:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 映画『殉教血史 日本二十六聖人』 と ヘルマン・ホイヴェルス神父

2024-05-19 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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映画『殉教血史 日本二十六聖人』

ー われ世に勝てり ー

ヘルマン・ホイヴェルス神父

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― 1930年代前半期の日本カトリック教会の文化事業 ―

 手元には、昨年7月15日に亡くなられた平山高明司教様から私に託された一枚のDVDがある。題は、映画『殉教血史 日本二十六聖人』(以下、『26聖人』)で、1931年に公開されたこのサイレント(無声)映画は、満州事変前後の時期における日本のカトリック教会の微妙困難な状況と深く関連している。

 時あたかも、日本は軍国主義化、ファシズム化の一途をたどっていた。日本のカトリック教会(のみならずキリスト教全体)が敵性国の宗教として迫害され、信者が非国民扱いされる危険を回避するために、キリスト教徒は日本の美徳である「主君に対する殉死の精神」にも等しい死生観を持ったすぐれた国民であることを証し、当時の日本人信徒には希望を与え、海外に対しては日本のカトリックが偉大な殉教者を輩出して信仰を証した真正のキリスト教の伝統に生きる教会であることを宣伝するための、極めて政策的な「プロパガンダ」映画(宣教・宣伝映画)だった。

 ハリウッドのスコッセジ監督が描いた遠藤周作張りの「サイレンス」(沈黙)などに比べれば、『26聖人』は「信仰告白の映画」と「不信仰の映画」の違いが歴然としていて、全く次元を異にする逸品だった。また、原作は活動弁士(カツベン)がスクリーンの袖でナレーションや台詞を滔々と語る無声映画だったが、今私が持っているDVDは、尾崎登明の語りでトーキー化されていて、それがまた素晴らしい。ちなみに、尾崎登明は、コンヴェンツアール・フランシスコ会の修道士。隠れキリシタンの末裔で、アウシュヴィッツの殉教者、聖マクシミリアン・コルベ神父の研究者であるが、この26聖人の映画では、弁士として自らの声でナレーションと台詞を吹き込みトーキー(音声付き)映画として完成している。

 今の価値で言えば数億円の製作費は、当時日本の統治下にあった朝鮮の京城(今のソウル市)で牧場を経営していた政商、平山政十(故平山司教様の祖父)が私財を投げ打って作ったものだった。平山政十自身も隠れキリシタンの末裔だった。政十は国内での上映に加えて、海外でも各地で上映するために世界中を行脚している。

 配役には、片岡千恵蔵や山田五十鈴など、当代一流の俳優を起用しているが、特筆すべきはドイツ人イエズス会士のヘルマン・ホイヴェルス神父が脚本を執筆し、演出を担当していることだ。哲学者であるとともに、詩人、劇作家でもあるホイヴェルス神父は、この映画の製作にも深く関り、力を注いだ。一方、平山政十は渡欧し、この映画のラストシーンを飾るため、ピオ9世教皇による26人の殉教者の列聖式の場面のフィルムを作成していた。

若いころのホイヴェルス神父様

 私はいま、ホイヴェルス神父様と平山司教様の遺志を継いで、このDVDを携えて上映会の全国巡業をしたいものだと夢見ている。

 そのホイヴェルス神父様の第47回目の「偲ぶ会」の日が迫ってきました。今年も以下の要領で開かれます。今回はこの「26聖人」のことも話題にしましょう。ホイヴェルス神父様の生前の面影を知る80才以上の老人も、師の形骸に接することのなかった若い世代も、誰でも自由に参加できます。

薔薇.jpg

第47回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」

  日 時  2024年6月9日(日) 午後3時~5時半 (ミサと懇親会 参加無料)

  場 所  JR四谷駅(麹町口)1分 主婦会館(プラザエフ)3階「ソレイユの間」

       (イグナチオ教会の真向かい・双葉女学校の隣り)

  連絡先   Tel.: 080-1330-1212; john.taniguchi@nifty.com  谷口幸紀 神父

       初めての方でも、どなたでも自由に参加できます。

 

 

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★ 第47回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」のお知らせ

2024-05-08 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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第47回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」のお知らせ

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 ホイヴェルス神父様の47回目の「偲ぶ会」(追悼ミサ)の日が近づいてきました。私がお世話役を引き継いでから、早いもので7回目を迎えます。

 コロナ禍の間は、日本全国でほとんどの催し物が中止を余儀なくされた中、不思議なことに、この「偲ぶ会」だけは休むことなく続けられ、昨年は50名を超える方々が参加され盛況を呈しました。神様の不思議なお計らいだったと思います。

 1977年に亡くなられたホイヴェルス師の生前を知る人は84歳の私の世代がおそらく最後ですから、直接師の薫陶を受けた人の多くはすでに帰天されています。

 生誕から数えれば134年になる一人の宣教師の追悼ミサが、半世紀近く毎年絶えることなく続いた例が他にあったでしょうか。生涯を通じて一人で3000人以上に洗礼を授けた宣教師がかつておられたでしょうか。その幅広い功績が認められて外国人に与えられる最高の瑞宝章を受勲した宣教師など聞いたことがありません。

 

受勲されたホイヴェルス神父様

 私はこの7年間、師が遺された作品の紹介を通して、生前の師を知らない若い世代に、師の魂の偉大さを伝える努力をしてきました。どうか、このブログの師に関連する記事をあらためて辿ってみてください。

 この度、私は大阪高松大司教区の前田万葉枢機卿様から神戸のカトリック中央教会の協力司祭を拝命しました。しかし、ホイヴェルス神父様の追悼ミサだけは今後も東京の四谷で続けてまいります。

 第40回までは、生前のホイヴェルス神父様を知る世代の皆様が、師を懐かしみ追憶する会だったと思います。あれから7年、今は「偲ぶ会」の出席者の中に、生前の師を知らぬ世代からも、その遺徳に惹かれ、師の宣教師としての働きに学び、自らの信仰のあり方を考え、宣教の使命を見出そうとする信者さんが増えてきました。

 今年も新たな思いで「偲ぶ会」に参加いたしましょう。宣教のため何ができるか、何を為すべきかを考える場としての「偲ぶ会」には、大切な使命があると思います。その使命を果たすことこそ、ホイヴェルス神父様が私たちに期待しておられることではないでしょうか。どなたでも参加できます。

第47回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」

  日 時  2024年6月9日(日) 午後3時~5時半 (ミサと懇親会 参加無料)

  場 所  JR四谷駅(麹町口)1分 主婦会館(プラザエフ)3階「ソレイユの間」

       (イグナチオ教会の真向かい・双葉女学校の隣り)

  連絡先   Tel.: 080-1330-1212; john.taniguchi@nifty.com  谷口幸紀 神父

 

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★ 女について

2024-03-06 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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について

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ホイヴェルス師は「女について」以下のようなことばを のこされました。

 この間、新聞のアンケートがあって、あなたはもういっぺん世の中に生まれてくるならば、男と女といずれを選ぶか、との問いに対して男の98パーセントは男の方を望む。反対に、女の方では60何パーセントが、男の生活の方を選びました。

 現代の哲学者、故マックス・シェラーは、一時は、とくに美しくカトリック的な思想を世の中に生かしたのですが、晩年には女性について失敗し、再び無神論に陥って、男女についてつぎのような説を宣言しました。「近ごろは女の解放のために女の人は誇って、あの女はすぐれた人間だなどというが、それはつまらない話だ。メンシュ(人間)というのは男ばかりにあたることばだ」と。こうして彼はアリストテレスの、女は未完成な男だ、という意見におちてしまった。

 シュプランゲル博士は言われました、青年は自分の力で自分の行くべき道をひらいてゆくが、娘は自分が将来どうなるかという心配のために、若い年ごろはちょっと嫌な気持ちになると。女子が大学を卒業し、社会のあらゆる分野で男と競争して優位を保つとしても、はたして自分の心はほんとうに満たされるであろうかという疑問は、なお残ります。

 ここまで平気でものを述べてまいりましたが、急に心配が一つ心に浮かんできました。私の国のウェストファーレンのある一人の婦人は、本科生として、しかもミュンヘン大学で四年間神学を勉強しました。非常に珍しいことであります。女性は詩人にもなり、あるいは、国を治める女王にもなりましたけれども、この神学生のように本気で神学を勉強した女性が、どこかにいたでしょうか。

 ウェストファーレンの婦人たちは、以前、愛子会(現・聖心の布教姉妹会)のテレジア会長(愛子会の創立者)にかんして書きましたように、ウェストファーレンの男よりも元気なものです。たとえばドロステ=ヒュルスホフは、ドイツ第一流の女の詩人であってウェストファーレンの人です。そこでこの神学を勉強した先の婦人は、文学も修めまして、日本に来て、東京の大学で教えました。ある日曜日のミサで私は従順について説教しましたが、たとえば子供は親に対し、学生は先生に対し、妻は夫に対し・・・などと。これをきいたその方はたいへん不満をおぼえられました。あとで、どうもホイヴェルス神父の神学は、三十年か三百年ぐらい遅れているというのです。私も一生懸命に反省するつもりでありましたが、その方は後ほどドイツへ帰り、そこで女性問題を取り上げて、著書を発表なさいました。Das Bild der Frau heute『今日の女性像』という題名です。その本をよんでみて二つの点が目立ちました。

 一つは、女という人間は男から理解することはできない。もっと根本的に人間の立場から見直されなければならない、ということです。そして、本人は立派に三、四人の子供の母親であるにもかかわらず、母の使命についてはほとんどふれていません。

 二番目の点は、神学のほうで、まったく新しく女の問題を問わなければならないとというのです。この本はある男の神学者によって批評され、たしかにいろいろの問題を喚び起こしたが、解決の道はまだ知らされていない。とくに、生物学の方から見た母の使命にふれないなら、何も女の本質的な説明にいたらないではないか。それについては、旧約聖書のはじめの方で、女についての賢いことばが見いだされる。それは、女は男の助けであり、生命の泉である、と。じつに今日でも、心理学者の女性心理の謎にかんする研究はまだ十分ではない。女性みずからもこの謎を解くことはできなかった。やはり対立した男からこそ、この観察と研究がなされるべきものだ、と。

 ちょうど、前にも申しましたように、日本人は自分のみを見て、日本人の心理を十分申し述べることはできますまい。いわゆる対立によって知識は光り輝きます。人間についても、われの対立によって人間はみずからを自覚するのであります。

 私の意見を述べてみますと、女の性質は創造主の特別の深い同情で計画されたものであります。神は弱い者に重い荷物を負わせ給うた。そして、人間の幸福は女によって生まれるのであります。この神の計画に賛成する女は幸いであります。なぜならば、人にとって、神の御旨以上によいものはないからです。ですから、女の人は男の二倍ぐらいの信頼で、神に自分の存在を委ねなければなりません。ミケランジェロはアダムとエヴァの創造を描いて、みごとに両性の心理の差別を見せてくれました。アダムは眠りから覚めて,眼を力強く上げ、第一に見るものは神の御顔です。エヴァは創造されてからすぐに神のみ前にひざまずきます。手を合わせ、顔を上げたその眼は、存在をいただいたその感謝でいっぱいであります。

 二番目のエヴァはマリアであります。二世紀のイレネウスは、キリスト教の確信として、はじめてこのことを文字に託しました。キリスト教によって、弱きものは特別に認められ、救われたと聖アンブロシウスも言いました。マリアによって女は美化され、キリストによって強められたのです。キリストにおいて、男も女も、同じ人格と価値、同じように神の子、キリストの弟子になります。キリストによって両性は高く揚げられ、男の野蛮的な性質、女の動物的な弱さは(キリストによって)向上し、直されたのです。聖アウグスチヌスによって、この話の結論を結ぶことにいたしましょう。聖人は、ある説教でこう申しました。

  「人間の身体は、創造主なる神からのものである。であるから、わが主キリストが肉身を受くべきものだとしたら、人間から身体を受けるはずである。世の中に、謙遜なものとしていらっしゃるために、むしろ女によって身体を受くべきである。ゆえに、両性に対して、改造の希望を与えるべく、ご自分は男として生まれ、しかも、女によって生まれ給うたのである。原始において、神の創造に悪いことはないということを知らせるために、人間をば男と女として創られた。そしてこの被造物の一つをも決して見捨てない。——見よ、われ(キリスト)は男として生まれた。われはもとより被造物を呪うものではない。罪だけを嫌う。ゆえに、両性はおのおのの名誉を認めよ。めいめいは自分の欠点を改め、双方は救霊を希望せよ・・・。」

 

 ホイヴェルス師は冒頭でマックス・シェラーの例を引いておられますが、思想堅固な哲学者といえども、こと女の問題でつまずくと、神への信仰を失うほどのダメージを受け、誤った男性優位主義に陥ることが有り得るということでしょうか。政治家も芸能人も、そして神父も、女性問題には気を付けた方がいい。

 シュプランゲル博士は男と女の間には身体的・生理的な性差のみならず、心理的にも実存的に本質的な性差が存在していることを示唆しているようにも思えます。

 ホイヴェルス師の時代までは、神学の象牙の塔は男世だけの世界だ、という風潮が支配的だったのでしょうか。師は、女性が社会のあらゆる分野で男と競争して優位に立とうとする意志に対して疑問を投げかけています。

 そんななかで、同郷、ウェストファーレン出身で日本で修道女会を創設した「御園のテレジア」会長は別格で、師と深い極めて親密な友情で結ばれた人ですが、私を日本各地に連れ歩き、古い友人を次々と紹介してくださった師でしたが、このテレジアさまにはついに引き合わされることなく、私にはついに謎の婦人のままに終わりました。

 上に書かれているミュンヘン大学で研鑽を積んだ稀代の女流神学者は、どうやらテレジアさまとは別人のようで、これも日本で師と親交のあった人のようだが、彼女はホイヴェルス師の女性に関する神学論を30年、いや、300年時代遅れと酷評したようです。

 しかし、師は反論します。女には子供を産むという、母として、命の泉としての使命がある。この点を無視し、捨象して男と対等な地位と権利をひたすら追求しても、女というものを理解しその存在の神秘を解き明かすことは出来ない、と。

 そもそも、神は、土(アダマ)から人(アダム)を形づくり、エデンの園に住まわされた。そして、彼を深い眠りに誘い、彼の胸から抜き取ったあばらで女を造り上げ男のパートナーとされた。目覚めたアダムは、彼女を見るや「これこそ私の骨の骨、私の肉の肉、男(イシュ)から取られた女(イシャ―)と呼ぼう。」と喜びの声をあげ、アダムは女をエバ(命)と名付けた。

 神は人に園の中央に生えている善悪の知識の木の実を食べたら死ぬといわれた。しかし、蛇(悪魔=うその父)はエバに「神は嘘つきだ。食べても死なない。食べて神のように善悪を自分で決められるようになると困るからそう言ったのだ。」という大嘘をついた。「神のようになりたい」というのは、今日に至るまで人間に対する最大の誘惑だ。エバはその誘惑に抗しきれず、取って食べ、アダムにも食べさせた。

 悪魔の大嘘を信じて、神の命令に背いて不従順の罪で命の源である神から離反した人間は、命の対極にある死を自分に引き寄せ、その結果、楽園を追われ天は閉じられてしまった。そして、男は額に汗してパンを得、女は苦しんで子を産み、女は男を求め、彼は彼女を支配することになってしまった。これが罪の結果としての男と女の関係性である。だから、基本的人権として男女は平等だというのは自由だが、男女には役割の分担があり、男女の性差は人間性の基本に横たわり、この両極性の緊張関係にこそ人間の本質が見られる。

 聖母マリアを第二のエバと呼んだのは二世紀のイレネウスだと師は指摘する。マリアの存在は単にキリストの死と復活によって贖われた新しい人類の母であるというにとどまらない。処女マリアは幼子イエスを産んだ。幼子イエスは、天地万物の創造主、全能永遠の三位一体の神の第2のペルソナ、神のみことば=ロゴスであり、神である。その神が、神としてのすべての属性を脱ぎ捨て、我々と同じ全き人間としてマリアから肉体を受けて赤子としてこの世に現れた。そして、彼は第2のアダムとなった。

 つまり、マリアはギリシャ語のテオトコス(神の母)であり、神の被造物に過ぎないはした女でありながら、造物主である神の母となった、という驚天動地のパラドックスの主人公となった。

 ホイヴェルス師が女について語るとき、被造物でありながら「造物主なる神の母」となったマリアの存在が意識の背景にある。全ての命の泉となり神の母となった母性に思いをいたすことなしに女について語ることは、決定的な片手落ちであって、問題の本質を完全に見誤ることになる。

 基本的人権としての男女平等を論じるのは勝手だが、男女の根源的な差異と両極姓の間に横たわる緊張関係を忘れ、女が男と対等・同位になることだけに視野狭窄した論議には、妥当性があるとはとても考えられない。その点、LGBTのイデオロギーなどは、錯乱の極みというほかはない。

 ホイヴェルス師の語り口には、神学の世界は男性の神学者に限られた聖域と見なす保守的ニュアンスが感じられないだろうか?1890年に生まれ、87才で生涯を閉じたホイヴェルス師より半世紀若い私の世代は、バチカンの最高の神学者集団である「教皇庁立国際神学コミッション」の約30人のメンバーの中に、5人ほど卓越した女性神学者がいるような時代を生きている。

 私の大の親友のマリアンネ・シュロッサ―博士は、現在オーストリアのウイーン国立大学の神学部長で、前出のコミッションの有力メンバーであるが、今やカトリック神学の分野への女性進出のシンボルとなっている。30数年前に初めて出会った時の彼女は、黒海に注ぐドナウ川の上流の街ドナウヴェールトの出身で、当時ミュンヘン大学の博士課程のまだういういしい女子学生だった。初めて会った時、二人で楽しい東京の休日を共に過ごした。その後、何度もドイツで、ウイーンで、ローマで彼女に会ったが、昨年秋、私は久しぶりにローマで彼女と再会した。その時の思い出は私のブログに書き留めてある。まだ、読む気力のある方は、下のURLをクリックしてください。

★ ローマの休日 - :〔続〕ウサギの日記 (goo.ne.jp)

 

 

 

 

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★ 「最上のわざ」 ヘルマン・ホイヴェルス

2024-02-03 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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最上のわざ

ヘルマン・ホイヴェルス

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 前のブログに紹介したホイヴェルス師の著書「人生の秋に」の初版本には「年をとるすべ」という短編があります。そして、その中に「最上のわざ」という詩が含まれています。まず味わってください。

 

最上のわざ

この世の最上のわざは何?

楽しい心で年をとり、

働きたいけれども休み、

しゃべりたいけれども黙り、

失望しそうな時に希望し、

従順に、平静に、おのれの十字架をになう――。

 

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、

人のためにはたらくよりも、謙虚に人の世話になり、

弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること――。

 

老いの重荷は神の賜物。

古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために――。

 

おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事――。

こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。

 

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ――。

手は何もできない。けれどお最後まで合掌できる。

愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために――。

 

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と――。

 

* * * * *

 インターネットでホイヴェルス師の「最上のわざ」を検索していたら、雑賀信行さんというカトリックの信者さんの樹木希林さんに関する一文が目にとまった。

 2018年に亡くなり、15日に3回忌を迎えた女優の樹木希林さん。大の読書家としても知られたが、希林さんは「余分なものは何も置かない」という生活をしていたため、所有する本も100冊と決め、次のように語っていた。

 

樹木希林さん(写真:Andriy Makukha

「あたらしく気に入った本、手元に置きたくなった一冊がでてきたら、百冊のなかの一冊を、人にあげてしまうの。だから、いつも百冊

そして、最後まで遺(のこ)された100冊の中に1冊だけ、キリスト教の本があった。

そんな希林さんは、最期までホイヴェルス神父の本を手もとに置き、この「最上のわざ」を繰り返し口ずさんでいたのかもしれない。

* * * * *

「最上のわざ」は今日では大勢の日本人にホイヴェルス師の詩として愛されている。時には、それがカトリック司祭ホイヴェルス師の詩だと知らずに座右において口ずさんでいる人も多い。

 ある時ふと気が付いた。「人生の秋に」の「年をとるすべ」には、「昨年(これは師が来日44年目に初めて故郷の村を訪れた1969年6月のこと)私は故郷のドイツへ帰りましたが、南ドイツでひとりの友人からもらった詩」としるされていることに。

 しかし、それがたとえ南ドイツに伝わる無名の詩人の作であったとしても、晩年のホイヴェルス師は文字通りこの詩のままの心境で生きておられたのだと思う。だから、この詩はホイヴェルス師の最上のわざ」のままでいいのだと思う。

 この詩は普通は行間をつめて最後までつづけられ、ただ、都合によって改行が増やされていことがあるが、私は改行は「人生の秋に」のオリジナルのままにし、その代り、意味のまとまりに合わせて数行ごとにブロックにしてみた。何となくその方が心にしみ入る気がして・・・

 薔薇.jpg

 

 

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★ 美しき生家 ヘルマン・ホイヴェルス

2024-01-19 22:16:41 | ★ ホイヴェルス師

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美 し き 生 家

ヘルマン・ホイヴェルス

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 私の手元に今は絶版になって久しいホイヴェルス師の初期の著書「人生の秋に」の貴重な初版本がある。背表紙は半ば破れ、中表紙には私に宛てたホイヴェルス師の美しい筆跡のサインがある。奥付けを見ると1969年11月25日第一刷発行とあるから、師の手にとどいてすぐに頂いたことになる。その一冊の最初の短編「美しき生家」をここにご紹介しよう。

 

  

 

* * * * *

 1967年の夏の3か月のあいだ、私は44年ぶり、故郷のドライエルワルデを訪ねました。その時、土地の新聞は「美しきホイヴェルス家に大いなるよろこび!」という見出しの記事をかきました。これを見て、どうして美しい生家となったのかと考えてみました。もちろん学生時代には自分の生家をなつかし思っていましたし、いくどか生家を写生したこともありましたが、それが、よその人にも美しく見えるものでしょうか・・・。

 そこである日、アア川の橋の上まで行って、そこから国道を歩きながら右の方の生家を眺めてみました。なるほど景色のなかのきれいなその場面は、代表的なミュンスターラントの農家ではないでしょうか。ほどよく人と隣家からはなれ、ひじょうに明るい印象を与えます。

 どうしてそのような感じのよい家ができたのか? と考えてみて、やはりそれは父母のおかげだとわかりました。今でも、秋の森で嵐のざわめきを思いうかべると恐ろしくなります。

 父と母は1886年に結婚しました。この二人は将来の進歩に対するよい組合せでありました。かれらはグリムの昔話に出てくるように、その一番人間らしい年ごろ(新婚時代)この家について計画したのです。

 まず家のまわりにもっと光をいれたい。そこで森の一部を伐り開き、大木は船会社(造船)に売り出され、そのあとには新しい果樹が植えられました。家の東側と西側には一本の菩提樹、北には一本のブナ——これは避雷針の役目をつとめます。次の段階は家にかんするものでした。両親は、ひじょうに心の合った一人の大工と、家の改造についてゆっくり相談したのでした。母の希望は、屋根をもっと高く上げ、壁の窓はもっと明るくすること。パン(焼き)小屋を西から東へ移すことでした。この生家の屋根は後年、わらぶきから赤い瓦ぶきにとり替えられました。しかし北の方は今も昔のままの作りを残しています。

* * * * *

 なんとさりげない文章だろう。しかし、そこには晩年に初めて故郷に帰ったホイヴェルス師の生家に対する深い愛が感じられる。

 私は、1964年に師とともにインドに遊び、2000年の教会の歴史上はじめてヨーロッパの外に旅したパウロ6世教皇の形骸に触れた。時あたかも、第二バチカン公会議のさ中であった。

 1967の春から私は上智大学中世哲学研究室の助手を勤めていて、ホイヴェルス師の初めての帰郷に同伴することはなかった。しかし、1969年にホイヴェルス師、ビッター神父(イエズス会日本管区会計主任)、チースリク神父(聖心女子大教授・キリシタン史研究第一人者)ら戦前から日本に在住のドイツ人3宣教師推薦でドイツのコメルツバンクに就職した。そして、1974年から3年余り私はデュッセルドルフの地域本店に勤務し、1976年(の初夏?と記憶するが)、ホイヴェルス師の二度目の帰郷の際には、愛車を駆ってミュンスターランドのドライエルワルデに師の生家を訪れ、久々に師とお会いすることが出来た。

 

 私が師の生家を訪れたときに持っていたカメラはまだフイルムカメラだった。沢山の写真を撮ったはずだが、ネガの整理が悪く長年の間に散逸し、今はこの大きな納屋の前で遊ぶタンテ・アンナの子供たちの写真一枚だけになってしまった。まるで、120年ほど前にタイムスリップして幼いホイヴェルス兄弟を見ているような錯覚におちいる。母屋はこの左側で、ホイヴェルス師が描写した通りの佇まいだった。

 

 ホイヴェルス師の肉親として一人そこに存命であった姪御さんタンテ・アンナのおもてなしを受け、少年時代のヘルマン兄弟の勉強部屋で二人きりで昼食をご馳走になった。師はその時、「来年は細川ガラシャ夫人の歌舞伎をドイツで公演するから、お前はその現地マネージャーをするように」と命じられた。しかし、日本に戻られたホイヴェルス師からは、ドイツ公演の連絡はついに届かなかった。後で知ったことだが、師は1977年3月に教会内で転倒され、一時は新宿区下落合の生母病院に入院され、退院後の同年 6月9日に帰天されていた。私は9月に帰国してそれを知ることとなった。

 ノルトライン・ウエストファーレン州にあるホイヴェルス師の生誕の地ドライエルワルデは、森と豊かな農地の広がる美しい田園地帯であった。質実剛健なドイツ人の世界で、近くを流れる水量豊かなアア川には水車小屋があり、広々とした敷地に建つホイヴェルス家は、まことに明るく美しい佇まいであった。

 

 

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★ ホイヴェルス神父来日100周年記念 第46回 「ホイヴェルス師を偲ぶ会」

2023-05-28 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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ホイヴェルス神父来日「100周年」記念

第46回 「ホイヴェルス師を偲ぶ会」

に結集しましよう!

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私がお会いしたころのホイヴェルス神父様 

いつもの執務室で(筆者撮影)

 ホイヴェルス師は、一般的にはイエズス会所属のドイツ人宣教師哲学者教育者作家劇作家として紹介されますが、師はそれら以上に卓越した 宣教者、福音の伝道者 だったことを忘れてはなりません。

今年はその師の記念すべき来日100周年」に当たります!

 師は1923年8月25日に横浜に上陸。一週間後の9月1日にさっそく関東大震災の洗礼を受けました。

若き日のホイヴェルス神父様

 

 1947年に四谷の聖イグナチオ教会の初代主任司祭になり、1977年6月9日のミサ中に倒れ死去されるまで、30年間の長きにわたり同教会の主任司祭、名誉主任司祭として福音宣教と信徒の司牧に生涯を捧げられました。

 

在りし日の四谷の聖イグナチオ教会

聖イグナチオ教会の初代主任司祭として

 

 その間に3000人もの人々に洗礼を授けられたという実績は、世界広しといえども現代ではギネスブックものの偉大な業績として他に類例を見ないのではないでしょうか。1969年には日本の国から、外国人として受けることのできる最高位の勲2等瑞宝章に叙勲されました。長く日本に貢献した大国の要人ならともかく、一介のキリスト教の宣教師の叙勲は、カトリックの神父、プロテスタントの牧師の間でも全く異例の出来事ではなかったでしょうか。

 

勲二等瑞宝章をさりげなく身につけたホイヴェルス神父様

 

 日本のイエズス会が、そして、師がゼロから築き上げたイグナチオ教会が、師の来日100周年を公に祝う行事をまだ計画していないのであれば、私たち「ホイヴェルス師を偲ぶ会」が盛大に先鞭をつけましょう。そして、来日の日、8月25日には各方面でそれぞれに師の偉業を顕彰する催しを企画されることを願うものです。

 ホイヴェルス神父様は確かに哲学者であり神学者であり詩人であり劇作かであり、○○✕✕ でありました。しかし、師は決して研究者、大学の教授、という意味での哲学の「学者」ではありませんでした。師はプラトンのように自ら「哲学する人」、ご自身が「哲人」であったのです。そして弟子には「哲学することの悦び、その楽しみの秘訣を心から心へ、師弟の親密さの中で伝授しようとされました。直接師から「哲学する」楽しみの手ほどきを受けたものは、まことに幸いであったと言えるでしょう。

 皆さん! この偉大な「宣教者」「来日 100周年」 を盛大に祝いましょう。老いも若きも、その素晴らしい人柄と偉業を発見し、それを知り、学び、倣うために、師の生前のお姿を知る老人も、初めてその名を耳にする若い人も、カトリック、プロテスタントを問わず、キリスト者か、ノンクリスチャンかさえも問わず、新鮮な好奇心を持って第46回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」と記念ミサに飛び入りで参加し祝いましょう!

 この「偲ぶ会」が満ち足りた心で家路につくことのできる楽しい癒しのひと時となりますように。

来日100周年記念

第46回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」

日 時  2023年6月9日 午後3時より5時半頃まで(ミサと懇親会) 参加無料

場 所  JR四谷駅(麹町口)1分 主婦会館(プラザエフ)3階「ソレイユの間」

     (目印:双葉女学校の隣・イグナチオ教会の向かえ)

連絡先   080-1330-1212;john.taniguchi@nifty.com  谷口幸紀 神父

(注)去年と同じ広さの会場です。事前の出席通知をしていないかた、当日自由参加の皆様のためにも、まだ約20席あまりの余裕があります。たまたまメールをお持ちの方は、出来れば当日の朝までに出席の意向を上のアドレスにご一報ください。

 

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★ 天使のこえに背中を押されて

2023-05-09 23:31:42 | ★ ホイヴェルス師

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天使のこえに背中を押されて

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 寒暖の激しいこの頃、しかし、今日はよいお天気でした。その上、北の方から心の晴れるような天使のメッセージが届き、力が湧いてこころ新たにブログと向き合っています。

 クリスチャンからもノンクリスチャンからも、老いぼれ神父が「天使の声」などというと、またか!とそっぽを向かれてしまいそうですが、万物の創造主なる神の存在を信じられるなら、それほどばかばかしい戯言(たわごと)、読む気が失せる荒唐無稽な噺(はなし)とも限りません。

 今日、5月9日は(オットもう日付がかわってしまいましたか)、たまたま故ヘルマン・ホイヴェルス師の46回目の「偲ぶ会」のひと月前の応答日にあたります。

 実は、今年はこのブログに「ヘルマン・ホイヴェルス師を偲ぶ会」の案内を書くべきか、控えるべきか、で迷っていたところでした。

 それは、LGBT(性的マイノリティ)に関するわたしの 書評記事 のために、LGBTの推進派とそれに連帯する勢力から、ひどい攻撃を受け、すっかりマークされてしまったからです。

 私の身を按じて「今年はインターネットに会の開催を広く周知しない方がいいよ」と親切に助言してくださる人たちがいました。LGBTの過激派の中には何をしでかすかわからない人もいるから、というのが心配の理由です。

 他方では、恐れたり、怯んだりしたら、相手の思うつぼにはまることになるから、一切気にしないで自由に行動すればいいという思いも自分の中にはありました。

 そして、今日 私の背中を押す「神のつかい」「天使」「声」を聴きました。

 この「天使」は北海道に住んでいる実在の人物で、クリスチャンではありませんが、きわめて健康な判断力の持ち主です。

 実は、私は、過去1年近くにわたって、ホイヴェルス師の初期の著書で、今は絶版で読めなくなっている短編随筆集「時間の流れに」の内容に若干のコメントを添えて一編ずつ紹介してきました。実に心洗われるような清々しい名文です。私がブログに連載したのは、今年の46回目の「ホイヴェルス師を偲ぶ会」に間に合わせて、一冊の本にまとめ、それを今年の6月9日に参加者にお手渡しする計画を立てていたからでした。(各篇の内容はこのブログのカテゴリー「ホイヴェルス著 =時間の流れに=」からお読みください)

 それが、思いがけずLGBT論争に火がついて、大勢の人を巻き込んで大騒ぎになり、その対応に追われて、出版の準備が遅れてしまいました。いま、ようやく落ち着いて遅れた出版の準備を進めているところです。多分、今年の「偲ぶ会」に間に合わせて準備しかけていたものよりも充実した仕上がりになって、来年の「偲ぶ会」でご披露できるのではないかと思っています。

 コロナウイルスの問題は新しい局面に入りました。世の中では多くのイヴェントが3年間休眠を強いられてきた中で、不思議にも「ホイヴェルス師を偲ぶ会」だけは神様に護られて、一度も休むことなく毎年正常に開催し続けることが出来ました。ほとんど「小さな奇跡」と言ってもいいような幸運でした。

 私はコロナの問題を現時点で総括し、ウクライナ戦争と国際情勢の行方を占おうと思案しています。

 こんな混沌とした世相に、ホイヴェルス師ならどう対処されるのだろうかを、皆さんとともに考えてみたいものです。

 さて、私はすでにゴールデンウイーク直前に以下のような「偲ぶ会」の案内を、これまでの参加者の皆様には郵送しました。今、出席予定者の返信ハガキが届き始めたところです。

 このブログを見て興味を抱かれたかたは、どなたでも自由に参加することが出来ます。

 ホイヴェルス師の形骸に触れてみたいと思われた方も、〔続〕「ウサギの日記」のご贔屓の皆様の中で「オフ会」の乗りで発信人の顔を一目見てみたいという方も、ご自由に参加してください。

 新規ご出席希望者は、お名前、ご住所、お電話番号を書いて、私のメールアドレスまで「出席」のご一報いただけるとありがたいです。会場の準備のためにおよその人数を把握したいと思いますので。

 なお、当日の飛び入りも可能ですが、ご来場の際に受付でその旨お申し出ください。

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第46回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」のお知らせ

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 昨年、節目の第45回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」は無事盛会のうちに開催されました。

 予想を上回る50名の出席希望者を迎え、温もりのある追悼ミサに始まり、和やかに予定の時間を越えて無事おわりました。

 第40回までは、生前のホイヴェルス神父様を知る世代の皆様が、師を懐かしみ追憶することに終始する会だったと思います。あれから5年、今は「偲ぶ会」の出席者の中に、生前の師を知らぬ世代からも、師の存在を伝え知り、その遺徳に惹かれ、師の宣教師としての働きに学び、自らの信仰のあり方を考え、宣教の使命を見出そうとする信者さんが見受けられるようになりました。

 信者も司祭も高齢化し、日々活気が失われていく教会の現状を何とかしなければなりません。宣教のため何ができるか、何を為すべきかを考え合う場としての「偲ぶ会」には大切な使命があると思います。その使命を果たすことこそ、ホイヴェルス神父様が私たちに期待しておられることではないでしょうか。

 皆様をご自分の名のもとに呼び集め見守って下さるホイヴェルス神父様に出会い、語り合うひと時となりますように。

第46回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」

日 時  2023年6月9日 午後3時より5時半頃まで(ミサと懇親会)

場 所  JR四谷駅(麹町口)1分 主婦会館(プラザエフ)3階「ソレイユの間」

(双葉女学校の隣・イグナチオ教会の向かえ)

連絡先   080-1330-1212;john.taniguchi@nifty.com  谷口幸紀 神父

* このブログを見てご参加の方は、上のメールアドレスまで、お名前、ご住所、電話番号を書いてお申し込みください。

 

 

 

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★ ホイヴェルス師との出会い

2023-02-05 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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ホイヴェルス師との出会い

きっかけは森一弘神学生(後の東京教区の森補佐司教)だった

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 第2次世界大戦が終わるまで、父は内務省の高級警察官僚だった。

 原子爆弾が投下され、広島と長崎が焦土と化した直後、父はまず青森県陸奥湾でソ連艦隊との折衝に当たり、踵を返して広島の警察部長として転勤した。残留放射能の人体への影響が未知数だったので、アメリカは占領軍として自国の兵士を広島に送ろうとしなかった。代わりにやってきたのは明るく無邪気なオーストラリア軍の若い兵士たちだった。

 父は広島界隈の旧家から日本刀の脇差を供出させ、安芸の芸者たちからは―当分着る機会もあるまいと―着物を買い上げて、脇差は将校たち、着物は将校夫人たちへのプレゼントとして用意し、母を伴って占領軍との顔つなぎに挨拶して回った。だがそれだけでは足りず、海軍兵学校のあった江田島の近くの島の料亭旅館に将校らを招待し、女たちを侍(はべ)らせて数日間にわたり酒池肉林の接待攻めにした。敗戦国の卑屈なサービスだった。

 それが功を奏してか、私はヘッドポリスの坊やとしてマスコット代わりに可愛がられ、将校の膝に乗ってジープで広島市内を駆け巡ることにもなった。襤褸(ぼろ)をまとった同じ年頃の孤児が「ギブミー・チョコレート」と言って追いすがる姿を、ジープの上から見下ろす不思議な気分に戸惑った。

 天皇陛下が全国を行幸し、広島にもお来しになった。警護は無論父の仕事だった。学者の天皇が自然観察のためお忍びで宮島の植栽をご覧になりたいと言われた。特別のランチを仕立ててまさに桟橋を離れようとしたとき、どこで嗅ぎつけたか一人の新聞記者がランチに飛び乗ってきた。彼を無慈悲にも海に突き落とした父は、後日、大事なカメラが台無しになって可哀そうなことをした、と言った。

 お召し列車が岡山との県境を越えた時、父は車内で公職追放の辞令を受け取った。広い官舎を追われ、黒塗りの公用車もうばわれ、女中さんにもお手伝いの男性にも暇を出して、一家の転落が始まった。

心労も重なってか、お嬢さん育ちの母は開放性の肺結核で和歌山の療養所に隔離され、家族のもとに帰ってきたのはバラック同然の自宅で死を迎えるためだった。すでに重篤で施すすべもなかった母はせめて家族に見守られて31歳の若さで他界したが、半ば失業状態で三人の幼い子供を抱えた父は、途方に暮れて再婚した。

 学歴とキャリアだけで人の上に立ってきた人生の大きな挫折体験から、父は私に社会の激変にも耐えられる人生を歩むようにと、技術者になることを私に期待した。私もそれに応えて神戸の自宅から通える学費の安い国立大学の理科系を目指して受験勉強に励んでいた。しかし受験を目前にした正月休みに参加した広島の黙想会で、突然司祭職の召命を感じ、帰宅すると、開口いちばん「僕は東京の上智大学に進み、イエズス会の神父を目指します」と父に宣言した。

 失望のどん底に突き落とされた父は、人の口も借りて何とか翻意させようと説得に努めたが、かえってその努力が仇になり、私の決意はますます固くなるばかりだった。

 今ごろの東大受験校とは異なり、当時のミッションスクールは、大きな宣教の成果を上げていた。135人ほどの卒業生のうち約三分の一が洗礼を受けており、その中から3人がイエズス会の志願者として上京した。上智大四谷キャンパスの学生寮に着いたら、同期の志願者は全国から7人だったか9人だったか、とにかく奇数の人数だった。新入生を二人ずつ部屋に割り振ると、一人余る。その一人が何故か私で、一年上級の森一弘神学生と同室になった。

 森さん(と私は彼をそう呼んだ)は当時横須賀の海軍基地の跡地にあった六甲の姉妹校、栄光学園出身の秀才だった。入寮の次の朝から、森さんは私をイグナチオ教会の6時のミサに連れて行って、香部屋 (聖堂内陣わきの控室)で赤のスカートと白のケープに着替えて一緒に「ミサごたえ」(祭壇奉仕者)をするように指導した。

 これが私のホイヴェルス師との最初の出会いだった。以後、毎朝同じ目覚ましで起き、一緒にホイヴェルス師のミサに与り、ミサ後は3人そろって香部屋を出て、イグナチオ教会の正面の入り口から入りなおし、最後の列のベンチに並んで跪き、5分―10分黙想し、師が立たれると一緒に聖堂の外に出て、さらに2-3分立ち話をして朝食に向かうのが日課になった。

 たまにホイヴェルス師が早朝からお出かけになるときは、5時半のミサのアルーペ管区長が入れ替わって私たちと一緒にミサを捧げられた。アルーペ師は後にローマでイエズス会の総長になり、イエズス会の400年の伝統の大改革を敢行された人だ。年齢からいうとアルーペ師は総長として今の教皇フランシスコの上司だったはずだ。アルゼンチンのイエズス会の管区長ベルゴリオは、アルーペ総長の改革に抗議して管区長を辞任したが、すかさず聖教皇ヨハネパウロ2世は彼をアルゼンチンの枢機卿に抜擢し、それがフランシスコ教皇の誕生につながったという話は、確かな裏取りはしていないが、いかにもありそうな話だ。

 話を戻して、都会育ちの森さんは、六甲の山出しの野生児にとっては洗練された兄貴分だった。都内の多くの博物館、美術館、そして、上野文化会館や日比谷公会堂のクラシックの音楽会にも、見ておきなさい、聞いておきなさいと言って連れ回ってくださった。1歳しか年は離れいてないのに、大した大人(おとな)に思えた。

 

左から、私(イエズス会)工藤さん(ドミニコ会) 森さん(後のカルメル会)

3人とも別々のことを考えている

 

 学生時代の森さんは、どちらかと言えば物静かな思索的な人で、スポーツマンタイプではなかった。それに対して、私は中学・高校を通して山岳部で、六甲山を毎週の訓練場に、山猿のごとくすべての尾根と沢に精通していたし、夏は北アルプス、冬も極地法と称して、ベースキャンプを設けて頂上をアタックするヒマラヤのプロの登山家のまねごとをしていた。だから、山のことに関してだけは森さんより詳しく自信があり、案内もした。

 

左から森さん、工藤さん、三本目のピッケルは私の

 

 実は、紀尾井会に私を連れて行ってくれたのも森さんだった。上智会館で寝起きする大勢の志願者の中でホイヴェルス師に近づいたのは森さんと私だけだった。私は森先輩の後にくっついていれば、いいイエズス会士になれると信じて日々を過ごしていた。

 それから半年ほどしたある朝、ミサ後の黙想も終わって聖堂を出て、風雲急な曇天のもとに立ち止まったところで、二人の頭の上から長身のホイヴェルス師の声が下った。

 「森さん、あなたの召し出しはイエズス会ではありません。」

 森さんがその凛とした声をどう受け止めたかは知らないが、私にとってはまさに晴天の霹靂(へきれき)だった。そんな事って有りなんだ、とど肝(ぎも)を抜かれた。数日を経ずに彼の姿は寮から消えた。カルメル会に志願者として移っていったのだと思った。彼はその後、会からローマに送られ、司祭に叙階されると日本に戻り、上野毛(かみのげ)の修道院に住まわれたが、やがて修道会を出て東京教区の一司祭となり、白柳大司教のもとで補佐司教に抜擢され、大司教退任後は自分も補佐司教を辞めて、信濃町の真生会館に移って今日に至っているのではないか。

 私はホイヴェルス師のもとに一人残り、相変わらず師の「ミサごたえ」をしながら、イエズス会の志願者を続けた。そのころ、自分では勝手に師に期待され愛されていると思っていた。

 そのホイヴェルス師に私を引き合わせてくれた決定的な人物が森さんだった。そして、彼はその後も私の人生の重大な転機、危機に際して、一度ならず大きな役割を演じることになる。

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★ 私は、なぜ敢えてホイヴェルス師の「弟子」を僭称(せんしょう)するのか?

2023-01-23 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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私は、なぜ敢えて

ホイヴェルス師の「弟子」

を僭称(せんしょう)するのか?

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 ヘルマン・ホイヴェルス師の弟子は誰か?と問うとき、すぐ脳裏に名の浮かぶのは、師の生前夏毎に開かれていた紀尾井会の総会の光景だ。私が初めて参加したときには、大勢のキラ星のような先輩が顔をそろえていて、私などは20歳にも満たぬ無名の若僧に過ぎなかった。

 ホイヴェルス師の弟子たちが集う紀尾井会の総会には実に錚錚(そうそう)たる顔ぶれがそろっていた。中でも先ず思い出されるのは最高裁長官を努めた田中耕太郎氏だ。

 聖公会からカトリックに改宗した夫人の影響で無教会主義キリスト教からカトリックに改宗し、以後、カトリックの立場からの反共産主義を唱えた自然法学者だが、第二次世界大戦末期には、カトリックの人脈を生かしてローマ教皇庁を通じた和平工作に関与した。また、1949年には、参議院で優生保護法による人工妊娠中絶に経済的理由を追加する事に反対し、「一家が貧乏だから四人の子供を二人にしろ、人口八千万が多過ぎるから六千万にしろ、そういう考えこそフアツシヨ的、全体主義的の思想である」と喝破(かっぱ)した人だ。

 1957年8月19日の上皇様と美智子様との軽井沢のテニスコートでの出会いは、田中耕太郎が、カトリック人脈である小泉信三、吉田茂らと共に演出したとされており、田中もその出会いの場に立ち会っている。

 このような田中耕太郎がホイヴェルス神父を深く尊敬している姿を私は目の当たりにしていたが、あらためて調べてみると、二人とも同じ1890年生まれで、田中耕太郎は1974年に没し師はその3年後亡くなっていることからして、年齢的に師弟関係と呼ぶにはいささか無理があった。一般にホイヴェルス師の弟子の会と思われている「紀尾井会」においては、田中も、その後任の最高裁長官松田次郎もやや別格だった。

 加藤信朗(東大ギリシャ哲学)、今道友信(東大美学)、神父では沢田和夫、粕谷甲一らは、次の世代を代表して紀尾井会を賑わした人たちだが、彼らは、それぞれに大成していく過程で師に惹かれて近づいたというべきであり、濃密な師弟関係にあったとは必ずしも思えない。

 他にも実に多くの人々が師の周辺にいたが、師との物理的な距離感や接触の度合いから言って、師に見いだされ、手塩にかけて育て上げられた、と言えるほどの人は思いのほか少なかったのではないだろうか。

 そんな中で、私は18歳で上京して、四谷のキャンパス内にあった学生寮「上智会館」に住み始めると、早速イグナチオ教会の毎朝のミサでホイヴェルス神父様のミサ答えとして祭壇に奉仕し始めた。そして、神戸の六甲山を山岳部員と称して山猿のように駆け巡っていた粗野な私の心に、ホイヴェルス師の影響は日々刻み込まれていった。同じ学寮に住むイエズス会志願者らが舎監の神父の監督のもとで寮のチャペルのミサに与っている間に、私は初めから自由に師のそばに入り浸っていた。

 毎週火曜日の午後、ホイヴェルス師は聖イグナチオ教会の主任司祭室で、都下の学生たちを集め、「紀尾井会」と称して哲学や文学や信仰の話をされた。「紀尾井会総会」は長い歴史のあるこの小さな会のOBたちの集まりであった。日常的には10名に満たないグループで、東大生もいたし中大生もいた、青山や、聖心などのミッション系の男女もいたが、もちろん上智哲学科の私はほぼ無欠席の常連だった。二三年目には、会の世話役のような顔をして、オープンデッキの大きな録音機を回して、師のお話を収録したりもした。

 日々、腰巾着のように離れない私を、ホイヴェルス師はいろんなところへ連れて歩かれた。省線電車(今のJR)に乗って病院訪問をされるときも、国内の小旅行をされるときも、ついには師が1964年に初恋の宣教地、インドに旅をされたときにも、私は一人師の傍にいた。

 また、学生だった私の話にも気さくに耳を傾けられ、お誘いすれば曹洞宗の澤木興道老子に会うために、わざわざ遠く信州まで足を運ばれもした。

 

澤木興道老子の参禅会に来てくつろぐホイヴェルス師(右は私)

 

澤木興道老師とともに 昭和の最後の雲水と言われた澤木老師は日露戦争に参戦し、二百三高地の激戦で重傷を負って生還した兵(つわもの)だった

 

 私が師の愛と期待を裏切ってイエズス会を脱会しようとしたときなど、まだ新幹線のなかった遠い広島の修練院まで来られ、「それは悪魔の誘惑だ。お前は将来のイエズス会にとって必要な人間だから辞めてはならぬ。私の言葉に従いなさい!」ときつく言い渡された。私は、口では「はい」と答えたが、数か月後、結局行動でそれ裏切った。

 それでも、師は私を破門することもなく、上京してみたらイグナチオ教会の目と鼻の先に4畳半を私のために借りて待っておられ、また師のミサ答えを毎朝するように命じられた。

 師が東京の歌舞伎座で「細川ガラシャ夫人」を一か月通しで打たれたときも、初日、中の日、落(らく)の日には、師の右隣の席でご一緒に舞台を見守ることが許された。師は私にカトリック新聞のほぼ半ページにも及ぶ演劇評を書かされたが、それが私の文が活字になった最初のケースとなった。

 師が故郷(ふるさと)のノルトライン・ウエストファーレン州、ドレイエルヴァルデに里帰りされたときなど、たまたまデュッセルドルフでドイツの銀行に勤務していた私は、車を駆ってお会いしに行き、生家の二階の師の少年時代の勉強部屋で姪ごさんの手料理を二人でいただいた。その時、師は「来年には『ガラシャ夫人』の歌舞伎をドイツに持っていくから、お前はそのマネジャーをやりなさい」と言われた。しかし、それは実現を見なかった。

 師が無くなられたときは仕事でお葬式に出られなかったが、帰国後は追悼の会に度々参加し、司祭になってからは追悼ミサの共同司式をしたこともあった。そして、第41回目の「偲ぶ会」以降は世話役を引き継ぎ、コロナ禍にもかかわらず毎年「偲ぶ会」を続けることが奇跡的にできた。

 私の青春とその後の人生は、師を抜きにして語れない。私はいま師の面影を知らぬ若い世代に師の遺産を受け渡すことを人生の最後の仕事と心得て励んでいる。

 私も83歳になった。師の周りにいた立派な先輩方は既に世を去って、今では「我こそはホイヴェルス師の一番弟子!」と名乗り出る人も他に見当たらない。これが、不肖の我が身を顧みず敢えて「師の弟子」を僭称(せんしょう)する由縁(ゆえん)だ。この長い「時間(とき)の流れ」に免じてどうかおゆるしいただきたい。

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★ 第45回ヘルマン・ホイヴェルス神父追悼ミサに参加して (山下征子)

2022-12-03 00:30:13 | ★ ホイヴェルス師

カトリック東松山教会報「マラナタ」2022年11月号に、以下のような記事があることを知りました。

ホイヴェルス師の追悼ミサの主催者として興味があったので、筆者の山下征子さんの承諾を得て、このブログに転載いたします。

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第45回ヘルマン・ホイヴェルス神父追悼ミサに参加して

山下征子

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

 去る6月、参加者50名を超える方々が四谷の主婦会館に集い、師の追悼ミサが捧げられた。

 帰天後45年間一度も途切れることなく「偲ぶ会」が続いていることに感動し初めて参加した。

 ミサ後の懇親会では、生前の師を記憶する世代、師を知らない若い世代の方々が師への思い出を語られた。共通する思い出は、師はこよなく日本を愛されたこと。

『日本文化が持っている深い精神性はキリストの伝える愛と深く結びついている。日本人の心を表わす「いただく」「捧げる」「落ち着く」の3つの言葉が人の人生の歩みを表している。人はまずいただく仕事をしなければならない。赤ちゃんはまず親からいただきます。そして、学生たちは学校で知識をいただいて心を養います。その後家庭や社会で自分を捧げなければならない。そうして人間の心は満足し落ち着いて神のみこころに至る』

と師は語られていたとか。

 師は決して過去の人ではない。今の時代にもその魂は引き継がれるべき人だと思った。そして、しおりの最後の頁に「最上のわざ」が記されているのを見つけて、あっ!と。13年まえに帰天した夫は余命を告知されてからの数カ月、この「最上のわざ」のカードを枕元に置き、常に合掌していた。このカードは今、家庭祭壇の夫の写真の傍らに置かれ、私の信仰の在り方のヒントとなっている。「最上のわざ」を唱えると‟加齢も死も怖くない”。と、思えてくる。

 

【最上のわざ】

この世の最上のわざは何か?

楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であることを。老いの重荷は神の賜物。

古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。

おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらいしごと。

こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。

手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。

愛するすべての人のうえに。神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

  H・ホイヴェルス神父の言葉より

 * * * * *

プロフィール:ホイヴェルス神父はドイツで生を受け。イエズス会宣教師として1923年33歳で対日。上智大学で教鞭を執り、聖イグナチオ教会の初代主任司祭として司牧に献身、32年にわたり戦況と司牧に従事し、1977年87歳で天国に旅立たれた。師から洗礼を授けられた人は3千名を超え、日本を愛した宣教師の心は、今も上智大学や聖イグナチオ教会をはじめ、各地で息づいている。

 

 

 

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