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:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 友への手紙 インドの旅から 第5信 他山の石

2020-10-27 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

ー インドの旅から ー

第5信 他山の石

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 私のブログ人生最後のテーマと大言壮語した「創造と進化」がしばらく置き去りになって、いささか焦っているが、この「友への手紙」の続きを待つ、と言う声も届いていて・・・。

 さて、第5信はサイゴンを後にしてシンガポールに向かう船の中で、ベトナムの現実を見て感じたことを纏めたものだが、戦争のその後の展開を知らない時に書いた記述には、おのずから限界があった。その点だけは留意して以下をお読みください。

 

第5信 他山の石

 K君、きみは確かベトナムのカトリックが多数派の仏教徒と争っている姿を見て、自分はそのような宗教抗争の一方の側に立つことには抵抗を感じる、と言っていたと思う。

 ぼくはベトナムの街を歩き回りながら、きみのことを考えていた。確かに、戦争の一方の当事者として人殺しに加担しているようなキリスト教を、自分の信ずべき宗教として受け容れるわけにはいかないと言う気持ちは良く理解できる。だから、ベトナム戦争の現実を残念に思う。また、こんな現象的なことで躓いているきみを、宗教の奥深い本質を見ていないと責めるつもりもない。およそ躓きと言うものは、個人的なものにしろ、歴史的なそれにしろ、みんなそういった性質のものだから。

 そこで、他山の石と言ってはいささか大げさかも知れないが、同じカトリックの片割われとして、この戦争から学んだことを通してぼく自身の生き方を正すことで、君を躓かせたことに対する謝罪にかえなければと思った。

 インドシナ半島の国々は、もともと仏教の盛んな土地柄だったが、キリスト教の組織的宣教活動は、その国の植民地化とともに始まったと思われる。

 ところが、ひとたびベトナムが植民地化されると、フランス語に秀で、ついでに英語もおぼえ、西欧風の習慣を身につけた人間が、植民地政府内で高位高職を占めるようになるのは、自然の成り行きだっただろう。そして、こうした趨勢を目ざとくとらえ、それにうまく適応していったのがカトリック教会によるミッション教育ではなかっただろうか。かく言うぼくも日本のミッションスクールの産物だ。

 近代的魅力にあふれた教育にひかれて途上国のブルジョア層が子弟をその手の学校に送り込んでいった。ところが、ベトナムは回教圏でもヒンズー教の世界でもなく仏教の国であったから、エリートの青年たちの多くは、西欧の技術文明とともに宗教までも受け入れることに大きな抵抗を感じなかったに違いない。やがて彼らは社会的エリートとして、貧しい同胞たちを指導することになる。こうして、ベトナムにおけるキリスト教的ミッションは一見華やかな成功を収めたかに見受けられた。

 では、ベトナムでの実際の結果はどうだっただろうか。要職の大部分は姻戚関係で占められ、賄賂が横行し、しかもその多くがカトリックや親カトリック的人物の仕業となって、多数を占める仏教徒農民との間に溝が生じて行った。

 そして、この溝のこちら側では自分たちの特権を護り、さらに拡大するために、格差に目をそむけ、疎外された人々の叫びに耳を閉ざし、自分たちの生み出した矛盾に対する良心の呵責をごまかすために、場当たり的な慈善事業出お茶を濁す。西欧の民主主義に結ばれたカトリックの陣営だ。

 それに対し、あちら側では、若い革命の闘士たちが、植民地支配からの解放と仏教と結ばれたマルクス主義革命による理想社会の実現を約束しながら、民族解放の戦いに邁進する。

 この際、西欧の文明的価値をもたらしたキリスト教を、それに付帯した弊害の故に全否定しても問題の解決にはならない。べトコンの民族主義的な革命運動は、植民地政策に対する反発からか、愛国心をかき立てる理想を掲げながら、現段階では貧しさからは抜け出せず、飢えは続き、祖国統一を大儀とする戦いは泥沼化して出口が見えない。

南の政権内部でも、腐敗した指導部を倒しより矛盾の少ない指導者を立てるためのクーデターが、現実には、軍内部で頭角を現した若い将校が、成功すれば権力の座に着けるし、失敗しても、どさくさに紛れて財貨をかき集めて逃げ出せばいいと、いずれにしても損のない略奪行為を正当化する大義名分と化していた。国を愛してのことではないのだ。その間に、国力は衰え、民心は乱れ、ますます泥沼化が進んでいく。

 立ち遅れた植民地からの解放と近代化は、過去の日本の「明治維新」などとは比較にならないほど難しい事業のように見受けられる。キリシタン弾圧と鎖国で植民地化を免れた日本の場合は稀有の成功例と見た方がいいのかもしれない。

 いま、ベトナム戦争の背後にある東西の冷戦構造について話を広げるつもりはない。しかし、言えるのは、ベトナムにおける今日までのカトリック教会のありかたを全面的に肯定できないのはもちろんだが、革命を美化する政治運動も、そのまま賛成することはとても出来ないということだろう。

 むしろ、ベトナムの現実に向き合う道はただ一つ、ぼくたち自身がキリスト教の原点に立ち返って、ベトナムの現状の矛盾や葛藤をぼくたち自身の生き方の中にも起こり得る問題として受け止め、彼らとともに苦悩することでなければならないと思う。

 えらく話が抽象的になってしまったけれど、ぼくが今ここに出した一般論は、今の日本にもそのまま当てはまるように思う。

 ベトナム問題と比べて、今の日本の問題は、もっと内側に鬱屈したものであり、形をとって表れにくいものであるために、それに対処するのがより困難であることかもしれない。さらに、日本の教会が歴史の流れの中で開花させうる花と、それが結びうる果実の豊かさを思うとき、自分たちの怠慢と罪のためにその可能性を現実化できなかった時の損失に対する責任がより深刻だと言う点を忘れてはならないと思う。

 ぼくたちに与えられた可能性が大きければ大きいほど、暗闇の勢力の妬みも深く、そのやり口も巧妙になるに違いない。だから、ぼくたちもそれだけに注意深く、また、自己に対してより厳しくなければならないだろう。

 具体的問題については、日本に帰ってからゆっくりと話し合うことにしよう。

 学生会の皆さんによろしく。早く目的のインドからの第一報を書きたいと思っています。

 なんと青臭い、気負った文章かと、今読み返して、恥ずかしくて穴があったら入りたい。しかし、これが今から55年前、25才の大学院生の正味の姿だったのだ。

 今、私たちはベトナム戦争がどのような結末を迎えたかを知っている。しかし、この便りを書いていた私と、当時の世界はまだそれを想像することも出来なかった。

 私が訪れたころ、ベトナムとアメリカは互いに憎しみ会い、殺し合っていた。それが今では、片や資本主義の大国、片や共産党一党独裁制の小国でありながら、経済的だけでなく軍事面でも友好関係を結び、親密なパートナーになっている。トランプと習近平との厳しい対立とは対照的な関係だ。誰が、あの時、このような展開を予測し得ただろう。

 あの頃の私は、自分がカトリック信者であることを過剰に意識し、カトリック教会の当時の姿に不満を抱き、教会の改革と刷新を求めてめくら滅法もがいていた。日本の社会が欲望の赴くままに経済的繁栄を追い求めている中で、それに引きずられて金銭崇拝と世俗主義の坂道を共に転落していく聖職者と信徒の姿を憂い、キリスト教の信仰だけが日本の社会を救えるかのような思い上がった錯覚に酔っていた自分がそこにいた。

 あれから55年。今の私はどうだろうか。日本のカトリック教会は世間の風潮に対して何ら効果的抵抗を示すこともなく、ただひたすら押し流されて衰退の一途をたどっている。世界のカトリック教会は、直近の6代の教皇が一貫して第2バチカン公会議の改革を推進しようと強いイニシャティブを取っているにも拘らず、全体としては1965年に幕を閉じた公会議をいまだに受け止めかねているし、日本の教会に至っては、その改革の波はまだ届いてさえいない。

 司祭になるためにローマに渡り、公会議の生きた成果を持ち帰って日本の教会の中に広めようと大志を抱いてはみたものの、帰国後のあらゆる試みは、公会議に背を向けた日本の教会指導部の厚い壁に阻まれて、一つ残らず失敗と挫折に終わってしまった。

 いまは、日暮れて道遠しの感を深くする毎日だ。これも私の不徳の致すところ、私の罪の結果として、甘んじて受けなければならないのか。

このままでは日本のカトリック教会に未来はない。

しかし、起死回生の道がないわけではない!

次はシンガポールから

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★ 友への手紙「インドの旅から」 第4信 ベトナム

2020-10-14 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

インドの旅から

4信 エレガンス・ヴィエトナミエンヌ

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今回のサイゴンからの報告を読んでいただく前に、第二次世界大戦後のベトナム情勢をいささかおさらいしておく必要がある。

1953年ホー・チ・ミン主席に指導されたベトミン(ベトナム独立運動組織)がディエンビエンフーの戦いでフランスの植民地支配者を打ち破った後、1954年のジュネーブ会議でベトナムは南北に分断された。北は共産主義者のホー・チ・ミンが指導し、南はCIAによって擁立されたカトリック信者のゴ・ディン・ジェムが大統領に就任した。それに伴い、100万人のカトリック信者が難民として南に逃れてきた。

ジュネーブ協定は南北統一総選挙を定めたが、ホー・チ・ミンには勝てないと踏んだ南のジェム大統領が総選挙を拒否し、それに反発して南ベトナムに民族解放戦線が結成され、こうして、南ベトナムは内戦状態になった。

ジェム政権の反政府勢力に対する弾圧は残虐を極め、裁判もなく投獄されたものの数は80万人に及び、1960年までの10年間だけでも9万人が処刑され、19万人が拷問により身体障碍者になった。(私は同志を集めてベトナムの政治囚釈放運動を日本で展開したが、それは機会があったら別途取り扱いたいと思っている。)

わたしがサイゴンを訪れた1964(東京オリンピックの年)前後のベトナム情勢は混沌としていた。当時のアメリカ大統領はケネディーだったが、アメリカの思い通りにならないジェム政権に対して不満を募らせていた。他方、カトリック以外の宗教に抑圧的なジェム政権に対して、人口の多数派を占める仏教徒が抗議行動を活発化した。そんな時、アメリカ大使館前で仏僧が予告焼身自殺を遂げるまでに事態はエスカレートしていった。

 

車の下の線と炎の交わるところに僧侶の頭が写っている

横顔、黄色い(衣の)肩と右腕が

 

そして、ついにアメリカの軍事顧問団と一体となった南ベトナムの反乱軍がクーデターを起こし、ジェム大統領は殺害され、軍事政権が成立した。それ以来、南ベトナム政府内では13回ものクーデターが発生する。そんな混乱の中、我がラオス号はサイゴン港に停泊した。

 

4信 エレガンス・ヴィエトナミエンヌ

 

S君、お元気ですか?

サイゴン川をくねくね遡行して3時間、ぼくは東洋のパリに着いた。

広いブールバール、したたるような並木の緑、シャレた店先に日本の商品が並ぶ。カフェー、花、芝生、公園。建物はデコラティフで彩も美しい。

しかし、この美しい街は同時に血塗られた町だった。

緑の芝生は、市街戦のために幾重にもジグザグに掘り返され、至る所に鉄条網が螺旋状に敷かれ、レンガ色も淡い古く大きなカテドラルには、片方の塔の十字架が無い。

まだゼロメートルのデルタ地帯の低いジャングルの間をのろのろと遡行していた頃から、小さな双眼鏡で捕えて、不審に思っていたので訊ねてみたら、3週間前の市街戦の時、砲弾が撃ち落としたとのことだった。

 

片方の塔の先端を失ったサイゴンのカテドラル (旅のスケッチから)

 

その日、運よく儒教のお祭りと聞き知って、タクシーを飛ばして見に行っての帰り、回教のモスクに挨拶し、その足で仏教のお寺へと向かった。

私はそこで、ミス・ヴァンと言う一人の安南美人にめぐり会った。透き通るような長いワンピースのスカートがウエストから前後に切れて、その下に光るような絹のズボンがのぞいている。

一体に、ベトナムの女性は骨格からしてきゃしゃに出来ているのか、この服がとてもよく似合う。彩も美しいその着物のすそが、歩むにつれてそよろと動くのである。

「わたしは、インドで開かれるカトリックのコングレスに出る途中だが・・・」と言うと、「私は仏教徒です」と静かに答えた。

ハイスクールの数学と科学の先生だと言う。流れるようなそのフランス語、英語にも独特のメロディーが感じられる。

彼女は、

「この私たちの寺の住職は、昨年、自分の身体に火を放って死にました」と説明してくれた。

 お寺とは言っても、コンクリート造りで、あざやかな色彩の広いステンドグラスは、南国の陽ざしを受けてまぶしいくらい明るく、広い庭には四季を通じての花が咲き乱れて、奈良や京都のお寺とはおよそ趣を異にしている。これが生きている仏教と言うものなのだ。だから、またそれだけに、「バーベキューの一つや二つ・・・」とうそぶいたゴ・ジンヌー夫人の言葉が、凄みを帯びてのしかかって来る。

 

ニクソン大統領と談笑するゴ・ジンヌー夫人

 

ヴァン嬢の淡々とした言葉の陰に、私たちカトリックに対する憎しみがひとかけらもこもっていないのを感じ取りながら、うら悲しくさえあった。

彼女の案内で市内見物もした。ゴ・ジンヌー夫人の大理石の立像は、耳と鼻が欠けて醜くなっていたし、彼らの宮殿は、革命軍の爆撃で完全に破壊され、戦車に踏みにじられていて、憐れな廃墟と化していた。

 しかし、その廃墟には、今また新しい宮殿が建てられつつある。政治的不安定さのために、建築らしい建築はこの宮殿のそれ以外には一つも見受けられない。建築ブームの香港とはいい対象を見せている。

 それにしても、この宮殿は一体だれのためか。新しい軍事独裁者は、この宮殿の完成を見ることが出来るのだろうか。

 「私たちの本当の悩みは実質上政府と言うものを持っていないということなんです」と彼女は

説明してくれた。そして、この無政府状態は、悪化の一途をたどっているという。

 彼女は夕刻までつき合ってくれた。

 夜のサイゴンは危ないところだと聞かされていた。バイオネットを付けたマシンガンの兵隊が、至る所に立っている。警官もピストルの代わりにライフルを持っている。しかし、このいかめしい兵隊も、たいていは快く並んで写真に入ってくれるほどの気やすい連中なのだ。

 ところが、兵隊と警官は必ずしも仲良しではないらしい。夜は危ないからといって送ってくれた兵隊を、港に入れまいとした警官に彼は銃を向けた。すると、警官はいまいまし気に両手を挙げて道をあけたのだ。ピリピリした空気がはりつめていた。

 港の入り口には M.P. のジープが並び、人だかりがしていた。夜、銃声を聞くのも稀ではないというから、きっと何かあったに違いない。女たちが泣いていた。

 ついでながら、サイゴンの夜は、夜の女の多いことでも有名だ。東洋のパリと言う名も、町の美しさからだけのものではないと見える。

 次の日、サイゴンから北へ70マイルばかり走ってみた。

 最初に渡った大きな鉄橋のたもとには小さな砦があって武装兵らがたむろしている。幹線道路なのだ。

 荒れ地の中から次々に難民のが現れる。彼らは、北ベトナムから村長に指揮されて、村単位で移ってきたのだそうだ。去年移ってきた村と、10年前に移ってきた村とではずいぶん開きがあるが、彼らはまず各自の家を助け合って建て、次に教会を建て、学校を建てる。教会は、ファサードだけはコンクリート造りで高くしてあるが、後ろは低いトタン屋根の粗末なものだった。

 彼らは、まずジャングルの木を切って薪を作り、それをサイゴン市内へ売りに出て、わずかながらも最初の現金を手に入れる。次に炭を焼く。畑、田んぼ、そして少し落ち着くとバナナ、ゴムなどを植える。ゴムは、お金になるまで10年以上もかかると言う。

 古い村も、新しい村も、これらの過程を完全な共産態勢でやる。家を建てることから、耕す、植え、出荷し、利益を分けるまで・・・。

 共産圏から逃れてきた彼らが、村を単位の原始共産社会を営んでいる。これはどうしたことだろう。

 彼らは自衛もやる。南ベトナム軍は(徴兵がベースだと思ったが)兵隊を集めるのにポスターを貼り、ヘリコプターを飛ばしてビラをまく騒ぎだ。しかし、そうして集まった兵士は、ご飯や服が目当てだから、べトコンと衝突して、仲間の一人が血しぶき上げて斃れでもしようものなら、銃も服もかなぐり捨てて逃げ出してしまう。しかし、同じ彼らが、ひとたび自分の村のためとなると、死ぬまで戦うと言うから大したものだ。

 ついでに言うと、政府軍は砦を作り、鉄条網を張り巡らすが、べトコンはタコツボを掘ってもぐり込むだけだから、中で死んでいても長いあいだ気付かれぬままいることがあると言う。

 立派なハイウエイを後から追い抜いて言った小さなバスがある。屋根には何やら荷物をどっさり積んでいる。僕の車のドライバーが、「あのバスは無事に北に入れる」と言ったので、どうしてそんなことがあり得るのかと訊ねたら、あの会社はべトコンに金を握らせているからだ、と教えてくれた。

難民の家の中も見せてもらい、バザーも見たが、およそ食えるものなら何でも売っていた。深入りし過ぎないうちにサイゴンへ引き返した。帰り道、通りがかった兵隊の溜まりでは、砦の壁に白ペンキでドクロの落書きがしてあったが、何とも陰惨な印象を受けた。

夕方、昨日のヴァン嬢をお別れに船に招待した。彼女は別の色の安南服に着替えて時間通りにやってきた。

同じ船でフランスに行く日本人の女子学生に和服を着てもらって、ティーセレモニーで接待した。

別れ際に彼女は、オー・ルヴォアールと言って手をさしのべた。服装も、ものごしも、とても優美だった。私は手を差し伸べながら、エレガンス・ヴィエトナミエンヌとはまさにこのことだな、と思った。

ぼくの見たベトナムは、ざっとこんなものでした。

どうぞ、みんなによろしく。

 

 

世界最強、最新鋭の装備の陸海空軍を投入しても勝てなかった戦い。

写真は北爆に踏み切ったB-52空の要塞 今でもグアム島では現役

 

わかりますか?

左端の兵士の伸ばした手の下に胴から切り離された二つのべトコンの首が

 

 ベトナムの汚い戦争はアメリカの敗北に終わった。19731月にパリ和平協定が調印され、アメリカ軍の全面撤退が始まった。1975年には北ベトナム軍は全面攻撃を始め、南ベトナム軍は一斉に敗走を始める。4月にはサイゴンが陥落する。大混乱の中、アメリカ人と多数のベトナム人の金持ちはヘリコプターでサイゴンを脱出し沖合の空母に逃れた。しかし在留日本人は拒否されて混乱を極めたサイゴン市内に取り残された。

 南ベトナムは北に吸収される形で統一された。アメリカの軍事介入から15年間続いた戦争によって、南北ベトナムは500万人の死者とほぼ同数の負傷者を出し、国土は荒廃した。アメリカも延べ250万人の兵士を投入し、30万人を超える人的損失を出した。

 それなのに、1995年にはベトナム社会主義共和国とアメリカは和解し、2000年以降は人的交流も盛んになり、2000年代後半には軍事面でも接近し、「昨日の敵が、今日の友」に変わる勢いを見せている。

 一体あの戦争は何だったのか。なぜ、戦争をしないまま「友」になれなかったのか。

しかし、ベトナムのことは言ってられない。

1941年に真珠湾にから始まって足かけ5年、広島・長崎の原爆で終わった第二次世界大戦も、日本の側だけで約310万人の死者を出し、戦時中は「鬼畜米英」と呼んで憎み恐れたアメリカを、今は最友好国・同盟国としているではないか。

 東南アジアの民間の犠牲者、アメリカ軍将兵の死者を加えれば、ベトナム戦争以上だったにちがいない。

 

(教会のスケッチの他の写真はすべてウイキペディア「ベトナム戦争」から借用しました)

 

 

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