:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 半世紀ぶりの沖縄 =ベトナム戦争からウクライナ戦争へ=

2022-10-10 00:00:01 | ★ ウクライナ戦争

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半世紀ぶりの沖縄

=ベトナム戦争からウクライナ戦争へ=

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 9月末のある夜遅く、私のアイフォンに名前の現れない着信があった、一呼吸沈黙して声を出そうとした瞬間、女性の声が聞こえた。

 声の主は弟のお嫁さんで、沖縄から弟の急死を告げる電話だった。すぐ代わって出た甥が事情をかいつまんで説明してくれた。

 コロナで延び延びになっていた二番目の甥の結婚披露パーティーを楽しく開いたその翌日、みんなで船をチャーターして海の綺麗な小島で出来る者はスキューバダイビングを、出来ないものはライフジャケットをつけてシュノーケリングで遊ぶことになった。

 弟は後者のグループの先頭に立って、船を離れて足の立たない海に浮かんだ。インストラクターが次々と水に導いているわずかな隙に、振り向くと弟は動いていなかった。急いで船に上げたが、心肺停止だった。70歳。私より12も年下だ。

 弟の長男は大学病院の医師で、人工呼吸や心臓マッサージなどの応急手当を尽くしつつ、ドクターヘリのある港に急ぎ、対応を求めたが、結局だめだった、等々。

高度を下げると海に機体の影が

 取るものも取り敢えず那覇に飛んだ。司法解剖から戻ってきた遺体を前に、未亡人と甥たちと心を込めて葬儀のミサを執り行い(私はカトリックのプロの坊さんだから)その後斎場まで行動を共にした。

  弟は洗礼を受けたが、熱心なカトリック信者ではなかった。しかし、自分が世を去るに際して、三人の息子たちと自分の妻に対して、キリスト教の神髄である復活の信仰と再会と永遠の命への明るい希望のメッセージを私の口を通して伝えたいと望んだのではないかと思う。

 皆それぞれに大阪、名古屋、東京へと家路を急いだが、私は一人ホテルに残って一休みしてから、タクシーで海の見える浜辺に行った。弟を奪った海を独りで眺めながら物思いに耽るうち、不意に旅立っていった弟を送る気持ちの整理がついた。

頭上には次々とジェット機が その中に珍しくプロペラ機も

 

足音の振動で皆ピタリと動きを止めて殻に閉じこもるので分からないが、

立ち止まって見ているとやがて恐る恐る動き出す

ここにも、おや、ここにも、沢山いる 

手に取ると足も目もハサミもある可愛い奴だ、クスグッタイ!

那覇空港は米軍と共同使用だ。軍用ヘリもしょっちゅう飛んでいる

陽が傾いてきた

 大きくて真っ赤な太陽が水平線に沈むのを飽かず見届けての帰り道、親切なタクシードライバーの言葉に甘えて、那覇空港の滑走路を遠望する道端で小休止。

 民間航空機の着陸の間を縫って、米軍の最新ステルス戦闘機が8機も続いて離陸していった。運転手は沖縄でも珍しい光景だと言った。

夕闇の中、鼓膜をつんざく轟音を残してアフターバーナーの明るいオレンジ色の尾を引いてあっという間に音速で飛び去る姿は初めての体験で強烈な印象を受けた。

 

私の初めての沖縄は南ベトナム戦争と結ばれていた

 初めての沖縄は1970年代、ベトナム戦争の末期だった。私は南ベトナムで裁判もなく劣悪な環境の中で長期にわたって拘留されている大勢の「政治囚」の釈放を要求する運動のリーダーをしていた。

 「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)のリーダーの小田実(まこと)や、「ジャテックス」(・・・と言ったと思うが、正式の長い名称は思い出せない)という組織は、一時休暇中のアメリカ人脱走兵をシベリア経由で北欧の中立国へ逃がす団体だったが、かれらとも仲良くした。これは日本の公安当局にマークされた非合法団体だった。

 ベトナム反戦運動にかかわっていたプロテスタントのNCC(日本基督教協議会)とカトリックの反戦グループとの接点も私だった。 

 そのNCCと合同で、ベトナムの「政治囚」解放キャンペーンのため、パリに亡命中のカトリック司祭グエン・ディン・ティー神父と同じく亡命者の仏教の反戦尼僧をセットで日本に招聘し、北海道から沖縄まで講演旅行を企画することになった。北海道から東京までのボディーガード兼通訳はプロテスタントの伊藤義清牧師が、東京でバトンタッチして沖縄までは私が引き受けることになった。

 二人のベトナム人の客人にぴったり寄り添っていたので、ホテルと講演会場の往復以外は那覇の街並みを一切見ていなかった。

 講演会はどこでも盛況だった。話の内容は想像を絶するものがあった。地面に掘られた大きな鍋のような穴の底に、大勢の「政治囚」が放り込まれ、上に格子状の蓋をしただけのものだった。食事は餌のように上から降ろされる。垂れ流し。強い日差しも雨も遮るものがない。騒げば上から石灰の粉を撒かれる。裁判はなく、人権は奪われ、家畜以下の状態に放置されていた。死ななきゃ出られないのは同じでも、ナチスの強制収容所の方がまだ遥かに人道的な扱いだった。アメリカの軍部は見て見ぬふりを決めていたのだろう。

 私は1964年に南ベトナムを訪れ、前線近くまで行ったが、その時はまだ政治囚の存在は知らなかった。

 ベトナム戦争はアメリカの一握りの人間が自分たちの欲望のために起こした戦争だった。アメリカは自分たちの傀儡の南ベトナム軍支援を口実に、南ベトナムを主戦場に北ベトナム軍と戦った。北ベトナム軍はソ連と中国の支援を受け、南ベトナムの反政府ゲリラ「民族解放戦線」と共に、民族自決を旗印に、アメリカ軍を相手に戦い、最後にはサイゴンを陥落させて勝利した。

X X X X X

 その夜、甥たちや未亡人になったばかりの義理の妹にはちょっと悪いと思ったが、夕食をと国際通りを当てもなくそぞろ歩き、ふと目に留まった島唄のライブ店で泡盛を亡き弟に献杯した。

 

今、ウクライナ戦争を傍観している日本は、

明日、台中戦争に巻き込まれる

 半世紀ぶりに沖縄を訪れた。那覇空港から県庁前のホテルまでモノレールで行った。近代的な都会の空気があった。

 私の専らの関心はウクライナ戦争の行方だ。すべてがかつてのベトナム戦争と重なって見える。

 ウクライナに戦争を仕掛けたのはロシアのプーチンだ。かつてのベトナムのようにウクライナは国民と領土を侵略者から護るために戦っている。ベトナム戦争の時はかつてのソ連と中国が後ろ盾になった。いまウクライナに対してアメリカとNATO諸国が支援に回っている。

 侵略者の軍隊と傭兵たちは、拷問、虐殺、レイプ、略奪などやりたい放題だが、それはかつてベトナムでアメリカ人がやったことと同じだ。ジャングルがないからナパーム弾は使われないかもしれないが、その代わりにミサイルやドローンが多用され、無差別破壊と大量殺戮はやりたい放題だ。核兵器が使われるかどうかはプーチン次第だが、どのような展開になっても、最後はウクライナが必ず勝つ。それは国を守り妻子を護り生き抜くための戦いだからだ。侵略者の軍隊とは戦う動機と志気が全く違う。これもベトナム戦争の場合と全く同じだ。

 第二次世界大戦では、日米が激しく敵対し多くの命を犠牲にしたあげくの果てに、日本は負けた。しかし、戦後日米は安保条約のもとにいつの間にか最も親密な同盟国になった。この豹変ぶりは信じがたい?

 ベトナム戦争でアメリカとベトナムは熾烈な戦いを経て、ベトナムが勝った。しかし、戦後アメリカとベトナムは、これまた友好的に付き合っている。日米同様に昨日の敵は今日の友ということか。人種が違い、遠隔の地にあればそれも有りか?

 では、ロシアとウクライナはどうだろう。ウクライナは勝つだろう。しかし、地続きで同じ人種のウクライナとロシアは今後再び兄弟のように仲良く付き合えるだろうか。戦争が終わっても、心の傷は永久に癒えず、憎悪が世代を超えて長く尾を引くのではないか。

 ユダヤ人が心の底ではドイツを決して赦さないのと同じではないだろうか。母を戦争で失った私の心の傷は生涯癒えることはないのだ。

 第2次世界大戦で敗北し、無条件降伏した日本の焦土と化した広島の廃墟の中で物心ついたわわしは、平和憲法とその第九条もあることだし、生きている間に二度と戦争を見ないだろう―見たくないものだ―と思ってきた。

 しかし、82歳の馬齢を重ねた今、台湾有事でアメリカが介入したその日、沖縄、岩国、横田の米軍基地は中国のミサイル攻撃を受けるだろうか。日米軍事同盟の名のもとに日本は再び戦争に巻き込まれ、日本人の若者が戦場で死に、若い未亡人と子を失った母親の嘆きが日本を再び覆うに違いない。

追伸: 右下の 小さい細い字 コメント をクリックして、コメント欄も覗いて下さい。面白いやりとりがありますよ!!  →・‥→・・・→・・・↓↓

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【映画評】「さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について」

2022-08-04 00:00:01 | ★ ウクライナ戦争

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【映画評】

「さよなら、ベルリン」

=またはファビアンの選択について=

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主人公ファビアン(トム・シリング)と恋人コルネリア(ザスキア・ローゼンタール)

 

 久しぶりに納得のいく映画を見た。

 ドミニク・グラフ(Dominik Graf)監督(68歳)の 最新作で、3時間にわたる大人向けの長編映画。

ドミニク・グラフ監督

 ベルリンの中心部から南西に6キロほどのところに、ハイデルベルガー・プラッツという地下鉄駅がある。映画は現在のその駅から始まる。人込みに混じってカメラがエスカレーターを降りていくと、レトロなアーチに飾られた古き良き時代のままのホームがある。そこから地下鉄に乗っていくと、1931年のベルリンの町に着く。地下鉄がタイムトンネルの役割を演じている心憎い演出だ。

 そして映画はいきなり当時の爛熟と退廃のベルリンの狂乱と喧騒の映像の連続になる。ドイツ語の分からない日本人が、かなりの早さで替わる字幕を追いかねて、映像と音楽に圧倒されていると、若い男女の愛しあうリアルな場面から、若い男の子を集めた有閑マダム相手の男娼の館や、男に裏切られた女たちを集めた娼館、ゲイバー、けばけばしいアトリエ、違法な麻薬パーティーなど、露出度の高い性の描写でいきなり濃厚なポルノ映画の世界に引き込まれたようななショックを受けるだろう。

 しかし、冷静に見ていると、それらは皆30年代のベルリンの何かを予感させる息苦しい熱気の描写であって、ストーリーとしては、作家を志する好青年ファビアン(32歳)が、ある日同じ下宿に越してきたばかりの女優を夢見るコルネリアと出会い、瞬く間に恋に落ちる、という物語りだ。

 ファビアンには資産家の息子、学者志向で革命家の友人ラブ―デがいて、3人はラブ―デの父親の別荘で遊ぶ。だがコルネリアは恋も大切だが、お金も名声も欲しい女性だ。

 ファビアンの母がドレスデンからやってきた。コルネリアを紹介して3人はレストランで食事をしていると、大物監督のマーカルトが入ってくる。コルネリアはマーカルトのテーブルに行って気にいられ戻ってこない。そして、女優への道を歩み始め、ファビアンとの関係は壊れていく。

 親友のラブ―デはデモで逮捕され、革命の夢破れ、同級生が悪質ないたずらで書いた教授資格取得の論文不合格の通知を見て、自殺する。

 ベルリンを離れドレスデンの両親のもとに帰っていたファビアンは、ある日雑誌でスターになったコルネリアの写真を見て、手を尽くして連絡を試みる。そして、初めて出会った思い出のカフェで再会を約束するが、心待ちにしているコルネリアの元にファビアンが現れることはなかった。その理由を書けば、映画の落ちを明かすことになるので、触れないほうがいい。

 恋愛、破局、打ち砕かれた再会の夢。ストーリーは単純明快だが、わき役たちや情景描写が織りなす様々なサブストーリーは、色濃くその時代の複雑は空気をリアルに描き出している。

原作者エーリッヒ・ケストナー

 この映画の原作は、エーリッヒ・ケストナー(Errich Kästner;1899-1974)の自伝的モチーフに沿って書かれた時代と風俗の痛烈な風刺小説「ファビアン」だ。この作品は当時のナチスによる焚書の対象にされ、ファシズムを非難していたケストナーは、大戦中は執筆禁止となった。

 この間にヒトラーは1938年にオーストリアに侵攻し、翌年9月にポーランドに侵攻した。

 ベルリンの地下鉄に乗って、ハイデルベルガー・プラッツ駅のエスカレーターを登ると、我々は今の世界に戻って現実と向き合うことになる。

 2014年にプーチンはクリミア半島に侵攻した。そして今年(2022年)の2月にウクライナに侵攻した。この先どうなるかは、歴史の未来だから誰も知らない。しかし、もう一度地下鉄に乗って1930年代のベルリン行けば、ベルリンの市民たちも得体の知れない不安の中で何が起ころうとしているのかまだ知らなかった。

 いま我々が見ているのは、2022にプーチンが行ったリミア半島侵攻と、2月から続いているウクライナ侵攻だ。これは、地下鉄に乗って辿り着いた1930年代にヒトラーが行ったオーストリア侵攻(1938年)と1939年9月1日のポーランド侵攻と並行関係にある。

 90年前、世界中の誰がヒトラーの侵攻を第二次世界大戦の始まりだと思っただろうか。我々も、このウクライナ戦争がどういう展開を遂げるか知らない。ただ知っていることは、かつてヒトラーが行ったことと、今プーチンがやっていることが酷似しているという事実だけだ。 

 ヒトラーは同じドイツ語を話すオーストリアに侵攻した。プーチンはかつての連邦共和国で今もロシア語を話す人の多いウクライナに侵攻したのだ。

 ヒトラーの野望は、東側に海・山脈などの自然の国境線を持たない国の宿命として、東側の国々の併呑に向かった。いまのプーチンの野望は、西側に自然の境界線を持たないロシアの誘惑として、西ヨーロッパの支配に向かおうとしている。

 このように、かつてのドイツと今のロシア、また、ヒトラーとプーチンの間には実に多重の相似性が読み取れる。

   

 ヒトラーの野望はプロイセン皇帝ウイルヘルム1世のドイツ帝国(ドイチェ・ライヒ)の再建、ドイツの第三帝国の樹立、ドイツ人によるヨーロッパの支配だった。とすれば、今のプーチンはピヨートル1世の築いたロシア帝国の夢を追い、ソ連邦の再興を企て、第三ロシア帝国を夢見るものではないか。

 そもそも、第三帝国(英語ではThe Third Empire、ドイツ語ではドリッテス・ライヒDrittes Reich)とは、古くからキリスト教神学で「来るべき理想の国家」を意味したが、それをナチスが自分たちの呼称としたことで有名になった。

 ロシアの文豪ドストエフスキーは、西ローマ帝国も東ローマ帝国も信仰が足りなくて滅亡した。だが、聖なるロシアは「第三帝国」とならなければならない、と論じた。プーチンはピヨートル1世の第一ロシア帝国、崩壊したソ連邦(債2帝国)、のあとを受けて、偉大なロシアの第三帝国の皇帝になることを夢想しているのではないだろうか。

 だとすれば、ベルリンの地下鉄の時間回廊の向こうの歴史的現実に照らして、ヒトラーが第二次世界大戦を惹き起こしたように、こちら側でも今のウクライナ戦争の延長線上に、第三次世界大戦が我々を待ち受けているということにならないだろうか。

 人類が歴史から学んだ真実は、「人類は決して歴史から学ばない」ということだというが、「ファビアン」の映画は、人類が初めて第三次世界大戦への運命を回避する英知を身に着けることが出来るか、と問うているように思える。

 映画「さよならベルリン、またはファビアンの選択について」の原作者、エーリッヒ・ケストナーは1899年に生まれ1974年に世を去った。私がいまブログに連載している短編の作者ヘルマンホイヴェルス師は1890年生まれで1977年没だから、ケストナーより早く生まれ彼よりも遅くに亡くなった全くの同時代人だ。そのホイヴェルス師は、第一次世界大戦に衛生兵として従軍した。

 また、この映画評を書いている私は、1939年9月1日にヨーロッパで第2次世界大戦が勃発した3か月あとに生まれ、原爆で真っ平になった広島に住んだことがある。だから我々はヒトラーとプーチンの二つの時代にまたがって生きていると言える。そして、ファビアンの身辺で起こった出来事は、私たちのまわりで起こっていることと同じだと言えるのだ。

 プーチンはウクライナをネオナチと非難するが、それはお門違いも甚だしい。プーチンこそ、90年のタイムトンネルを通って今日に現れたヒトラーの化身ではないか。

 とにかく、今のウクライナ戦争はまさに私たちの時代の緊急事態だ。ファビアンの時代の流れが今再び繰り返されて、第三次世界大戦が明日始まり、その後ヒトラーのようにプーチンも亡び、全世界は核戦争で滅亡し、辛くも生き残った少数の人類は、次の第4次世界戦争を石の武器で戦わなければならない運命は、果たして絶対不可避なものだろうか。

 現代から90年前のベルリンに行った我々は、ドイツが第二次世界大戦に突入していったことを歴史的事実として知っている。それならば、歴史のジンクスが我々の英知によっ初めて覆されることも在り得るとは考えられないだろうか。

 多くのことを考えされられた実にすばらしい映画だった。

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★ 今夜午前1時に起きてみんな世界平和のために祈りましょう!

2022-03-25 17:59:31 | ★ ウクライナ戦争

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今夜午前1時に起きてみんな世界平和のために祈りましょう!

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いま、3月25日(金曜日)の夕方7時前です。今日、ローマ時間夕方5時(日本時間、今晩午前1時)に教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、ウクライナの戦争のために聖母マリアに祈りをささげます。教皇は世界中のひとびとに、ともに祈るように招いておられます。

これは、核兵器の投げ合いによって戦われる第3次世界戦争の回避のための決定的な祈りになります。私たちが、平和ボケして、今夜もいつものように惰眠をむさぼって過ごすなら、終末戦争を阻止する最期のチャンスを逃してしまうかもしれません。クリスチャンも、ノンクリスチャンも、カトリックもプロテスタントもロシア正教徒も、仏教徒も無神論者も、不可知論者も区別なく、プーチンが絶望的な蛮行として核のボタンを押す手を止めるための決定的な、もしかして最後のチャンスかもしれません。

危機感を持って、緊張して、いままで祈ったことのない人も夜中に目覚めて祈ってください。

フランシスコ教皇は私たちのために祈りのことばを準備してくれました。一つの例としてこれを使って祈ってみて下さい。

天地万物の創造主、人類をこよなく愛してくださっている天の御父なる神は、きっとこの祈りを聴きいれて下さるでしょう。そう信じて祈りましょう!

 

この戦争を予告したと考えられる秋田のマリア像

 

ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り

 神の母、わたしたちの母マリアよ、この苦難の時、あなたにより頼みます。母であるあなたは、わたしたちを愛し、わたしたちのことをご存じです。わたしたちが心に抱くことは、何一つあなたに隠されていません。いつくしみ深い母よ、わたしたちはあなたの優しい計らいと、平和をもたらすあなたの存在をたびたび経験してきました。あなたはいつも、わたしたちを平和の君であるイエスのもとに導いてくださるからです。

 しかし、わたしたちは平和の道を見失いました。わたしたちは前の世紀の悲劇の教訓を忘れ、世界大戦の犠牲となった数えきれないほどの死者のことを忘れてしまいました。国際的な共同体として交わした約束を無視し、人々の平和への夢と若者たちの希望を裏切りました。わたしたちは欲望に取りつかれ、国益の中に閉じこもり、心は無関心によって渇き、利己主義によって麻痺してしまいました。神を無視し、偽りとともに生き、攻撃する心をかき立て、いのちを消し去り、武器を蓄えることを選び、隣人と共通の家を守るべき者であることを忘れてしまいました。戦争によって地球の庭を荒廃させ、わたしたちが兄弟姉妹として生きることを望まれる御父のみ心を、罪によって傷つけてしまいました。わたしたちは、自分以外のすべての人や物事に無関心になってしまいました。そして、恥ずかしながらこう叫びます。「主よ、おゆるしください!」

 聖なる母よ、悲惨な罪の中で、疲れと弱さの中で、悪と戦争という理解しがたい不条理の中で、神はわたしたちを見捨てることなく、愛のまなざしを注ぎ続け、わたしたちをゆるし、再び立ち上がらせようと望んでおられることを、あなたは思い出させてくださいます。神はあなたをわたしたちにお与えになり、あなたの汚れなきみ心を教会と人類のよりどころとしてくださいました。神の恵みによって、あなたはわたしたちとともにいて、歴史の最も厳しい曲がり角においてもわたしたちを優しく導いてくださいます。

 わたしたちはあなたにより頼み、あなたのみ心の扉をたたきます。あなたは、愛する子であるわたしたちをいつも見守り、回心へと招いてくださいます。この暗闇の時、わたしたちを救い、慰めに来てください。わたしたち一人ひとりに繰り返し語ってください。「あなたの母であるわたしが、ここにいないことがありましょうか」と。あなたは、わたしたちの心と時代のもつれを解くことがおできになります。わたしたちはあなたに信頼を寄せています。とくに試練の時、あなたはわたしたちの願いを軽んじることなく、助けに来てくださると確信しています。

 ガリラヤのカナで、あなたはイエスの執り成しを促し、イエスの最初のしるしを世界にもたらしてくださいました。婚宴の祝いが悲しみに変わった時、あなたはイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2・3)と言われました。御母よ、神にそのことばをもう一度繰り返してください。今日、わたしたちに希望のぶどう酒はなくなり、喜びは消え去り、きょうだい愛は水を差されてしまったからです。わたしたちは人間性を見失い、平和を壊してしまいました。あらゆる暴力と破壊を可能にしてしまいました。わたしたちは、あなたの母なる助けを直ちに必要としています。

母マリアよ、わたしたちの願いを聞き入れてください。
海の星であるマリアよ、戦争の嵐の中でわたしたちを難破させないでください。
新しい契約の櫃であるマリアよ、和解への計画と歩みを奮い立たせてください。
「天の大地」1であるマリアよ、神の調和を世界にもたらしてください。
憎しみを消し、復讐をしずめ、ゆるしを教えてください。
わたしたちを戦争から解放し、核の脅威から世界を守ってください。
ロザリオの元后、祈り愛することが必要であることを呼び覚ましてください。
人類家族の元后、人々にきょうだい愛の道を示してください。
平和の元后、世界に平和をお与えください。

 わたしたちの母よ、あなたの嘆きが、わたしたちの頑な心を動かしますように。あなたがわたしたちのために流した涙が、憎しみで涸れる谷に再び花を咲かせますように。武器の音が鳴りやまない中で、あなたの祈りがわたしたちを平和に向かわせますように。あなたの母なる手が、度重なる爆撃によって苦しみ、逃げまどう人々に優しく触れますように。あなたの母なる抱擁が、家と祖国を追われた人々に慰めを与えますように。あなたの苦しむみ心が、わたしたちのあわれみの心を動かし、扉を開き、傷つき見捨てられた人々のために尽くす者となりますように。

 聖なる神の母よ、あなたが十字架の下におられたとき、イエスはあなたのそばにいる弟子を見て、「御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19・26)と言われました。こうしてイエスは、わたしたち一人ひとりをあなたにゆだねられました。そして、イエスは弟子に、すなわちわたしたち一人ひとりに、「見なさい。あなたの母です」(同19・27)と言われました。御母よ、わたしたちは今、あなたをわたしたちの人生と歴史の中にお迎えしたいと願っています。今この時、疲れ果て、動揺した人類は、あなたとともに十字架の下に立っています。そして、あなたに信頼し、あなたを通してキリストに自らを奉献したいと望んでいます。愛をもってあなたを崇敬するウクライナとロシアの民は、あなたにより頼んでいます。あなたのみ心は、彼らのために、そして戦争、飢餓、不正義、貧困によって殺されたすべての人のために鼓動しています。

 神の母、わたしたちの母よ、あなたの汚れなきみ心に、わたしたち自身を、教会を、全人類を、とくにロシアとウクライナを厳かにゆだね、奉献いたします。わたしたちが信頼と愛を込めて唱えるこの祈りを聞き入れてください。戦争を終わらせ、世界に平和をもたらしてください。あなたのみ心からあふれ出た「はい」ということばは、歴史の扉を平和の君に開きました。あなたのみ心を通して、再び平和が訪れると信じています。あなたに全人類の未来と、人々の必要と期待、世界の苦悩と希望を奉献いたします。

 あなたを通して、神のいつくしみが地上に注がれ、平和の穏やかな鼓動がわたしたちの 日常に再び響きますように。「はい」と答えたおとめよ、聖霊はあなたの上にくだりました。わたしたちの間に神の調和を再びもたらしてください。「ほとばしる希望の泉」であるマリアよ、渇いたわたしたちの心を潤してください。人類をイエスに織り込んだマリアよ、わたしたちを、交わりを作り出す者としてください。わたしたちの道を歩まれたマリアよ、平和の道へと導いてください。アーメン。

わたしも今夜、午前1時に目覚めて祈るつもりです。皆さんもこの祈りに加わって下さい。お願いします。

日本に来たフランシスコ教皇(東京ドームにて)

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【速報】ついにフランシスコ教皇が動いた =私のウクライナと懐かしのキエフ -(2)=

2022-03-23 00:38:10 | ★ ウクライナ戦争

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【速報】ついにフランシスコ教皇が動いた

私のウクライナと懐かしのキエフ -(2)

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 教皇フランシスコは、3月25日(金)にロシアとウクライナを聖母マリアの穢れなき聖心に奉献するに際して、全世界の司教らを自分と一致するように招いた。

 先日15日に発表されたように、教皇は、イタリア時間3月25日17時(日本時間3月26日午前1時)より、バチカンの聖ペトロ大聖堂で執り行われる共同回心式の中で、ロシアとウクライナを聖母マリアの穢れなき御心に奉献する。

 同日、教皇のバチカンでの儀式にあわせ、ポルトガルの聖母巡礼地ファチマにおいても、教皇特使、コンラート・クライエフスキ枢機卿によって、聖母の穢れ鳴き御心への封建が執り行われる。(バチカンニュースより)

 

  

 

 わたしが「私のウクライナと懐かしのキエフ -(1)」で書いた通り、第1次世界大戦、第2次世界大戦、冷戦時代、そして今回のロシアによるウクライナ侵略とそこから派生する恐れのある第3次世界大戦(核戦争による世界の終末戦争)に関して、ポルトガルのファチマの3人の幼い牧童に託されたメッセージの中に、このロシアの奉献と回心への招きが含まれていた。しかし、この招きは米ソの冷戦下では刺激的すぎるとして、実行を先送りされてきた経緯があった。

 いま、ロシアのウクライナ侵略が現実のものとなった緊迫した時期に、ファチマのマリアの招きが急遽実行に移されることになった。全世会の司教たちが、それぞれの国の時間帯でイタリアの25日17時に合わせて行われるか、前後の日中に行われるかは別として、同じ奉献の儀式を10億の信徒と心を一つにしておこない、祈りを一つにしてロシアとウクライナを聖母の御心に奉献することになれば、それはそれなりのインパクトがあると期待したい。

 日本の16人の司教たちも、教皇の招きを断ることなく、全信徒に呼びかけて衆知をはかり、真剣にロシアとウクライナの聖母マリアへの奉献の儀式を執り行うものと信じたい。

 わたし的には、穏当な表現を選んだ厳かな奉献ではなく、はっきりと巨悪プーチンを名指しして、彼の回心のために祈るような式であってくれたらと思うが、カトリック教会というものは、角の取れたオブラートに包んだような表現に終始するのが精一杯ではないかと思われる。

25日後に、実際にどう展開したか、さらにフォローします。

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★ 私のウクライナ と 懐かしのキエフ

2022-03-18 00:00:01 | ★ ウクライナ戦争

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私の ウクライナ と 懐かしの キエフ

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ゼレンスキー大統領

 1980年のある日、アエロフロートのロゴのある分厚い封筒がポストに入っていた。???! 全く思い当らない。だが、不審に思いながらも封を切って目を通すうち、どうやらモスクワ旅行に招待されているらしいことが見えてきた。

 どうして私が選ばれた?という疑問はさておき、――そこは若さと好奇心――試しに招待受諾の返事を出してみたら、瓢箪から駒、本当に行けることになった。なぜか?

 当時――今もだが――北方領土問題が未解決のため、いつまでも日ソ平和友好条約が締結されない。だが、そのままでは万事ぎくしゃくして双方に不利益が多い。そこで、少しでも風通しを良くしようと、民間交流を装った「日ソ円卓会議」なるものの第一回が、すでに前年に東京のホテルニューオータニで開かれていたことは、あとで知った。相手側はソ連の政府機関があからさまに露出している。対する日本側は、あくまでも民間の建前を堅持しながら、実態は政・財界、文化、芸術、報道、学術、スポーツなど、オールジャパンのあらゆる種類の人間が、美味しい汁を吸いたくて群がっていた。

日ソ円卓会議モスクワ会場コスモスホテル 1980年にモスクワオリンピックのために建てられた 

 モスクワ開催の「第2回円卓会議」からは文化部門に「宗教交流」という分科会が加えられた。ソ連側からはロシア正教会がドンと前面にでてくるのだが、日本からは伝統仏教の各宗派をはじめ、神道、プロテスタント各派、各種新宗教が軒なみ名を連ねていた。

 それなのに、カトリックの名がない。多分、日本の司教団とモスクワが切れていて、アメリカに亡命中のロシア正教と繋がっていたからではないかと勘ぐった。カトリックは日本でこそマイナーな存在だが、グローバルには世界最大の宗教だから、分科会に日本のカトリック代表が不参加では、臥竜点睛を欠くことになるらしい。

 そこで、モスクワの組織委員会はNCC(日本キリスト教協議会)と相談して、誰でもいいから適当なカトリック信者を推薦しろと言うことになったのではないか。そして、ベトナム反戦運動以来、NCCと仲良くしていた私に目をつけて一本釣りしたと言うのが大体のストーリーだろう。

 では、どこで私とウクライナ、キエフが繋がるのか。

 恥ずかしげもなく、日本のカトリック教会の正式代表の肩書を頂戴した私は、第2回から第6回まで、モスクワ・東京で交互に開催される会議の全てに出席した。堂々とロシアのテレビのインタビューにも応じた。

 日本側の団長は自民党の桜内幹事長という禿げ頭のおじさんだった。それが社会党の河上民雄国際局長(河上丈太郎社会党委員長の息子)と手を組んでいるのだからまさに呉越同舟だ。加えて、私が日本のカトリック教会の正式代表として混ざっているのだから、もうメチャクチャもいいところだった。

 モスクワ会議の後には、必ず何コースかのオプションツアーのご招待があった。第2回の時は《赤い矢》の夜行特急でレニングラードに行くコースをわたしは選んだ。そして、トレチャコフ美術館をはじめ、主なところを全部みせてもらった。第4回は近場のザゴルスクに、6回目はウクライナの首都キエフとグルジア共和国の首都トビリシへの旅という豪華版を選んだ。

 飛行場でキエフ行きに乗るときからソ連ならではの光景にぶつかった。このオプションツアーの御一行様は、搭乗を待つモスクワ市民を有無を言わせず押しのけて機内に案内され、割りを喰らって乗り損ねた乗客を尻目に、飛行機は悠々と離陸したのだった。

 ヨーロッパ最大の穀倉地帯を遠く見遥かしながらキエフの空港に降り立つと、まずロシア正教の主教さまにご挨拶に行くことになった。黒い僧服に独特の頭巾をかぶった主教様は宮殿さながらの主教館の執務室で威厳を漂わせて我々を歓迎した。そして、最後に「ひと休みなさったら、今夜はキエフのオペラ座でまたお会いしましょう」と言われた。

キエフと全ウクライナの現在の府主教さま。 私が40年前に会った人のと頭巾が違うような気がする。 確か黒ではなかっただろうか? それとも私がお会いしたかたは身分が微妙に違ったのか?

 5つ星のホテルでひと息入れて、めかし込んでオペラ座に着くと、美しい夫人と凛々しい息子たちを引き連れた背広の紳士が、にこやかに「ゆっくりお休みになれましたか」と言いながら、これが妻の○○です、こちらが息子たち・・・と紹介し始めた。私は一瞬キツネにつままれた思いがしたが、よくよく見ると、その紳士は先ほど宮殿で会ったばかりのキエフの主教様その人ではないか。

 だが待てよ?カトリックの聖職者はみな独身でなければならないが、ロシア正教では司祭に叙階される前に、結婚するか、生涯独身を通すか、自由に選択することが出来ると聞いていた。ただし、結婚の道を選んだ司祭には、主教、大主教などの高位聖職者になる道が閉ざされる建前ではなかったか?この夜のことは、今もって謎として私の胸に残っている。

 オペラの出し物はいま思い出さない。だが、ウクライナの古都の佇まいは、歴史と文化の結晶そのものという印象と共に、私の心に刻まれた。平和だった。そして豊かでもあった。

 そのウクライナがいま戦場と化し、美しいキエフの街の破壊が目前に迫っていると言う事実は、絶対に受け入れられない不条理だ。

 かつての夜、わたしが父に手を引かれて外に飛び出した時には、住んでいた仙台の警察部長官舎にはもう火の手がまわっていた。この日に備えて官舎の裏手に公費で掘られた巨大な防火用水池など、肝心の時には何の役にも立たなかった。

 アメリカのB29の大編隊は、地上の炎を翼に反射しながら、先ず悠々と市の周辺部をひと回り焼夷弾で焼き払い、さらに市の中心部にご丁寧にも十文字に焼夷弾の雨を浴びせながら飛び去っていった。市民の大量死を承知の上で、都市をまるごと焼き尽くす無慈悲な絨毯爆撃の凄さが子供心に焼き付いた。広島、長崎はただその延長線上のジェノサイドすぎなかったのではないか。日本を無条件降伏に追い込むために必要・有効な作戦だった、とアメリカ人が言うなら、プーチンが同じ論理でウクライナに核兵器を使ったとしても、バイデンに、そしてアメリカ人に、それを非難する資格があるだろうか。アメリカ人もプーチンもやることは同じだ。相手が降伏するまで際限なく殺人と破壊行為をエスカレートし続けるのだ。

 それがいま77年後にまさにウクライナで再び現実のものとなりつつある。

 世界は、核による第三次世界大戦の破局を恐れるあまり、ウクライナを生贄(いけにえ)として差し出し、歴史を誇る美しいキエフの街を廃墟にすることに手を貸すというのか。それは、共犯でしかない。

 プーチンは今やヒットラーと同じ手負いの獅子だ。彼にはもう失うものがない。核のボタンを押すことに何の躊躇があるだろうか。自殺志願者が、どうせ死ぬなら、いっそのこと一人でも多く道連れに、と満席の旅客機で墜落自殺を遂げる狂気だってあり得る。プーチンにとって、核のボタンを押した結果、核戦争の第3次世界大戦になって人類が滅亡したからと言って、どうせ死んで無になる彼の身にとっては同じこと。地獄などありはしないし、と思うのだろうか。

 しかし、待った!後述するファチマの予言では、聖母マリアは戦争の話のついでに地獄の実在を牧童ルチアにはっきりと幻視で示している。そして、プーチンの狂気を止めるために持てる影響力を行使しなかった者も同罪で、彼らを地獄が口をあけて待ち受けているだろう。その咎めはバイデンにも、G7のメンバーにもローマ教皇フランシスコにも、自分の小さな持ち分で責任を果たさなかった世界中のすべての小市民たちにも、致死量の放射線の形で平等に覆いかぶさってくるという地獄が待ち受けているのだ。

 わたしの敬愛するホイヴェルス師は、神父になる前にドイツ陸軍の衛生兵として志願し、戦場に立たれた。人を殺さない主義のぎりぎりの参戦だった。いま、ウクライナには、私たちが高松に誘致した「レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」の姉妹校が3つある。そこの神学生たちも、総出で市民の避難を助け、ロケット弾の被爆者の救援に命を懸けている。 

 ウクライナのチェルノブイリは人災事故だった。福島の第1原発暴発も津波によるただの天災として片付けられない。原発をめぐる危険な火遊びは絶対に許されない。偶発的不測の事態を招くリスクが高すぎる。プーチンによるウクライナの原発への攻撃は、日本に対する大きな警告となっている。

 ある日、ロシアと、北朝鮮と、中国と、あるいは、考えたくないがアメリカとの関係が険悪化したとき、日本の津々浦々にある原発は、一転して全ての日本人に対する一大脅威と化すことになる。訓練を積んだ特殊工作兵士の5人もいれば、夜陰に紛れてゴムボートで潜入し、敦賀原発を次々と暴発させて、日本列島を高放射能レベルの無人の荒野に変えることが簡単に出来るのだ。北朝鮮の大陸間弾道核爆弾のような大げさなものは必要ない。

 島国日本は周囲を海で護られている反面、攻撃する側からすれば原発を破壊して日本を人の住めない島にしても、海のおかげで致命的影響は自分たち中国にも朝鮮半島にも、ロシアにも直ちに跳ね返ってくる心配はない。だから、海の存在はかえって日本に核攻撃を仕掛ける誘因にさえなるだろう。

 第2次世界大戦の時のアメリカには、まだ古都京都、奈良への無差別爆撃を控えるだけの余裕と良心のかけらが残っていたが、手負いのプーチンにはそのような自制心を期待することはできない。美しい古都キエフもトビリシもどこも同じことだ。

 話を日ソ円卓会議に戻そう。参加してみて、日本の代表団には身内の親近感のようなものを感じた。それは、日本の代表団の取りまとめをしている人たちに社会党系のクリスチャンが多かったからではなかったか。そもそも社会党の初代党首片山哲からしてクリスチャンだった。代表団のリーダー格の河上民雄社会党国際局長もその父親の丈太郎社会党委員長も世に知られたクリスチャンだった。当時の委員長の土居たか子(通称おたかさん)も隠してはいたが知る人ぞ知るクリスチャンだった。私は議員会館のおたかさんや河上民雄の部屋にも出入りしたことがあって、お二人の秘書嬢たちとはそこそこ親しい面識のある関係だった。彼女たちもみな円卓会議に連なっていた。

 だから、当時の社会党にはキリスト教精神の香りがそこはかとなく漂っていた。円卓会議では積極的役割を担っていたが、ソ連が崩壊したのと軌を一にして凋落していったことから後付けで考えると、政治資金が流れていたかどうかは別にして、ソ連と当時の日本の社会党は深く繋がっていたのではないかと複雑な気分で思いかえす。

 そこへ行くと、日本のカトリック教会は政治の世界では全く腰が引けている。どっちみち、戦中も戦後も常に軍部や保守政権の顔色を窺って生き延びてきた宗教だ。日本だけではない。第2次世界大戦中、独立国バチカンの領土である聖ペトロ広場でユダヤ人がナチスのSSに連行されても、ピオ12世教皇は見て見ぬふりをした。

 アウシュビッツの実情をどの国の諜報機関よりも詳しく知る立場にあった教皇が、世界の信者に向かってヒットラーの蛮行を名指しで糾弾しなかったことによって、600万とも800万とも言われるユダヤ人がホロコーストの犠牲者として見殺しにされた。

 その点、ポーランド人の聖教皇ヨハネパウロ2世がソ連の崩壊に決定的役割を果たしたことは特筆に値する。それに比して、今のフランシスコ教皇はウクライナのことでロシアに有効な働きかけをしているとはまだ言えない。

 先にちょっと触れたが、世にファチマの予言というのがある。ポルトガルの片田舎の3人の牧童に聖母マリア様が現われ、俗にいう「三つの予言」を託したと言われるが、その内容は戦争の終結、新しい戦争の始まり、教皇の暗殺に加え、ソ連の崩壊や、ロシアの回心のために祈ることの必要性などが含まれていたようだ。果たしてその予言は的中したのだろうか。

 先ず戦争の終結。ファチマの聖母の出現は第1次世界大戦のさ中の1917年5月23日だったが、予言通り戦争は翌年1918年に終結した。予言された新しい戦争、つまり、第2次世界大戦は1939年に始まって、1945年に終わったが、引き続き東西冷戦の時代に移行し、無神論的唯物論を国是とする独裁政権下のソ連(ロシア)の存在は自由主義世界の脅威となっていた。ファチマの聖母がロシアの回心のために祈れと言われて久しく、ポーランド人の教皇ヨハネパウロ2世が誕生した。

 1979年、同教皇はソ連の衛星国として圧政に喘いでいた祖国ポーランドを初めて訪問し、連帯労組のワレサ議長を励まし、アメリカからの活動資金をバチカン銀行を介してワレサに届け、民主化を積極的に支援した。

 1981年、ソ連は最大の脅威である皇ヨハネパウロ2世を排除するために、プロの暗殺者を差し向け、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見の最中に至近距離から教皇の腹部に2発の銃弾をあびせて暗殺を実行した。それは5月13日でファチマに聖母の祝日のことだった。失敗することは絶対にあり得ないプロの暗殺者によって、絶対確実な致命傷を負わされたにもかかわらず、教皇は死を免れた。それは神様の介入による正真正銘の奇跡と言うほかはない。そしてこの奇跡を境に世界情勢は急展開を遂げる。

 1983年6月、教皇ヨハネパウロ2世の第2回目ポーランド訪問。

 1984年10月19日、連帯と関係のあったポピエウシュコ神父が秘密警察によって殺害された。

 1987年6月16―23日、教皇ヨハネパウロ2世3回目のポーランド訪問。

 1989年6月18日、ついにポーランドに非共産党政府生まれ、やがて駐留していたソ連軍は撤退した。

 1989年11月9日、ベルリンの壁の崩壊。東西ドイツの統一。

 1991年12月25日、ソ連の崩壊を受けて、ロシアの誕生とともに、ウクライナを含むすべての連邦構成共和国が主権国家として独立。ここまでファチマの予言通りに歴史は展開した。

 戦後、秋田の湯沢台には、3人の姉妹たちによって聖体奉仕会という女子修道会がつくられた。そこに後から加わった笹川シスターに聖母マリア様が出現し、現代の世相を憂い、人々が回心しなければ人類に恐ろしい災厄が下ると警告された。

 それを時代錯誤の迷信と笑って片付けるのは簡単だが、極めて真面目な話だったので、かいつまんで紹介しよう。

   

クリスチャンではない日本人の仏師に彫られた十字架を背負った珍しい形の秋田の聖母像

 重度の障害者手帳を持った聾者のシスター笹川は聖母像の方向から、えも言われぬ美しい声のお告げを聞いた。一度目の1973年7月6日には、修道女への同情と耳の不自由の治癒の予告が、二度目の8月3日には、人類への警告と勧めが告げられた。具体的には、世の多くの罪人や忘恩者が神を悲しませているので、彼らに代わって苦しみ、貧しさを捧げて償う霊魂を聖母は求めているというもの。また神の怒りを知らせる為に、人類の上に大いなる罰が下されようとしているが、祈りや犠牲的行為を通じて改心して祈ることによって、主の怒りを和らげ罰を遠ざけることができる、という趣旨であった。

  1973年10月13日には、「もし人類が悔い改めないなら、御父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。その時御父は大洪水よりも重い、今までにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。」という三度目の聖母からのお告げがあった。そして、この一連のお告げのあいだ、湯沢台の修道院の木彫りのマリア像は101回にわたって涙を流した。秋田大学の法医学部は、その涙が人間の体液であることを確認している。

 また、修道女は天使を何度も目撃し、6月29日には天使は彼女にロザリオの祈りの区切り目に、ファチマの祈りを付け加えるようにと指導した。この祈りは、聖母が1917年にファチマで3人牧童たちに教えたものだった。

 ここに、ファチマの聖母の予言と秋田の聖母のお告げとの連続性がみられる。これについては、秋田の故伊藤司教とベネディクト16世教皇を除けば、日本の司教たちは冷ややかな無視の姿勢を保っているが、海外からはファチマ同様に巡礼が集まっている。

 わたしは、湯沢台の修道院の三人の創立者もシスター笹川も個人的によく知っていたし、聖母の涙の不思議な出来事の目撃者の一人でもある。ちなみに、シスター笹川は奇跡的聴覚治癒の後、秋田の保健所に障害者手帳を返納している。そして、その時以来わたしは彼女と長距離電話で話せるようになった。

 ファチマの予言に含まれるロシアの回心のための祈りの勧めと、秋田の聖母の「火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう」は結びついて、今のロシアのウクライナへの侵略と、核爆弾投下の可能性を示唆しているものとわたしは考えている。

 その可能性が現実とならないために、世界の10憶のカトリック信者は、自分たちの罪を悔い改め、ウクライナでのロシアの残虐行為を終わらせるために真剣に祈らなければならない。フランシスコ教皇はバチカンから全世界のキリスト者に向かって、ロシアと旧ソ連邦諸国における戦争、第三次世界核大戦回避と平和のために祈るよう求めなければならない。そして、日本の司教たちはそれぞれの教区の信者たちにプーチンの回心と侵略戦争の即時終結のために教会に集まって一緒に祈るよう指導しなければならない。コロナを恐れて信者が教会に集まるのを禁止している場合ではないのだ。

 みんなが回心して平和のために結集して祈るなら、その祈りは必ず神に届き、世界の破滅を伴う第3次世界大戦の終末的核戦争は回避されると私は信じる。

プーチンは神を畏れないのか

 しかし、世界のキリスト者の無関心の結果、もしウクライナがロシアに併呑されれば、次はバルト三国やジョージアが同じ運命を辿ることになるし、そうなれば、終末論的核戦争も現実のものとなるだろう。だからどうしても今止めるしかないのだ。

 教皇フランシスコは、また世界の司教たちは、何故声をあげないのか?日本の司教たちも何もしないで手をこまねいているつもりか。たとえそうであっても、心ある信者は自発的に集って祈らなければならない。

 わたしは、黒海とカスピ海を繋ぐコーカサス山脈の雄大な自然に抱かれたジョージアの首都トビリシの街を懐かしく想い出す。とくに、民族衣装に身を包んだ美しい乙女たちの、タンバリンを手に優雅に踊る夢のような姿を決して忘れることができない。ロシアの圧政に何世紀にもわたって苦しめられながらも、たくましく生きてきた彼女たちの伝統と平和が時代錯誤な侵略戦争によって破壊されないことをわたしは心から祈る。

グルジア共和国の美しい古都トビリシはこのコーカサス山脈の麓にある

 教皇ヨハネパウロ2世の暗殺事件については、私のブログのカテゴリー「教皇暗殺事件」(10編)―2011年2月3日~6月6日―に詳しく書いているのでぜひご参照下さい。

 尚、「日ソ円卓会議」の頃はまだ私のブログが始まっていなかったので、残念ながら記録がありません。

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★ 「二発の銃声」(教皇暗殺事件ー3)

2011-02-26 17:52:53 | ★ ウクライナ戦争

★ 「2発の銃声」 (教皇暗殺事件-3)

2011-02-25 22:56:17 | ★ 教皇暗殺事件

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 教皇暗殺事件-3

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わたしは前回このテーマで書いた時、次のように結びました。

ではこれで一件落着でしょうか?

 ① 仮に、わたしの好奇心をいたく刺激したこの写真が、偽物、贋作であるとしても、ではあの写真の不思議な(ある意味で怪しい)魅力は一体どこから来るのでしょうか。まずこの点に対して答えを出さなければなりません。

② 次に、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの狙撃事件を機に封印が解かれ、発表に踏み切られた「ファティマの第三の予言」が、既に成就し、本当に過去のものとなってしまったのかどうかにつても、答えなければなりません。

わたしは ① と ② の二つの疑問に挑戦する前に、まずあの日、つまり1981年5月13日に本当は何が起こったのか、どう展開したのかを、伝聞でもなく、断片的報道を総合した推察でもなく、ぜひとも事件の第一資料から検証したいと思いました。そこで、バチカンの傍の一番大きい本屋さんに行って、資料を探し始めた。書店に備え付けの端末にかじりついて、色んな角度から検索しましたが、教皇狙撃事件それ自体を直接取り扱った独立した資料にはついに辿りつくことができませんでした。ちょっと不思議な気がしたし、また腑に落ちませんでした。そこで、いろいろ観点を変えて、探りを入れて行く中で、「あっ!これだ!」と思わず叫んでしまうような材料に辿りつきました。冷静に考えれば、それは当然あるべき場所にあったと言えるでしょう。

「カルロと共に生きた生涯」(スタニスラオ・ジヴィツ著) 19章 「あの2発の弾丸」(P.117~122)

スタニスラオ・ジヴィツと言えば、教皇と同じポーランド人で、教皇の秘書として、教皇の在位中最も密接に彼に寄り添ってきた人です。狙撃事件の時ももちろん同じジープに乗っていたし、手術にもその後の回復期にも誰よりも近く長く彼とともに居ました。あの忘れようとしても忘れ得ぬ出来事について何も書き遺していないはずはなかったのです。

初め、私はこの教皇暗殺のテーマをこの回でまとめ上げようと考えていました。しかし、その準備として問題の記事を読み進むうち、気が変わりました。1億2700万の日本人の中で、私がようやく探し当てたこの本に出くわす人は皆無に等しいでしょう。仮にたまたま出くわしたとしても、それを読みこなせる人はさらに少ないことでしょう。そうならば、この事件に関する貴重な第一資料を、まず皆さんに生で接して頂いて、それから結論に向かっても、決して無益な試みではないと思うに至ったのです。

それで、原文で6ページの章を2回に分けて、原文に沿ってご紹介いたしましょう。

 

スタニスラオ枢機卿の著書 「カルロとの生涯」

 

 

《2発の銃声》

 

 あの日の事を思い起こすたびに、私は何時も同じ思いに浸る。一瞬一瞬が、最初から生々しくよみがえる。今だに、どうしてあのようなことが起こり得たのか信じることができない。教皇を殺そうとなどと、それもあの教皇、ヨハネ・パウロ2世を、あのキリスト教の中心的な場所において・・・

 あの日、ジープは聖ペトロ広場の二周目を終わろうとしていた。青銅の門に終わる右側の柱列のところだった。教皇は彼に向って差し出された金髪の赤ん坊に向かって車から身を乗り出していた。その子の名前はサラと言った。やっと二歳になったばかりだった。彼女は色風船の糸をしっかりと握っていた。彼はその子を両腕に抱き取り、みんなに見せるかのように空中に持ち上げ、その子にキスをして、微笑みながら両親に返そうとしていた。 

 あとから再確認したところによれば、それは17時19分、素晴らしい天気に恵まれた水曜日の午後、屋外の一般謁見のあいだの出来事だった。そして、日付は1981年5月13日だった。 

 私は母親と父親の手が、このバラ色のぽっちゃりした子を受け取ろうと差し伸べられている光景に魅了されていた。 

 一発目の銃声が聞こえた。それと同時に、数百羽のハトが突然舞い上がり、驚いたように飛び去っていった。 

 そして、すぐその後で二発目の銃声が響いた。その時、教皇が私に向かって横向きにへなへなと倒れこんでくるのを感じた。 

 私はと言えば、-それは後で写真やテレビの映像で見て知ったことだが-本能的に銃弾が発射された場所に目をやっていた。そこには大混乱があった。色の浅黒い青年が身をくねらせていた。後で分かったところによれば、それがトルコ人の犯人、メハメット・アリ・アグサだった。

 今にして思えば、あの場所からあの大混乱に目をやったのは、起こった恐ろしい出来事に対する、見たくない、受け止めたくないという私の思いの産物だったのではないだろうか。しかし、私の両腕はその現実をしっかりと「感じて」いた。

 私は彼を、教皇を支えようと努めた。しかし、彼はまるでなるがままに任せようとしているようだった。優しく。彼は痛みに顔をゆがめていた。にもかかわらず安らかだった。私は尋ねた「どのあたり?」「腹をやられた」と彼は答えた。「痛みますか?」「痛む」と答えた。一発目の弾はかれの腹部を台無しにした。結腸に穴を開け、小腸の複数個所をずたずたに引き裂き、貫通してジープの床に転がった。二発目の弾丸は、右肘を傷つけ、左手の人差し指を骨折させ、二人のアメリカ人観光客を傷つけた。

 誰かが「救急車に向かえ」と叫んだ。しかし、救急車は広場の反対側にあった。ジープは全速力で鐘楼の門を通り、フォンダメンタ通りを通って、大聖堂の内陣の外側を迂回して、バチカンの救急隊の待機する場所に向かった。そこには連絡を受けた教皇の侍医のレナート・ブッッオネッティ博士がすでに待機していた。

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まことの信仰を求めて。たまに気楽な記事も書きます。

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