:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 津波被災地は今ー3

2011-08-25 20:46:05 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

 

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 津波の被災地は今-3

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何故か心が重く、ブログの更新が1日伸ばしになってしまいました。


   

   津波の圧力で横倒しになり元の場所から移動した4階建てのビル

 

      

     瓦礫の中からつぶらな瞳でこちらを見つめるお人形の首

 

   

    砂に埋まった船。                         瓦礫の端に放置された漁船。 

この津波で無数の船が失われ、漁業の再開の目処は立っていない。

 

赤いゴム長の婦人。 すでに瓦礫が撤去された自宅跡(?)で無心に何を探す?!

震災から5カ月もたって・・・・・

 

海のすぐそばのゴーストタウンのような建物の群れの中に、目立って大きなビルの廃墟が一部を鉄板の塀に囲まれて幽霊のように建っていました。 


海沿いのビルは、地震後の1メートル近い地盤沈下で、軒並みゼロメートルかそれ以下になった


我々のワゴン車がその前に停車すると、彼女のお母さんが車の中で居ずまいを正して両手を合わせ、建物に向かって恭しく頭を垂れて祈るではありませんか。 


ビルの前で片側のキャタピラを上にして横転し塩水に浸かって使えなくなったパワーシャベル


それを見た時、東京からの道々、車の中で彼女が話してくれたことを、ハッと思い出しました。

その話と言うのは、大体次の通りです:

あの日、津波警報の中、ある会社の女性従業員が、最後の顧客を安全に避難できるように誘導し終えた時は、既に彼女自身に安全な高台に逃げるだけの時間も手段ももう残されていませんでした。それで、自社のビルの屋上に逃れるほかはありませんでした。屋上にいるその姿はテレビにも映っていたそうです。ところが、襲ってきた津波は無慈悲にもそのビルの屋上を越えて、そのまま内陸へとなだれ込んで行ったのでした。一瞬のうちに彼女の姿は画面から消え失せたのは言うまでもありません。

そうか、その女性社員と言うのが、実はこのワゴン車を運転してくれている男性のお嫁さんだったのだ、と鈍い私の頭の中でやっとストーリーが繋がったのでした。

彼は、自分の妻がその建物の屋上に居る姿をUチューブの映像で見たのを最後に行方不明のまま、遺体も発見できずに今日に至っていたのでした。彼は自分の妻が死んでしまったと言う現実を、その遺体が確認されるまでは受け入れることが出来ず、いまだにひょっこり帰ってくるのではないかと待っている様子で、-密かに遺体探しは続けていたのかもしれませんが-、この5ヶ月間、彼女の姿が最後に確認された建物の廃墟に、誰かと一緒に近づくことは決してなかったそうです。

それが、我々を案内して被災地をめぐるうちに、初めて現場に行く気持になったようでした。そして、その後は気持ちが楽になったのか、極めて自然に近くの避難所に立ち寄り、瓦礫の中から見つかった写真のアルバムや、誰かの遺品と思われるものが集められた場所を巡り、慰霊供養の祭殿の前では線香をあげて手を合わせたり、最近発見された遺体の報告資料に目を通したり、心の中で葛藤しながらも、気持ちの整理に努め、妻の死と向き合おうと努力しはじめているかのように見受けられました。


  無造作に篭に集められたアルバムの数々


   

記念写真の数々。誰からも引き取られることなく、ずっとその日の想い出を伝えて・・・


     

  羽織袴も                  ドレス姿も                  つのかくしも  


   

        1世代前 (?) のブルーインパルス                      年輪を重ねた老夫婦のスナップ写真も


女川町・大原で発見された最初の10遺体。2体目と10体目は津波の翌日から2-3日以内に発見されたにも関わらず、まだ身元は確認されず、いまだに引き取られていないと言うことか?  


  

11番目から20番目までは、氏名も判明し、遺族によって引き取られている。



最後のページ。521体目は女性。7月25日6時28分に女川港海上で発見された。まだ着衣は整っている。524体目は女性。海上で発見。着衣は右足靴下だけ。最後の526体目は、7月26日7時40分、市場東南訳200m、岸壁の瓦礫の中から発見された。9月に入った今、その後何体がこのリストに加わっていることだろうか。


打ち解けて話し合ったことが、彼の背中を一押しして、少しでも現実と向き合いそれを受け入れる助けになったとすれば、被災地を訪れたことも無駄ではなかったかと、振り返っていました。

石巻の町に入ると、先ず日本で最古のハリスト教会(ロシア正教会)の建物を見に行きました。北上川の川岸に別の場所から移築されていた木造の教会は津波に襲われ、かなり大きなダメージをうけていました。教会のすぐそばには辛うじて建物との衝突を免れた大きなクルーザーが二隻打ち上げられてどっしり鎮座していました。


   

              教会の左側に一隻                もう一隻は教会の前の樹木を半分押し倒すように止まっていた。


町の中心に近づくと、浴衣に団扇姿の若い娘たちや、たこ焼きや、お好み焼きの匂い、生ビールやその他の屋台の呼び声、大勢の人出でお祭りのような賑わいでした。


   

お祭りの屋台と                              道一杯に置かれた追悼の蝋燭


北上川の川岸の警察署前の広場には祭壇が設けられ、僧侶や、立正佼成会の婦人会、学生や子供たちの奉仕者が整然と慰霊・追悼の式を執り行っていました。


   


   


   

    映像取材の若い二人                       神戸から送られた竹蝋燭で作られた3.11の文字

 

並行して始まった灯篭流しを見に岸辺に行くと、暮れゆく北上川の川面を、無数の(確か1万個以上の)灯篭が、次から次へ川上から風に送られて、思いがけない速さで川下へと流れて行きました。

1万個以上の灯篭が、北上川の川面を風に送られて、思いがけない早さで海に向かって流れて行った

一つ一つの灯篭に震災・津波の犠牲者の魂が・・・・・   


次の朝早く、東松島を発って、東京で車を返し、その足で長野新幹線に乗って野尻湖の家に戻りました。

その後、この野尻湖の家には、たまたま相次いで私の大切な知人、友人の訃報が届き、毎朝のように追悼のミサを捧げる日が続きました。

お盆を過ぎて、久しぶりに電話を入れたら、あの車を運転して女川まで連れて行ってくれた彼は、お盆で集まった親戚・知人に会うのを避けて姿を隠していたようだったということでした。自分の行方不明の妻の死をいまだに受け入れかねて、そのことに話題が及ぶのを恐れてのことでしょう。いちど心を捕らえたトラウマは、誰かに出会ったぐらいでは簡単に消えないのだな、とあらためて思い知ったことでした。

一日も早く彼が現実と向き合い、前に向かって一歩を踏み出すことが出来るために、私にはいま何が出来るのだろうかと自問しました。遠くからそっと見守り、彼の心のバランスの回復が一日も早いようにと祈りたいと思いました。

 彼のケースは、私がたまたま接し得た一つの例にしかすぎません。何十万人の被災者の中には、形は様々でも、担い切るには余りにも重すぎた痛手に圧倒されて、いまも喘ぎ苦しんでいる人達が無数にいるだろうことにあらためて気付かされました。

(ひとまず、終わり)

 

 

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★ 津波被災地は今ー2

2011-08-19 08:27:56 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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 津波の被災地は今-2

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私が訪れた東松島市とその周辺に住む人たちの多くは、程度の差はあれ、津波で家を失ったり、家族の誰かを失ったりの、深い痛手を負った被災者たちです。 

着いて二日目は、あらたあめて松島地方の被災地くまなく巡りました。被災地は、前のブログにも書いた通り、5か月以上経った今でも、津波の爪痕は生々しく、もう心が張り裂けるような思いでした。


7月31日の「石巻かほく新聞」のたくさんの広告の中の一つ。この家族の場合、喪主を残してほぼ一家全滅?犠牲者の死亡日が3月11日に遡るこの種の広告が新聞の半ページを占めることが今でも少なくない。


三日目は夕方6時から石巻の北上川の河口で、地震・津波の犠牲者たちの慰霊と追悼のための灯篭流しがあるということで、朝から松島や石巻の海岸地帯、そして津波が遡上して無残に破壊した谷合の奥の村々などを見て回りました。

初めの予定では、土地に詳しい或る男性が運転して、私と彼女と3人で出かけるはずでした。ところが、いざ出発になって見ると、よい機会だからと、彼女の両親も一緒に行くことになっていました。実は、彼女の両親はこの5ヶ月間、周りの被災地の状況をまだ一度も見に行く心の余裕がなかったのでした。

彼は、私たちを乗せて、津波に襲われた宮城県の海沿いの被災地一帯を案内してくれました。


「よみがえれ故郷 ふんばれ」、の文字が。 津波はこのビルの屋根を越えて行った。


お昼の時間には、海に突き出した断崖の上にあって津波からは免れた立派なリゾートホテルで食事を頂いて、午後は海岸線の地盤沈下ですっかり様子が変わった岩礁の景勝地などもまわりました。

そのうち、何を思ったか、運転をしていた彼が、ここまで来たのだから、ついでに女川(おながわ)のあたりも回って見ようか、と言い出しました。

山道を回って、峠を越えると、女川町の一帯が目の下に展開してきました。谷筋は奥の方まで家々がなぎ倒され流されて跡形もなく、山肌に沿って立つ民家もある高さから下は半壊・全壊の残骸をさらし、下の平地には数少ない鉄筋コンクリートの建造物だけがもとの場所に留まっているとはいえ、3階建ての建物の屋上に車が載っていたり、4階建ての建物も窓は全部抜けて、中はがらんどうだったり、ひどいのは基礎の杭まで引き抜かれて横倒しになっていました。

 

津波の表面を漂った車は、最後にこのビルの上に着地した。背後の杉の森は津波に洗われた高さまで茶色に塩枯れているのが分かりますか?


津波に水没し屋上に漂流した瓦礫を乗せたビルの前に、なぜか一台のアップライトピアノが


良く見るとピアノ線は一本残らず切れていた。何故だろう?


頭上を旋回する海上保安庁のコーストガードのヘリは良く見ると機首から何か白い小箱状のものを釣り下げている。放射線測定器?まさか!


そんなビルの一つが、「防災対策庁舎」の廃墟でした。屋上には放送用の塔が立ち、防災無線や放送の設備が付いていたはずでした。それを指しながら運転していた彼は、こんな逸話を話してくれました。


周りの木造家屋が全部津波でさらわれた中で、この「防災対策庁舎」の鉄骨だけが辛うじて残っていて、地盤沈下で出来た水面に影を落としていた。

 

あの建物には防災無線の放送を担当する若い独身の職員がいた。津波の日、彼女はマイクに向かって懸命に高台への避難を促す放送を送り続けていた。彼女の母親は屋外の防災無線のスピーカーから流れる娘の声に励まされ、誘導されて避難を急いでいた。突然彼女の声が途絶えたが、避難を続けた母親は無事高台に逃れて助かった。後でわかったことだが、娘の放送の声が途絶えたちょうどその瞬間に、無情にも津波はその建物をすっぽりと呑み込んでいたのだった。彼女は結婚式を間近に控えていた。後日、彼女の婚約者は殉職して行方不明になっていたフィアンセの変わり果てた遺体を無念の思いで探し当てた、と言う話だった。


アップして良く見ると正面に祭壇が設けられ、花や供え物が載せられていた。

 

(つづく)

 

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★ 津波被災地は今-1

2011-08-10 06:01:37 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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津波の被災地は今-1

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16年前の阪神淡路大震災の時同様、3.11の時も私はローマに居た。イタリアの新聞の第一面を占領した福島第一原発の爆発のきのこ雲のカラー写真(あれは日本のメディアが殆んど掲載を控えたほど強烈なものだったが)を見た時、私は人災に特有なショックを禁じ得なかった。広島、長崎の原発のきのこ雲や、9.11の崩れゆくニューヨークのワールドトレードセンタービルの姿とダブって見えたからだ。


イタリアの新聞のトップを飾ったこのショッキングな写真(黒雲は煙突の高さの優に3倍に達している)は、日本ではあまり知られていないのではないか?あくまで素人判断だが、これは一般に広く流布した白っぽい色の爆煙が二本の煙突の高さあたりで横に広がっている「水素爆発写真とは全く異質な爆発ではないかと思っている。この爆発の直前の白橙色に光った火の玉の写真と合わせて考えると、爆発後も圧力容器が原型をとどめたいたとすれば、メルトダウンした貯蔵プールの核燃料の高温の塊が臨界に達して核爆発を起こしたチェルノブイリ型の爆発であったことを示しているのではないだろうか。広島・長崎の原爆は当時「ピカドン」と呼ばれた。この黒いきのこ雲もピカドンのパターンをなしている。家畜資料に使われた稲わらの高レベルの放射線を放つセシウムは、実はこの一発で一気にばらまかれたものではないだろうか。

      

左の写真は3号機の謎の爆発の最初の瞬間の閃光だろう。その直後のきのこ雲が上のイタリアの新聞を飾った写真だったはず。建屋が3号機の場合のように徹底的に壊滅しなかった右の1号機の水素爆発とは全く違う。私は水素100パーセントを詰めた巨大な風船?である飛行船ツェっぺリン号の悲劇の炎上の映像を子供の時にみたことがあるが、その水素の総量は3号機の建屋の内部空間よりもはるかに多かったはずだが、メラメラと燃えあがるようで爆発には至らなかった。少量の水素でも、酸素との混合比によっては燃え方(爆発の仕方)はより激しくなることはあり得るとしても、巨大なコンクリートの塊を天空高く吹き上げた黒いきのこ雲を作るだけの力はないはずだ。津波の翌日には炉心のメルトダウンの可能性を把握していた保安院が、5か月経った今ごろまでその事実を隠していたこと思えば、上の三枚の写真の背後にも後日明らかになるであろう巨大な嘘が潜んでいるとしても驚くには値しない。


 帰国して一段落すると、居ても立ってもいられず、東京の友人に車を借りて、気がかりな知人を東松島市の実家に訪ねた。

 着いて一息お茶を頂くと、日が暮れるまでの間にと、お父さんがま新しいワゴン車で東松島市の一帯の津波の跡を案内してくださった。その車中で聞いた津波の時の出来事を綴ってみよう。

嫁ぎ先のグアム島から取るものも取りあえず支援に駆けつけた彼女の実家は、津波の牙が及んだ先端ぎりぎりのところにあって、幸い土台からさらわれ押し流されて全壊することだけは辛うじて免れたものの、床上60~70センチまで塩水に浸かり、彼女が苦労してたどり着いた時には、まだ1階部分は畳も家具も家電製品も全滅の上、屋内にも床下にも分厚くヘドロが沈殿してその上を大小の漂流物が散乱していて、全く手のつけられない状態だったと言う。

後でわかったことだが、彼女のお母さんはいち早く高台に逃れ無事で、津波の被害を免れた知人の家に身を寄せていたが、父親はその地区一帯の区長さんをしておられた関係上、津波警報の中、自分の6人乗りのワゴン車に避難する人を10人ほど乗れるだけ詰め込んで2度高台を往復し、なお逃げ遅れている人を探して3度目に下に降りたところで津波に飲み込まれ押し流された。ドアを開けて脱出しようにも水圧でドアが開かず、もうこれまでか、と思った時に、流木か何かに激突して奇跡的にドアが開き、辛うじて一命を取り留めたそうだが、3月の雪の中、ずぶぬれで寒さに体温を奪われ、ガタガタ打ち震えて行き倒れ、まさに凍死しそうになったそのとき、通りがかった一人のご婦人が着ていたダウンのヤッケを脱いで着せてくれて、御かげで一命を取り留めたということだった。

それにしても、津波の引いたあとの人っ子一人いない瓦礫の原ですれ違った婦人は、そのあとあの寒さの中を上着も無しに一体何処へ消えて行ったのだろうかと不思議でならなかった。感謝の気持ちを伝えたいと近隣の生存者の間を探し歩いたが、該当する人にはついに巡り合わなかったそうだ。あれは、きっとマリア様による奇跡だったのだ、と言うことで皆は納得している。

父親の性格職掌を知っていた彼女は、きっと人を助けて自分は殉職しているに違いないと諦めていたから、生きて会えたこと自体、まさに奇跡を見る思いだったそうだ。

 初めは家の中に足を踏み入れることもできず、ライフラインも途絶えて、仕方なく車を失った吹きっさらしのガレージでの生活が始まった。お母さんは引き続き安全な知人の家に預け、九死に一生を得た父親と、生き延びて助かった近所に住む兄と、迫りくる津波に追われて裸足で高台の急坂を這い上がって命拾いをした従兄弟と、男三人女一人のサバイバルゲームが始まった。

夜の灯りは結婚式場で記念に買い取らされた太いウエディングローソク。食料は近所に幾つも流れ着いている冷蔵庫から頂き、お米も拾ってきて洗って乾かしたものだった。

たき火で暖を取り、着の身着のまま眠り、一階の家具を全部外に出し、ヘドロを掻き出し、その下に現れた塩水を吸って一枚100キロを超える畳を、取り落とし、取り落とししながらやっとの思いで全部道端に捨て、床下の分厚いヘドロも取り除くのに、数週間を要した。ローソクが尽きる頃、やっと電気が来たが、その頃には、あと1日ぐらいはローソクで生活してみようか、と言えるぐらい、異常な生活に対する慣れと余裕か生まれていたそうだ。

 5か月近い一家の奮闘の話を、聞いたまま全部を書き記したら膨大なものになる。一個のおにぎりを4人で分け合うところからから始まった周りの避難所生活。恐ろしい腐臭の中、疲れた体を引きずるようにして行方不明の身内を探し回る果てしない日々、・・・しかし、それら全ては、私がローマにいてインターネットの情報から想像していたことと、日本の国内のメディアがすでに克明にレポートしたことの二番煎じに過ぎないのかも知れないので、これ以は上書かない。

 自衛隊が活躍したし、ボランティアや全国の警察機動隊は私が訪れた時にはまだ活動を続けていた。

 被災地からわずか2~3キロしか離れていない津波が届かなかった場所に住む人は、ローマに居た私同様、地震以前と全く変わりない日常生活をしているのに、彼女の家から1キロも離れない海岸寄りの家々は全て、残されたコンクリートの土台にわずかに痕跡を偲ぶことが出来るほかは、跡形もなく消え去っていて、そこに住んでいた人々は今も避難所で展望のない生活を強いられている。しかもこの2~3キロしか離れていない二つの世界に住む人々は、互いに殆んど行き来することもなく、同じ時間の経過の中で全く別の、まさに天国と地獄の運命と現実を辿っている。

津波の跡は、6歳で被爆直後の広島に引っ越した時に私が見た、あのまっ平らな原爆の荒野と同じだった。以下、私の見た今の被災地の姿を紹介したい。

 

東北魂に期待しよう

 

   

ここにぎっしり軒を連ねていた家々は跡形もなく消え去り、その残骸は遠く巨大な山を築いている。



   

小学校の校庭は瓦礫の集積場。校舎一階の窓は全滅。時計は地震発生4分後に止まったまま。

 

  

何千台もころがる広大な車の墓場に消防車も。             沈下して池と化した低地にまだ取り残された車。


   

仮説住宅の建設は急ピッチに進み、    この日ボランティアーたちは側溝のヘドロ掻きに精を出していた。

 

   

野蒜の駅の架線は失われ、案内板にうっすら残る横縞状の汚れは津波の高さを刻んでいる。

 

   

昔ここに野蒜駅ありき。仙石線は廃線になるか、コースを変えるか、まだ結論は出ていない。駅ですれ違って反対方向に行った列車は、津波に飲まれて脱線、転覆したが、助かったこれはもう5カ月止まったまま。野蒜の駅では架線もない。電気は来ない。


  

 飼い主は死んだか?

 

たどたどしい文字に願いが込められて

 

堤防の向こうの海の上にうっすらと希望の虹が

 

航空自衛隊の松島基地は日本唯一のアクロバット飛行隊の基地だったが、このモニュメントの飛べない一機を除いて、全機が津波で失われた。

 

地盤沈下で水没した土地の向こうに、夕陽が沈む

 

(つづく)

 


 

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★ デュッセルドルフー4 (追憶)

2011-08-02 18:25:35 | ★ 旅行

 

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デュッセルドルフ-4 (追憶)

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 ガラリ と トーンを変えよう。 

 

 若者たちは夕食をたっぷりとったら、また22時間のバスドライブでローマに帰ることになっていた。

 私は、あの過酷な夜行バスに恐れをなして、デュッセルドルフに延泊を決めていた。レストランから宿にレイトチェックインを告げようとしたが、何度かけても電話が通じない。見かねたレストランのオーナーが自分のベンツで送ってくれた。何と気さくな飾らない人だろうと思った。

 着いて見てわかった。一人でレセプションに居た若い女性が、ホテルの代表ナンバーで彼氏と長電話していたのだった。

右が親切なレストランのオーナー


デュッセルドルフ。それは、私が長期にわたって居住した最初の外国の町だった。30歳台半ばの若さで、今はドイツで第1位の銀行にのし上がった当時のコメルツバンクにおける唯一の日本人スタッフだった。

 いつかはカトリックの神父になりたい、と言う思いはひとまず封印して、派手で刺激的な国際金融業の武者修行に、初めの一歩を踏み出したばかりだった。言葉に尽くせない様々な想い出のこめられた場所だ。

 週末は陸続きの地の利を生かして、西ドイツ各地は言うに及ばず、ペルギー、オランダ、フランス、オーストリア、等々、日帰り、一泊二日、又は有給休暇を一日足して23日のドライブで地方都市や田舎の村々をめぐり歩いたものだ。

 時あたかも、日本では友人のジャーナリストが、秋田郊外の湯沢台と言う場所にある女子修道院で、聖母マリアがシスターSに現れ、重大なメッセージが託され、仏師が彫った木彫りのマリア様像が涙を流すなど、不思議な出来事の数々が起きていると言うニュースを、彼の編集するカトリックグラフと言う月刊誌で特集連載していた。メッセージの内容は、「このまま奢った罪深い生活が続けば、大きな災害が起こる」と言うような意味のものだったと記憶する。今の地震や津波、それに原発の人災がそれと関係があるだろうか?

 日曜日に教会に通うと言うカトリック信者にとって基本的な習慣を完全に放棄してしまっていた私だが、その記事に刺激され、それに呼応して、私もヨーロッパ中のマリア様の出現の地を、史実や伝承を頼りにくまなく巡り、彼のカトリックグラフにたくさんの写真を送って連載記事を書いていたのを懐かしく思い出す。

 40年も前の話だ。当時の交友関係のアドレス帳も持ち合わせなかった。しかし、自分が住んだ二つのアパートの通りと番地、建物のたたずまいぐらいは覚えていた。ひょっとしたら、当時の家主の息子ぐらいには会って昔を懐かしむことが出来るかも知れないと言う淡い期待を抱き、足を向けた。しかし、最初に住んだホ―フガルテン(宮廷公園)の傍のアーノルド・シュトラーセ26番地の表札には、往時を偲ばせる名前はもう一つもなかった。

ホ―フガルテン(宮廷公園)のすぐ側の角のこのクリーム色の建物の2階から私の海外生活が始まったのだった


ホ―フガルテンに入ると結婚披露パーティーが開かれていた。 

  

公園をパーティー会場に使うとは粋なアイディアではないか?


トラムに乗ってテオドールホイスブリュッケでライン川を渡り、対岸のオーバーカッセルのジークフリードシュトラーセ31番地に向かった。

   

真ん中の建物の二階が私のアパート。家主のパイプオルガン奏者 Dr.エシュマン は3階に住んでいたのだが・・・

往時と変わらぬ静かな佇まいだった。見上げると、大家さんが住んでいた3階の大きく開いた窓から、若い男性が下を見降ろしていた。

「ひょっとしてドクター・エシュマンの息子さんですか?」 と叫んだ。

すると、その人は、「いや、私はただのペンキ職人だ。ここの家主さんはもう代ったよ。」と返ってきた。過去とのつながりを暗示するような印は、もう何処にも見出せなくなっていた。

 当然と言えば当然だ。十分にあり得ることではあったが、急に孤独感と寂寥が私の身を包んだ。昔に繋がる手掛かりを見つけたら、その糸を辿って時を過そうと1日半の時間を取っていた。

 デュッセルドルフの市街をただ当てもなく、くまなく歩いた。40年間何も変わっていないと言えば変わっていなかった。駅前は確かにきれいになっていた。ケーニヒスアレーは今もドイツの「小さなパリ」の名に恥じない垢ぬけした気品さえ漂わせていた。

ケーニヒスアレーの真ん中の掘割り


 青春の甘酸っぱい想い出がこみ上げてきた。脚が棒になるまで歩いて、アルトシュタットで休んで黒ビールを飲んだ。

  

詩人ハインリッヒ・ハイネの生家。いまは文学書の商社になっている。


デュッセルドルフの遊覧船にも乗った。しかし、それでもまだまる一日時間が残った。

   

遊覧船の上から眺めるデュッセルドルフのシンボルのランベルト教会の傾いた鐘楼と、水源のスイスの湖から745KM地点。


 そうだ、本格的なライン下りをしよう。

 汽車でリューデスハイムまでライン川を遡り、そこからコブレンツまで船で下る、定番のコースを選んだ。

 リューデスハイムにはドロッセルガッセ、訳すと「ツグミ横町」と言う狭い短い坂道があって、両側にはワインレストランやみやげ物屋が並んでいる。

  その日は生憎と降ったり止んだりの冷たい小雨模様だった。


    

ブドウの房をあしらったツグミ横町の看板              狭い横町の人通り     


作曲家ブラームスの道


   

ライン川を見下ろす丘へ行くザイルバーン(空中ケーブル)ですれ違った子供連れ    眼の下のブド―畑を行くトラクタートレイン  

 

   

     小雨の中を急ぎ足の少女たち                   ワインレストランで歌う楽師さん  


   

古城の下を行く私の乗った船の同型船                          ライン川沿いの家並み       


   

ローレライの岩が目前に現れると遊覧船内にローレライのメロディーが響く    ライン川はここで鋭角に曲がりそこに危険な岩礁が現れる  


ザンクト・ゴアルハウゼンはローレライの町


ライン川に沿って立つ無数の古城の一つ


   

終点のコブレンツに着いた。 町のあちこちにユーモラスなブロンズの彫刻が

 

 今はカトリックの神父をしている私だが、40年近く前、コメルツバンクの社員としてデュッセルドルフに住み、色彩豊かなビジネスマンの生活を楽しんでいた。私の遅い青春で最も輝いていた時代ではなかったかと、懐かしい想い出をかみしめる1日だった。 

コメント (4)
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