無批判に史実として信じ、受け入れることが出来るだろうか?
現代人の合理的理性から言って、それはとても無理な話である。
百歩譲って、仮に彼がそういう白昼夢を見たというのが事実だったとしても、それを、キリスト教の神からのものだなどと言うのは、とんでもない話である。他の異教の神々ならいざ知らず、ナザレのイエスの天の御父は、そんな子供だましを弄ぶ神であるわけがない。
「友のために命を捨てるほど大いなる愛はない」と言う自分の教えを、生涯の最後の瞬間に十字架上の壮絶な死をもって体現して見せたナザレのイエスが、その愛の印である十字架、罪によって引き裂かれた神と人類との間の和解と一致の印である十字架を、ローマ帝国の覇権をめぐって野蛮な血なまぐさい戦争をするプロの殺人集団の旗印にすることを、神が許す、ましてや望む、ことなど絶対に有り得ないではないか。
元を糾せば、キリスト教はユダヤ教から派生したものである。旧約聖書において、既にモーゼの十戒の中に「殺してはならない」とあった。イザヤ書には「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と言う理想が掲げられてもいた。類似の表現は旧約聖書の随所に見られるのである。
ナザレのイエスは、そうしたユダヤ的精神風土、霊的遺産の完成者であった。
神が、殺人で生計を立てる職業軍人の軍旗の印としてイエスの十字架を用いよと告げることは、まさにイエスが命がけで説いた愛の教えを否定し、神が自らを冒涜し、神自身が自己矛盾を犯す行為に他ならないではないか。
あれは、神からではなく、人間の勝者、権力者によって、自らの行為の権威付けに、後付けで捏造された神話であって、無論史実ではなく、その背景には、別の様々な事情があったに違いないと考えるのが常識であろう。
当時のローマ帝国内では、既に300年の長きに亘って、ユダヤ教から派生したキリスト教が、危険分子として弾圧と迫害の対象とされてきた。
なぜ危険分子か?
ローマ皇帝を神として認めず、ローマ帝国の伝統的神々の偶像崇拝を拒否し、イエス・キリストへの信仰を守るためなら拷問も、十字架上の死も、貴族の戯れのショーのため円形競技場で野獣の餌食にされることすらも恐れない貧しい民衆(中には少数ながら、後の皇帝の母へレナのような高貴の出の人も混じってはいたが)の存在は、帝国の安定を脅かす危険な要素であった。
迫害すればするほど、燎原の火のごとく増え広まっていくキリスト教徒の群れをコントロールするには、ただ弾圧をエスカレートさせればよいというものではなかった。狡知に長けた政略家なら、むしろ、政策を転換し、キリスト教を積極的に帝国のシステムの中に取り込み、「去勢」し、骨抜きの体たらくにして、思い通りに制御する方が得策であることに気付くであろう。そのアイディアがコンスタンティヌスの頭に閃いたのであった。そして、その政策転換の権威付けとして「光り輝く十字架」と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見た、と言う神話が作り出されたのに違いないと私は考える。そして、その政策転換が、簒奪皇帝マクセンティウスを312年にミルウィウス橋の戦いで破る上で決定的な役割を演じたものと考えるべきだろう。
神話の部分はさておき、では、実際はどうだったのだろうか。
アダムが眠っている間に、神がそのわき腹の肋骨を抜き取って、それで人類の母、「エヴァ」を形作られたと旧約聖書の創世記にある。
十字架上のキリストの開かれたわき腹から血と水と共に生まれた「教会」(ラテン系の言語では女性名詞)は、キリストの花嫁(浄配)と呼ばれる。異教の神々を拝んでいた粗暴なローマ皇帝が、自分の好きなように何をしてもいいと思って虐げてきた「はした女」にも等しい「帝国の底辺に喘ぐ貧しい人々」が、自分を捨ててキリスト教に帰依し、「キリストの花嫁」、「キリストの妻」となって、最早自分の意のままにならなくなった。これは皇帝のプライドをいたく傷つける出来事であったに違いない。実際面でも、税収の減少や、秩序のほころび、反乱の恐れさえあったろう。
色男「キリスト」に対する嫉妬とライバル意識から、皇帝は一度自分を捨てた「女」=「貧しい民衆」=「教会」を奪還し、手篭めにして再び自分の思い通りにしたい、と言うのが、ミラノ勅令の歴史的な真実ではなかったろうか。
皇帝は、一旦キリストに靡いた女(教会)が、再び自分の腕の中に戻ってくることを条件に、褒美として、豪邸を与え、きらびやかな衣装を纏わせ、それまでの「側女たち」は退け、彼女を「女神」として祭り上げ、偶像の神々の最高神祇官(さいこうじんぎかん)の称号を彼女(教会)の司祭たちの頭に贈ることを約束した。
「豪邸を与え」:(翻訳すると)皇帝による国教化に同意したキリスト教会に、褒美として「バジリカ」を与えた。バジリカとは、ローマの元老院などが、帝国の儀式や集会に使っていた方形の大型建造物である。今でも、ローマの遺跡、フォロ・ロマーノに行けば同種の建物を見ることが出来る。バチカンのサン・ピエトロ寺院を始めとして、サン・ジョヴァンニ・ラテラノ教会など、主だった大聖堂がバジリカと呼ばれる所以である。
「きらびやかな衣装を纏わせ」:(翻訳すると)カトリック聖職者の祭服はローマの元老院の議員たちの礼服を模したものから始まったと言われる。
「それまでの側女たちを退け、彼女を『女神』として祭り上げ」:(翻訳すると)皇帝が拝み、市民にも拝むことを命じてきたギリシャ・ローマの神々を退け、その神殿を破壊し、破壊した神殿の石柱を再利用してそこにキリスト教の教会を建て、祭壇を築き、十字架を祀った。時には、異教の神殿をそのまま使って、偶像を取り除いた後に十字架を安置するだけの略式の宗旨替えもあった。
「最高神祇官の称号を彼女(教会)の司祭たちの頭に贈った」:(翻訳すると)キリストの12使徒の後継者たちとその協力者の司祭たちに、古代ローマの国家の神官職を与えた。以来、ローマの司教は「教皇」(法王)又は(ポンティフェクス・マクシムス、Pontifex Maximus)と呼ばれてきたが、それは、本来は、偶像の神々を拝んできた共和政ローマにおけるすべての神官の長として神官団 (Pontifices) を監督していた最高神祇官のことを指す。任期は終身。ローマには伝統的なローマ神については専任の神官が存在せず、その職は高い権威と人格を認められた一部のエリートが市民集会の投票で選出された。宗教的権威を統治機構の権威の源泉としていたローマでは、政務官として選ばれるに足る人物でなければ神官職に選ばれることはなく、また神官職の権威は選ばれた者に政務官にふさわしいとの権威を与えた。こうした神官職の頂点に立つ最高神祇官の権威は、他の官職と比べ何の権限も持たない割には非常に絶大で、神官団の中で最も権威と実績を持った高齢者が就任することが通常であった。最高神祇官にはフォルム・ロマヌムにあった公邸が与えられた。
これらのことは全て1対1で現代の教皇にそのまま当てはまる。彼は文字通りポンティフェクス・マクシムス(Pontifex Maximus)を自分の称号として用いている。彼の任期は終身である。かれは、キリスト教界の最高エリートである枢機卿達の間で互選される。彼は、宗教的権威と統治機構の権威を兼ね備え、バチカン市国の元首として宮殿に住んでいる。
このように、コンスタンチン体制は今もカトリック教会にしっかり生きている。
コンスタンチン体制とは、キリスト教がローマ帝国の歴史と文化にインカルチュレートしたものではない。キリスト教の魂が、ローマの歴史と文化に受肉しそれを生かし、帝国の風土に土着化しそれを豊かにしたのでもない。
キリストの花嫁、聖なる浄配であったものが、世俗主義の化身、ローマ皇帝に手篭めにされ、囲い込まれたあられもない姿である。キリスト教の魂は抜き取られ、ローマの偶像崇拝の精神がキリスト教の中心に忍び入ったというほうがむしろ正しいくらいである。
だから、教会は「サンタ・ペッカトリーチェ “Santa Peccatorice”」(聖なる罪の女)と呼ばれる。「聖なる」、なぜなら聖なるキリストの浄配だから。彼女は不実でも、彼、キリスト、は忠実で今も彼女を愛している。「罪の女」、なぜなら世俗の権威に魂を売り、身体を任せた自堕落な女だから・・・・。

* * * * * * * * * *


こんなこと書いてしまって、いいのですか?と心配の向きもあろう。
もちろん、そのまま言いっぱなしでいい訳はない。上の何倍もの言葉を費やして、私の愛する教会を弁護し、擁護しなければならない。しかし、それは次回以降に回すほうがいい。
今は既に長く書きすぎたし、今回の目的は、「コンスタンチン体制はキリスト教がローマ帝国にインカルチュレートしたものだ」などと言う、誤った粗雑な俗説に水を差すことに成功しさえすれば、それで十分なのである。 (つづく)


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★ 「インカルチュレーション」(その-2)

2008-09-11 14:27:31 | ★ インカルチュレーション





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「インカルチュレーション」(その-2)

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私は前回のブログの最後に「こんなこと書いてしまって、いいのですか?と心配の向きもあろう。もちろん、そのまま言いっぱなしでいい訳はない。上の何倍もの言葉を費やして、私の愛する教会を弁護し、擁護しなければならない」と書いた。

確かにそうである。だから、まず前回書いた「こんなこと」の中身を要約することから始めよう。

西暦紀元ゼロ年前後のローマ帝国においては、帝国の底辺に喘ぐ貧しい人々、疎外された人々は、皇帝にとって、抑圧して搾取しようが、手篭めにしようが、弄んだ末に命を奪おうが、何をしてもいい「下女」か「女奴隷」のようなものだった。
ところが、その「女」、つまり、帝国の底辺に喘ぐ貧しく虐げられていた人々が、ユダヤ人の間から彗星のように現れ十字架の上で惨たらしい死を遂げたナザレのイエスに出会うと、その福音を信じ、回心し、洗礼を受け、教会を構成して、「キリストの花嫁」となった。
皇帝にしてみれば、キリストと言う強烈なライバル、「色男」に、自分の「女」を寝取られて、いたくプライドを傷つけられた気がしたにちがいない。実利的にも数々の不都合が生じる恐れがあった。自分をもはや神として認めない。自分が拝む偶像を一緒に拝もうとしない。兵隊を向けて脅し、迫害しても、自分に従わない、殉教を恐れない。そのまま放っておけば帝国の秩序が崩壊する危険さえあった。
そこで考えたのが、弾圧しても駄目なら、取り込んで篭絡してしまえ、だ。
それまでの皇帝の「そば女」たち、つまり、ギリシャ・ローマの神々を全部廃止して、キリスト教を自分の宗教、自分の唯一の「愛人」として迎え入れた。
神々の神殿を壊してその址に教会を建て、ローマの代表的建造物を大聖堂としてあてがい、キリスト教の祭司たちを宮殿に住まわせ、ローマの元老院の議員たちが着ていたようなきらびやかな礼服を祭服として纏わせ、異教の神々の神官の地位「ポンティフェックス」をこれに与えた。ローマ教皇が今日「ポンティフェックス・マクシムス」(最高神祇官)の称号を受け継いでいるのはその由縁である。
ガリレアの無学な漁師たちの後継者だった神父や司教たちは、急に偉くなって決して悪い気はしなかったに違いない。彼らも人間だもの。
キリストが十字架上の苦しみに満ちた死を通して自分の血でもって贖った女、「教会」は、キリストを裏切って、奴隷女であったときの元のご主人様、「ローマ皇帝」とよりを戻して、皇帝の「正室」の座に着いた。これが「コンスタンチン体制」の本質だ。
キリスト教会が「聖なる罪の女」(サンタ・ペッカトリーチェ)と呼ばれるのは、「聖なるキリストの浄配」つまり「神の花嫁」でありながら、この世俗の覇者、「皇帝」に手篭めにされ、身を任せた「自堕落な女」に成り下がったからに他ならない。
ヨーロッパ中世を通じてつい近い過去まで、皇帝と教会は最強のコンビだった。世俗の覇者「皇帝」に「教会」は神のご加護を約束し、「教会」はその見返りに「皇帝」の手厚い保護を手に入れた。
キリストが「神のものは神に、セザル(皇帝)のものはセザルに」と、互いに相容れない対立概念として厳しく分けたものを、キリストの遺言に背いて「神聖なキリスト教帝国」の概念のもとに地上における不可分の一体として結婚させたのである。
この「蜜月」関係は、西暦313年のミラノ勅令の頃から、ヨーロッパ中世からルネッサンス、大航海時代とプリテスタンとによる宗教改革、産業革命、第二次世界大戦を経て、大体1964年の東京オリンピックの頃まで綿々と続いたのである。

ただそれだけのことか?

上の粗いスキームは、「コンスタンチン体制とはキリスト教がローマ帝国にインカルチュレートしたものである」などと言う、誤った粗雑な俗説に水を差すことに成功しさえすれば、取り敢えずはそれで十分だと言った。確かにそれで当面の目的は達せられた。
しかし、本当の問題はそこから先にある。
コンスタンチン体制下では、目に見える地上の教団、生身の人間が寄り集まって構成する宗教団体としてのキリスト教は、ナザレのイエスを裏切り、皇帝とよりを戻した不貞の女に成り下がってしまったのは紛れも無い歴史的事実であった。
では、キリストの死は無駄に終わったのだろうか?
決してそうではない。
人間が神を裏切る事はあっても、神は常に自分の約束に忠実である。キリストの浄配、つまり、イエスを頭とし、目に見えない神秘的なキリストの身体を構成するものとしての教会は、コンスタンチン体制下にあっても、まるで砂漠の伏流のように脈々と生き延びていたのである。
それを可能にしたものは何か?それは、伝統的教会用語で言えば、「聖書」と「聖伝」と、そして、それらに命を与える神の霊、「聖霊」であり、また、それを命がけで生きた有名・無名の聖人たちの群れである。そして、新しい酒であるキリストがユダヤ教の古い皮袋から拒まれ、十字架の上で非業の死を遂げたように、それら聖人たちの多くも、キリストに倣って迫害され苦しみを背負ってその多くは殉教の死を遂げていった。(このあたりのことは、カトリックでない読者のために、またあらためてゆっくり説明しなければならない。)
コンスタンチン体制以前の教会においては、迫害者はキリストを拒んだユダヤ教指導者であり、それと気脈を通じたローマ帝国の異教徒であったが、コンスタンチン体制下になると、その役割を担うのは地上の権力となった教会当局それ自体であることが多かった。
教会社会の中で、教会の権威によって迫害され、疎外され、しばしば異端として断罪され、魔女として焼かれてきた人々の中に、キリストの花嫁、神の浄配としての純潔を生きた人たちが多かったに違いない。彼らこそ、復活の日に殉教者、証聖者として、人々と天使たちの前で勝利の栄冠に輝くに違いないのである。
この点については、多くを語ることが出来るし、語られねばならないが、それはいずれの機会に譲ることとする。

そのコンスタンチン体制が、東京オリンピックの頃に終焉を迎えた

この点に入ると、またまた長い話になる。だから、今日はここで一区切りつけるのがよかろう。



高松の神学校のスロープに育つ「地中海松」の若木。
神学校の建設に先立ってローマを訪れ、教皇ヨハネ・パウロ二世に謁見し、ローマの神学校を見学したとき、地元三本松の大手企業社長(当時)が、その神学校の庭の松の実を持ち帰り、屋敷の庭師に育てさせた苗が生長したもの。

その神学校は日本を追われ、今ローマでの亡命生活を強いられている。この神学校の運命やいかに?

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★ ポーランド巡礼記-1

2008-09-06 11:54:41 | ★ ポーランド巡礼記

ポーランド巡礼記

= オシフィエンチム から ジャスナゴーラ =

又は


二人の聖人

= ヨハネ・パウロ2世  マクシミリアン・コルベ =


全世界に75あるレデンプトーリスマーテルの姉妹校では、復活祭明けの1週間に巡礼の旅をする習慣がある。
高松の神学校でも、毎年キリシタンの殉教の跡を慕って、九州、関西、東北まで、くまなく巡ったものだった。

今回は、ローマに移転・仮遇している「日本のための神学院」(元高松の神学校)は、
ワルシャワとロシアのキエフともう一か所のレデンプトーリスマーテルの神学生たちと、4校総勢80人余りで、
ポーランドを巡ることになった。

意思疎通は、イタリア語とポーランド語を軸にロシア語と日本語が混じる、時に二重通訳を必要とする複雑な構成になった。

巡礼を無事終えてローマに戻ってみると、たった1週間前とは打って変わり、神学校の庭では、燃えるような新緑の中、
梨の花が終わり、サクランボの花が盛りを過ぎようとしていた。



サクランボの花はソメイヨシノより遅く、白く、花弁には皴がある。5月にはまた甘い実がたらふく食べられると、
平山司教様はご満悦だ。



昔住んだデュッセルドルフでもそうだったが、ポーランドでも寝室の二重ガラスの外に寒暖計があって、
それで朝一番、外気の温度が一目でわかるようになっている。クラカオの朝は1度から4度だった。



これが日本の景色でないことは、寒暖計の目盛りがマイナス53度まで切ってあることでわかる。
かつて、ポーランドはルブリンでクリスマス休暇を過ごしたことがあるが、
マイナス20度で「今朝は暖かいね」という挨拶を聞いたのが印象的だった。

柳はうっすらと緑だが、他の木々はまだ冬枯れのまま。
黄色のれんぎょうがどこでも目に止まる他は、地面にクロッカスがやっと咲き、チューリップはまだ葉っぱだけだった・・・。



ベンチの後ろの地面をよく見てください。無数の花。少しわかりにくいかな?



足掛け6日の巡礼は、無論一回では紹介しきれない。
三幕・五場ほどの楽劇風に構成して、最後のどんでん返しまで、途中で飽きられることなくご案内できれば、
成功のうちではないだろうか。
今回はまず・・・・

序 曲

去年の秋ごろだったと思うが、日本の為の神学院の副院長アンヘル神父が、実に奇妙なことを言い出した。
デンマークの女子トラピストの修道院の院長様から突然電話があったそうだ。
それによると、戦争末期にナチスドイツのアウシュヴィッツ強制収容所で殉教した聖マキシミリアノ・コルベ神父から、
そこの若い一人のシスターにお告げがあったという。

私はそういう類の話にきわめて弱い。春の花粉症以上に苦手なのである。

ブラックホールの発見者として有名なスティーブン・W・ホーキングと言う車椅子の宇宙物理学者がいるが、
彼は自分のベストセラーの中で、「この本の中に数式を一つ入れるたびに、売れ行きは半減する」と書いている。
私もそれを真似て、私がものを書くとき「奇跡やお告げのたぐいの話を一つ入れるたびに、
キリスト教を信じない友人の半分を遠ざけてしまう」と言いたいのだ。

神様、どうかお止しになってください。
私には一冊の聖書と、欠点だらけのただの人間にすぎないローマ法王だけ、もうそれだけで十分ですから。

マリア様が現れたとか、聖人のお告げがあったとか、おどろおどろしい話は大概にしてください。

ところが、私の祈りをよそに、副院長はお構いなしに続けた。
電話の主は、大真面目で、その若いシスターへのお告げによれば、
「元高松の神学校の神学生たちが、そろって聖マキシミリアノ・コルベ神父の殉教の地と生誕の地へ巡礼をするならば、
聖人はあなたたちに大きなプレゼントを下さると約束された」というのである。
そして、ご丁寧にも付け加えて、「このシスターの頭は、正常で正気です。後は、皆様次第です」とも言った、とか。

「これはヤバイことになるぞ」と不信心者の合理主義者は直感的につぶやいた。
しかし、私の不安をよそに、事はどんどんエスカレートしていくではないか。
ワルシャワの神学校を巻き込み、キエフと、最近出来たばかりのロシアのもう一つの神学校も巻き込んで、
総勢80人余り(大型バス2台分)の大巡礼団が結成された。

「僕、もう知らないからね!」と拗ねて見ても、私が秘書としてお仕え申し上げる平山司教様まで、
勇気凛凛ご老体に鞭打って全行程参加を宣言されたのだから、万事休すである。もう行くしかない、と腹を括った。

復活祭が明けた週の火曜日、ローマからの一行を乗せた格安のライアンエアー機はクラカウの飛行場に無事着陸した。
一体何が待ち受けているのか。
少しわくわくしてきませんか?




《つづく》

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★ ポーランド巡礼-2

2008-09-03 11:50:42 | ★ ポーランド巡礼記

★ 当分書き貯めてあった巡礼記をご紹介します。既にどこかで読まれた方は、しばらくご忍耐を。もうすぐ新規書き下ろしに入りますから。

 

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ポーランド巡礼
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第一幕 第一場 クラコヴィア (クラカウ)

 

到着ロビーから直行したのはクラカウのとある小教区教会だった。 

そこで他の3つの神学校の一行と合流し、4つの神学校の神学生が均等に混ざり合うように10人ぐらいずつの組に分けられることになっていた。全体の三分の一強がイタリア語を解するほかは、ポーランド語、ロシア語、日本語の順で通じるチャンスがある。 

冒頭に「とある『小教区』に着いた」、とさりげなく書いたが、その教会の規模の大きさには度肝を抜かれた。 

私が四国で3年余り主任司祭を張っていた三本松の教会など、私が聖堂を改築した後でも、やっと50人を収容すれば満員になる超ミニ教会だった。着任した時は日曜礼拝にやっと10人揃うか揃わないか・・・・、50人に増えたら移転して少し大きな教会を建てようと、ささやかな夢を膨らませたのが、我ながら実にいじらしく思い返される。 

それがどうだ。重い鐘が頭上に落ちてきそうなこの不安定な鐘楼を備えた「小」教区教会の「大きさ」は!続きの写真でもおわかりの通り、これはまさに日本各地の県庁所在地を代表する○○県民ホールを遥かにしのぐ「大型箱モノ」と言った威風堂々たるたたずまいではないか東京・目白台のカテドラルも玩具のように霞んで見えるというものだ。 

ここではまだ日々何千人を収容する広さを必要とする実用性本位の建築意図が感じられた。 

ローマでも、聖ペトロ大聖堂は例外として、古い大バジリカの多くは、どこも普段の日曜はおろか、大祝日でも閑散としているのが当たり前になっているというのに・・・・。 

 

 

 ここは、クラカウの中心を離れた新興住宅地だ。ポーランドの共産党は、ここに無神論者の町を創るつもりで、このあたり一帯に新しく教会を建てることを禁じたそうだ。それが、グダニスクの「連帯」運動以来、そしてポーランド人のヨハネ・パウロ2世教皇の即位以来、さらに共産党政権が崩壊してからというものは、反動として?皮肉にも?そこに巨大な教会が建てられるようになったのだと言う。 

これは、やはりヨーロッパ随一のカトリック国ならではのことだろう。解放後の東欧でも、ポーランド以外では、そのような話はついぞ聞いたことがない。 

ちなみに、米国のCIAの調査によると、国民の95%がカトリック教徒であり、うち75%が今なお敬虔な信者だ、ということになっている。 

ホールで手際よく班分けが終わると、この二人は誰々の家、あの三人は誰さんのところと、実に手際良く相次いでホームステー先の家族に引き取られていった。そこが彼らの三日間の宿である。 

残った平山司教様と私と、それにもう一人、75歳でイエズス会士を辞めて共同体に留まる苦渋の選択をしたスペイン人のスアレス神父の3人には、写真の背後の教会が帰属するフランシスコ会(コンヴェンツアール派)の修道院に部屋があてがわれた。 

 

ミサの無い時間帯、聖堂の中に祈る人影は少なく、シンとした空気が全体にみなぎっていた。

二人の聖人(前教皇はまだ正式に列聖されてはいないが)の跡を慕う巡礼はもう既に始まっていた。

 

 クラカウの司教で、電車通りを挟んで向かい側の司教館に住んでいたカルロ・ボイティワ(のちの教皇ヨハネ・パウロ2世)は、この教会の後ろのベンチの左側、薄暗がりの目立たない席で、好んで聖務日課の祈りを唱え、瞑想をしていたという。

教えられて行ってみると、そこには彼を記念する銀のプレートがあって、誰が置いたか、みずみずしいバラが一輪セロテープで止めてあった。

私は、クラカウを拠点にした巡礼の3日間、朝夕の自由時間の多くをこの席での祈りに費やした(無論、地元の敬虔な先客がいない限りの話で、そういう時はお互いに関渉し合わないほどの距離に我慢するのだったが・・・・)。

 

それだけではない。部屋をもらった修道院は、聖コルベ神父が日本に宣教に旅立つ前の数年間を過ごしたゆかりの場所で、建物の内部のいたるところに彼の霊気が漂っている。外部の人の入らない禁域の中だから、ことさらに彼が用いた部屋を永久保存したり、とかはなかったが、彼が食した食堂で食べ、彼が祈ったチャペルで祈り、彼が歩いた廊下や階段の全てを自分の空間とした。

例えば食堂。我々は正面上座のテーブルで朝食をとる。

 

(左から、スアレス神父、この修道院の院長、平山司教、右端がワルシャワのレデンプトーリスマーテルの院長。)

 

右側の壁には、おや、聖コルベ神父かなと思いきや、なぜか、やはりここに住んだ彼の弟の絵が一枚かかっていた。

 

食堂の反対の端から見ると食堂の広さと天井の高さがよく分かる。

 

この修道院には、現在約100人の司祭・修道士たちがいる。そのうちの42人が神学生、つまり明日の神父たちである。

日本にただ一つ生き残った東京の神学校には、全国16教区50万人足らずの信者のために20数名しか神学生がいないとの話。それに比べれば、ローマに亡命中の元高松教区立の神学院に20名は、一司教区としては大した数だったが、それが、ポーランドでは、無数にある各修道会の修道院の一つ、クラカウのフランシスコ会だけで40人以上いるというのだから驚く。ポーランド全体では、教区立と修道会立を合わせて、一体何千人いるのだろう。それでも、人口3800万のポーランドには、まだまだ司祭が足りないという。

 

(朝食をとる明日の神父たち。)

 

では、今日はこの辺で一区切りとしよう。

明日は巡礼の手始めにワルシャワの古都を探訪し、午後は「神の憐れみ」の聖地までの10数キロを、神学生たちは徒歩でたどることになっている。

 

~~~~~~~~~~

なーんだ、それだけ?

今回はつまらなかった!と、ぼやくことなかれ。

これはまだほんの小手調べ。まだまだ折れ曲がりながら、この先さらに軽妙に展開していく筈になっている。それが谷口神父の「物書く筆の弾み」というものなのだから・・・・。

だから、どうか引き続き、乞うご期待! 《つづく》

 

 

 

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