:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 二人の教皇の同時列聖式

2014-04-30 17:21:46 | ★ ローマの日記

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二人の教皇の同時列聖式

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2人の教皇が同時に聖人の位に挙げられて、列聖式が仲よく一緒に行われるということは、

教会の2000年の歴史の中でかつて聞いたことがない。

同じことは、確率としては世の終わりまでもう二度とないと考えた方がいいだろう。なぜか?

その様な稀な偶然が発生するためには、

二人の教皇の死去の年があまり離れ過ぎてていないことと、前者の列聖調査に要した長い時間に比べ、

後者の調査に要する時間が極端に短い必要があり、しかもその調査が偶然ほぼ同時に終わる必要があるからだ。

因みに、ヨハネス23世は1963年6月3日に亡くなってから列聖まで、その調査に51年近くを要したのに対し、

教皇ヨハネパウロ2世の場合はわずか満9年しかかかっていないのだ。

このことからして、教皇ヨハネパウロ2世の聖性がいかに疑問の余地のないものであったかがわかる。

 


私は、聖ペトロ広場で徹夜して歌い踊る自信がなかったので、初めからそれは諦めて、

列聖式の始まる朝、応接間のテレビの前に陣取って、デジカメをもって式の始まるのを待ち構えた。


 

昨夜の混沌状態から一変して、広場は整然としていた。



参列の群衆は聖ペトロ広場だけでなく、遠くテベレ川の川岸までぎっしりと埋め尽くしているようだ。

手前右半分の白い衣服の集団は、神父や司教などの聖職者たちだ。



遠目には整然としているが、テレビが大写しにした聖堂正面から天使城に向けて延びる道はこのような有様だった。

 


聖ペトロ広場の奥、大聖堂のファサードの前には祭壇が設けられている。

地上の人間の姿と比べれば、2人の教皇の絵がどれほど大きいかが分かるだろう。

黄色から赤へグラデーションのついた円形の花の植込みの左右の白い集団は、

後でこの大群衆にくまなく聖体を配って歩く司祭たちだ。


定刻10時に司式者の行列の先頭が姿を現わした。



沢山のいい写真を省略しよう。行列の最後から現れたフランシスコ教皇が最初にしたことは、

久しぶりに公衆の面前に姿を現した引退教皇ベネディクト16世に挨拶することだった。 

他の枢機卿たちと同じ祭服を身に纏い、彼が教皇であったことを示す唯一の印は、

彼の帽子(教会用語でズケットという)がタダの枢機卿達は赤なのに、教皇であった印の白である点だけだ。

 


ベネディクト16世はさらに老けて見えたが、以前より健康そうだ。

暗殺に怯えるかのような目つきと緊張感はもうない。

 


今日の二人の主役の一人、教皇ヨハネパウロ2世の巨大な絵をテレビのカメラがアップで捕らえた。

暖かい、優しい、しかし重々しい、毅然たる、・・・形容詞は幾つも重ねられる深い人格をにじませている。

忘れないうちに断っておくが、今日のブログの写真は例外なくテレビ画面を私のデジカメで撮ったものだ。

昔のテレビは、画面をカメラでとらえると、横に走査線の縞模様が映って絵にならなかったが、

今のハイビジョンの映像は、何とか観賞に耐える画質を保ってくれる。



行列が組まれ、祭壇脇に二人の聖人の聖遺物が運ばれてきて安置された。

左の聖遺物は、教皇ヨハネパウロ2世の血液を納めたクリスタルのシリンダーだ。

右側の遺物はヨハネス23世のものだが、中身が何であるのかはわからない。



2人を教会の聖人のカタログに書き加えることを厳かに宣言した後、

教皇フランシスコはミサを挙行した。



カメラを意識して愛嬌をふりまくいつもの顔とは別の顔の教皇がそこにいる。



ミサの中で信者は聖体拝領ということをする。平たく言うと、ミサの中で教皇がキリストの故事にならって、

丸い小さな白い薄いウエハーのようなパンの上に聖別の言葉を言うと、

その「パン」(には見えないけれど)はキリストの体に変るとカトリックでは教えている。

これは、実はこの聖ペトロ大聖堂が建設されたころ、プロテスタント改革を提唱した

ルッターとその追随者たちとカトリック教会との間で、真向から見解の相異が生まれた点ではあるのだが・・・

聖ペトロ広場だけでも20万人ほどはいる数の信者一人一人に聖体を配るのは並大抵のことではない、

しかし、その手際のいいことといったら・・・、広場からテベレ川まで伸びる大通りを埋めた群衆も含めると

30万人を下らないのではないかと思われる群衆に、あっという間に配り終えた。

2000人の神父が、一人150人に配った計算になる。

雨は降っていないが、黄色と白(教皇の旗の色)の傘が聖体を配る神父の居場所の印だ(上の写真)。



一人一人が白い丸い小さな薄いパンの聖体を手の平で、又は直接舌で受けていく。



聖体拝領がが終ると、感謝の祈りがあって、教皇の祝福があって、列聖式はつつがなく終わった。

前後約2時間余りだったろうか。

その後、テレビはこの列聖式に参列した各国の代表と挨拶をする教皇フランシスコの姿を延々と映し続けた。

上は、スペイン国王とその王妃。彼女だけがこの席に白いドレスをまとって出席することがゆるされたのではないか?



他の国の元首の奥方は、この席では、美人であっても何であっても、一様に黒のドレスで参列するのがしきたりと聞いた。

日本と言う国は無粋な国と言うか、外交音痴と言うか、教皇ヨハネパウロ2世の葬儀の時に、各国が元首か王室か、

それに准じる大物を送っているときに、現職でもない女性の元外務次官か何かを一人送るだけでお茶を濁し、

識者を仰天させた前科がある。

日本からは、皇太子夫妻が来るのが相応しい絶好の国際弔問外交の晴れ舞台だったのに、惜しいことをした。

それでないと、国の風格上他国とのバランスが取れない事を島国の外務省は理解していなかった。

今回、私は注意深くテレビの映像を見ていたが、アジア人、アラブ人と一目でわかる大物たちも多くいる中、

日本人と思しき人物が教皇フランシスコに近づくのをついに見逃した。

日本政府は、今回はたしてこの出来事に相応しい人物を送ったのだろうか?


 

長い外交的挨拶の一段落するのをじっと待ちかねていた群衆に姿を見せるために、

教皇は「パパモビレ」に乗って広場に出た。



ここからはお馴染み、この教皇の面目躍如たる場面だ。誰にも万遍なく笑顔を振り撒いていく。 



写真に撮り損ねたが、この開けっぴろげの小さな車の中に、何度も花束や縫いぐるみの人形などが投げ込まれた。

それを教皇は気さくに受け止めたりもした。・・・ということは、その気になれば手榴弾だってなんだって・・・

思うだけでも恐ろしい。

一旦ことがあった時、このおもちゃのカートのようなパパモビレ、

護衛を乗せて病院まで疾走するようには出来ていない。



かれは天才的な俳優なのだろうか?人の目を、カメラをしっかり意識しているように私には思える。



この中のどこかにパパモビレが居るはずなのですが・・・、はてな?よくわかりませんね!



念のためその前後の写真を拡大てみたら、ああ、いたいた!シークレットサービスの黒服を大勢従えて・・・



このあと歴史上初めてのことが起きる。パパモビレがバチカン領地の境を越えて、イタリア共和国に進出するのだ。

(この車にイタリアの公道を走る交通省の許可が出ているのかと余計な心配をした。)



テベレ川の岸辺、つまりカステロ・サンタンジェロ(天使城)前の広場のあたりまで、バチカン市国の領土の外を

教皇がオープン自家用車でドライブするというわけだ。

教皇の車はこのあたりでテレビ局の固定カメラの射程範囲から外れていく。それで中継番組はここで終わった。


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その後、引き続き、教皇ヨハネパウロ2世の生涯を追った映像番組が放映された。

私は、昼食の始まりを告げる神学校の鐘の音を無視して、引き続きテレビの前にとどまった。



1963年に始まり、1965年に幕を閉じた第二バチカン公会議時代のカルロ・ボイティワ枢機卿。

言うまでもなく、今回列聖された教皇ヨハネパウロ2世の若かりし日の姿だ。

彼はこの時すでに、教会に一大変革をもたらした公会議の優秀なブレインとして頭角を現していた。



教皇はポーランド人として、連帯のワレサ議長をバックアップし、ポーランド共産党の崩壊を引き出した。

ソ連は体制崩壊の危機感に襲われ、暗殺者を差し向けて教皇を亡き者にしようと企てた。

刺客の凶弾を受けて倒れた教皇を乗せて、猛スピードで病院に向けて走り去るパパモビレ。

ベンツ製の白の頑強な大型オープンジープだった。

私の記憶の中では、ダラスで暗殺されたJ.F.ケネディー大統領の、

狙撃後、ジャックリーヌ夫人とともに猛スピードで走り去るオープンカーのイメージとダブるものがある。



ジープの床、シークレットサービスの足元に倒れ込んだ教皇ヨハネパウロ2世



奇跡的に一命を取り留めた教皇。ジェメリ病院の一室で。

 


後日、教皇ヨハネパウロ2世は自分を暗殺するために差し向けられた殺し屋を牢獄に訪問した。

プロの暗殺者としてあらゆる鍛錬を受けた狙撃殺人マシンのアリ・アグサ。

彼が狙った獲物は絶対に100%の確率で死ななければならない。失敗は有り得ない必殺人なのだ。

自分の独房に現れた教皇ヨハネパウロ2世を見て彼は亡霊を見た思いがしたに違いない。

あの距離からターゲットのあの部位に自分の銃弾は確かに命中したのをプロの目で確認している。

経験値から言って、腹部内臓をずたずたにされたそのターゲットは、

絶対に死ぬ以外に道はないことを彼は知リ抜いていた。

だから、彼は神の介入なしには絶対に起こり得ない「奇跡」が起きたことを直感しただろう。

教皇は彼を抱き、許しを与えたが、それは無神論教育を叩きこまれ、

生きた殺人兵器に育て上げられた彼の心に届いた気配はなかったようだ。

彼は既に心の無い機械に造り変えられていたのだろう。

後は神様の憐れみに任せるしかない。

私は教皇暗殺について10編のブログを書いている。興味のある方はどうぞご覧ください。


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以下、教皇ヨハネパウロ2世のヒューマンな面を捉えた写真を綴ってみよう。


こらえきれず笑いこける教皇


渋く、太く、かつまろやかな男っぽい低音でバンドに会わせて歌う教皇


特製のゴンドラでベニスの祭りに参加する教皇


エルサレムの嘆きの壁の前で何やら願い事(祈り)の紙を石の隙間に入れる教皇


ランチに乗ってニューヨークの港を廻る教皇。右後ろに霞んでいるのは自由の女神。


大の山好き。アルプスの雪渓のあたりを行く教皇ヨハネパウロ2世。


怒りをあらわにする教皇。その眼差しの厳しさ。マフィアを断罪する時、

こぶしを打ち、声は怒りに震えていた。


パーキンソンがかなり進行しているのに、楽しげに踊る教皇。


晩年、人に支えられなければ歩行も儘ならなくなってからも、それでも公務を続けた教皇。


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2005年4月2日に教皇ヨハネパウロ2世亡くなった。そのとき世界中が泣いた。


 

それから6年。2011年5月教皇ベネディクト16世は彼を福者の位に挙げた。

その列福式に先立って教皇ヨハネパウロ2世の棺は聖ペトロ大聖堂の地下墓所から掘り出された。

質素な木の棺には数か所にひび割れが入っていた。

 

 

聖ペトロ広場で執り行われた列福式の時、祭壇の前方に安置された福者教皇の棺

 

 

列福後、聖ペトロ大聖堂の右側の脇祭壇に安置し直された教皇ヨハネパウロ2世の墓の前で祈る、

教皇フランシスコ

思えば、教皇ヨハネパウロ2世という人には、観衆の受けを狙った演技がなかった。

人の目を意識するところがまるでなかった。それでいて、言い知れぬ魅力を醸し出していた。

世界中の人々の、特に若者の心を引きつけて已まない不思議な雰囲気を漂わせていた。

私は彼を小さな子供の時から、まだ何も分からないのに「神様爺ちゃん」と呼んで愛し、親しんで、

その写真をぼろぼろになっても身につけて離さない、(まだ)クリスチャンでない若い日本人の女性を知っている。

教皇ヨハネパウロ2世は世界中にそういうファンを持っている不思議な「爺ちゃん」なのだ。

生前彼は世界のスーパースター、世界一のアイドルだった。今もその余韻は消えない。

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教皇ヨハネパウロ2世の列福から3年11か月の異例の速さで列聖にたどり着いた。

そして、その先はこのブログの最初に戻るのだ。

(ひとまず終わり) 

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★ 2教皇同時列聖式前夜

2014-04-28 23:20:14 | ★ ローマの日記

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2教皇 同時列聖式 (前夜)

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南相馬を中心に津波、原発事故被災者の仮設住宅のケアーをしている横山恵久子さんから、

彼女と一緒に働いているボランティア―の働きを励ますために、ローマから表彰状をだしてほしい、

という依頼が舞い込んだ。

それで、その表彰状にサインをいただくために、

トレビの泉の側のサンタ・リタの教会のモンセニョール・モリナリのところを訪れた。モリナリ師は

《3.11東北大震災 ローマは忘れない 「記念追悼ミサとコンサート」》 (3月11日の私のブログ参照)

の主催者で、NHKの「花は咲く」の合唱をローマから日本と全世界に発信した際の老司祭だ。

サインをもらって、早速それをバチカン郵便局が提携している DHL 国際宅急便で福島に送るために、

聖ペトロ広場の郵便局に行った。

 

サンタ・リタは街中の小さな美しい教会だ。

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それに引き換え、サンピエトロ寺院は超巨大な宗教建造物だ。 

バチカン郵便局で国際宅急便を出した後、2教皇列聖式の準備の整った聖ペトロ広場の様子を見てきた。

聖ペトロ大聖堂の正面の左右に、次の日4月27日(日曜日)に聖人に挙げられる、

ヨハネス23世 と ヨハネパウロ2世 の二人の福者の大きな絵が掲げられていた。

 

左が福者ヨハネ・パウロ2世                       右が福者ヨハネス23世

 

  

聖ペトロ広場は既に人でいっぱい。この人たち、明日まで一体どう時間を過ごすのだろうか?お天気はもつだろうか?

 

  

前日でこの賑わいなら、当日の本番は一体どういうことになるのだろうか? 

 

聖ペトロ広場がコンチリアチオーネに入る片側に各社のテレビカメラの仮設台が出来ていた

 

その前の路上にもテレビカメラがひしめき合っていた。女性アナがセリフの暗記に精を出している。

 

お巡りさんも今日、明日は正装で勤務についている

 

整理のために機動隊も待機している

 

 

夜になった。神学生の希望者は、許可を得て夜10時ころに出かけて行った。

11時から解放される聖ペトロ広場で野宿して夜を明かすためだ。テレビのニュースは、テントを張ったり、

石畳に薄いマットを敷いてその上に寝袋を広げただけの野宿者の姿を映していた。

夕方6時過ぎに、やや強い雨が降って、路上に水たまりが出来るほどだったが、彼らは大丈夫だったろうか?

幸い雨は一時間ほどで小降りになった。寒さも酷くはないが・・・、明日の天気が心配だ。

 

テレビは引き続き光に満ちた夜の聖ペトロ広場の様子を映し出す。

我々のレデンプトーリスマーテル神学院の若い神学生たちは、

ギターやボンギ、トランペットやヴァイオリンなどの楽器を携えていった、

きっと、彼らの周りには夜通し歌と踊りの輪が広がっていることだろう。

風船の黄色と白は教皇のシンボルカラー。

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第二バチカン公会議と言う、キリスト教の歴史を180度裏返す大改革に手を染めたヨハネス23世と、

その改革を実行に移し軌道に乗せたヨハネ・パウロ2世と言う二人の偉大な教皇を、

ふたり同時に聖人の位に挙げるという、空前絶後の大イヴェントに

広場の興奮はいやが上にも盛り上がっていく。

ヨハネス23世が公会議を開いた。

彼は会期中に死去した。

その第2バチカン公会議を無事閉会に導いたのは、パウロ6世教皇だ。

そのパウロ6世教皇も、福者に挙げられ、やがて列聖される事が確実視されている。

パウロ6世は閉会後間もなく死去し、

公会議の成果を大胆に実施に移そうとしたのが、

2人の名前を取って初のダブルネームを採用して教皇の座についた

ヨハネ・パウロ1世は、在位1か月ほどで不審死を遂げ急逝した。

反公会議派による毒殺(暗殺)の噂が消えない謎の死だった。

彼も、やがて「殉教者」として列聖されないと誰が断言出来るだろう。

次のヨハネパウロ2世の列聖は今や秒読み状態だ。

教皇ヨハネパウロ2世の懐刀だったラッツィンガー枢機卿

高齢にも関わらず、ベネディクト16世として教皇に選ばれた。

彼が若いときにナチスの党員だったとか、ペドフィリアのスキャンダルに関して責任があったとか言う人もいて、

マイナス要因がないとは言えないが、そのために列聖されることがないとしても、

それらの点を除けば、中世のボニファチウス8世のような悪徳の俗物権力者に比べれば、

聖人と呼ばれてもおかしくない有徳の信仰の牧者だった。

そう言えば、この度教皇ヨハネ・パウロ2世と並んで聖人の位に挙げられる、

ヨハネス23世の前任者、ピオ12世も、

第二次世界大戦中、ナチスのホロコーストを誰よりも早く正確に知り得る立場にありながら、

世界の教皇の絶大な政治的影響力を有効に駆使して、ナチスのユダヤ人大量殺戮を阻止しなかった、

として、親ユダヤ派からは攻撃されているが、

彼とても、ボニファチウス8世のように私利私欲と権勢欲のためにあらゆる悪徳に走った俗物に比べれば、

聖人にも等しい清廉の士ではなかったろうか。

少なくとも、ヨハネ23世以降の教皇は、今大人気の教皇フランシスコを含めて、

全員が聖なる教皇たちであることに異義を唱える者はいないだろう。

次のブログでは、列聖式当日の模様を伝えたい。

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 (つづく)

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★ 聖週間 今年は特別 復活の徹夜祭 (2014年)

2014-04-22 18:21:36 | ★ 復活祭の聖週間

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聖週間 今年は特別 復活の徹夜祭 (2014)

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カトリックの復活祭ユダヤ教の伝統を引き継いで、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日に祝われる移動祝日だ。

今年はたまたま4月20日の日曜日だった。

それだけなら例年通りではないか、何も特別なことはない。

では何故今年は特別なのか?

それは、私の共同体が20数年の歩みをこの復活祭に終えたからだ。 

では共同体の歩みとはなにか?

それは、一言で言えば、大人がキリスト教の洗礼を受ける前に身に着けるはずだったキリスト教信仰教育が、

子供の信仰教育のレベルにとどまっていることに気付いた者が、初心にかえってもう一度最初からやり直そうという歩みだ。

キリストが福音を説き始めたときから最初の300年余りの間は、その歩みの「道筋」がしっかりと教会に根付いていた。

ところが、迫害の時代が過ぎて、教会が一転してローマ帝国の国教になると、

ユダヤ教の伝統を知らないローマ人、

それまで異教の神々を拝んでいた大衆が、十分な信仰教育も受けず、キリスト教的回心のなんたるかも全く知らず、

異教の神々を拝んできたメンタリティーのまま、キリスト教になだれ込んできた。

異教の偶像を拝む代りに十字架を拝むだけで、中身は全くキリスト教化されないままの信者が圧倒的多数を占めるようになった。

イエス・キリストの教えが異教の神々、八百万の神々のメンタリティーに呑み込まれて変質したという方が正しい。

そして、それがそのまま、中世を経て現代20世紀にまで及んだ、と言えば言い過ぎになるだろうか。

世俗の覇権、帝国の皇帝の守護神、御用宗教であった時代は、キリスト教も羽振りがよかった。

しかし、早くは啓蒙主義、産業革命の時代から、しかし、特に20世紀の世俗化とグローバリゼーションが進む中で、

世俗の権力の宗教的後ろ盾としての教会の地位と役割は音を立てて崩れていった。

明治以来日本の八百万の神は人気が無くなったように、コンスタンチン型のキリスト教も同じ運命をたどった。

人々は宗教を必要としなくなった。敢えて言えば、お金の神様だけで間に合うようになった。

その潮流の前に、キリスト教はなす術を知らず後退に後退を重ねてきた。

そこで始まったのが、1965年に幕を閉じた第二バチカン公会議と言う大宗教改革だった。

これは、紀元313年のコンスタンチン大帝のキリスト教のローマ帝国国教化の動きを180度転換して、

キリスト教を、コンスタンチン以前の本来のキリストの教えに戻そうとする動きとして要約できる。

第二バチカン公会議の提唱者ヨハネス23世以来、6代の教皇が全てこの公会議の路線に忠実にとどまっている。

しかし、教会の中には、公会議以前の「コンスタンチン体制」に郷愁を抱き、それに戻ろうとする動きが

あなどり難い勢力として巻き返しの機会をうかがっている。

教会の中に、保守と革新の大きな戦いがある。

その図式の中で、新求道共同体の流れは、あくまでも公会議の路線に忠実に信仰生活を生きようとする動きと言えるだろう。

私のローマの共同体は、20年以上にわたる長い歩みを終えて、その「道」の過程をこの復活祭の前に終えた。

復活祭の日曜日に先立って、その終了を告げるささやかな式があった。

式の詳細を書く立場にはないが、外から見える印としては、その道を終えたメンバーの名前を聖書に記し

霊的に洗礼の準備が整ったしるしとして白い衣(服)を着る

洗礼をすでに子供の時に受けている者は、もう一度洗礼の水を受けないところが、

プロテスタントの再洗礼派(アナバプティスト)と違う。

 

私の共同体の責任者トニーノが持っているのが金や貴重な石で飾った銀の表紙の聖書

 

共同体の歩みを指導したカテキスタのステファノが、一人一人を呼び出してその名前を聖書の一ページに記す

 

  

高価な装飾を施した聖書  その中の旧約聖書の終わり、新約聖書の始まりの前の白紙のページに記された

共同体のメンバーの名前

私の名前が左の欄の筆頭に書かれている

 

  

そして、一人一人の体格背丈に合わせてあつらえた白い麻布のローブ

私もややだぶだぶで長めのを着て一同と一緒に写真に納まった

100パーセント麻の白い布は、何度も何度も打たれ晒された麻糸が、長い年月の信仰の歩みを象徴している

 

いよいよ復活の徹夜祭の時が来た。19日土曜日の夜10時から、夜中を跨いで復活祭の日曜日の未明まで徹夜祭は続く。

それは、キリストが十字架に付けられ苦しみのうちに死に、葬られ、三日目の日曜日の未明に復活した史実に因むものだ。

私たちにとって、一生に一度の特別な復活の徹夜祭は、世界の教会の母、母教会と言われるラテラノ教会で行われた。

サン・ジョヴァンニ・ラテラノ教会の前の広場には、エジプトから盗んできたオベリスクが立っている。

 

徹夜祭の始まる前に同じ共同体の兄弟姉妹の一部と撮った記念写真

 

徹夜祭は光の祭儀から始まる。大聖堂、バジリカの入り口でかがり火が焚かれ、そこから取った火が

左側の助祭が捧げ持つ復活の大ローソクに移される。

このローソは復活したキリストを象徴する。

(しかし、どこかコンスタンチン時代の異教の拝火の儀式の混入の臭いもする)

 

大ローソクにを先頭に大聖堂に入堂するローマ教区長教皇代理のお馴染みヴァリーニ枢機卿

 

 復活の大ローソクから火を貰って、次々と兄弟のローソクに渡していくと、大聖堂の中はみるみる光に満ちていく。

これは死の支配の闇に沈んで蠢いていた人々の心に、キリストの復活信仰の火が点っていくことを象徴する。

 

私の共同体の仲間たち。実は、この大聖堂の空間の半分を埋めているのは、ローマに数百ある共同体の内、

今年歩みを終えた共同体が一堂に結集しているのだ。

 

ラテン十字の形に建てられた大聖堂の中心の祭壇の前に洗礼盤が用意されている。

キリスト教では、洗礼は伝統的に復活の徹夜祭の中で行われてきた。

それは、ユダヤ教の過ぎ越しの伝統、すなわちエジプトの奴隷状態からイスラエルの民が、

モーゼにに率いられて奇跡的に割れた海の間の乾い底を歩いて渡り、無事約束の地、パレスチナ、

今のイスラエルの土地に過ぎ越した史実を記念して、

キリストが十字架の死を過ぎ越して復活の命に渡り、我々に復活の命を与えてくれたことを記念する。

 

正装したヴァリーニ枢機卿。我々の神学校の食堂でご機嫌でナフキンヲ頭の上でくるくる回していたオジサンと同一人物だ。

 

いよいよ洗礼式が始まる。

 

 

先ず共同体の家族の赤ん坊から。 われ、父と、子と、聖霊の名によって、汝に洗礼を授ける。

 

  

子供たちの洗礼が終ると、大人たちの洗礼になる。この女性、左の写真で枢機卿から洗礼を受けた後、

すがすがしい顔で笑っている。明らかにアジア人だ。でも、直感的に日本人でないと思った。この夜洗礼を受けた大人の、

何と約半数がイタリア人でもないヨーロッパ人でもない、アジア人の若い男女だった。だが、日本人はいないようだ。

これがローマのがトリック教会の現状を如実に語っている。

 

  

主祭壇の脇から覗き込むと、大聖堂の一番奥に椅子が見えた。これがローマの司教、つまり教皇フランシスコの玉座だ。

白大理石に宝石、貴石がふんだんにちりばめられている。コンスタンチン大帝がキリスト教を国教にした時、

最初に記念に建てたのがこのラテラノ教会だ。その意味で、第二バチカン公会議まで、実に1700年にわたって続いた

コンスタンチン体制教会の象徴をなす建物だ。そこで、コンスタンチン体制との決別を決意した人たちが、

その歩みの総仕上げをしている。なんとも不思議な光景だ。

 

 

洗礼が終ると、ヴァリーニ枢機卿はミサを続ける。

 

祭壇の側から大聖堂の後ろを見渡すとこのような光景だった。

私はお化けのきゅう太郎のような出で立ちで、静々と聖堂の中を徘徊し、要所要所で写真を撮るのに余念がなかった。

幸い、イタリアは大らかな国で、私の行動に眉をしかめてとがめだてをするような人はまずいないのだ。 

 

乾杯!

復活の徹夜祭は無事終わった。気が付いたら、みんな木曜の晩から、年寄は金曜の晩から、日曜の未明、徹夜祭が明けるまで

水や牛乳など流動物だけの断食をしてきたはずだ。きちんと守った真面目な正直者は、もうラマダン明けの回教徒以上に

飢餓状態のはずだ。これから、これ以上食べられませんと言うほどまで、時間をかけてたっぷり食事をする。

我々はこんなテーブル3つに分かれて、楽しく食べて飲んだ。

 

 

食事も終わった、外は、夜霧だった。時計は午前3時半を回っていた。

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日本のカトリック教会の現状と、ローマの実情とは、これが同じ宗教かと目を疑いたくなるほど違うのは何故か。

日本のカトリック教会の復活祭の聖週間は、キリストの受難と十字架上の死で終わっているように思われる。

復活祭は、その名の通り、死の後のキリストの復活を祝う祭りだ。

奴隷状態から自由の約束の地に入ったユダヤ教の過ぎ越しの喜びを土台としている。

過ぎ越しも、復活祭も喜びの大爆発の祭りだ。踊りだしたくなる興奮の時間だ。

これこそユダヤ教とキリスト教以外の宗教にはない、最大の特徴だ。

それが日本の教会には決定的に欠落しているように思う。

言葉では「復活祭おめでとうございます」と言う。

カードには「復活のお慶びを申し上げます」と書く。

しかし、何かよそよそしいのは何故か。

観念知識ではなく、信仰体験としての、内からこみあげてくる喜びの大爆発がないのは何故か。

信仰教育の在り方を根本から問うべき時が来ているのだろう。

今や世界中で宗教が凋落している。神々の黄昏だ。

残ったのは死の恐怖お金の神様への奴隷状態だけだ。

日本の火葬場は余りに清潔で死の恐怖を麻痺させるものがある。

死がなんであるかは、私のブログのローマの火葬場の現実を見れば赤裸々に理解できる。

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/m/201310

上のURLをダブルクリックすると飛べます

それはローマの清掃局のごみ処理の一環に過ぎない。

日本の斎場も、ローマの死体焼却工場も、アウシュヴィッツの焼却炉も、原理と目的は全く同じだ。

だが、キリストは復活して死は打ち滅ぼされた。

拝むべきは「お金の神様」ではない。「友のために命を捨てる」ほどの愛の力で自ら復活したキリストの

天の父なる神をこそ崇め、賛美し、愛すべきだ。そして、人を愛すべきだ。

しかし、自分の何かに死ぬところまでいけなければ本当に人を愛することは出来ない。

自分の復活が信じられない人は、死の恐怖の奴隷から解放されることはない。

だから復活を信じられない人を本当には人を愛せない

実に簡単明瞭な三段論法ではないでしょうか?

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15章13節)

と言って、あっぱれイエスは生涯の最後に全人類のためにそれを実践して見せた。だから、

キリストは甦られた!主はまことに甦られた!オメデトウ!アレルヤ!

(おわり)  

P.S. : 後でわかったことだが、実は上の情景と同じ白衣の集団の式が、バチカンの聖ペトロ寺院でもこの復活徹夜祭の夜

同時並行的に教皇フランシスコ自身の司式で行われていたのだった。そして、それも数年前から盛んにおこなわれているという話だ。

さらに、今年初めて、パリのノートルダム寺院でもパリの大司教・枢機卿のもとで同じことが始まったという。

フランスの急速な非キリスト教化、回教圏化の中で、これは確かな希望のともし火とは言えまいか。

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★ 復活祭の聖週間 聖木曜日(2)

2014-04-18 20:40:34 | ★ 復活祭の聖週間

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 復活祭の聖週間 聖木曜日(2)

2014年4月17日の場合

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 私は同じ題で2012年にも写真の多いブログを書いた。

復活祭の日曜日の前の木曜日の晩には、イエス・キリストの「最後の晩餐」の席で

キリストが弟子たちの足を洗った話に因んで、信者たちの足を司祭が洗う式をする。

アジア、日本と違って、ローマはヨーロッパの生活習慣の世界だから、キス、接吻は日常の風習の中に溶け込んでいる。

夫婦や親子でなくても、普通の友達が出会ったとき、別れる時、

頬と頬をくっつけて口でチュッと音をたてて挨拶をするのは当たり前。

私も、オジサン、オバサン、お姉さんの足を丁寧に洗って、タオルで拭いて、仕上げに足の甲に唇をつけてチュッとキスをして、

ハイ、一丁上がり!となる。

実は、人の頬であろうが、足の甲であろうが、人肌に唇をつけて接吻する時の感触にはあまり変わりはない。

これを立て続けに30人、35人とやるのは結構大変な仕事てある。

 

この写真は2年前の洗足式の風景。この日私はカメラを一人の信者に預けて撮ってもらったが、

今年は式にカメラを持っていくこと自体ををコロッと忘れたので写真がない。

洗足式なるものがどんなふうに始まってどう展開するかの風景は、以下をクリックして前回のブログを見ればよくわかる。 

 http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=8faa515ca0313476c45f57ddd413b84d&p=18&disp=10

洗足式は毎年の聖木曜日風景だが、今年も同じことを書いたのではあまり芸がない。

趣向を変えてみることにしよう。

実はローマの聖木曜日で一番大きな公式行事としては、聖ペトロ大聖堂での教皇による聖香油ミサと言うのがある。

このミサには、ローマ教区の全司祭たちが集まり、年に一度ローマ教区長・司教である教皇フランシスコに対して、

従順の誓いを新たにし、司祭の叙階式や、病人の塗油のために用いられる聖香油を祝別する特別なミサが行われる。


聖ペトロ大聖堂の今年の聖香油教皇ミサ風景


私はこの3月90歳を迎えた平山司教様の付き人として、神学校に残ったので、そのミサには参列しなかったが、

ミサで教皇の補佐として共同司式したローマ教区長代理のヴァリーニ枢機卿以下4-5名の補佐司教達が、

みんなそろって昼食のために、無人の我が神学校に押し寄せてくることになっていた。

実は、このローマのレデンプトーリスマーテル神学院は、4月11日から復活祭休暇に入っていて、

平山司教と私の二人の年老いた日本人の他、誰一人住んでいないのだ。

しかし、この日は朝から、コックさんと給仕や皿洗いをするために狩り集められた神学生らが忙しく働いて、

久しぶりに活気を取り戻した。

 

メインテーブルにお客様の補佐司教達の間におさまった日本人2人。

 

 

挨拶に立つヴァリーニ枢機卿。彼は来るたびにどんどん我々と親密になっていく感じがする。

 

レデンプトーリスマーテル神学院お馴染みの楽師たち

 

スペインのマリア様の歌に合わせて オーレ-!!オーレ-、オレ、オレ、オレ-!!オレ、オレ、オレ、オレ、オレ-!!

と掛け声をかけながら、全員がナフキンを頭上でクルクルと回す。

左側は通称パクちゃん。韓国人で今助祭。右側はフィレンツェ出身のダビデ助祭。

2人とも元高松のレデンプトーリスマーテル神学院でスタートを切った。この5月11日(日)に、

聖ペトロ大聖堂で晴れて教皇フランシスコから叙階第1号の司祭として誕生する。

叙階後は、ローマ教区に帰属しながら、日本の事情が許し次第、宣教師として日本に派遣されることがすでに決まっている。

日本語はもちろん検定2級を日本でクリアしてペラペラ。

圧倒的な司祭不足の日本で、一体いつまで今の異常な閉塞状態が続くのか。ローマの有識者は理解に苦しんでいる。

因みに、5月11日の教皇による叙階式では、レデンプトーリスマーテル神学院関係が7人。

あと4人がローマの他の神学院からで合計で11人。その内二人が日本への宣教師。

ここにはっきりと時の印が現れている。

日本の一般信者がこの現実に目を開くべき時が来ているのではないだろうか。

 

ヴァリーニ枢機卿のこの姿も、我々の神学院ではすでに見慣れた光景となった。

 

 ご機嫌で挨拶に立つヴァリーニ枢機卿

 

教皇フランシスコに代ってローマ教区を統治する枢機卿には、ふさわしい貫録が備わっている。

11人の司祭叙階候補者の助祭たちが、この24日(木)の朝、

聖アンナの教皇のアパートのチャペルでの教皇ミサに招かれ、謁見を受けることを発表する、

ヴァリーニ枢機卿。

~~~~~~~

私は、その夜自分の共同体で、また30人余りの足を洗い、その足の甲に接吻した。

大任を終えた後、すがすがしい気分を味わったが、74歳の齢には勝てない、

背中と腰がかなりやられた。はたして、あと何年これを続けられることか ・・・


2年前の洗足式風景はこちらから入れます。

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/8faa515ca0313476c45f57ddd413b84d

 

(終わり) 

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★ 〔完全版〕 教皇のインタビュー (最終回)

2014-04-17 17:00:00 | ★ 教皇フランシスコ

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〔完全版〕 教皇のインタビュー (最終回)

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長くなったインタビュー連載も今回の短いブログで完結します。

最後の質問が教皇フランシスコの「祈り」についてであることは意味深いと思います。日頃私たちは、心の最も奥まった場所に退き、生きている神と真摯に向き合い、祈り、対話できているでしょうか。祈るために意図的に時間を割いているでしょうか。

私には、深く反省させられるものがありました。


 

祈ること

 

 最後の質問として、教皇に自分の好きな祈り方について訊ねた。

 「毎朝聖務日課を唱える。詩編を用いて祈るのが好きだ。それから続いてミサを捧げる。ロザリオを唱える。本当により好きなのは夕べの礼拝だ。気が散ったり、他の事を考えたり、祈りながら居眠りをしてさえも。だから、夕方の7時と8時の間は一時間御聖体の前で礼拝しながら過ごす。また、歯医者で待っているときとか、一日の他の瞬間にも念祷をする。」

 「そして、私にとって祈りは、自分の歴史の記憶や、主が教会に対してなさったことについて、また或る具体的な小教区で起きたことなど、いつも思い出の詰まった《追憶的》な祈りだ。それは私にとって、聖イグナチオが霊操の第一週の中で十字架に架けられたキリストとの憐れみ深い出会いの中で語っている追憶の事である。そして《私はキリストのために何をしたか?キリストのために何をしているか?キリストのために何をしなければならないか?》を自分に対して問いかける。それはまた、イグナチオがContemplatio ad amorem(愛への黙想)の中で語っている、受けた恵みを記憶の中に呼び覚ますことを求めての追憶である。しかし、それは特に、主が私のことを覚えていてくださっていることを知っているということでもある。私は彼の事を忘れることが出来たとしても、彼は決して、決して、私の事を忘れることはないと私は知っている。記憶はイエズス会員の心を決定的に基礎づけるものである。恵みの記憶、申命記に語られた記憶、神とその民の間の契約の根底にある神のみ業の記憶。この記憶こそ私を子とし、また父でもあらしめるものなのだ。」

 

* * *

 

 この対話をもっと長く続けることも考えてはみたが、教皇があるとき言ったように、《限度をわきまえること》は考えるまでもないことだと心得た。8月19日、23日、29日の3回の約束を通して、6時間以上にわたって実に密度高く対話した。 私はここで継続の可能性を失うことのないために終了の印を残すことなしに一区切りつけることを好んだ。わたしたちの対話は実際には単なるインタビュー以上のものだった。質問はあらかじめ決められた窮屈な基準に縛られることなく、心の深みからなされた。言葉の面でも流暢にイタリア語とスペイン語の間を、その都度の切り替わりに気付かないほどに滑らかに行き来した。機械的なことは一切なかった。答えは対話の中から、私としては出来る限り要約的に行おうという思考の内面から生まれたものだった。(イエズス会員アントニオ・スパダロ)

 

~*~*~*~

 

 わたしは、ぶっきらぼうなほど原文に忠実な簡潔な訳で統一しました。訳者が分かった風をして言葉を増やし説明的に敷衍すれば、読んだ人には滑らかに届いたかもしれません。また、接続詞や関係代名詞を多用して長く複雑にもつれた文章を、幾つかに切って分けて訳せば、確かに読みやすくはなったでしょう。しかし、それも極力避けました。

 例えば、教皇の最後の行、「この記憶こそ私を子とし、また父でもあらしめるものなのだ」なども、原文のイタリア語は何も説明を加えていません。教皇も恐らくその通りに話したのでしょう。その結果「私を子とし、また父でもあらしめる」とは一体どういう意味かと言う疑問が訳しながら残りました。しかし、原文にある単語はこれだけなのです。そして、これしかないという解釈のヒントは、前にも後にも存在しなかったので、そのままにしました。この一連のインタビュー記事が、現教皇を理解するうえで、少しでもお役に立てたならば、やった甲斐があったというものです。(訳責:谷口幸紀)


 

 

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★ 上智大学・グレゴリアーナ大学・教皇フランシスコ

2014-04-12 17:00:00 | ★ ローマの日記

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上智大学・グレゴリアーナ大学・教皇フランシスコ

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去る3月14-15日

ローマの教皇庁立グレゴリアーナ大学で、

上智大学創立100周年記念行事として、両大学の 「合同シンポジウム」 なるものが開かれました。


 

天皇、皇后両陛下御臨席のもと、東京国際フォーラムにおいて開催された記念式典の模様を伝える通信

 

 私は「上智大学」の文学部哲学科博士課程から助手を勤めるところまでしっかりお世話になり、

「グレゴリアーナ大学」の神学部では修士課程を修了したご縁で、久しぶりにトレビの泉に近いキャンパスに足を運びました。


グレゴリアーナ大学の正面ロビーに立っていたシンポジウムの案内板


 初日、開場から参加登録と開会までの時間つぶしに、ホールのスクリーンに次々と映し出された上智大学の歴史映像は、何もかもが懐かしかった。私の入学の年に男女共学になり、あっという間に文学部と外語学部は華やかな女子大風になっていった。相次ぐ学部の増設と校舎の増築、それに伴う学生数の飛躍的増加 ・・・。


           

大学紛争で苦楽を共にした敬愛する守屋学長の温顔   フランクルの「夜と霧」の訳者、心理学の霜山教授の講義は全部聴いた

何れも故人 私は片想いながらお二人とも恩師と敬愛して已まない (シンポジウム開会前のスクリーンの映像から)


 私の中世哲学研究室助手時代は、上智大学は新左翼学生諸兄による学園紛争で荒れに荒れた。そのさ中、イエズス会員神父の学長が辞職すると、東大から理工学部長として招聘されたカトリック信徒の守屋教授学長になり、東大流の「大学の自治」の高い理念に燃えて、紛争を対話で収拾しようと腐心されている姿に感動した。私は自分が鍵を預かる研究室を開放して、本館をバリケードで封鎖した全共闘リーダーと学長との密会を夜な夜な助けた。しかし、その努力が実を結ぶかに見えた矢先、ある朝突然、外国人神父らが実権を握る理事会の主導で機動隊が導入されたヴィデオを見ながら、ボコボコにやられて血を流し、手錠をかけられ、悄然と引き立てられて行った愛する学生たちの姿を、昨日のことのように思い出し、胸が熱くなったた。

 その頃、国・公・私立を問わず、どの大学も「学問の自由」「大学の自治」の理念に呪縛され、何とか対話で平和裏に難局を乗り切ろうと苦闘していた時代だった。ドライに機動隊導入に踏み切り、警察の暴力装置を借りて全共闘の学生らを犯罪的暴徒として排除したキリスト教聖職者らの冷徹さと手際の良さに、世間はアッと息を呑んだものだった。(同じ頃、京大の教授らは、街頭デモで学生たちが機動隊に逮捕されても、うちの子ですから、学内で処分しますから、と言って頭を下げて学生を引き取りに行温情の人たちだったという。)これをきっかけに、学園紛争に悩まされていた全国の大学は、「上智大方式」という名の免罪符にすがって、見る見るうちに学園紛争を制圧していったのだった。思えば、あの頃から日本の社会は急速に右傾化していったと言えるのではないか。

 学園が正常化すると、粛清の嵐が吹き抜け、身分保障の弱い助手の私は職を追われた。だがそのお蔭で、国際金融業への転身に道が開け、さらに今はこうしてローマで神父をしていられるのだから、すべてに神様のお導きの不思議を思わずにはいられない。(この辺の顛末は「バンカー、そして神父」(亜紀書房)に書いた→ http://t.co/pALhrPL )

 その懐かしい母校も、創立100周年を迎えたかと思うと実に感慨深い。私は上智の歴史の半世紀以上を知っていることになる。

 

シンポジウムの挨拶に立ったニコラスイエズス会総長

 

 シンポジウムはイエズス会のニコラス総長の挨拶に始まり、お馴染みの「インカルチュレーション論」(私のブログでその批判論を再三展開しているので是非見ていただきたい)など、シンポジウムの内容はあまり変わり映えがしなかった。やはり、最初のスライドショーがいちばん圧巻だった。

~*~*~*~*~


グレゴリアーナ大学の関係者に対する教皇謁見の招待状 最近急に印刷が手の込んだものになった 偽造防止策と思われる


 そして、昨日(4月10日)、教皇フランシスコが、バチカンのパウロ6世謁見場にグレゴリアーナ大学の教授、スタッフ、学生、関係者一同を集めて謁見を行った。我がレデンプトーリスマーテル神学院の神学生の大部分が通っている大学でもあり、かつて私自身その神学部でお世話になったこともあって、参加した。

1万人入ると言われる通称「サラ・ネルビ」がかなり人で埋まった印象だった。


サラネルビの入り口を固めるスイス衛兵 コスチュームは天才ミケランジェロのデザイン


 教皇フランシスコは、比較的短い挨拶の中で次のようなことについて話されたのが印象に残った。


   

前座を受け持つ我がレデンプトーリスマーテルの神学生 演目はキコの歌    エジプトのコプト教会の神学生たちのエキゾチックなパーフォーマンス 


 

バチカン市国、2014年4月10日 (Zenit.org)

 

「教皇庁立グレゴリアーナ大学」の関係者に対する教皇の挨拶(抄訳)

 



 ・・・・(世界中の様々な国から学者や学生が集まっていることに関連して) 同時に皆さんは、自分たちの属する様々な教会と文化をここにもたらしています。これ(グレゴリアーナ大学)はローマにある機関の一つです。それは信仰を成長させ、心と精神を普遍性(カトリック性)に向けて開く貴重な機会です。この地平の中で「中心」「周辺」の弁証法、つまり「周辺から中心に到達し再び周辺に帰っていく神の論理に沿った福音的な形」がおのずと姿を現します。

 私が皆さんと分かち合いたいと思ったもう一つの側面は、学問霊的な生活の関係についてです。教えること、研究すること、勉学など広義の養成に対する皆さんの知的な取り組みは、キリストと教会に対する愛に動機づけられていればいるほど、また、学問祈りがより調和的に結ばれていればいるほど、より実り豊かなものになるでしょう。

 知識と大切な事柄の理解の鍵を、相互に結び合わされていないばらばらな概念の集積としてではない形で伝え受け渡すには、どうすればいいか:これは私たちの時代の挑戦の一つです。命と世界と人間を単に総合的にではなく、理性と信仰の真理にもとづいた探求と確実さの霊的な雰囲気の中でより良く理解するためには、真の福音的な解釈学が必要です。哲学と神学は人が知性を構成し強化し、意志を照らす確信を手に入れることを可能にしますが・・・、しかし、それらすべては開かれた心で跪(ひざまずき)ながらなされたときにのみ、実り豊かなものとなり得ます。自分の完結した閉ざされた思考に満足している神学者は「二流の」神学者です。優れた神学者哲学者は開かれた思考、つまり、未完成で神とより大いなる真理に対して常に開かれ、レリンスの聖ヴィンセントが描いた法則、「年を経て統合され、時とともに敷衍され、時代とともに深まる」(Commonitorium primum, 23: PL 50, 668)に従って発展する思考を持っていること、これが開かれた心を持った神学者のあり方です。そして、祈らない、神を礼拝しない神学者は、病んだナルシシズムになり果てます。これは教会病の一種です。神学者と思想家のナルシシズム吐き気を催させるほどの大きな害をもたらします・・・。

この日の謁見は、聖母マリアへの祈りで締めくくられた。

  

 ~*~*~*~*~


 ベルゴリオ時代現教皇は決して主流派ではなかった一人のイエズス会員として、ニコラス総長に従順を誓っていた。今、攻守所をかえて、ニコラス総長元配下ベルゴリオ会員に従順を誓う番となった。歴史的に、教会を陰から支える実力者とされてきたイエズス会総長「黒い教皇」と渾名され、それに対してローマ法王「白い教皇」と呼ばれてきたのだ。


              

                      「白い教皇」 フランシスコ                                 「黒い教皇」 ニコラス総長     

     

(おわり)

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★ 〔完全版〕教皇のインタビュー(その-9) (最終回の一つ前)

2014-04-10 17:00:30 | ★ 教皇フランシスコ

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〔完全版〕教皇のインタビュー(その-9)

(最終回の一つ前)

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現場と研究室

 そう言うわけで、イエズス会員にとって創造性は重要なことです。教皇フランシスコはCivilta Cattolica チビルタ・カットリカ(カトリックの文明)誌 の司祭たちとその協力者たちを謁見した際、イエズス会員の文化的な働きにとって大切な他の三つの資質について詳しく語った。去る6月14日の記憶に戻ろう。あの日、私たちのグループ全体との対話に先立って行われた打ち合わせの中で、教皇は私に「対話」と、「識別」と、「現場主義」の三本柱についてあらかじめ話した。そして、教皇パウロ6世がある有名な演説の中でイエズス会員について述べた箇所、すなわち、「最も困難で先鋭化した問題の分野にあっても、イデオロギーが衝突する場所においても、社会の掃き溜めのようなところでも、教会の中のあらゆる場所で、火がついた人間の緊急事態と福音の普遍的のメッセージとの間の対決がかつて存在し今もある場所にイエズス会員はいたし、今もいる。」を引用しながら、特に最後の点、つまり、現場主義のことを強調した。

 教皇フランシスコにいくらかの説明を求めた。「わたしたちに《現場を都合よく手なずけてしまう誘惑》に陥らないように、現場の方に出向くべきであって、現場を家に持ち帰って化粧を施して飼い慣らしてしまわないよう気を付けるように」と言われました。それは何のことを指して言われたのでしょうか?正確には何を言おうと意図されたのでしょうか?このインタビューはイエズス会が編集している幾つかの雑誌のグループの間で合意されたものです。彼らに対してどのような勧告をなさりたいのでしょうか?彼らの優先課題はどのようなものでなければならないのでしょうか?」

 「チビルタ・カットリカに向けた鍵になる3つの言葉は、多分それぞれの性格と目的によって強調点は異なってくるとしても、イエズス会のすべての雑誌に当てはめられることが出来るだろう。私が現場にこだわるのは、人がその中で働きそれについて考察する状況の中に溶け込む文化を形成することがその人にとって必要であることを、特別な形で指摘したいからだ。そこには、研究室の中に生きる危険性の罠が常に待ち受けている。我々の信仰は研究室の信仰ではなく、歩みの中の信仰、歴史的な信仰である。神はご自分を抽象的な真理の要約としてではなく、歴史として啓示された。私が研究室を恐れるのは、研究室の中では問題を取り上げ、自分の家に持ち帰って、その問題を現実の状況から切り離して飼い慣らし、ペンキで塗りこめるからだ。何も現場を家に持ち帰る必要はなく、現場にとどまって生きて大胆にふるまうべきなのだ。」

 教皇にご自分の個人的体験に基づいた例を何か語ってもらえないかと聞いた。

「社会的な問題について語るとき、一つのやり方はvilla miseria(麻薬患者収容施設)の建物の中で集まりを開いて麻薬の問題を研究することで、もう一つのやり方は麻薬が常用されている現場に入って、そこに住み込んで問題を内側から理解し研究することだ。ここにアルーペ神父のCentros de Investigación y Acción Social(研究と社会活動センター)宛の貧困に関する天才的な手紙がある。その中で彼は、もし貧しい人たちが生活しているその現場に直接入って体験しないならば、貧困について語ることは出来ない、と明白に述べている。しかし、この《現場に入る》と言う言葉には危険も含まれている。なぜなら、ある種の修道者らの場合、それが一種のファッションのように受け取られ、識別の欠如のために大失敗に終わったからだ。しかし、実に大切なことではある。」

 「現場は実にたくさんある。病院で生活している修道女たちのことを考えてみよう。彼女たちは現場を生きている。私はこのような彼女たちの一人のお蔭でいま生きている。私が肺を患って病院にいたとき、医者は私にある量のペニシリンとストレクトマイシン処方した。対処した修道女は一日中患者と接しているので勘が働き、何をすればいいか知っていたので、その薬の量を3倍にした。医者は実に有能ではあったが、自分の研究室に住み、修道女は現場に住み、一日中現場と対話していた。現場を飼い慣らすとは、研究室に閉じこもり、現場から距離を置いた場所から物を言うことを意味する。そこにも有益なことは多々あるとはいえ、私たちの考察は常に現場の経験から出発しなければならない。」



 

人は自分自身をどのように理解するか

 そこで、このことは人間論的な挑戦の重要な文化的現場に対しても当てはまるか、またどのように当てはまるかについて教皇に訊ねた。教会が伝統的に言及する人間論と、教会がそれについて用いてきた用語は、社会的な賢明さと経験の結果として堅固な基準の上に据えられている。しかしながら、教会が向き合っている人間はもはやその基準を理解していないか、又はそれを十分なものとは考えていないようである。私は、人が自分を過去とは違ったやり方と違った範疇で解釈し始めている事実について論じはじめた。これはまた、社会における大きな変革と、自己自身に対するより広範囲な研究の原因でもある・・・。

 ここで教皇は、立ちあがって自分の事務机の上から聖務日課書を取りに行った。それは、もうすっかり使い古したラテン語の聖務日課書だった。そして、年間第27週の第6週日、つまり金曜日の読書課のところを開いた。彼はレリンスの聖ヴィンチェンツォの第一集(Commonitórium Primum)から取られた一節を読んで聞かせた。ita étiam christiánae religiónis dogma sequátur has decet proféctum leges, ut annis scilicet consolidétur, dilatétur temper, sublimétur aetáte (キリスト教の教義もこの法則に従わなければならない。時代とともに統合されながら、時間とともに発展しながら、年代とともに深みを増しながら進化するのである)。

 そして教皇はこう続けた。「レリンスの聖ヴィンチェンツォは人間の生物学的な成長と、ある時代から別の時代へ時間の経過とともに信仰の遺産が成長し、より統合されながら受け渡されていくこととを対比した。この通り、人間に対する理解は時間とともに変化するし、また人間の意識も深まる。奴隷制度が許容され、死刑が何の問題もなく許容されていた時代の事を考えてみよう。このように、真理の理解においても成長がある。釈義学者や神学者は教会が自分の判断を成熟させるのを助ける。他の学問も、その進化も、この理解の成長によって教会を助ける。教会の二義的な規範や規則の中には、かつては有意義であったが、今日では価値や意義を失ったものもある。教会の教義をニュアンスの余地のない固守すべき碑文のようにとらえるビジョンは誤っている。」

 「いずれにしても、あらゆる時代に人は自分自身をより良く理解し、より良く説明しようと努力してきた。そして、人は時間とともに自己理解のあり方を変えてきた。サモトラケのニケー(訳注:ギリシャ彫刻の勝利の女神)を刻んで自分を表現したのも人であれば、カラバッジョが表現したのはまた別の人間像であり、シャガールのも別、またダリのものもさらに別のものである。真理の表現の仕方もまた多様で有り得るし、それはむしろ福音のメッセージの普遍的な意味内容を伝えるために必要なことである。」

 「人間は自分自身を探求するものであり、この探求の中にあって誤りを犯しうることも明らかである。教会は、例えばトミズムの時代のような天才的な時代を生きたこともあった。しかし、思想の退廃(デカダンス)の時代も経験した。例えば、私たちは天才的なトミズムとデカダンスのトミズムを混同してはならない。残念なことに、私は堕落したトミズムの教科書で哲学を勉強した。だから、人間について思考するに際しては、教会は非凡さをこそ目指すべきであってデカダンスを指向すべきだはない。」

 「思想の或る表現が無効なのはどんなときか?それは、思想が人間的な視点を失ったとき、或いは人間的であることをすら恐れたとき、または自分を欺くに任せる時である。それは欺かれた思想であって、それはシレーネ(人魚姫)の歌声の前のユリシーズの姿として、あるいはサテュロスの半人半獣の森の神や酒神バッカスの巫女たちの乱痴気騒ぎに取り巻かれたタンホイザーや、ワーグナーの楽劇の第二幕の中のクリングソルの王宮におけるパルシファルのようなものとして描かれることが出来よう。教会の思想は非凡さを取り戻し、その固有の教えを発展させ深化させるために、人が今日どのように自己を理解しているかを常により良く知らなければならない。」

 

 長かった教皇フランシスコのインタビュー記事も次回が最終回になる。しかもその量は今までの一回分の平均の半分ほどになるだろう。今まで忍耐して読んで下さった方には感謝する。また、面白くもないのに、一回おきにこれが現れる煩わしさにもかかわらず、見限らずにフォローし続けて下さった方にも感謝したい。

(つづく)

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★ 忘れられた中世の町「アナーニ」-その(2) 「教皇ボニファティウス8世」

2014-04-07 14:29:34 | ★ 教皇

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忘れられた中世の町「アナーニ」-その(2)

「教皇ボニファティウス8世」

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アナーニ聖堂のボニファティウス8世像

 

ボニファティウス8世のことを詳しく知りたいと思った。

 私にとって、コピーしてブログに取り込むことが出来る一番手軽なソースはウイキペディアだ。だから、ついその抜粋に依存してしまうのだが、それは、私がウイキペディアの記事内容を全て無批判に肯定しているという意味ではない。「例えば、ウイキペディアにはこう書かれているが・・・」として、話を進めるうえでの取り敢えずの出発点くらいに軽く考えて頂きたい。(以下、『・・・』の中はウイキから借りた言葉)


 

ボニファティウス8世の初仕事

 前教皇を強引に退位に追い込んで自ら教皇の座についたことは前回触れた。『ボニファティウス8世が教皇となって最初にしたことは、ナポリ王カルロ2世が送り込んだ人物を罷免することと教皇宮をナポリからローマに移すことであった。』

 信者の「信仰と道徳」を正しく導くキリスト教の最高牧者である教皇の初仕事としては、あまりにも世俗的ではないか?


 

コロンナ家との対立

 『ローマを本拠にしていたイタリア有数の貴族コロンナ家が新教皇ボニファティウス8世に反感をいだいた。そこで、前教皇退位の経緯に着目し退位の合法性に疑問を呈した。もしも、この退任が違法ならば、新教皇の正統性が揺らぐこととなる。ボニファティウス8世は、これに対し、みずからの保身のため前教皇をフモーネ城の牢獄に幽閉した。

 1297年、コロンナ家はアナーニからローマへ移送中の教皇の個人財産を強奪するという実力行使に出た。コロンナ家はその後も「ボニファティウス8世は真の教皇にあらず」との声明文を発し続けたため、教皇はコロンナ当主とその一族を破門とする命令を発し、一族討伐のための「十字軍」を招集した。1298年、コロンナ家は教皇軍に屈したものの、やがてフランスへと逃亡した。』

 ローマのトレビの泉と目と鼻の距離に今もコロンナ宮殿がある。見学曜日と時間が限られているので、日本人のローマ通でも意外と中を見た人は少ないが、オードリー・ヘップバーン主演の不朽の名画「ローマの休日」のラストシーンの記者会見はこの宮殿の中での撮影だ。前教皇の退位の茶番劇の顛末は既に前回の「アナーニ」に記したが、自分の政敵を倒すために「十字軍」を招集するに至っては、キリスト教の堕落もここまで行くことが出来るか、と慨嘆する他はない。


 

フランス王との対立

 『1294年、フランス王フィリップ4世はイングランドと対立し、イングランド王エドワード1世に対して戦争を開始したが、長期化したこの戦争で必要となった膨大な戦費を調達するため、フランスではじめて全国的課税を実施し、税はキリスト教会にも課せられた。しかし、教会課税は教皇至上主義を掲げるボニファティウス8世にとって承知できないことであった。敬虔なキリスト教徒の国フランスはローマ教皇庁にとって収入源として重要な地位を占めていたため、教会課税は教皇にとって大きな痛手となったのである。ボニファティウス8世は、聖職者への課税を禁止する勅書を発行した。しかし、このときの対立はボニファティウスがフィリップ4世の祖父ルイ9世(聖王)を列聖したことで、それ以上の事態には発展しなかった。』

 教皇ヨハネパウロ2世教皇ヨハネス23世が間もなく復活祭明け4月27日に教皇フランシスコによって「列聖」されるが、この二人の教皇はまことに聖なる生涯を送った信仰の鏡と呼ばれるにふさわしい。それに比べて、税収を廻ってフランス王と争ったり、政争の手段に世俗の国王に「聖人」の称号を贈ったり、政敵を倒すために「十字軍」を編成したり、これが十字架上の死を通して人類の罪を贖いと復活の命を勝ち取ったイエス・キリストを主と仰ぐ信仰の指導者のすることか、とあいた口がふさがらない。

 

フィレンツェへの介入とダンテ

 『一方でボニファティウスは、フィレンツェの支配を企図して教皇派の内紛(黒派対白派)を扇動した。フィレンツェでは富裕な市民が白派を支持、古い封建領主が黒派を支持し、両者はたがいに対立していた。白派はプリオラートと称される最高行政機関をつくって3名の頭領(プリオリ)を選んだが、ダンテ・アリギエーリはその1人に選出されている。教皇庁はフィレンツェに対し教皇に奉仕する100人の騎兵を出せと命令した。ダンテはこれを拒否する書簡をローマに送ったが、教皇庁は応じない。そのため、1301年、ダンテはフィレンツェ使節の1人として教皇に会ったが、帰途シエーナに滞在中、永久追放の判決を受け、亡命生活を余儀なくされた。ダンテの代表作『神曲』第1部(「地獄篇」)では、ボニファティウス8世は地獄に堕ちた教皇として、逆さまに生き埋めにされ、燃やされる姿が描かれている。』

 「神曲」の著者ダンテと教皇との間にこのような確執があったことは、今回初めて知った。ダンテがペンで一矢を報いたと言うことだったのか。

 

アナーニ事件(教皇の屈辱)

 『1301年、フランス王フィリップ4世は再びフランス国内の教会に王権を発動し、教会課税を推しすすめようとしたが、この問題について、ボニファティウス8世は1302年に「ウナム・サンクタム(唯一聖なる)」という教皇回勅を発して教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越し、教皇に服従しない者は救済されないと宣した。これは、教皇の首位権について述べた最も明快かつ力強い声明文であり、歴代教皇が政敵から身を守る際の切り札として利用された。

 1302年、フィリップ4世は国内の支持を得るために聖職者・貴族・市民の3身分からなる「三部会」と呼ばれる議会をパリのノートルダム大聖堂に設け、フランスの国益を宣伝して支持を求めた。人びとのフランス人意識は高まり、フィリップ4世は汎ヨーロッパ的な価値観を強要する教皇に対して国内世論を味方につけた。ボニファティウス8世は怒ってフィリップを破門にしたが、フィリップの側も悪徳教皇弾劾の公会議を開くよう求めて両者は決裂した。このとき、ローマ教皇とフランス王の和解に反対し、フィリップ4世に対し、教皇と徹底的に戦うべきことを進言したのが、「レジスト」と称された世俗法曹家出身のギヨーム・ド・ノガレであった。

フィリップ4世は、腹心のレジスト(法曹官僚)ギヨーム・ド・ノガレに命じ教皇の捕縛を計った。ノガレの両親はかつて異端審問裁判で火刑に処せられていたためローマ教皇庁に対する復讐に燃えていた。いっぽう、教皇の政敵で財産没収と国外追放の刑を受けていたコロンナ家は、フィリップ4世にかくまわれていた。ノガレは、コロンナ家がフランスの法廷で証言した各種の情報をもとに、教皇の失点を列記した一覧表を作成し、これを公表した。

 1303年9月、ノガレはコロンナ家の一族と結託して、教皇が教皇離宮のあるアナーニに滞在中、同地を襲撃した。

 ギョーム・ド・ノガレとシアッラ・コロンナは、教皇御座所に侵入し、ボニファティウス8世を「異端者」と面罵して退位を迫り、弾劾の公会議に出席するよう求めた。教皇が「余の首を持っていけ」と言い放ってこれを拒否すると、2人は彼の顔を殴り、教皇の三重冠と祭服を奪った。これについては両者の思惑が異なり、シアッラは教皇を亡き者にしようと考えていたが、ノガレはのがれられないよう教皇をつかまえてフランスに連行して会議に出させ、いずれは退任させる腹づもりであった。2人は激しい言い争いになり、それが翌日までつづいたが、そうしている間にローマから駆けつけた教皇の手兵によりボニファティウス8世は救出された。ボニファティウス8世は民衆の安堵と大歓声に迎えられてローマへの帰還を果たしたが、辱められた彼はこの事件に動揺し、この年の10月11日、急逝した。人びとはこれを「憤死」と表現した。』

 もう、あきれ果てて物も言えない、とはこの事か。教皇が世俗界で最高の権力を主張するに及んでは、キリスト教の世俗化、堕落は既に頂点に達しようとしていた。ナザレのイエスの12使徒の頭、聖ペトロの後継者は、信仰と希望と愛の最高牧者であることをやめて、世俗権力の亡者、悪徳の鏡へと堕落していた。約200年後にルターによる宗教改革を招く素地がすでに固まっていたと言えるだろう。


ボニファティウス8世の石棺(ヴァチカン)


人物評価

 『ボニファティウスは、聖職にある身としてはめずらしいほどの現実主義者であり、また、「最後の審判」は存在しないと信じていた。敬虔な人から悩みを打ち明けられても、「イエス・キリストはわれらと同じただの人間である」と述べ、「自分の身さえ救うことのできなかった男が他人のために何をしてくれようか」と公言してはばからなかったともいわれている。

 ボニファティウス8世は、何ごとによらず華美を好み、美食家で、宝石でかざったきらびやかな衣服を身にまとい、金や銀などの宝飾品を常に着用していた。賭博も好み、教皇庁はまるでカジノのようであったという。性的には精力絶倫で、あやしげな男女が毎晩のように教皇の寝所に出入りしたともいわれている。

 政治的に対立したフィレンツェのダンテ・アリギエーリからは、上述のように、主著「神曲」のなかで「地獄に堕ちた教皇」として魔王のルシフェルよりも不吉な影をもって描かれた。』

 私はウイキペディアの記述が全て正しいと断言できるほどの知識を持たない。また、他にも様々な観点が有り得ることを否定するものでもない。しかし、ローマでイタリア人の神父たちの話を聴いていて、ウイキペディアの記述がそれほど真実から遠くないだろうと言う印象を持つ。

上の記述を読んで、皆さんは宗教この際キリスト教のことだがというものはここまで腐敗堕落できるのか、と唖然とされないだろうか?私はする。こんなのに比べれば、日本のお寺さんの中にお金の亡者だとか、女好きとか陰口たたかれる人が居ても、実に可愛らしく見えてくるではないか。

 教皇フランシスコが、最近狭いバチカン市国の中を移動中、立派な屋敷が新築中なのを見て、何を建てているのかと聞いた。側近があれは国務長官ベルトーネ枢機卿猊下の新しいお屋敷です、と答えた。すると、教皇は、その建築費はバチカンの公費から支出することを認めない。枢機卿が自分の財産から支払うべきだ、と言ったそうだ。サンタ・アンナの普通のアパートに住んでいる清貧の教皇の面目が輝いたエピソードと言えよう。

 現代まで267代の教皇の内、聖人の誉れ高い人物がいなかったわけではない。それどころか、『初期の教皇はほとんどすべて「聖人」に列せられている。だが、その後は「聖人」教皇は数えるほどしかいない。列聖された教皇は全部で78人だ。』と(「概略ローマ教皇歴代誌」に)あるが、58代までの初期皇たちが、2-3の例外を除いてみな聖人だったのに対し、その後約1500年間の200代余りの教皇の内、聖人と呼ばれた人物が数えるほどしかいなかったということは一体何を意味しているのだろうか。その点の解明は「アナーニ」その-(3)以降に譲りたいと思う。



(つづく)

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★ 〔完全版〕 教皇のインタビュー(その-8)

2014-04-02 16:10:59 | ★ 教皇フランシスコ

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〔完全版〕教皇のインタビュー(その-8)

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我々は楽観主義者でなければならないか?

 教皇のこれらの言葉は、今までの彼の幾つかの省察を思い起こさせる。その中で、ベルゴリオ枢機卿だった頃の彼は、神は既にすべての人の間生気に満ちて現存し、一人ひとりと結びついて巷に住んでいる、と書いている。私の考えでは、それは聖イグナチオが霊操の中で書いたこと、すなわち、神は我々の世界の中で《働き、行動している》と言うことを、別の表現で言っているのだと思った。そこで、教皇に《私たちは楽観主義者でなければならないか?何が今日の世界における希望の印か?危機の中にある世界にあって楽観主義者であるためにはどうすればいいか?》と聞いた。

 「わたしは《楽観主義》と言う言葉は好きではない。なぜなら、それは心理学的な態度を言い表わすからだ。私はその代わりに前にも引用したヘブライ人への手紙 の第11章に書かれている 《希望》 と言う言葉を使う方を好む。教父たちは、大いなる困難の中を通りながら、歩み続けた。私たちがローマ人への手紙 の中に読むように、希望は決して裏切られることがない。それに対して、プッチーニのツーランドットの一番目の謎の事を考えて御覧」と教皇は私に求めた。

 とっさに私は、希望を答えとした王女様の謎についての詩句を、少しばかり暗唱していることを思い出した:暗やみに包まれた夜に虹色の亡霊が舞い / 無数の黒い人影の上に / 翼を広げて昇ると / すべての人たちはそれを希求し / すべての人はそれに哀願する / だか亡霊はあけぼのと共に消え失せる / 心の中に再び生まれるために / それは夜毎に甦り / そして日毎に滅びゆく! この詩の言葉は希望の願いを表しているが、ここでは虹色の亡霊として、あけぼのと共に消え失せるものとして描かれている。

 教皇は言葉を続けて、「だけど、キリスト教的な希望は亡霊ではなく、欺くことはない。それは神に対する徳目だから、神の贈り物であって、ただの人間的な楽観主義に矮小化することは出来ない。神は希望を裏切ることはない。ご自分自身を否定することは出来ないからだ。神は約束のすべてなのだ。

 

芸術と創造性

 私は教皇が希望の神秘について話すためにツーランドットの引用をしたことに感動した。そして、教皇フランシスコの芸術と文学に関する造詣についてもっと知りたいと思った。彼が2006年に、偉大な芸術家は人生の悲劇的で痛ましい現実を美しく表現することが出来る、と言ったのを思い出す。そこで、どのような芸術家と作家がお好きですか?それらに共通する何かがおありならば・・・とお聞きした。

 「わたしは互いに相異なる作家をとても愛好している。ドストエフスキーとヘルダーリンをとても愛好している。ヘルダーリンにつては、彼のおばあさんの誕生日に捧げられた、大変美しく、私に霊的に多くの善をもたらした、あの抒情詩のことを思い出したい。その詩の最後は 幼子のときに約束したことを人が保ち続けますように と言う言葉で結ばれている。感動したのは、私が私のローザおばあさんを大変愛していたので、ヘルダーリンが誰をもよそ者とは見做さないこの世の友イエスを生んだマリアと自分のおばあさんを並べて考えていたことにもよる。私は いいなずけ (Promessi Sposi) の本を三度読んだが、それを再読するために今また机の上においている。マンゾーニは私に多くの事を語った。私のおばあさんは私が幼い子供だったとき、この本の最初を暗記するように教えた。《途切れることなく連なる二つの山なみにはさまれて南に向かうあのコモ湖の枝分かれ・・・》。ジェラール・マンレイ・ホプキンスもとても気に入っている。」

 「絵画ではカラバッジョに感嘆する。彼の油絵は私に語りかける。しかし、またシャガールの白い十字架 のある絵も・・・。」

 「音楽ではもちろんモーツァルトが好きだ。ハ長調のミサ曲のあの Et incarnatus est (エト・インカルナートゥス・エスト=そして、受肉された)は無類のもの、神にまで引き上げるものだ!クララ・ハスキルの弾くモーツァルトが好きだ。モーツァルトは私を満たしてくれる。それを考えることは出来ない。それは感じなければならない。ベートーベンを聴くのも好きだが、それはプロメテウス的-反逆的-な意味においてだ。私にとって、よりプロメテウス的な解釈者はフルトヴェングラーだ。そして、バッハの受難曲。私のとても好きなバッハの一節は、マタイ受難曲のペトロの涙のErbarme Dich(主よあわれみ給え)だ。最高だ。次いで、同じように親密と言うわけではないが、違うレベルで、ワーグナーを愛する。聴くのは好きだが、いつもと言うわけではない。フルトヴェングラーが50年にスカラ座で指揮した指輪の四部作(ニーベルングの指輪)が比較的優れている。クナッパーツブッシュが62年に指揮したパルシファルもまたいい。」

 「映画についても話さなければならないだろう。フェリーニ監督のLa strada(道)は多分私が最も愛した映画ではないか。暗に聖フランシスコに関連付けられたこの映画には私と重なるものがある。女優アンナ・マグナニと俳優アルド・ファブリツィの出た映画を、私は10才から12才の間に全部見たと確信する。私が大好きなもう一つの映画はRoma città aperta(開かれた都市ローマ)だ。私の映画文化は先ず第一に私を度々映画に連れて行ってくれた両親に負うところが大きい。」

 「とにかく、一般論として私は悲劇的な芸術家、特により古典的なのが好きだ。セルバンテスがドンキホーテの物語を讃えるために学士カラスコの口に載せた《幼子たちが手にとり、若者たちがそれを読み、大人たちはそれを理解し、年寄りたちがそれを称賛する》という美しい定義がある。私にとって、古典に対する良い定義で有り得る。」

 私は彼のこれらの言及にすっかり心を奪われ、かれの芸術的嗜好の門を通って彼の内面に分け入りたいという望みを抱いている自分がいることに気付いた。それは恐らく長い道のりになることだろう。そこにはイタリアのネオレアリズムからIl pranzo di babette(バベットの午餐)の映画までも含まれるだろう。私の頭には、彼が別の機会に言及した他のマイナーな、またあまり知られていない、あるいはローカルなものも含む著者や作品が浮かんできた。ホセ・エルナンデスJosé Hernández(訳注:アルゼンチンの詩人)のマルチン・フィエロMartín Fierro(訳注:長編叙事詩)から、ニーノ・コスタNino Costaの詩やルイジ・オルセニゴの大脱走 に至るまで。しかし、またヨゼフ・マレーグやホセ・マリア・ぺマンまで。また、ダンテやボルゲスBorges(訳注:アルゼンチンの作家、詩人)は言うに及ばず、Adán Buenosayres(アダン・ブエノス・アイレス=アルゼンチン文学の最高傑作)や El Banquete de Severo Arcángelo(厳しい大天使の晩餐)や Megafón o la guerra(メガホンか戦争か)の著者であるレオポルド・マレシャルまでも。

 特に、まさにボルゲスに至るまで、と言うのも、28歳でサンタフェの無原罪の御宿りカレッジの文学教授をしていたベルゴリオは、個人的に彼を知っていたからだ。ベルゴリオは高等学校の最後の2学年の教鞭を執り、生徒たちに創造的文学を教えた。私は当時の彼と同じ年頃のとき、ローマのマッシモ学院でBomba Carta(紙爆弾)を設立して彼と同じような経験をしていたのでそのことについて話した。そして最後に教皇に彼自身の経験を話してくれるように求めた。

 「それは少しばかりリスクを伴う試みだった-と教皇は答えた-。生徒たちがエル・シッド(El Cid)(訳注:11世紀スペインの国民的英雄ロドリゴ・ディアスのこと)を勉強するように仕向けなければならなかった。しかし子供たちはそれが好きではなかった。彼らはガルシア・ロルカを読みたいと言った。それで、私はエル・シッドを家で勉強したことにして、授業中は彼らのより気に入った著者たちの作品を取り扱うことにした。明らかに若者たちは現代のものではロルカのLa casada infiel(不貞な妻) や、古典ではフェルナンド・ロハスのLa Celestina(ラ・セレスティーナ)のような、より《辛口の》文学作品を好んだ。しかし、最初は彼らの関心を引いたものから読みながら、次第に彼らは文学や詩全般に対する味を覚えて、他の作家の作品へと移っていった。これは私にとって大きな体験だった。私は結局プログラムを達成したが、それは破壊的な手法、つまり、あらかじめ決められたやり方に従わないで、作家たちを読み進むうちに自然に生まれた秩序に従ってであった。このようなやり方が私には合っていた。私は硬直的なプログラムを作ることは好きではなかった。大体どの辺にたどり着くかを知っているだけで十分だった。そして、次に彼らに書かせることにした。最後に、私の生徒たちの書いた二つの物語りをボルゲスに読ませることに決めた。私は彼の秘書を知っていた、と言うのも彼女は私のピアノの先生だったからだ。それらはボルゲスにとても気に入った。そして、かれは一冊の文集に序文を書くことを提案した。」

 「教皇聖下、では一人の人の人生にとって創造性は重要なことだということでしょうか?」と訊ねた。彼は笑って私に答えた。「一人のイエズス会員にとっては極めて重要なことだ!イエズス会員は創造的でなければならない。」

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(つづく)

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